怖れは常に怒りを生みます。怖れが増えると、怒りや暴力も増えます。心の闇を見つめて、それを変えたいと意識的に努力しているあなた方でさえも困難を感じるのであれば、そうしたことにまったく気づいていない人たちがどう感じるかは想像できるでしょう。彼らにわかるのは、自分の中には怒りが荒れ狂っているという事実だけです。怒りの原因が自分にあることにはまったく気づいていないので、怒りがどこから生まれたのか、どんな怒りなのか、どうすればよいのか、まったくわかりません。彼らには真理が見えず、非常に苦しんでいます。怒りの原因がすべて自分以外のものにあると思い込み、それに対して自分は何もできないと感じています。そこで自分を苦しめる原因だと思える物を破壊しようとするわけです。


怖れは体で感じた想念です。体はそれに反応して収縮します。この収縮を人は苦しみと感じます。



体の死は、眠りに入るのに似ている。スピリットが魂を呼びよせると、魂は「シール」、あるいは「チャクラ」と呼ばれている体の中のエネルギー・センターを通りながら上昇していく。魂とは記憶であるが、それは、頭の中心に位置する最後のシールである第七シール、すなわち脳下垂体と呼ばれる部分を通って体の細胞組織から離れていく。魂がここを通過するとき、しばしば風の音を聞きながらトンネルを通過するような感じとして体験される。トンネルの向こうに見える光が、あなたの存在の光、あなたの存在のスピリットである。魂が体を離れると、体はその役目を終え、その存在は自由な「魂としての自分」になる。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みはまったくない。


死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいほど明るくなってくる。なぜなら、この天界から去る瞬間、あなたは物質の濃密さから抜け出し、光の存在に戻るからだ。そこでのあなたは強力なマインドと感情だけの存在で、光の体があなたの体となる。そして、自分の光の体を通して受け容れた思考によって、その電気的な状態が変わるのである。そこからは、あなたは七つの天界のうちのひとつに行くことになる。あなたがどの天界に行くかは、この天界にいたときに感情的に表現されていた態度によって決まるのである。


「気づき」あるいは「意識の理解レベル」にも、七つの段階がある。その七つの理解とは、「生殖と生存」、「恐れと苦痛」、「力」、「感じる愛」、「表現する愛」、「すべての生命の中に見える神」、そして「私は神である」だ。


この天界、この天国は、「見せる天界」と呼ばれている。なぜならここでは、自分の創造的な力、そして感情という形で表現している自分のどんな態度であろうと、それらを物質の中に見ることができるからだ。この天界は、七つの中でただひとつ、暗闇がその上をおおっている天界であり、光の音楽を耳にできないただひとつの天界でもある。ここに生まれてくる存在たちは、偉大なる「知っている状態」から生まれてきながらも、結局は、社会意識のプログラミングを受けて「何も知らない状態」へと追いやられてしまうのだ。それがここで起こることである。そして、この天界で先に進むのがしばしば非常に困難なのも、やはりこのためである。


私はこれから、ある天界のことを話そう。もしあなたがその天界を見れば、その場所はあなたの内面に深い悲しみをもたらすことだろう。そこは、意識の第一レベルと第二レベルで自分を表現している。たくさんの存在たちがいる天界だ。そこは平野のような場所で、平らである。そこには何があるのだろうか?そこでは山々や川、草や花や空を、光の形で見ることはできない。何十億という存在が、その光の化身のまま横たわり、無限に続く列をなしているのが見えるのだ。彼らはそこに、眠っている状態で横たわり、自分たちは死んでいるという幻の中に生きている。なぜなら彼らは、死後の生は存在しないということを頑なに信じているからだ。彼らの思考は、今でも生きていて、磁気を発し、強く律動し、活発なエネルギーを持っているにもかかわらず、彼らは自分が死んでいると思い込んでいるのだ。本当はまだ生きているにもかかわらず……。このことを憶えておいてほしいのだが、どんなことであろうと、われわれが何かを固く信じれば、われわれはそれが真実であると確信してしまうのである。そして、われわれが真実として知っていることは、どんなことであろうと、現実へと変容するのだ。われわれの創造性と意志は、それほどまでにパワフルなのである。


そこにいる存在たちの多くは、自分が死ぬと、救世主が戻ってくるまでは、自分は死んだ状態のままでいると教えられた。そして恐れと、神の愛から切り離されてしまうかもしれないという気持ちから、その教えを真実として受け容れたのだ。こうして、死ぬ直前の最後の瞬間に、彼らは自分が復活を待つ場所に行くのだということを信じていたのである。したがって、このレベルには、自分よりも偉大だと信じている誰かによって復活させてもらうのを待っている存在たちが、どこまでも列をなして並んでいる。われわれは彼らを目覚めさせようとしたことがある。その結果、少数の存在が目覚め、起き上がった。だが、彼らのほとんどは、悪魔のようなものが現れ、自分たちを誘惑して起こそうとするとも教えられていたのだ。そして、このことも、彼らは真実として知ってしまっているのだ。そのため、誰が起こそうとしても、彼らは目覚めるのを拒むのである。自分が生きていることに気づき、眠りから目覚めるまで、あと何千年もかかってしまうかもしれない。きわめて残念な教えである。


これが、苦痛があるただひとつの場所だ。あのような考えを固く信じ込み、それを絶対的な「知っている状態」にしてしまった存在たちの天界である。そこには、見わたす限り、眠った状態で横たわる兄弟たちの姿がある。ほかのすべての天界は、壮大な生命そのものだ。



質問者 あなたは、実在はひとつだと言います。単一性、統一性は個人の属性です。それでは、実在とは宇宙をその身体とした個人なのでしょうか?


マハラジ あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。


質問者 私はただ理解しようとしているだけです。あなたは個人、観照者、そして至高なるもの(ヴィヤクティ、ヴィヤクタ、アヴィヤクタ)に関して語りました。純粋な覚醒(プラジニャー)の光は、観照者(ジーヴァートマ)のなかの「私は在る」、マインド(アンタカラナ)を照らす意識(チェタナ)、身体(デーハ)に生気を与える生命(プラーナ)に焦点を合わせています。これらすべては言葉で表現するかぎりはいいでしょう。しかし、私のなかで観照者から個人を区別し、至高なるものから観照者を区別しようとすると、混乱してしまうのです。


マハラジ 個人はけっして主体ではありえない。あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた時間と空間において観照者として現れたのだ。その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡すのだ。


質問者 私が自分を見るとき、この身体をどう使うかについて、私のなかで何人かの異なった個人が互いに争いあっているのを見いだします。


マハラジ それらはマインドの多様な性癖(サンスカーラ)に相当するのだ。


質問者 私は彼らの間に平和をもたらすことができるでしょうか?


マハラジ いいや。彼らはまったく反駁しあっているのだ。彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。


質問者 それでも、彼らは皆「私は在る」と言うのです。


マハラジ なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」たちと彼らの要求から自由になる。「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。それを手放すことはできない。しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分け与えることができる。ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。


質問者 今、私には私が個人ではなく、個人のなかに反映されたとき、それに存在の感覚を与えるものだと理解できました。では、至高なるものについてはどうでしょう?どのようにして私自身を至高なるものとして知るのでしょうか?


マハラジ 意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。源を知るということは、源として在るということだ。あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。それが源であり、無尽蔵の可能性だ。


質問者 源はたくさんあるのでしょうか、それとも、ひとつがすべてのためにあるのでしょうか?


マハラジ それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにとって低次のものは多数として現れる。


質問者 形や名前はみな同じひとつの神のものなのでしょうか?


マハラジ これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。絶対性は体験されるべきものであって、討論すべきことではない。


質問者 どのようにして絶対性は体験されるのでしょうか?


マハラジ それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではない。それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在しているのだ。


質問者 もしそれが源なら、なぜ、どのようにしてそれ自身を現すのでしょうか?


マハラジ それは意識に誕生を与えるのだ。それ以外のすべては意識のなかに在る。


質問者 なぜそれほどたくさんの意識の中心があるのでしょうか?


マハラジ 客観的宇宙(マハーダーカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影しては溶解している。いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹きこまれたとき、物質のなかで気づきの反映によって意識(チェタナ)が現れる。


質問者 至高なるものはどのような影響を受けるのでしょうか?


マハラジ 何が、どうやってそれに影響を与えられるというのだろう?水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?至高なるものがすべてを可能にする。それだけだ。


質問者 なぜあることは起こり、あることは起こらないのでしょうか?


マハラジ 原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。原因と結果という二元性は存在しない。すべてはそれ自身の原因なのだ。


質問者 それでは、目的をもった行為は不可能なのでしょうか?


マハラジ 私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。意識のなかではすべてが可能だ。もし望むならば、あなたの世界のなかで原因をもつこともできるだろう。別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。


質問者 自己(ヴィヤクタ)と至高なるもの(アヴィヤクタ)との関係は何でしょうか?


マハラジ 自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高なるものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。


質問者 それはつまり、未知はアクセス不可能ということでしょうか?


マハラジ いいや。至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。考えることをやめ、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。


質問者 では、もし私が至高なるものさえも、何も求めないとしたら?


マハラジ それでは、あなたは死んだも同然だ。あるいはあなたが至高なるものなのだ。


質問者 世界は欲望でいっぱいです。誰もがあれやこれを欲しています。欲している者とは誰なのでしょうか?個人でしょうか、あるいは真我なのでしょうか?


マハラジ 真我だ。神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。それらはすべて「私は在る」という感覚に依存しているのだ。


質問者 神聖な欲望(サティヤカーマ)が真我から発しているということは理解できます。それは真我のサッチターナンダ(存在─意識─至福)の側面の表現でしょう。しかし、なぜ神聖ではない欲望もそうなのでしょうか?


マハラジ すべての欲望は幸福を目ざしている。欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)があるところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸福になってほしいという衝動が見られる。だが、至高なるものはすべてを超えている。さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。


質問者 どの欲望が適切なのでしょうか?


マハラジ 主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益であり、充分満たされるのだ。


質問者 神聖なものも神聖でないものも、すべての欲望は苦痛をともないます。


マハラジ それらは同じではない。苦痛もまた同じものではない。熱情は苦痛だ。慈悲に苦痛はありえない。全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。


質問者 至高なるものはそれ自身を知っているのでしょうか?非個人性は意識をもっているのでしょうか?


マハラジ すべての源はすべてをもっている。源からあふれだすものは何であれ、すでにそこに種子の形として存在しているのだ。そしてひとつの種子は無数の種子の究極的なものであり、それが経験を含み、数かぎりない森林を約束しているように、未知もそうであったこと、そうありえたこと、そうなるだろうこと、そうありうるだろうことのすべてを含んでいる。何かに成るという可能性の全領域は完全に開かれ、到達可能であり、過去と未来が永遠の現在のなかに共存しているのだ。


質問者 あなたは至高なる未知のなかに生きているのでしょうか?


マハラジ それ以外、どこに住むことができるだろうか?


質問者 何があなたにそう言わせるのでしょうか?


マハラジ どんな欲望も私のマインドのなかに湧いてはこないのだ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ もちろんそうではない。私は完全に意識している。だが、欲望も恐れもマインドのなかに入ってこないため、そこには完全な静寂が在る。


質問者 誰がその静寂を知っているのでしょうか?


マハラジ 静寂がそれ自身を知っている。それは熱情や欲望が静まったときの、沈黙したマインドの静寂なのだ。


質問者 あなたはときどき欲望を経験しますか?


マハラジ 欲望とはマインドのなかの波にすぎない。それを見たとき、あなたは波だと知る。欲望は数あるもののなかのひとつにすぎない。私にそれを満たそうという衝動は起きない。それに対して何もする必要はない。欲望からの自由とは、それを満たさなければという強迫観念が不在だということだ。


質問者 そもそも、なぜ欲望は湧いてくるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、あなたは生まれてきて、もしあなたが身体の面倒を見なければ死んでしまうだろうと想像するからだ。身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。


質問者 しかし、こんなにもたくさんの生命(ジーヴァ)が身体を得ているのです。間違いなく、それは判断の誤りではありえないでしょう。そこには目的があるはずです。いったい何でしょうか?


マハラジ 自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、非自己と直面しなければならない。欲望は体験へと導く。体験は識別、無執着、自己知識──解放へと導く。そして解放とはいったい何だろうか?それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ。あなたが誰なのかを忘れ、自分が死をまぬがれることのできない創造物だと想像することで、あなたは悪夢から目覚めなければならないという困難を自分に負わせてきた。
探求もまた、あなたの目を覚ます。苦しみを待つまでもない。幸福への探求のほうがずっといい。なぜなら、マインドが平和と調和のなかに在るからだ。


質問者 究極の体験者とは誰なのでしょうか?真我、あるいは未知なるものでしょうか?


マハラジ もちろん、真我だ。


質問者 それでは、なぜ至高の未知なるものという概念をもちこんだのですか?


マハラジ 真我を説明するためだ。


質問者 しかし、至高なるものを超える何かが存在するのでしょうか?


マハラジ 真我以外に存在するものはない。すべてはひとつであり、すべては「私は在る」のなかに含まれる。目覚めと夢見の状態において、それは個人だ。深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。トゥリーヤの醒めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある。だが、本質的にはすべてはひとつであり、現れと関わりをもっている。無知のなかで「見る者」は「見られるもの」となり、智慧のなかでは「見ること」になる。
だが、なぜ至高なるものにこだわるのか?知る者を知りなさい。そうすればすべては知られるだろう。


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