彼女に隠された秘密とはなにか? 北欧デンマークを舞台に描かれる濃厚なミステリー
こうした心配はどれもどうでもいいことです。結局は、何が好きで何が嫌いかということは、刻々と変わりつづける人間ドラマの一部にすぎません。あなた方の態度や考えはしょっちゅう変化しています。こうした人間ドラマはそれを包み込んでいる膨大な


”空間”


を体験することに比べたらたいしておもしろくない──そう思えるようになれば、たえず変化する自分の気持ちもユーモアの精神をもって眺められるようになります。すると、誰かからあなたのやっていることが気に入らないと言われても、怒り狂って相手を絞め殺したくなる代わりに、にっこり微笑んで、『そういう考え方もおもしろいですね』と本気で言えます。『何でそんなひどいことを言うんだ』と腹を立てなくてすみます。


美しい映像世界にひかれる映画ファン、北欧ミステリー小説好きなら気になる1本
あなた方の天界における初期の文明は、きわめて覚醒した状態にあったが、その思考プロセスの無限性は早くも衰え始め、死を予期したり、生存を意識する態度を通して、制限され始めていた。死への恐れから生じる、生存に関わるさまざまな態度は、「生存本能」と呼ばれるものとして、未来の世代へと受け継がれていく。なぜなら、人間が考えることは、何であろうとすべてその細胞や遺伝子の構造の中にパターンとして刻まれるからである。


神々は、体という形を通して自分の創造性を体験したいという欲求から、物質という制限の中へと入っていった。だが、この天界で神々が、人間として制限という態度を体験したとき、知らないうちにこの体の体験というものに閉じこめられてしまったのだ。というのも、最初の化身の死を体験したそれぞれの神は、ある空間へと入っていったからだ。この空間は、ひとつの場所であり、光の次元のひとつだが、すべてを知る神という意識の理解レベルに戻ったわけでもなければ、物質の天界に戻ったわけでもなかった。神はもはや無限の思考の天界に戻ることはできなかったのだ。なぜなら、いまや神は、自分の思考プロセスの中に、制限という態度に関する変質した思考を維持するようになってしまったからである。


生きることの中で神が進み続けるために、そしてこの物質界という遊び場がすばらしい体験だったために、神はここに戻ることを切望した。そのため神は、自分自身の子孫の種を通して、別の化身の中に戻ってきた。それは、物質の中で表現し続けるためであり、前の人生で自分の思考プロセスを変質させるのを許してしまった制限された思考のすべてを元通りにするためであった。だが、この天界の物質的な側面をさらに多く体験し始めるにつれて、神はさらなる変質を体験し、さらに深い制限の中へとはまり込んでいった。こうして、この「見せる天界」での輪廻転生のサイクルが始まったのだ。


生きることの中で冒険を続けるために、人間として繰り返しこの天界に戻るにつれて、徐々にこの天界が神々の生の概念のすべてとなっていき、神々は自分の血統と神性を忘れ去っていった。もはや彼らは、神を「すべてである状態」、「すべての思考」とは考えなかった。もはや彼らは、純粋な思考の天界、無限の存在の天界、はじまりのときから表現してきた意識の天界に、自分がもし望むならば戻れるのを「知っている状態」が維持できなかった。彼らは、「自分は制限された領域、制限された思考しか体験できないのだ」と結論づけるようになってしまった。こうして、表現された意識によってつくられた別の天界が、「制限された天国」、「制限された領域」と呼ばれるものとして、新たに出現した。そこは、すべての天界の中で最も壮大で単純な天界を忘れ去ってしまった存在たちが、化身の死を迎えたときに行く天界であり、自分の幸福観と集合的な態度、集合的な考え方に応じて生を体験できるのである。


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質問者 人びとはあなたに助言を求めてやってきます。何と答えるかをどのようにして知るのでしょうか?


マハラジ 質問を聞くように、私は答えを聞くのだ。


質問者 では、どのようにしてあなたの答えが正しいと知るのでしょうか?


マハラジ ひとたび答えの真の源を知れば、疑う必要はない。純粋な源からは純粋な水だけがあふれ出る。私は人びとの欲望や恐れには関わらない。私は意見とではなく、事実と同調するのだ。人は名前と形を自分自身と見なすが、私は何も私自身とは見なさない。私が名前によって知られるひとつの身体を私自身として見なしていたなら、あなたの質問に答えることはできなかっただろう。私があなたを単なる身体だと見なしていたら、あなたは私の答えによって、何の恩寵も得なかっただろう。真の師は意見に満足したりはしない。彼はものごとをあるがままに見、そしてそれをあるがままに見せる。もしあなたが人びとを、これが彼ら自身だと信じているものとして見なすならば、ただ彼らを傷つけるだけだ。そうやって彼らが自分自身をいつもひどく苦しめているように。しかし、もしあなたが実在としての彼らを見るならば、彼らにとってたいへんな助けとなるだろう。もし彼らが何をし、どのような修練をし、どのような生き方にしたがうべきかをあなたに尋ねたならば、こう答えるがいい。「何もせず、ただ在りなさい。在ることのなかで、すべては自然に起こる」と。


質問者 話のなかで、あなたは「自然に」と「偶然に」という言葉を無差別に使っているように見えます。二つの言葉の意味には深い違いがあると私には感じられます。自然は秩序をもち、法則にしたがいます。人は自然を信頼できます。偶然は混沌とし、予期予想の不可能なものです。すべてが自然であり、自然の法則に支配されていると主張することはできますが、すべてが偶然であり、何の原因ももたないと主張することは間違いなく誇張です。


マハラジ もし私が「偶然の」の代わりに「自発的に」という言葉を使うなら、あなたには好ましいだろうか?


質問者 あなたは「偶然の」という言葉に対して「自発的な」または「自然の」という言葉を使うかもしれません。しかし、偶然のなかには混沌や無秩序の要素があります。偶然はつねに規則の破棄、例外、驚きです。


マハラジ 人生それ自体が一連の驚きではないだろうか?


質問者 自然には調和があります。偶然には妨害があるのです。


マハラジ あなたは時間と空間に限定され、身体とマインドの内容に引き下げられた個人として語っている。あなたが好むこと、それをあなたは「自然の」と呼び、あなたが嫌いなこと、それを「偶然の」と呼ぶのだ。


質問者 私は自然のままの法則を守ること、予期したことが好きで、法則を破り、無秩序で、予期できず、無意味なことを恐れるのです。偶然はつねに怪物のようなものです。いわゆる「幸運な偶然」と呼ばれるものはあるかもしれません。ですが、それらはただ偶然なことが起こりやすい宇宙では、生活はありえないという法則を証明するだけです。


マハラジ どうやら、誤解があるようだ。「偶然の」とは既知の法則にあてはまらない何かを意味している。私が、すべては偶然で原因がないと言うとき、ただそれによって作用する法則や原因は、私たちの知識や想像を超えているという意味なのだ。もしあなたが秩序と調和ある予測可能なものを自然と呼ぶならば、高次の法則にしたがい、高次の力によって動かされるものは「自然発生的」と呼べるかもしれない。このように、私たちは二つの自然の秩序をもっている。個人的で予測可能なもの、そして非個人的、あるいは超個人的な予測不可能なものだ。それを低次の自然と高次の自然と呼んでもいい。そして偶然という言葉は忘れてしまいなさい。あなたが知識と洞察において成長するにつれ、低次と高次の間の境界線の印象は薄らいでいく。だが、それらがひとつとして見られるまでは、二つのままとどまる。なぜなら、事実、すべては実に驚くほど不可解だからだ!


質問者 科学は多くを説明してきました。


マハラジ 科学は名称と形態、質と量、パターンと法則を扱っている。それはそれ自身の場においてはまったく良いだろう。だが、生とは生きられるものであり、分析のための時間はない。反応は即座でなければならず、それゆえ時間を超えた自発性が重要だ。私たちは未知のなかで生き、動いているのだ。既知とは過去のものだ。


質問者 私には、これが私だと感じる立場を取ることができます。私は個人であり、人びとのなかのひとりの人物です。ある人たちは完成され、調和のとれた人格であり、ある人たちはそうではありません。ある人たちは努力を要することなく生き、あらゆる状況に適切に、自発的に反応します。その時点で必要な、完全に正当なことを為すのです。一方、ほかの人たちは手探りをし、過ちを犯し、たいがい彼ら自身に害を与えてしまうのです。調和の取れた人たちは、自然で、法則に支配されている人と呼べるかもしれません。未完成な人たちは混沌とし、偶然に支配されているのです。


マハラジ 混沌という概念自体が、秩序、有機的といった相互関係の意義を前提としている。混沌と秩序。これらは同じ状態の二つの相ではないだろうか?


質問者 しかし、あなたはすべてが混沌、偶然、予期不可能だと言っているようです。


マハラジ そうだ。その意味では、すべての存在の法則が知られているわけではなく、すべての出来事が予測可能なわけではない。あなたが理解できるようになればなるほど、宇宙は精神的にも感情的にも満足すべきものとなる。実在は善と美だ。混沌をつくり出すのは私たちなのだ。


質問者 もし偶然は人間の自由意志によって起こるとあなたが言うのならば、私は賛成します。しかし、私たちは自由意志についてまだ討論していません。


マハラジ あなたの秩序はあなたに快楽を与えるものであり、あなたの無秩序はあなたに苦痛を与えるものだ。


質問者 あなたはそう表現するかもしれませんが、その二つはひとつだと言わないでください。私の言語で話してください、幸福を探求する一個人の言語で。私は非二元性の空言に惑わされたくはないのです。


マハラジ あなたが分離した個人だと、何があなたに信じさせるのだろうか?


質問者 私は一個人としてふるまい、私自身で機能します。私自身が基本であり、他者は私との関係性において在るだけです。早い話が、私は私自身のことで忙しいのです。


マハラジ それならば、あなた自身のことで忙しくしていればいい。いったいどういうつもりでここに来たのだね?


質問者 自分自身を安全で幸せにするため、私が古くからやっている商売のためです。白状すると、成功してきたとは言えません。私は安全でも幸せでもありません。ですから、私はここにいるのです。ここは私にとっては新しいところですが、私がここへ来た理由は古いものです。安全な幸福、幸福な安全の探求です。今までのところ見つけてはいません。助けてもらえますか?


マハラジ 一度も失ったことのないものは、けっして見つけられない。安全と喜びの探求そのものが、あなたを幸福から遠ざけてしまう。探すことをやめなさい。失うことをやめなさい。病はシンプルなものだ。治療も同じくシンプルだ。あなたを不安に、不幸にするのはあなたのマインドなのだ。予測があなたを不安にし、記憶があなたを不幸にするのだ。マインドを誤用することをやめなさい。そうすれば、すべてはうまくいくだろう。あなたがそれを正す必要はない。あなたが過去と未来へのすべての関わりを放棄し、永遠の今のなかに生きるやいなや、それはそれ自身を正すだろう。


質問者 しかし、今という瞬間には何の空間的広がりもありません。私は誰でもない人に、無になってしまうでしょう!


マハラジ まったくそのとおりだ。無として、誰でもない人としてのあなたは安全で幸福なのだ。望むならば体験させてあげよう。試してみるがいい。
だが、何が偶然で、何が自発的、自然なのかという点に戻ってみよう。あなたは自然が規則的であり、偶然は混沌の兆候だと言った。私はその違いを否定し、原因の由来をたどれないとき、その出来事を偶然と呼ぼうと言った。自然のなかに混沌というものは存在しない。混沌は人のマインドのなかにだけ存在するのだ。マインドは全体を把握することができない。その焦点はたいへん狭いものだ。それは断片だけを見て、状況を察知しそこなう。それはある人が音は聞いても言語を理解せず、話し手のことを、無意味でわけのわからないことを話し、結局すべて間違いだと非難するようなものだ。ある人にとっては混沌とした音の流れが、別の人には美しい詩なのだ。
ジャナカ王は、あるとき彼が乞食になった夢を見た。目覚めたとき、彼のグルであるヴァシシュタに尋ねた。「私は乞食になった夢を見ている王でしょうか、あるいは王になった夢を見ている乞食なのでしょうか?」グルは答えた。「あなたはそのどちらでもない。あなたはその両方だ。あなたは在る。だがあなたが考えているあなたではない。あなたはそのように在る。なぜなら、あなたはそれにしたがってふるまっているからだ。あなたはそれではない。なぜなら、それは永遠には続かないからだ。あなたは永遠に王や乞食として在ることができるだろうか?すべては変わっていかなければならない。あなたは変わらないものだ。そのあなたとは何か?」ジャナカは言った。「そのとおりです。私は王でも乞食でもありません。私は覚めた観照者です」。グルは言った。「あなたが普通の人びととは異なる、より優れたジニャーニだという考え、これがあなたの最後の幻想だ。またしても、あなたはマインドと自己同一化したのだ。この場合、正しい処し方であり、あらゆる面で模範となれるマインドである。だが、ほんのわずかでも違いを見るかぎりは、あなたは実在の局外者なのだ。あなたはマインドのレベルにいる。『私は私自身だ』が去ったとき、『私はすべてだ』が現れる。『私はすべてだ』が去るとき、『私は在る』が来る。『私は在る』さえ去ったとき、ただ実在だけが在る。そして、そのなかですべての『私は在る』は維持され、栄光を与えられるのだ。分離のない多様性、それこそマインドが触れることのできる究極なのだ。その彼方では、すべての活動がやむ。なぜなら、そのなかですべての目的地は到達され、すべての目的は果たされるからだ」。


質問者 ひとたび、至高の状態が到達されたら、それは他者と分かちあうことができるでしょうか?


マハラジ 至高の状態は、普遍の今、ここに在るものだ。すべての人がすでにそのなかで分かちあっている。それは存在の、知ることと愛することの状態だ。誰が存在することを愛さないというのだろう、あるいは自らの存在を知らないというのだろうか?しかし、私たちはこの意識的存在の喜びを利用しない。私たちはそのなかに入り、それとは異質なものすべてを浄化しようとしない。この精神的な自己浄化、精神の浄化は本質的なものだ。目に入ったゴミが炎症をひき起こし世界を視界から消し去るように、「私は身体─精神だ」という誤った観念は利己的関心を生み出し、宇宙を覆い隠す。限定された存在と分離された個人という感覚と闘うことは、その根本を取り去るまでは無駄なことだ。利己主義は自己の誤った観念のなかに根づいている。探求とはマインドの浄化なのだ。


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