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あなたが不安に感じるのは、自分をとても小さな存在だと思いこんでいるからです。人々は自分を知ろうとして、狭い概念である人格を自分だと信じる傾向があります。人に隠しておきたい部分や他人よりも<劣る>部分、ダメな部分を自分と同一視してしまいがちです。


ほとんどの人は見ると同時に考えています。わたしがみなさんにお願いしているのは、目に入った物について何か考えたくなる衝動を抑えて、ただ見てほしい、ということです。たとえばここにある柱を見ることもそうです。柱を見るなり、あなた方の頭は質問でいっぱいになります。どんな砂利が使われたのか、どこから砂利を運んできたのか、柱の強度はどれぐらいか、セメントはどんな種類のを使ったのか、作るのに何日くらいかかったのか、誰が作ったのか、その人はいまどこで何をしているのか、などと考えはじめます。そうすると、もう柱はここには存在しません。ありのままの柱ではなくなって、あなたが考えるような柱になってしまいます。


愛とは、または裁かないことというのは、相手やまわりを変える必要をまったく感じずに、肩の力を抜いてあるがままの姿を受け入れた状態です。


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さて、あなた方神々は、そのはじまりのころから、創造したいという強い衝動、つまり思考からの感情を創造的な形に表現したいという強い衝動を持っていた。そして、この創造する力は、ある者に多く、ほかの者には少なく、というように与えられたのではなかった。すべての者が平等だったのだ。しかし、あなた方が創造を始めるやいなや、あなた方の内面に競争意識がめばえてきた。ほかの者が創造した思考をもとに、それをさらに偉大なものに拡大し、さらに多くを創造したいという衝動、つまり思考からさらに次の思考を創造し、それからさらに次の思考を創造したいという衝動だ。なぜこの天界にはこれほどたくさんの種類の花があるのか、わかるだろうか?バラひとつだけで十分ではないだろうか。それに、いったいどれくらいの種類の蝶がいるのだろうか?


なぜ神々は競争するようになったのだろうか?それは、創造したいという衝動の中で、もしかすると自分の創造性はほかより劣るのではないかと熟考し始めたからだ。こうして、神々は自分の存在の内面において、自分のことをほかより劣っているとみなし始めたのだ。この劣っているというフィーリングを補うために、神々は互いの創造物にまさるものを創造しようとした。そして、創造性の競争というものに、自分の思考プロセスが深く巻き込まれていけばいくほど、さらに自分を「在ること」という完全性よりも劣るものとして見るようになり、すべてのものの平等性である神から、自分を切り離して見るようになったのである。


どうすれば在るものすべてを知ることができるのかを理解するためには、まずはじめにこのことを理解しなければならない。すなわち、あらゆるものは神のマインドである思考から生み出されるだけでなく、あらゆるものはそれ自身の思考を発しており、それを神のマインドへと送り返している。


あらゆるものはそれ自身のまわりに光の場を持っている。光の輪によって包まれていないものは存在しない。なぜなら、この光こそが、思考でできたイメージを保持し、物質の理想像から物質という形体を創造しているからだ。この光の場を通して、それぞれのものはそれ自身の思考を発しており、それを「意識の流れ」、あるいは「思考の河」と呼ばれている神のマインドへと送り返しているのだ。


カーペットや植物を、あるいは照明や靴の革を見てほしい。あるいは自分の手や、ほかの人間を見てほしい。それらに共通しているのは何だろうか?それらはすべて存在している。そして、存在していることによって、それぞれのものはその存在からそれ自身の思考を発しているだけでなく、そのまわりにあるすべてのものに対する「気づき」の思考を発しているのだ。これは「集合的な知覚」と呼ばれるものである。カーペットはそれ自身の色や、その上に誰が座っているのかに気づいており、植物は部屋のことに気づいているわけだが、その気づきはその存在の光を通して意識の流れへと入っていく。そして、それぞれの瞬間ごとに、その気づきは変化していく。なぜなら、あらゆるものが存在する思考の河である神は、つねに拡大し、動き続けているからだ。


どんな星系であろうと、どんな塵の一粒であろうと、目に見える見えないにかかわらず、この宇宙、そしてほかのすべての宇宙のあらゆる存在は、その存在の思考を発しており、それを神のマインドの中へ送っている。というのも、すべてはそこからやってきたからだ。すべてのものは思考の河に送り返しているのだ。これこそが、すべてのものが「知られる」仕組みである。


あなたは、知るべきものすべてを知る力をどのような形で持っているのだろうか?あなたの肉体は、オーラ、あるいはオーラ・フィールドと呼ばれるすばらしい光の場で包まれている。オーラとは、あなたの化身の物質を包みこみ、それをひとつのものに保っている光の場のことだ。キルリアン写真という撮影法によって、あなた方の科学者は、すでにオーラの最初の光輪の場を写真に収めている。だが、それよりもさらに偉大な電磁場があなたの体を包んでいるのだ。というのも、オーラというものは、電気の密度、つまり体のまわりの青い光輪から、無限の思考まで続いているからだ。


オーラはあなたの存在のスピリットである。あなたの存在のスピリット(これは「あなたの存在の神」と私が呼んでいるものだが)は、神のマインド、すなわち意識の流れと直接つながっており、その流れの中ではすべてのものが「知られている」状態にあるのだ。オーラの一部は、プラスとマイナスのエレクトラムからなる強力な電磁場だ。この電磁場を越えた領域では、エレクトラムには極性というものはない。そこは、極性のない光の領域、純粋なエネルギーである。この光の領域のおかげで、「知っている状態」の河からやってくるすべての思考が、この偉大なる強力なエネルギー場の中を通過できるのだ。どのような思考があなたに知られるようになるかは、あなたの思考プロセスによって決定される。なぜなら、あなたのオーラの中の電磁気的な部分が、あなたの考え方に応じて思考を引き寄せるからである。


あなたのスピリットは、つねに動き続け、変化し続けている思考の河の瀬にある「ふるい」のようなものだ。スピリットという光を持っていることによって、あなたはすべての知識が存在している思考の流れ、すなわち神のマインドを受け取れる状態にあるのだ。つまりそれは、知るのが可能なことをすべて知ることができる力をあなたは持っている、ということである。なぜならあなたは、すべての意識の絶え間ない流れ、すなわちすべての知識の河の中にいるからだ。


意識は河のようなものであり、あなたの自己のすべては(体のあらゆる細胞を含めて)、絶え間なくそれによって養われている。というのも、思考こそがあなたの生命を維持し、その存在を確実なものにしているからだ。あなたは意識の流れからの思考によって生きているのである。食物からの栄養物質をあらゆる細胞に運ぶ血液の流れによって、あなたの体が生きているのとちょうど同じように、あなたの自己のすべては、意識の流れから発する、思考という根本物質によって維持されているのである。


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マハラジ あなたたちは皆、どしゃ降りでずぶぬれになったが、私の世界ではいつも晴天だ。夜も昼もなければ、暑さも寒さもない。何の悩みも後悔もつきまとわない。私のマインドには思考がない。そのためにあくせく働かなければならない欲望など何もないからだ。


質問者 そこには二つの世界があるのでしょうか?


マハラジ あなたの世界ははかなく変化しつづける。私の世界は完全で不変のものだ。あなたはあなたの世界で何が気に入っているのかを私に言うことができる。注意と興味をもって私は聞こう。だが、私はあなたの世界が存在せず、あなたは夢を見ているのだということを、一瞬でさえ忘れることはないのだ。


質問者 あなたの世界と私の世界を、何が区別するのでしょうか?


マハラジ 私の世界には同一視できるような特徴はない。それについては何も言えない。私が私の世界だ。私の世界は私自身なのだ。それは完全で完璧だ。あらゆる印象はかき消され、あらゆる体験はぬぐい去られる。私は何も必要ない。自分自身でさえも。なぜなら自分自身を失うことはできないからだ。


質問者 神さえも必要ないと言われるのでしょうか?


マハラジ それらすべての概念や区別は、あなたの世界のなかに存在する。私の世界にはそういったものは存在しない。私の世界は単一のとてもシンプルなものだ。


質問者 そこでは何も起こらないのでしょうか?


マハラジ 何であれ、あなたの世界のなかで起こったことは、そこでだけ有効であり、反応を呼び起こす。私の世界では何も起こらない。


質問者 あなたが自分の世界を体験しているという事実そのものが、すべての体験に固有の二元性を暗示しています。


マハラジ 言葉の上ではそうだ。しかし、あなたの言葉は私には届かない。あなたの世界では語られないものは存在をもたない。私の世界では言葉とその内容が存在をもたないのだ。あなたの世界では何もとどまらない。私の世界では何も変わらない。私の世界は真実だ。あなたの世界は夢でできているのだ。


質問者 それでも私たちは話しています。


マハラジ 会話はあなたの世界のなかにある。私の世界には永遠の沈黙がある。私の沈黙は歌い、私の虚空は満たされ、何ひとつ欠けていない。そこにあなたがいないかぎり、あなたに私の世界を知ることはできない。


質問者 どうやら、あなたはあなたの世界に独りきりのようですね。


マハラジ どんな言葉も適さないとき、ひとり、あるいはひとりではないなどと、どうして言えるだろう?もちろん私はひとりだ。なぜなら私はすべてだからだ。


質問者 あなたは私たちの世界に入ってきたことがありますか?


マハラジ 来ることや去ることは、私にとっては何の意味もない。それらもまた、ただの言葉だ。私は在る。私がどこから来て、どこへ行こうというのだろうか?


質問者 あなたの世界が私にとってどんな意味があるというのでしょう?


マハラジ 自分の世界をより詳細に考え、批判的に調べて見るべきだ。そうすればある日突然、私の世界のなかにあなた自身を見いだすだろう。


質問者 それによって、私たちは何を得るというのでしょうか?


マハラジ 何も得るものはない。あなたはあなたのものではないものを後にし、あなたがけっして失わなかったもの、自分の存在を見いだすのだ。


質問者 あなたの世界では、誰が支配しているのでしょうか?


マハラジ そこには支配する者も支配される者もいない。そこにはどんな二元性もない。あなたはただ自分の考えを投影しているだけだ。ここではあなたの聖典や神たちは何の意味ももたない。


質問者 それでも、あなたは名前と姿をもち、意識と行為を表しています。


マハラジ あなたの世界では、私はそう映るだろう。私の世界では存在があるだけだ。ただそれだけだ。あなたがたは量や質といった所有の概念であふれている。私にはまったく何の概念もない。


質問者 私の世界には不安、苦悩、絶望があります。私は生活のためにあくせく働かなければならないというのに、あなたはどうやら何か秘密の収益で生きているようです。


マハラジ あなたの好きなようにするがいい。あなたの世界を去って、私の世界へ来るのはあなたの自由なのだ。


質問者 どうすれば橋を架けられるでしょうか?


マハラジ あなたの世界を、想像を通してではなく、あるがままに見なさい。識別することが無執着をもたらす。無執着は正しい行為を確実にし、正しい行為はあなたの真の存在に内なる橋を築くだろう。行為は真剣さのあかしだ。言われたとおりに努めて誠実に行うなら、すべての障害は消え去るだろう。


質問者 あなたは幸せですか?


マハラジ あなたの世界では、私はもっとも惨めだろう。目を覚まし、食べ、話し、また眠る。なんと無駄なことか!


質問者 では、あなたは生きることも望まないのでしょうか?


マハラジ 生きること、死ぬこと。何と無意味な言葉だろう!あなたが生きている私を見るとき、私は死んでいる。あなたが私は死んでいると思うとき、私は生きている。何とあなたは混乱していることか!


質問者 何とあなたは無関心なのでしょう?私たちの世界の悲しみは、あなたにとっては無に等しいのです。


マハラジ 私はあなたがたの困難を完全に意識している。


質問者 それでは、あなたはそれに関して何をしているのでしょうか?


マハラジ 何もする必要はない。それらは来ては去っていく。


質問者 あなたがそれらに注意を向けること自体が、それらを去らせるのでしょうか?


マハラジ そうだ。困難は身体的、感情的あるいは精神的なものかもしれない。だがそれらはつねに個人的なものだ。大規模な災難は無数の個人的運命の合計であり、解決するまで時間がかかる。だが、死はけっして災難ではない。


質問者 たとえ人が殺されてもですか?


マハラジ 災難は殺した者のものだ。


質問者 それでもまだ、あなたと私の世界は二つに分かれているように見えます。


マハラジ 私の世界は実在で、あなたの世界はマインドのものだ。


質問者 ひとつの岩を想像してください。岩のなかに穴が、穴のなかにはカエルがいます。カエルはその生を心迷わせず、邪魔されずに、完全な至福のうちにすごします。もしカエルが外の世界についての話を聞いたならば、彼は言うでしょう、「そんなものは存在しない。私の世界は平和と至福だ。あなたの世界は言葉で構築された、単なるまぼろしだ。それは存在してなどいない」と。あなたにとっても同じことです。あなたが私たちの世界は単に存在していないと言うとき、もはや討論するための共通の土台がありません。ほかの例をとれば、私が医者へ行き、腹痛を訴えたとします。彼は私を診察し、「あなたはだいじょうぶだ」と言います。「でも、痛いのですよ」と私は言うでしょう。彼は、「あなたの痛みは精神的なものだ」と主張します。私は言います。「痛みが精神的だと知ることは何の助けにもなりません。あなたは医者なのです。痛みを治してください。でなければあなたは私の医者ではありません」と。


マハラジ まったくそのとおりだ。


質問者 あなたは鉄道を敷きました。しかし橋が欠けているため、列車が通れません。橋を架けてください。


マハラジ 橋の必要はない。


質問者 あなたの世界と私の世界の間に、何らかのつながりが必要なはずです。


マハラジ 実在の世界と想像上の世界の間につながりは必要ない。それはありえないからだ。


質問者 それでは、どうしたらよいのでしょうか?


マハラジ あなたの世界を調べてみなさい。頭を使って批判的に調べなさい。それに関するあらゆる概念を詳細にわたって調べなさい。そうすれば、うまくいくだろう。


質問者 調べるには、世界は大きすぎます。私の知っていることといえば、私は存在し、世界も存在しています。世界は私を混乱させ、私は世界を混乱させるのです。


マハラジ 私の体験ではすべてが至福だ。しかし、至福への欲望は苦痛を生みだす。それゆえ、至福が苦痛の種子となる。この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。喜びへの欲望をあきらめなさい。そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。


質問者 なぜ喜びが苦痛の種子となるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、喜びのためにあなたは多くの罪を犯しているからだ。罪の結果は苦しみと死なのだ。


質問者 あなたは、世界はただの苦難であり、何の役にも立たないと言われます。私はそうではないと感じています。神はそれほど愚かではありません。私には、世界は可能性を現実にし、物質に生命を与え、無意識を完全な覚醒に導く偉大な企てとして映ります。至高なるものを実現するには、私たちには対極の体験が必要です。寺院を建てるために、石や漆喰、木や鉄、草やタイルなどが必要なように、生と死を克服した聖者となるにはあらゆる体験が必要です。女性が市場へ行き、料理のあらゆる材料を買い、料理し、主人に供するように、私たちも人生の火によって私たちを料理し、神に捧げるのです。


マハラジ もしあなたがそう考えるのなら、そうしなさい。神に捧げるがいい。


質問者 子供は学校で、後で役に立たないことも多く学ぶでしょうが、学ぶ間に成長していきます。同じように私たちも無数の経験を経て、後にすべて忘れてしまうでしょう。しかし、私たちはその間もつねに成長していきます。そして、ジニャーニとは実在における天才にほかなりません!私のこの世界に偶然はありえません。それには意味があり、その背後には計画があるはずです。私の神は計画をもっているのです。


マハラジ もし世界が偽りならば、その計画も、その創造者もまた偽りなのだ。


質問者 またしてもあなたは世界を否定します。私たちの間に橋はないのです。


マハラジ 橋の必要はないのだ。あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬことはない。だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、この特定の身体をあなた自身のものと信じているところに過ちがあるのだ。


質問者 世界は在り、私は存在します。これらは事実です。


マハラジ なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう?あなたは世界を救いたい、違うかね?あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか?そして救われるとはどういう意味だろうか?何から救われるのか?幻想からだ。救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。自分自身とさえも関係していない。その自分自身が何であろうとも。私は定義されることのないまま永遠にとどまる。私は内側に、そして彼方に存在する──親密で、しかも到達不可能なものなのだ。


質問者 どうやってあなたはそれに到達したのでしょうか?


マハラジ 私のグル(師)を信頼することによってだ。彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。そして私は疑わなかったのだ。私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。


質問者 繰り返しによって確信したのでしょうか?


マハラジ 真我の実現によってだ。私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。ただ、私は存在─意識─至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが間違いだったのだ。


質問者 あなたは学問の人ではありません。あなたは多くを読まなかったでしょうし、読んだり聞いたりしたことは、おそらく矛盾しなかったのでしょう。私はかなりの教育を受け、かなりの量を読み、本と教師たちの間に絶望的な矛盾を見たのです。ですから何であれ初めて読み、あるいは聞いたことは、疑いを通して受け取ってしまうのです。「それはそうかもしれない、そうではないかもしれない」が、私の最初の反応です。何が真実で、何がそうではないかを決定できないために、私は無味乾燥な、教養ぶった疑いとともに取り残されてしまったのです。ヨーガにおいて猜疑心は途方もなく不利な条件です。


マハラジ そう聞けて私は嬉しい。だが私のグルも、私にすべてを完全に疑うよう教えたのだ。彼は言った、「あなたの自己を除いたすべての存在を否定しなさい」と。欲望を通してあなたは快楽と苦痛の世界をつくり出したのだ。


質問者 それは苦痛もともなわなければならないものなのでしょうか?


マハラジ ほかにどうありえよう?快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛のなかに終わるのだ。


質問者 あなたの言われることはみな、私にとって明白です。しかし身体的あるいは精神的困難が生じたとき、私のマインドは鈍く、暗くなるか、狂ったように救済を求めまわるのです。


マハラジ それがどうしたというのかね?鈍く、落ち着きがないのはマインドであり、あなたではない。見てみなさい。あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。私がそれを起こるようにしたのだろうか?それはただ起こるのだ。あなたにとっても同じだ。運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。あなたに出来事の行方を変えることはできない。だが、あなたの態度は変えられる。そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。世界は欲望と恐れの住処だ。そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。平和のためには、あなたは世界を超えていかねばならない。世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。すると画面は変わってくる。創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。世界はそれらを満たすための道具なのだ。魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。そして時間がすべての勘定書を決算する。バランスの法則が究極の支配をするのだ。


質問者 超人になるためには、まず人で在らねばなりません。人として在ることは、数かぎりない経験の結果によるものです。欲望が経験を駆りたてるのです。それゆえ、その時と段階によっては、欲望も正しいものなのです。


マハラジ ある意味では、まったく正しい。しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日が来る。そのとき選別し、不要なものを捨てること(ヴィヴェーカーヴァイラーギャ)が絶対に必要となる。すべてを詳細に調べ、不必要なものは無情にも破壊されなければならないのだ。私を信じてほしい。行き過ぎの破壊はありえない。実際には、価値あるものなどないからだ。熱烈に冷静でありなさい。ただそれだけだ。


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