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あなたは帰依者から「私は身体だ」という観念を払い去る叡智の凝縮した塊です。
鹿や猪や熊の群れは、夜になるとあなたの斜面を降りて来て、ふもとで食べ物を探します。
象の群れは山麓からあなたの斜面へと身体を休ませに来ます。
こうして、さまざまな動物があなたの斜面の上で出会うのです。

(対話529)


「私は身体だ」↓斜面を下りる
「私は在る」♪斜面で憩う
「私は身体だ」↓
「私は在る」♪


私は↓私は↓私は↓私は↓ ガガガガガ…↓
私は♪私は♪私は♪私は♪ ピピピピピ…♪
……


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あなたの脳は、神のマインドの中にあるすべての思考の振動数を、完全なる「知っている状態」で受け取るようにデザインされたものだが、あなたが受け取ることを許す振動数だけを受け取るように機能するのだ。そして、あなたをひとつにまとめている神のところには、すばらしい思考が大量にやって来ているにもかかわらず、ほとんどの者が「知っている状態」になることを自分に許している思考は、社会意識という振動数の低い思考だけである。それは、あなたも十分に体験してきたように、きわめて制限され、閉ざされたものだ。そして、あなたが社会意識にしたがって生き、その制限された考え方を占めている振動数だけで考えているとき、あなたの脳の中で活動状態にあるのは、大脳の左上と右上の部分、それに背骨の上にある小脳の一部分だけになる。


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質問者 ヨーガにおける失敗とはどういう意味でしょうか? ヨーガにおける敗北者(ヨーガブラシュタ)とは誰のことでしょうか?


マハラジ それはただ未完成という問題だ。彼自身のヨーガを完成できなかった人がヨーガにおいて失敗したと言えるだろう。そのような失敗は一時的なものだ。なぜならヨーガにおいて、敗北というものはないからだ。この闘いはつねに勝利する。なぜなら、それは真実と偽りの間の闘いだからだ。偽りにチャンスはない。


質問者 誰が失敗するのでしょうか? 個人(ヴィヤクティ)でしょうか、それとも自己(ヴィヤクタ)でしょうか?


マハラジ 質問自体が間違っている。失敗という問題はあてはまらないのだ。長期であっても、短期であっても。それは見知らぬ異国の長く険しい道を旅するようなものだ。数知れない一歩一歩のなかでも、あなたを目的地に到着させるのは最後の一歩だけだ。それでも、あなたはそれ以前に歩んできた一歩一歩のすべてを失敗とは思わないだろう。障害を避けるために脇道にそれたときでさえ、そのそれぞれがあなたを目的地へと導いたのだ。実際には、各一歩があなたをゴールへと導いてきた。なぜならいつも進み、学び、発見し、明らかにしていくことがあなたの永遠の運命だからだ。生きることが生命の唯一の目的だ。自己は成功や失敗と同一化しない。あれやこれになろうとすることなど問題外だ。自己は、成功と失敗が相対的に関係し合う人生の縦糸と横糸にすぎないと理解しているからだ。その両方から学ぶがいい。もし学んでいないのなら、くり返すがいい。


質問者 何を学ぶべきなのでしょうか?


マハラジ 利己的な感心なしに生きることだ。そのためには真我(スワルーパ)が屈服せず、恐れを知らず、つねに勝利するものだと知らねばならない。ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、と絶対の確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見解に注意を払わず、真実とともにのみ生きるだろう。


質問者 ヨーガにおいてある人は失敗し、ある人は成功するその理由は何でしょうか? それは運命でしょうか、それとも性格、あるいはただの偶然なのでしょうか?


マハラジ 誰もヨーガにおいて失敗する人はいない。それはみな、進歩の度合いの問題だ。それは、はじめはゆっくりで、終わりには急速になる。人が完全に成熟したとき、真我の実現は爆発的になる。それは自発的に、あるいはほんのわずかなきっかけで起こりうる。速いほうが遅いよりも良いというわけではない。遅い成熟と、速い開花は交互にやってくる。どちらも自然であり、正しいのだ。
しかし、これらすべてがそうあるのはマインドのなかだけのことだ。私の見るかぎりでは、何もこのようなことはない。意識の大いなる鏡のなかで、イメージが立ち現れては消えていき、記憶だけがそれらに継続性を与える。そして記憶とは壊れやすく、はかなく、一時的なものだ。そんな薄っぺらな土台の上に、私たちはあいまいで、断続的で、夢のような個人という存在の感覚を築くのだ。この「私はあれやこれだ」というあいまいな確信が、純粋な気づきの不変の状態を覆い隠してしまう。そしてそれが、私たちは苦しみ、死ぬために生まれてきたのだと信じさせるのだ。


質問者 子供がひとりでに成長していくように、人は自然に後押しされて進歩していきます。なぜ努力するのでしょうか? ヨーガの必要がどこにあるのでしょうか?


マハラジ いつのときも進歩はある。すべてが進歩に貢献しているのだ。しかし、これは無知の進歩だ。無知の輪はつねに広がりつづけていくかもしれない。それでも、それは相変わらず束縛のなかにとどまったままだ。やがてグル(師)が現れ、私たちに真我を探求するように教え励ます。そして成熟のときを迎え、その結果として永劫の無知の夜は、智慧の日の出とともに溶け去るのだ。しかし実際には、何も起こってはいない。太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす「私は身体だ」という観念によって盲目になっていただけなのだ。


質問者 もしすべてが自然な過程なら、なぜ努力が必要なのでしょうか?


マハラジ 努力でさえ自然の一部なのだ。無知が頑固で手に負えないものになると、性格はゆがみ、努力とそれにともなう痛みは避けられないものとなる。自然への完全な服従のなかに努力はない。霊的生命の種子は、約束されたときが来るまで、沈黙と暗黒のなかで成長するのだ。


質問者 私たちは何人かの偉大な人物に出会いますが、年老いてから、その人たちは子供っぽく、狭量で、口論好きで、意地悪になってしまいます。なぜ彼らはそれほどまでに堕落してしまうのでしょう?


マハラジ 彼らは身体を完全に抑制した完全なヨーギではなかったのだ。あるいは彼らは自然に衰えていくことから身を守ろうとする気にならなかったのかもしれない。すべての要因を理解せずに結論を引き出すべきではない。その上、特に人が優れているか、劣っているかを裁いてはならない。若さとは智慧(ジニャーナ)よりも活力(プラーナ)の問題だ。


質問者 人は年老いていくかもしれませんが、なぜ注意力や分別まで失ってしまうのでしょう?


マハラジ 意識と無意識は、身体のなかにあるかぎり脳の状態にも依存するのだ。しかし、自己はそのどちらも超えている。脳も、マインドも超えている。道具の欠陥が使用する人を反映しているわけではない。


質問者 賢者はけっして不体裁なことはせず、つねに手本となるような行為をすると聞いています。


マハラジ 誰が手本を示しただろうか?なぜ解脱した人が社会の慣例にしたがう必要があるのだろうか? 予測可能な人となった瞬間、彼はもはや自由ではないのだ。状況の必要性にしたがい、その瞬間の必要性を満たすことのできる自由があるということのなかに彼の自由がある。好きなことをする自由とは実は束縛であり、正しいこと、するべきことをする自由のあることが真の自由だ。


質問者 それでも、誰が真我を実現し、誰がしていないかを見分ける方法があるはずです。もしほかと区別することができないのなら、彼は何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ 真我を知る者は、自分に何の疑いも持っていない。また、彼の状態を他者が認めるかどうか気にかけたりはしない。自分の悟りを公に表す賢者は極めてまれであり、彼を見いだした人たちは幸運なのだ。なぜなら、彼はその人たちの永遠の幸福のためにそうするからだ。


質問者 周りを見回せば、あまりにも無益な苦しみばかりでぞっとするほどです。助けられるべき人たちが助けられていないのですから。大きな病院の病室に不治の病気の人たちが、うめきあい、のたうちまわっているのを想像してください。あなたは彼らの苦しみを終わらすために、皆を殺す権利を与えられたなら、そうはしませんか?


マハラジ 私は彼らの決定にまかせる。


質問者 しかし、もし彼らの運命が苦しむためのものだとしたらどうでしょう? どうやってあなたは運命に干渉することができるのでしょうか?


マハラジ 起こること、それが彼らの運命だ。運命を妨げるということはない。あなたはすべての人の運命が誕生時に完全に決定されていると言いたいのかね? 何と奇妙な考えだろう。もしそうならば、その決定をする力が誰も苦しまないようにするだろう。


質問者 原因と結果についてはどうでしょう?


マハラジ それぞれの習慣が過去全体を含み、未来全体をつくり出すのだ。


質問者 ですが、過去と未来は存在するのでしょうか?


マハラジ マインドのなかにだけだ。時間はマインドのなかに在る。空間はマインドのなかに在る。因果律もまた、ひとつの考え方なのだ。実際には、すべては今ここに在り、すべてはひとつなのだ。多様性や多彩性もマインドのなかにのみ在る。


質問者 それでも、あなたは苦しみを解放することを選びます、たとえ不治の病の身体を破壊するとしても。


マハラジ またしてもあなたは外側から見ている。私は内側から見ているのだ。私は苦しむ人を見てはいない。私が苦しむ人なのだ。私は彼を内面から知っている。そして自発的に、努力を要せず正しいことをするのだ。何の規則にもしたがわず、何の規則も定めない。誠実に、そして抵抗できないまま生命の流れとともに在るのだ。


質問者 それでも、あなたはとても実際的で、あなたの周囲の環境を完全にコントロールしているように見えますよ。


マハラジ 私にほかの何であって欲しいのかね? 不適格者かね?


質問者 それでも、あなたは他の人たちをそれほど助けることはできないでしょう。


マハラジ もちろん、助けることができる。あなたもまた助けることができるのだ。誰もがそうできる。しかし、苦しみはつねに新たにつくり出されている。本人だけが苦しみの根本を破壊できる。ほかの者は彼を苦痛から救うことはできても、人類の底なしの愚かさであるその原因から救い出すことはできないのだ。


質問者 この愚かさに終焉はやってくるのでしょうか?


マハラジ 人においては──もちろんやってくる。いかなる瞬間にでも。人類においては──周知のように──長い年月の末にやってくる。創造においては──けっしてありえない。なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。物質自体が無知だ。知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、それがかぎりない苦しみの原因なのだ。


質問者 私たちは偉大なアヴァターラ、世界の救済者たちについて聞きました。


マハラジ 彼らは救っただろうか? 彼らは来ては去っていった。そして世界はまだとぼとぼ歩きを続けている。もちろん、彼らには大きな達成もあり、人類の精神に新たな次元を切り開いた。だが、世界の救済を語ることは誇張だ。


質問者 世界の救済はないのでしょうか?


マハラジ どの世界をあなたは救いたいのだね? あなた自身が投影した世界だろうか? それは自分で救うがいい。私の世界? 私の世界を見せてくれるというならば、私がなんとかしよう。救おうと、救うまいと、私は私から分離した世界になど気づいてはいない。世界を救うなど、大きなお世話ではないか。世界が必要としていることは、あなたからの救済なのかね? 一度頭を冷やして、そこに救うべき何かがあるのかどうかよく見てみるといい。


質問者 どうやら、あなたがいなければ世界は存在せず、それゆえあなたにできることはただショーの舞台を引きあげることだけだ、というのがあなたの強調する点のようです。しかし、これでは解決法になっていません。たとえ世界が私自身の創造だとしても、この知識では救うことはできません。ただ説明しているだけです。なぜ私はこのような惨めな世界をつくり出してしまったのか、どうすれば変えられるのかという質問は残ります。あなたは、忘れてしまいなさい、そして自分の栄光を讃えるがいい、と言っているかのようです。もちろん、あなたはそういうつもりで言っているのではありません。しかし、病気とその原因の記述がそれを治癒することはないのです。私たちが必要なのは、適切な薬です。


マハラジ 原因とその記述は、愚鈍さによる病気のための治療法なのだ。欠乏症が欠如している栄養素を補うことによって癒されるように、人生の病も知的な識別(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)という薬によって治療できるのだ。


質問者 完全性を教え説くことで世界を救うことはできません。人びとはそのままなのです。彼らは苦しまなければならないのでしょうか?


マハラジ 彼らが彼らのままであるかぎり、苦しみをまぬがれない。分離の感覚を取り去りなさい。そうすれば矛盾はなくなるだろう。


質問者 印刷されたメッセージは、神とインクにすぎません。問題なのは文章です。世界を要素と性質に分析することで、私たちはもっとも重要なこと、その意味を見失ってしまいます。すべてを夢として格下げしてしまうあなたの扱い方は、昆虫の見る夢と、詩人の見る夢との違いを無視することです。たとえすべてが夢だとしても、すべての夢が等しいわけではありません。


マハラジ 夢は同じではない。だが、夢見る人はひとりだ。夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。私は光だ。その光のなかで、すべての夢が現れては消える。私は夢の内側と外側だ。頭痛もちの人がその痛みを知り、また自分がその痛みではないことを知っているように、私も夢を知り、私自身が夢を見、また見ないことを同時に知っている。私は私で在る。夢の前も、夢の間も、夢の後も。だが、私が夢のなかで見ることは、私ではないのだ。


質問者 それはすべて想像の問題です。ある人は夢を見ていると想像し、ある人は見ていないと想像します。どちらも同じことではありませんか?


マハラジ 同じとも、同じではないとも言える。二つの夢の間にあるために、夢を見ていないというならば、それはもちろん、夢の一部分だ。もし夢を見ていないということが、実在のなかに揺るぎなく確立していることを意味するならば、それは夢とは何の関係もない。その意味では、私はけっして夢は見なかったし、見ることはない。


質問者 もし夢と夢からの逃避がともに想像なら、それからの出口はどこにあるのでしょうか?


マハラジ 出口の必要はないのだ! 出口もまた夢の一部分だということがわからないのだろうか? あなたがするべきことは、夢を夢として見ることなのだ。


質問者 すべてを夢として忘れ去るという訓練をはじめることが、私をどこに導くのでしょうか?


マハラジ どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。なぜどこかへ行かなければならないのか?あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。そして、出口を探すのはやめなさい。夢があなたの問題なのではない。問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだということだ。すべてを愛すがいい。あるいは何も愛さないことだ。そして不平を言うのはやめなさい。あなたが夢を夢として見たとき、為すべきことはすべて為し終えたのだ。


質問者 夢は考えることによって起こるのでしょうか?


マハラジ すべては観念の戯れだ。観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、何も知覚されはしない。その根本となる観念が「私は在る」だ。それが純粋意識の状態を打ち破る。すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。それらの全体性が神であり、その世界なのだ。「私は在る」は観照者として残る。しかし、すべては神の意志で起こるのだ。


質問者 私の意志で、ではないのでしょうか?


マハラジ またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。それらはひとつなのだ。


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nobodyです。選挙結果は非常に残念でした。
私はずっと護憲と言いたいのではなく、アベ氏とその後継者が更迭される瞬間まではガチガチに護憲をとらないと危険すぎるという感覚でした。18歳19歳は40%が自民に投票したとのこと。
国民の総意としてもう決まったことですので、実際の改憲の「内容」を見守ります。


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Fiora & nobody