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神を見つけるには、自分の心のなかから、まず何を取り除かねばならないと思っていますか。どういう心を持たないといけないと、あなたは思い込んでいますか。たとえば、「深い瞑想ができるようになるまで、神を見つけることなどできない」とか、「愛にあふれた心を持たないと、神を感じることなどできない」などと信じていますか。それから、この世で生きていくことに関するあなたのルールは何でしょうか。「人に親切にしないと、神は私を愛してくださらない」「金持ちになったら、神の愛を得られない」などというものでしょうか。


呼吸のバランスをとるための第一歩は、自分が望むものを手に入れるために必要だと思っている条件が、何なのかを知ることです。


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占星術師たちは、「宮(きゅう)」を十二としているが、実際には十四ある。恒星とみなされている惑星がひとつあるが、それはむしろ星雲である。それは美しく輝く惑星で、ずっと昔からこの太陽系に存在している。それがもうひとつの宮である。そして、あなた方の太陽の「揺籃(ようらん)軌道」(*注1)には、すでに形成されつつある新しい惑星がある。それは数千年前、太陽フレア(*注2)が激しかったときに生み出されたものだ。それで十四になる。


* 注1:揺籃軌道──現在の水星の軌道のさらに内側にある軌道のことで、惑星が太陽から生み出されたときには、まずはこの揺籃軌道に入る。


* 注2:太陽フレア──太陽の表面で起こる大きな爆発現象のことで、太陽面爆発とも呼ばれる。


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質問者 あなたは喜んだり悲しんだりすることがありますか? 喜びや悲しみを知っていますか?


マハラジ それらをあなたの好きなように呼ぶがいい。私にとってそれらはマインドの状態にすぎない。そして私はマインドではないのだ。


質問者 愛はマインドの状態なのでしょうか?


マハラジ それもまた、あなたが愛という言葉で何を意味しているかによる。欲望はもちろん、マインドの状態だ。だが、統合の実現はマインドを超えたものだ。私にとっては、それ自体で存在するものは何もない。すべてが真我であり、すべては私自身なのだ。私自身を皆のなかに見、皆のなかに私自身を見ることは確かに愛だと言えるだろう。


質問者 私が快く思う何かを見たとき、それを欲しくなります。誰がそれを欲しているのでしょうか? 自我でしょうか、マインドでしょうか?


マハラジ この質問は誤った形で問われている。そこに、「誰が」はいない。そこにあるのは欲望、恐れ、怒りであり、マインドが、これは私だ、これは私のものだと言うのだ。「私」あるいは「私のもの」と呼べるようなものは存在しない。欲望はマインドの状態であり、マインドによって知覚され、名づけられたものだ。マインドが知覚せず、名づけなければ、欲望がどこにあるというのだろう?


質問者 しかし、名づけることなしに知覚するというようなことがあるでしょうか?


マハラジ もちろんだ。名づけるということが、マインドを超えることはありえない。一方、知覚は意識そのものなのだ。


質問者 誰かが死ぬとき、正確には何が起こるのでしょうか?


マハラジ 何も起こりはしない。何かが無となるのだ。無が存在していた。そして無が残るのだ。


質問者 それでも、生と死の間には違いがあるはずです。あなたは生きているものを死んでおり、死んだものを生きていると言います。


マハラジ なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、毎日何百万人もの人が死んでいくことは気にもかけないのだろうか? 宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。それらのために私が泣かなければならないのかね? 私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、生きるもの、動くものすべては、意識のなかにその存在をもつということだ。そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。


質問者 もちろん、あなたの子供が病気になったときは気にかけるのではありませんか?


マハラジ 私はあわてない。ただ必要なことをするだけだ。未来について心配したりはしない。あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。何をするべきかと立ち止まって考えたりはしない。ただ行動し、先に進むだけだ。結果は私に影響を与えない。それが良いか悪いかさえ私は気にもしない。それらが何であれ、あるがままだ。もしふたたびそれが起こるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる、あるいは新たな姿勢で取りかかるということが、私に起こる。私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。ものごとは起こるように起こるのだ。私がそれを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。実際には、けっして何も起こらない。マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。* 波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。それはすべて誤った概念による現れにすぎない。


* 訳注 シヴァを舞い踊らせる
シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンバラムでナータラージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話がある。


質問者 確かにあなたは多くのことに気づいており、それらの本質にしたがってふるまっています。子供は子供として、大人は大人として扱っています。


マハラジ 塩味が大海に浸透しているように、海水の一滴一滴が同じ味を含んでいる。同じようにあらゆる体験は、つねに新鮮な自己の存在の実現である実在の感触を私に与えるのだ。


質問者 あなたが私の世界に存在するように、私もあなたの世界に存在しているのでしょうか?


マハラジ もちろん私は在り、あなたは在る。だが、意識のなかの単なる点として在るのだ。私たちは意識から離れては在りえない。このことはよく把握されなければならない。世界は意識に依存しているのだ。意識なしに世界はない。


質問者 意識のなかには数多くの点が存在しています。世界もまた数多くあるのでしょうか?


マハラジ 夢を例にとってみなさい。病院に多くの患者がいるとしよう。皆眠って、夢を見ている。病気という共通の要素を除いては、それぞれが個人的な、無関係の、影響を互いに与えない夢のなかにいる。同様に、私たちも共通体験の現実世界から、想像によって私たち自身をひき離し、個人的な欲望や恐れ、想像や思考、観念や概念の雲のなかに私たち自身を囲みこんでしまったのだ。


質問者 これは私にも理解できます。しかし、個人的世界の途方もない多様性の原因は何なのでしょうか?


マハラジ その多様性は、それほどのものではない。すべての夢はひとつの共通する世界の上に重ねられたものだ。ある程度までそれらは互いを形づくり、影響を与えあう。それにもかかわらず、基本的な統一性はそのすべてに作用している。その根底にはすべて、私が誰かを知らないという自己忘却があるのだ。


質問者 忘れるには、人は知っていなければなりません。忘れる前に、私は誰なのかを知っていたのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。自己を忘れることは、自己を知ることのなかに本来備わっているものなのだ。意識と無意識はひとつの生における二つの側面であり、それらは共存している。世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界を忘れるのだ。結局のところ、世界とは何だろう? 記憶の集合だ。ひとつのことを固守しなさい。それが大切なことだ。「私は在る」をつかみ取りなさい。そしてほかのすべてを手放しなさい。これがサーダナ(修練)である。真我実現のなかには、覚えるものもなければ、忘れるものもない。すべては知られたものだ。思い出すことなど何もない。


質問者 自己忘却の原因とは何でしょうか?


マハラジ 原因はない。なぜなら忘却などないからだ。精神状態はひとつの状態から別の状態へと継続していく。それぞれが以前の状態を消し去っていくのだ。自己想起はひとつの精神状態であり、自己忘却は別の精神状態だ。それらは夜と昼のように、交互に入れ替わる。実在はその両方の彼方に在るのだ。


質問者 忘れることと知らないことの間には、かならず違いがあるはずです。知らないということに原因はいりません。忘れるということは以前あった知識と、忘れる傾向と能力を前提条件としています。知らないということの原因を調べることができないことは認めます。しかし、忘れることには何かの理由があるはずです。


マハラジ 知らないということはないのだ。忘れるということがあるだけだ。忘れることの何が間違っているというのだろう? 忘れることは、覚えることと同じように単純なことだ。


質問者 自分自身を忘れることは悲惨なことではありませんか?


マハラジ 自分自身をずっと覚えていることと同じように悲惨だ。忘れることと忘れないことの彼方に、あるひとつの状態がある。それが自然な状態だ。覚えること、忘れること、どちらも思考と言葉に拘束されたマインドの状態なのだ。生まれるという考えを例にとってみよう。私は生まれたと言われた。私は覚えていない。私は死ぬだろうと言われた。私はそれを予期しない。私は忘れてしまった、あるいは想像力に欠けているのだとあなたは言うかも知れない。しかし、私にはけっして起きなかったことや、明らかに不可能なことを期待することはできない。身体は生まれ、身体は死ぬ。だが、それが私にとって何だというのだろう? 身体は意識のなかで来ては去っていく。そして意識はその根底を私のなかに置いている。生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。


質問者 あなたは世界の根底に自己忘却があると言いました。忘れるために私は覚えなければなりません。覚えるために私は何を忘れたのでしょうか? 私は、私は在るということを忘れてはいません。


マハラジ この「私は在る」もまた幻想の一部分なのだ。


質問者 なぜそう言えるのでしょうか? あなたに私が存在しないと証明することはできません。たとえ私が存在していないと納得させられても、私は存在しています。


マハラジ 実在は証明することも、反証することもできない。マインドの範疇では不可能であり、マインドを超えればその必要もない。実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。


質問者 その場合はすべてが実在なのです。


マハラジ 私はすべてであり、私自身としてはすべてが実在だ。私を離れては何も実在ではない。


質問者 私には世界が過ちの結果だとは感じられません。


マハラジ 完全な調査の後にのみ、そう言えるだろう、その前ではない。もちろん、あなたが識別し、実在ではないものをすべて捨て去ったとき、後に残るものが実在なのだ。


質問者 何か残るものがあるのでしょうか?


マハラジ 実在が残る。だが、言葉に惑わされてはならない。


質問者 遥かなる昔から、無数の誕生を通して、私は自分の世界を構築し、改善し、美化してきました。それは完全でもなく、非実在でもありません。それはプロセスなのです。


マハラジ あなたは考え違いしているのだ。世界はあなたなしでは何の存在ももってはいない。あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。あなたが創造し、破壊するのだ。


質問者 そしてふたたび構築し、改善するのです。


マハラジ 改善するには、それを反証しなければならない。人は生きるために死ななければならない。死を通る以外に再生はありえない。


質問者 あなたの世界は完全かもしれません。私の個人的世界は改善してきているのです。


マハラジ あなたの個人的宇宙は、それ自体では存在しないのだ。それはただ単に実在のかぎられた、歪んだ見方だ。改善が必要なのは宇宙ではなく、あなたの見方なのだ。


質問者 あなたはどう見るのでしょうか?


マハラジ それは世界というドラマが演じられているステージだ。重要なのは演技の質だけだ。何を役者が語り、演じるかではなく、どのように彼らが語り、それを演じるかが重要なのだ。


質問者 私には世界創造が神のリーラ(戯れ)でしかないという、この概念が好きになれません。私はむしろ、世界を私たちが組み立てる仕事場に比べるでしょう。


マハラジ あなたは深刻にとらえすぎなのだ。遊戯の何が悪いのだろう? あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。それまでは完全、完成が目的だ。しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなたは宇宙を楽しむのだ。そのために働くことはしない。統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くように見えるかもしれない。しかし、それは幻想なのだ。スポーツマンは途方もない努力をするように見える。だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。


質問者 神はただ戯れているだけで、目的のない行為に従事していると言うのでしょうか?


マハラジ 神はただ真実と善だけではない。彼はまた、美しくもある(サティヤム─シヴァム─スンダラム)。彼は喜びのために美をつくり出すのだ。


質問者 それならば、美が彼の目的ではありませんか?


マハラジ なぜ目的をもちだすのだろうか? 目的は活動、変化、未完成を暗示する。神は美を目標にしているのではない。何であれ、彼の行なうことが美なのだ。あなたは花が美しくあろうと試みていると言うだろうか? その本質自体が美しいのだ。同じように、神も完成をめざして努力しているのではなく、神は完成そのものなのだ。


質問者 美のなかで目的はそれ自体を満たすのです。


マハラジ 何が美しいのだろう? 何であれ美しいと感じるのは、至福に満ちて知覚されたときだ。至福が美の本質なのだ。


質問者 あなたはサッチターナンダ(存在─意識─至福)について語っています。私は在るということは明白です。私は知っているということも明白です。しかし、私は幸福であるということは、まったく明白ではありません。私の幸福はどこへ行ってしまったのでしょう?


マハラジ 自分の存在に完全に気づいていなさい。そうすれば、あなたは意識的に至福のなかに在る。あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをとどめるために幸福の感覚を失うのだ。


質問者 私たちにとって、二つの道があります。努力の道(ヨーガ・マールガ)と安楽な道(ボーガ・マールガ)です。どちらも解放という同じゴールに導きます。


マハラジ なぜボーガを道と呼ぶのかね? どうして安楽が完成をもたらすことができるだろう?


質問者 完全に放棄する人(ヨーギ)は実在を見いだすでしょう。完全に楽しむ人(ボーギ)もまたそこに達するのです。


マハラジ どうしてそうありうるだろう? それらは反駁しあっているのではないだろうか?


質問者 両極は出会うのです。完全なボーギとなることのほうが、完全なヨーギになるよりも困難なのです。私は素朴な人間です。大胆にものごとの価値評価をすることはできません。ヨーギもボーギも、結局は幸福を求めているのです。ヨーギは永遠の幸福を求め、ボーギは断続的幸福に満足します。しばしばボーギはヨーギよりも厳しい苦労をするのです。


マハラジ 働き、闘いとらねばならないような幸福に何の価値があるのかね? 真の幸福は自発的で自然なものだ。


質問者 生きるものはみな幸福を探しています。異なるのは方法だけです。ある人は内面を探し、それゆえヨーギと呼ばれ、ある人は外面を探し、それゆえボーギだと非難されるのです。それでも彼らは互いを必要とするのです。


マハラジ 喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。幸福は揺らぐことがない。あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。


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