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人間を連れ戻すために、神はあらゆることを利用します。


悲しみや喜びを超えた何かがあって、それが悲しみや喜びに意味を与えるのだということを発見します。


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マハルシ 私たちの真の本性は幸福なのです。しかし私たちは真我を忘れて身体や心を真我だと見なしてしまいます。





不幸が起こる原因は、この誤った自己同一視にあるのです。




(対話541)


不幸=同一視
では、
何とも同一視していない場合は?
何とも同一視していない存在の状態、はありうる?


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質問者 私は数カ月前にヨーロッパからやってきました。カルカッタ近郊に住む私のグルを、今まで定期的に訪ねていました。今回の訪問を終え、今帰途に着つこうとするところです。友人に招かれ、あなたのもとにやってきたのです。お会いできて嬉しく思っています。


マハラジ あなたのグルから何を学び、どのような修練をしてきたのだろうか?


質問者 彼は崇敬すべき、齡八十近い老人です。彼の教えはヴェーダーンタ哲学に属し、マインドのなかの無意識のエネルギーを目覚めさせ、隠れた障害や妨害を意識のなかにもたらすことが、彼の指導する修練の主要な点です。
私の個人的なサーダナは、私の幼少期に固有の問題に関連しています。私の母親は子供の正常な成長にとってもっとも重要な、愛と安全に守られた存在の感覚を与えることができませんでした。不安と神経症に悩まされ、自分に自信がもてず、彼女にとって私は、彼女の能力を超えた重荷であり、責任であったのです。彼女はけっして私に生まれてきてほしいと思ってはいませんでした。私に成長しないでほしいと望み、生まれる以前、存在する以前の子宮のなかに戻ってほしかったのです。私の人生におけるどんな動きも、彼女は拒んできました。彼女の習慣的生活の狭い輪を私が超えようと試みるたびに、彼女は猛烈に抵抗してきました。私は、繊細で、愛情深い子供でした。子供に対する純粋で本能的な母親の愛を拒まれてきた私は、ほかの何よりも愛情を切望してきました。子供にとっての母親の愛を探求することは、私の人生における主要な動機となり、成長してそれから抜けだすことはけっしてありませんでした。幸福な子供、幸せな幼少時代は私にとって強迫観念となったのです。
妊娠、誕生、幼年期は私に熱烈な興味をもたらしました。私は著名な産科医となり、無痛分娩法の開発に貢献してきました。幸せな母親の幸せな子供──が私の全人生の理想なのです。しかし、私の母はいつもそこにいて、彼女自身が不幸なため、幸福な私を見ることができないでいるのです。それはとても奇妙な形で現れました。いつであれ私に元気がないとき、彼女はより良く感じ、私が元気だと、彼女自身も私をも呪って落胆するのです。あたかも、私が生まれてきたという罪をけっして許さず、生きていることへの罪悪感を私に抱かせるかのように。「あなたが生きているのは私を憎んでいるからでしょう。もし私を愛しているならば、死になさい」──これが沈黙を通しての彼女の絶え間ないメッセージだったのです。それゆえ私は、愛ではなく死を差しだされて生きてきたのです。
母親のなかで永久に幼児として監禁されたため、私は女性との意味深い関係を発展させることができませんでした。許すことも、許されることもない母親のイメージが間に立ちはだかるのです。私は仕事のなかに多くの慰めを見いだしてきましたが、幼児という深い穴から抜けだすことはできませんでした。最終的に、霊的探求に方向を変えてからすでに数年間、この路線を着実に進んでいます。しかしある意味では、それは相変わらず母親の愛情の探求なのです。それを神と呼ぼうと、アートマ(真我)、あるいは至高の実在と呼ぼうとも。基本的に、私は愛し、愛されたいのです。
不運にも、いわゆる宗教的な人びとは生に反対し、まったくマインドのいいなりです。生の要求と衝動に直面したとき、彼らは分類し、抽象化し、概念化します。そして分類を生自体よりも重要と見なすのです。彼らはひとつの概念に集中し、それを人格化するように求めます。愛による自発的な統合よりも、ひとつのマントラに、慎重に勤勉に集中することを勧めるのです。神、あるいは真我、私、あるいはアートマ、それが何であれ同じことです! 愛するための誰かではなく、考えるための何かなのです。私に必要なのは、理論やシステムではありません。同じように魅力的で、もっともらしいものは数多くあります。しかし、私に必要なのは、心からの感動、生命の再生であり、新たな考え方ではありません。新たな考え方というものはありません。しかし、感情はつねに新鮮であることができます。私が誰かを愛するとき、私は彼に自発的に、強烈な熱意と活気をともなって瞑想します。それは私のマインドでは制御できないものです。
言葉は感情を形づくるのに適しています。感情をともなわない冷たく、気の抜けた、身体の入っていない洋服のようなものです。私の母は、私の感情のすべてとその源を枯渇させてしまいました。ここで私は、子供としてたっぷりと必要だった豊富であり余るほどの感情を見いだすことができるでしょうか?


マハラジ あなたの子供時代は今どこにあるのだろうか? そしてあなたの未来とは何だろうか?


質問者 私は生まれました。私は成長してきました。そして私は死ぬでしょう。


マハラジ あなたは、もちろん身体のことを意味しているのだろう。そしてあなたのマインドを。私はあなたの生理学や心理学について話しているのではない。それらは自然の一部であり、自然の法則によって支配されているのだ。私はあなたの愛の探求について話しているのだ。それには始まりがあっただろうか? それには終わりが来るのだろうか?


質問者 私には、とても言うことができません。それは私の人生の最初から最後の瞬間までそこにあるのです。この愛への切望は何と不変で、何と絶望的なのでしょうか!


マハラジ 愛の探求のなかで、あなたは正確には何を探しているのだろうか?


質問者 ただ、愛し、愛されることです。


マハラジ ある女性を意味しているのだろうか?


質問者 そうである必要はありません。その感覚が輝いて、明らかでありさえすれば、友達でも、師でも、導き手でもいいのです。もちろん、女性はお決まりの答えではあります。しかし、それだけである必要はありません。


マハラジ あなたは愛することと愛されることの二つのうち、どちらを取るだろうか?


質問者 むしろ、両方を取るでしょう! しかし、愛することの方がより偉大で、より高尚で、より深いことは私にも理解できます。愛されることが快いのは確かですが、それは人を成長させてはくれません。


マハラジ あなたは自らを愛することができるだろうか? あるいは、愛するようにさせられなければならないだろうか?


質問者 もちろん、愛するに足る人に出会わなければなりません。私の母は愛情がないばかりでなく、愛すべき人でもなかったのです。


マハラジ 何が人を愛すべき人にするのだろうか? それは愛されることではないだろうか? まず、あなたは愛し、それから理由を探すのだ。


質問者 その反対もありえます。あなたはあなたを幸せにするものを愛するのです。


マハラジ だが、何があなたを幸せにするのだろうか?


質問者 そこには何の規則もありません。その問題全体が非常に個人的な、予期できないものなのです。


マハラジ そのとおりだ。どのように表現しようとも、あなたが愛するまで幸せはありえないのだ。しかし、愛はつねにあなたを幸せにするだろうか? 愛が幸せと結びついているのは、むしろ初期の、幼稚な段階ではないだろうか? あなたの愛する人が苦しむとき、あなたも苦しむのではないだろうか? そして、あなたが愛するのをやめるのは、あなたも苦しむからではないだろうか?愛と幸せはともに来て、ともに去っていくものだろうか? 愛とは単に快楽への期待なのだろうか?


質問者 もちろん、そうではありません。愛にたいへんな苦しみをともなうことはありえます。


マハラジ では、愛とは何だろうか? それはマインドの状態というより、むしろ存在の状態ではないだろうか? 愛するために、あなたが愛しているということを知らなければならないだろうか? あなたは母親を気づかぬうちに愛していたのではないだろうか? 彼女の愛と彼女を愛する機会を切望することは、愛の行動ではないだろうか? 愛とは存在の意識としてのあなたの一部分ではないだろうか? あなたが母親の愛を求めたのは、あなたが彼女を愛していたからだ。


質問者 しかし、彼女は私に愛することを許さなかったのですよ!


マハラジ 彼女にあなたを止めることはできなかった。


質問者 それでは、なぜ私の人生は不幸せなのでしょうか?


マハラジ なぜなら、あなたはあなたの存在の根底まで行きついていないからだ。あなた自身についての完全な無知が、愛と幸せを覆い隠し、あなたにけっして失わなかったものを探求するようにさせたのだ。愛とは意志だ。すべてとともにあなたの幸せを分かちあう意志なのだ。幸せで在ること、幸せになること──これが愛のリズムだ。


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