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マハルシ 「私」という想念が初めに立ち現れ、それからその他のあらゆる想念が生まれます。それらが心というものを構成します。心は対象であり、「私」は主体です。「私」なしに意思がありえるでしょうか? 意思は「私」の中に含まれています。「私」という想念は知性の鞘であり、意思はその一部なのです。
心は想念だけで形作られており、「これ」が対象で、「私」が主体です。

(対話277)


マハルシ 誰にとってそれ(束縛)が現れるのか考えなさい。


質問者 心にとってです。


マハルシ 心を見なさい。あなたはそれから超然と離れて在るべきです。あなたは心ではないのです。

(対話264)


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 「一の法(ロー・オブ・ワン)」とは、「すべての生命の源である神は、あらゆるものが神の存在を通して、望みどおりに自由に表現することを許している」というものだ。なぜなら、自由を通してのみ、あなたは「父」のことを知り、ふたたび彼とひとつになれるからだ。そして、あなたが「父」のもとに戻り、彼がこの自分自身の帰宅について熟考するとき、それは本当に偉大な日、偉大なる永遠となることだろう。なぜなら「父」のもとに戻る過程で、あなたは「父」のようになっているからだ。そして、あなたが「父」のようになったとき、そこにはつねに、無限の愛と無限の喜びをともなった生、そして存在の永遠性をともなった生があることだろう。


「父なる神」に法はない。人間が法を創るのであって、神ではない。人間が自分の王国における至高の立法者になれるように、そしてすべての生命についての理解が進化していく中で、自分の王国にふさわしい信念や真実や態度を何でも思考から創造できるように、「父」は人間に自由意志を与えてくれたのだ。人間はこの自由を使い、社会の中で生きるために必要だとみなされたさまざまな法を創り出してきた。だが残念なことに、ほとんどの法は、人を脅し、隷属させるために情け容赦なく創り出されたものだ。それらは自由を高めるためではなく、自由を制限するために創り出されてきた。人間が自分自身を無法状態に置くことを許せないのは、自分自身を恐れるあまり、自分を治める法がなければならないと考えているからだ。それは単に、人間が自分自身の無限性や神性を理解していないからにすぎない。


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質問者 先日、あなたは真我の実現の根本がグルへの信頼だったと言われました。彼は、あなたが絶対的な実在なのだと確信させ、それ以上何もされることはなかったのです。あなたは彼を信頼し、そしてそれにすべてをまかせました。努力することも、闘うこともないまま。さて、私の質問ですが、グルへの信頼がなかったとしたら、あなたは真我を実現していたでしょうか? 結局のところ、あなたが信頼しようとしまいと、あなたであるものが、あなたなのです。疑いはグルの言葉の働きを妨げ、それを無効にしてしまうのでしょうか?


マハラジ あなたの言うとおりだ。それはしばらくの間、無効とされてしまうだろう。


質問者 それでは、グルの言葉のなかの力、あるいはエネルギーには何が起こるのでしょうか?


マハラジ それは現れないまま、潜在的な状態で残るのだ。だが、質問そのものが誤解に基づいている。師、弟子、そして彼らの間にある愛と信頼、それらはひとつの事実であって、数ある独立した事実ではない。それぞれがほかの一部分だ。愛と信頼なしには、そこにグルも弟子もないだろう。それは電灯のスイッチを入れるようなものだ。ランプ、コード、スイッチ、変圧器、送電線、そして発電所。それらがひとつの全体を形づくっている。ひとつの要素でも欠ければ、光はないだろう。不可分なものを分離してはならない。言葉が事実をつくり出すことはない。それらは描写するか、あるいは歪めるかのどちらかだ。事実はつねに言葉を必要としないのだ。


質問者 まだ良く理解できません。グルの言葉は満たされないまま残るのでしょうか? それとも、それはかならず真実であることを証明するのでしょうか?


マハラジ 賢者の言葉がその目的を逃すことはけっしてない。それは時間がかかるかもしれないが、正しい条件が揃うのを待つのだ。それは自然なことだ。なぜならそこには種を植える季節と、収穫の季節があるからだ。だが、グルの言葉とは死ぬことのない種子なのだ。もちろん、グルは身体とマインドを超え、意識自体を超え、空間と時間を超え、二元性と統合を超え、理解と描写を超えた本物の師でなければならない。善き人びとは多くを読み、たくさん語ることがあり、あなたに有益なことを教えるかもしれない。だが、彼らはその言葉がかならず実現される真のグルではないのだ。彼らもまた、あなたが究極の実在そのものだと告げるだろう。だが、それが何になるというのだろうか?


質問者 それでも、私がある理由から偶然彼らを信頼し、したがうことになったとしたら、私は敗北者となるのでしょうか?


マハラジ もし信頼し、したがうことができるなら、あなたはすぐに真のグルを見いだすだろう。あるいはむしろ、彼があなたを見いだすだろう。


質問者 真我を知る人すべてがグルとなるのでしょうか、それとも他者を実在に導くことができなくても、実在を知る人となることができるのでしょうか?


マハラジ もしあなたが教えることを知っているのなら、あなたは知っていることを教えることができるのだ。ここでは賢者としての状態と、教師としての状態はひとつだ。だが、絶対的な実在はその両方を超えている。自称グルは成熟や努力、功績や達成、運命や恩寵などについて話すだろう。これらすべては単なる精神的構造であり、耽溺した精神の投影だ。助ける代わりにそれらは妨害するのだ。


質問者 誰にしたがい、誰を疑うべきかをどのようにして知るのでしょうか?


マハラジ あなたが確信するまで、すべてを疑いなさい。真のグルはけっしてあなたに屈辱を与えたりはしない。また、けっしてあなたをあなた自身から遠ざけたりはしないだろう。彼は生来の完全性という事実へとあなたを絶え間なく連れ戻し、内面を探求するように勇気づけるだろう。彼はあなたが何も必要ないことを、たとえ彼でさえも必要ないことを知っている。そしてあなたに思い出させることに、けっして飽きたりはしない。自称グルは弟子よりも彼自身に関心があるのだ。


質問者 あなたは、実在は実在の知識と教えを超えていると言われました。実在の知識は至高なるもの自体ではありませんか、そして教えはその達成の証明なのではありませんか?


マハラジ 実在あるいは自己の知識はマインドの状態だ。ほかの人たちに教えることは、二元性のなかの動きなのだ。彼らはマインドに関心があるだけだ。サットヴァ(純粋性)もやはりひとつのグナ(質)でしかないのだ。


質問者 それでは、何が実在なのでしょうか?


マハラジ マインドを非実現と実現のものとして知る人、無知と知識をマインドの状態として知る人、彼が実在だ。ダイヤモンドと砂利の混ざったものをもらったとき、あなたはダイヤモンドを見つけるかもしれないし、見失うかもしれない。問題は見ることのなかにあるのだ。見る力なくして、どこに砂利の灰色とダイヤの美しさがあるだろう? 知られるものは形にすぎず、知識は名前にすぎない。知る者はマインドの状態にすぎないのだ。実在はその彼方にある。


質問者 もちろん、客観的知識やものごとの観念は自己知識と同じものではありません。ひとつは脳を要し、もうひとつは必要としません。


マハラジ 議論のためにあなたは言葉を脚色し、それらに意味を与えるかもしれない。だが、すべての知識は無知から来たものだという事実は残る。もっとも精密な地図も、ただの紙にすぎない。すべての知識は記憶のなかにある。それはただの認識なのだ。一方、実在は知る者と知られるものという二元性の彼方にあるのだ。


質問者 それでは、実在は何によって知られるのでしょうか?


マハラジ 何とあなたの言葉は誤解を招くものだろうか! あなたは無意識のうちに、実在もまた知識によって到達できるものだと思っている。その上、実在を超えた、実在の知者を話のなかにもたらすのだろう。在るために実在が知られる必要はないということを理解しなさい。無知と知識は実在のなかではなく、マインドのなかにあるのだ。


質問者 もし実在の知識というものが存在しないのなら、どうやってそれに到達するのでしょうか?


マハラジ すでにあなたとともに在るものに到達する必要はない。到達しようとすること自体がそれを逃してしまうのだ。それを見いだしていないという考えを放棄しなさい。そしてただ、マインドのなかのすべてを取り除くことによって、今ここにある直接の知覚の焦点へとそれを入ってこさせなさい。


質問者 去るべきものがすべて去った後には、何が残るのでしょうか?


マハラジ 空が残る。気づきが残るのだ。意識的存在の純粋な光が残るのだ。それはすべての家具を取り除いたとき、部屋には何が残るのかと尋ねるようなものだ。もっとも役に立つ部屋が残るのだ。そして壁さえもが取り払われたとき、空間が残る。空間と時間の彼方には、実在の今とここが在るのだ。


質問者 観照者は残るのでしょうか?


マハラジ 意識がそこにあるかぎり、その観照者もまたそこに在る。その二つはともに現れ、ともに消えるのだ。


質問者 もし観照者もまた一時的なものなら、なぜ、それほどにも重要性を与えられるのでしょうか?


マハラジ 知覚されるものだけが実在だという既知の幻想の魔力を破るためだ。


質問者 知覚が第一のもの、観照者は第二のものです。


マハラジ これが問題の核心だ。外側の世界だけが実在だと信じているかぎり、あなたはその奴隷なのだ。それから自由となるには、あなたの注意が観照者である「私は在る」に引きつけられなければならない。もちろん、知る者と知られるものは二つではなくひとつだ。だが、知られるものの魔法を破るには、知る者が最前面にもたらされなければならない。どちらも主要なものではなく、どちらも言い表すことのできない、つねに新しく、つねに今にあり、言葉に置き換えようのない、マインドよりもすばやい体験の記憶の反映なのだ。


質問者 私はグルからグルへと解放を求めてさまよい歩く、単なる探求者です。私のマインドは病に侵され、欲望に身を焼き、恐れに凍りついています。私の日々は苦痛によって赤く、退屈によって灰色に過ぎ去っていきます。私は老いてゆき、健康は衰え、未来は暗く、恐れおののいているのです。この分では、私は悲しみのうちに生き、絶望のうちに死ぬことでしょう。私に希望はあるのでしょうか? それとも遅すぎるのでしょうか?


マハラジ あなたには何の間違いもない。ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなたの身体に築かれた個人なのだ。あなたは個人ではない。これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、けっして見失ってはならないものだ。通常は、長い期間のサーダナ(修練)、何年もの苦行と瞑想が必要なのだ。


質問者 私のマインドは弱く、優柔不断です。力もサーダナのための粘り強さもありません。私は絶望的です。


マハラジ ある意味では、あなたの状況はもっとも希望のもてるものだ。サーダナに代わるほかの手段がある──信頼だ。もしあなたが成果ある探求から生まれた確信を得ることができなかったなら、私の発見を利用すればいい。私はそれをあなたと分かちあうことを心から望んでいるのだ。私には、あなたがけっして今まで、今も、そしてこれからも実在から離れて在ることはないと、最高の明晰性とともに見て取ることができる。あなたは今ここで完璧に完全なのだ。あなたがあなたである、という生得権を何ものも奪うことはできない。あなたはまったく私と異ならない。ただ、それを知らないだけだ。あなたが何であるかを知らないため、あなたではないものをあなた自身だと想像するのだ。それゆえに欲望をもち、恐れ、そして絶望に圧倒されてしまう。そしてそれから逃避しようと無意味な行動をしてしまうのだ。
ただ、私を信頼しなさい。そして私を信頼することによって生きなさい。私はあなたを惑わせたりはしない。あなたは世界とその創造者を超え、意識とその観照者を超え、すべての肯定と否定を超えた至高の実在なのだ。それを覚えておきなさい。それについて考えなさい。それにしたがって行動しなさい。すべての分離の感覚を放棄しなさい。すべてのなかにあなた自身を見て、それに沿うように行動しなさい。行動とともに至福が訪れ、至福とともに確信がやってくるだろう。結局、悲しみに暮れて、あなたはあなた自身を疑うようになってしまった。幸福、自然、自発性、永遠を想像できなくなってしまったのだ。それがそこにあろうと、なかろうと。ひとたびあなたが外的な原因の必要のない平和、愛、幸福を体験しはじめたなら、すべての疑いは消え去るだろう。ただ、私の言ったことをしっかりと捕まえ、それによって生きなさい。


質問者 あなたは私に記憶によって生きろと言われるのでしょうか?


マハラジ どちらにしろ、あなたは記憶によって生きているのだ。私は単に古い記憶を私の言ったことの記憶に置き換えなさいと言っているだけだ。あなたが古い記憶にしたがって行動したように、新しい記憶にしたがって行動しなさい。恐れてはならない。なぜなら、ときどき古いものと新しいものの間に葛藤が起こるからだ。だが、もしあなたが堅い決意で新しい側に自分をとどめたなら、葛藤はすぐ終わりを告げ、幻想から生まれた欲望や恐れによって欺かれるのではなく、努力を要しない状態の自己として在ることを自覚するだろう。


質問者 多くのグルたちは彼らの恩寵のしるしとして、頭にかぶる布や、杖、托鉢碗、法衣などを与える習慣があり、それによって彼らの弟子の真我の実現を伝達、あるいは承認します。そのような習わしに何の価値もないことは私にも理解できます。伝承されたのは真我の実現ではなく、自尊心なのです。一体全体真実ではなく、何かへつらうようなことを言われることが、何の役に立つというのでしょうか? 一方で、あなたは多くの自称グルについて私に警告をし、もう一方では、私にあなたを信頼してほしいのです。なぜあなたは例外だと主張するのですか?


マハラジ 私は、あなたに私を信頼しろとは言ってはいない。私の言葉を信頼し、それを覚えておきなさい。私は私の幸せではなく、あなたの幸せを願っているのだ。あなたとあなたの真の存在との間に距離をつくり、仲介者として自ら申し出る者たちを疑いなさい。私はそのようなことは一切しない。約束さえしない。単に、「もし私の言葉を信頼し、それらを試みれば、あなたはそれがどんなに絶対的に真実だったかを自ら発見するだろう」と言っているだけだ。もしあなたが冒険を試みる前に証明を求めるなら、私はただ、「私が証明だ。私は師の言葉を信頼し、それを心のなかに保ち、彼が正しかったことを見いだしたのだ。私は今まですべてを抱擁し、すべてを超越する無限の実在であったし、今もそうであり、これからもそうであるだろう」と言えるだけなのだ。
あなたが言うように、あなたには長い修練のための時間もエネルギーもない。私はほかの手段を差しだしているのだ。私の言葉を信頼して受け入れ、新たな人生を生きなさい。あるいは悲しみのなかに生きて死ぬがいい。


質問者 どうやら、真実にしては話がうますぎるようです。


マハラジ 助言の単純さに惑わされてはならない。無垢で単純なことを信頼する勇気をもつ者は非常にまれなのだ。あなたがマインドの囚人であり、自らつくり出した想像の世界のなかに住んでいると知ることは、智慧の現れだ。何もそれから求めず、それを完全に放棄する用意のあることが誠実さだ。本当の絶望から生まれた、そのような誠実さがあなたに私を信頼させるのだ。


質問者 私は充分苦しんでいないでしょうか?


マハラジ 苦しみはあなたを鈍くさせ、その重大な誤りを見ることを不可能にしてしまったのだ。あなたの最初の仕事とは、あなたとあなたのまわりにある悲しみを見ることだ。そしてつぎは解放への強烈な熱望だ。熱望の強烈さそのものがあなたを導くだろう。ほかの導きは必要ない。


質問者 苦しみは私を鈍くさせました。それ自体にさえ無関心なのです。


マハラジ あなたを鈍くさせたのは苦しみではなく、快楽かもしれない。調べてみなさい。


質問者 何が原因であれ、私は愚鈍なのです。私には意志もエネルギーもありません。


マハラジ いいや。あなたには第一歩を踏みだすに充分な力がある。そして一歩ずつが、つぎの一歩のために充分なエネルギーを生みだすだろう。エネルギーは確信から、確信は体験からやってくるのだ。


質問者 グルを変えることは正しいのでしょうか?


マハラジ なぜ変えないのかね? グルは道しるべのようなものだ。ひとりからほかへと移っていくことは自然なことだ。それぞれがあなたに方向と距離を告げるだろう。一方、サッドグル、永遠の師は道そのものなのだ。ひとたび道が目的地であり、あなたはつねに道の上に在り、目的地に到達することではなく、その美しさと智慧を楽しむことを悟れば、人生は仕事ではなくなり、それは自然でシンプルに、それ自体で歓喜となるのだ。


質問者 では、礼拝し、祈り、ヨーガの修練をする必要はないのでしょうか?


マハラジ 毎日すこしずつ掃き清め、洗い流し、沐浴することは良いことだ。自己覚醒が一歩一歩あなたに何をすべきかを示してくれるだろう。すべてが為されたとき、マインドは静かになるのだ。
今、あなたは名前と形、喜びと悲しみをともなった個人として目覚めの状態にある。あなたが生まれる前に、個人はそこにいなかったし、あなたが死んだ後もそこにはいないだろう。自分ではない何かに成ろうと個人として奮闘する代わりに、なぜ個人的な人生全体を後にして、目覚めの状態を超えていかないのだろうか? それは個人の消滅を意味するのではない。ただ正しい視点から見ることを意味しているのだ。


質問者 もうひとつ質問があります。あなたは、私が生まれる以前、私は実在の純粋な存在とひとつだったと言われました。もしそうなら、私が生まれるべきだと誰が決定したのでしょうか?


マハラジ 実際には、あなたはけっして生まれなかった。そしてけっして死ぬこともないのだ。だが、今あなたは存在すると、あるいは身体をもっていると想像し、何がこの状態をもたらしたのかと尋ねている。この限定された幻想のなかでの答えは──記憶から生まれた欲望があなたを身体に引き寄せ、それとひとつだとあなたに考えさせるからだ。だが、これは相対的な見地から見たときだけの真実だ。事実は、そこには誰もいず、それを含む世界もない。そこにあるのはただの精神状態、夢のような状態だけだ。その実在性は疑うことでたやすく払いのけられるのだ。


質問者 あなたは死んだ後、ふたたび戻ってくるのでしょうか? もし私が長く生きるなら、もう一度あなたに会えるのでしょうか?


マハラジ あなたにとっては、身体は実在のものだ。私にとっては、そこには何もない。あなたが見ている私は、あなたの想像のなかにしか存在しないのだ。もちろん、もしあなたが私を必要とするなら、あなたはふたたび私を見ることだろう。太陽が日の出や日の入りに影響されないように、それは私に影響を与えはしない。影響を受けないため、必要とされるときには、かならずそこに在るのだ。
あなたは知識に没頭している。私はそうではない。私にはあなたに知ることを切望させる不確実な感覚がないのだ。子供が興味をもつように、私は興味をもつ。だが、私には知識のなかに避難場所を求めるような不安がない。それゆえ、私は再誕生するのか、世界がどれほど長く続くのか、といったことには関心がない。これらの質問は恐れから生まれたものなのだ。


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