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マハルシ あなたは心と身体が苦しむと言います。しかし心と身体がそう言うでしょうか? 質問しているのは誰でしょうか?


「なぜ、誰にこの苦しみは起こるのか?」。このように問いただしたなら、「私」は心や身体とは別のものであることに気づくでしょう。

(対話633)


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感謝とは、神の愛をあらゆるものに見るという選択です。この選択をしたら、どうしたってみじめにはなりようがありません。


ふたつの世界があるように見えるでしょうが、実際はひとつだけです。恐怖心は愛の不在にすぎません。欠乏は豊かさの不在にすぎません。不平不満は感謝の不在にすぎません。


あなたの経験している次元だけが、次元なのではありません。ほかにも多くの教室があり、それぞれに独特なカリキュラムが組まれています。


あなたがたの教室の中心課題とは、対等性ということです。すべての存在はどのような状況におかれていようと対等だ、ということを学ぶために、あなたはここに来ています。男、女、黒人、白人、ヒンズー教徒、カソリック教徒、みな存在の価値においては対等です。上下関係というものはあなたが作ったものですから、廃止すべきです。あなたがたの多くはこのカリキュラムをずいぶん昔から学んでいます。どのくらい長くかは言いますまい。あなたがたはいろいろ独創的なやりかたを考えだしては、他人とのほんとうのスピリチュアルな対等性をこわしてきました。ある人々は貧困な環境にあり、ある人々は多くの財産を所有します。また食べ物に事欠かない人がいると思えば、かつかつの人もいます。どうか理解してください。あなたがたがもうすでにここでのカリキュラムをマスターしていれば、こうした不平等な環境は存在していないでしょう。


ですから、あなたがたがここに来たのは、ある人々は他の人々よりも価値がある、というような根深い信念をくつがえすためです。そのためには、どうすればよいでしょうか。


まず、対等という真実を、自分自身に対して認めなさい。他の人よりも優れている、劣っている、と感じるなら、まだ自分のスピリチュアルな実相という真実を受けいれていないのです。


第二に、まわりの人も対等であることを受けいれなさい。つまり、もしあなたがその人たちよりあるものをたくさん持っていれば、それを喜んで分かちなさい。そして反対に足りなければ、どうか助けてくださいと頼みなさい。


あなたがたがここにいるのはまた、万人の自己決定権を尊重するということを学ぶためでもあります。他人のものごとを自分が決めたり、自分のものごとを他人に決めさせたりするなら、あなたがたはおたがいの対等性を受けいれていません。


この干渉しあいのせいで、あなたは自分がこうしよう、あるいはこうすまいという決定の責任を、兄弟に負わせるという許可証を手に入れています。でもそれは偽りの許可証です。そのうち、自分が傷つけたり助けたりできるのはたったひとりだけであり、それは自分自身だということがわかってきます。自分のする決定に自分で責任をとり、兄弟にも同じようにさせるときに初めて、あなたは自分自身の真の姿、兄弟の真の姿を認められるのです。


これはとても単純に聞こえるかもしれません。しかし、対等性の実践は、たいへんに奥の深いものです。あなたの世界は変わり、あなたはすべての兄弟姉妹とともに卒業することができます。


肉体を離れてからのあなたは、非物質的な教室で学びを継続することになるでしょう。そこでは学びも加速されます。なぜならそこには、思考がものを創造する効果を妨げるような時間も空間もないからです。


あなたがたの世界では、思考が目に見える効果をあらわすには時間がかかります。非物質的な次元では、この転換プロセスは自動的に起きます。たとえば、もしあなたが「友だちのボブのところへ行ってみようかな」と思うと、そのとたんにボブの居間にいます。移動にはまったく時間がかからず、空間を通りもしません。


あなたがたの中には、非物質次元の存在との交流を経験した人もあるでしょう。そうした交流は、純粋に思考を通じて起こります。次元間の交流はむずかしいものですが、不可能ではありません。練習を積めば、この制限された時空の外に手をのばす力も増してゆくはずです。


非物質的な教室では学びが加速されますから、肉体を離れた多くの存在は、そこで思考をコントロールする力を身につけます。それで、また物質的環境に入っていってもこの力を使えるだろうと自信をもちます。しかし、この物質性の濃い環境でその力を発揮できるのは、何百万人のうちのほんのひとにぎりです。


次のように言えばわかりやすいでしょう。自然科学が明らかにするところでは、地球の磁場の重力を離れたとき、体重がゼロになり、地上ではとうていできないアクロバットができるようになります。また、地球の濃い大気圏を離れれば、老化の速度が落ちるのです。物理法則の多くはこの地上に限定されたものですから、地上を離れれば法則の内容も変化します。


肉体を離れた場合にも、同じ現象が起きます。あなたがたは地上ではおそらく夢の中でしか味わえなかったような、創造的な自由を経験します。夢の中では、注意が内側に向かい、肉体のプロセスがすべてゆっくりになりますね。肉体を抜け出したときに起こる意識の拡大は、たとえてみればこの夢の状態に近いでしょう。


夢の中では、あなたは大胆不敵な現実を創造します。人殺しをしたり、殺されたり、あらゆる人たちと愛の行為をしたり、信じられないような危険の中をくぐりぬけて奇跡的に脱出したりします。夢の中でやったことを、目覚めた状態でやりたいと思う人はほとんどいません。しかし非物質的な経験は、夢の状態よりもさらにドラマティックなのです。創造の可能性は無限大になります。


ですから地上の学校は、地上に接続している非物質的な教室で学んだ技術をためす環境となります。カリキュラムをマスターするまでは卒業できません。すべての人がこのことを知っているので、レッスンを学び終えたことを証明するために、また地上に転生したいと熱望しています。


なぜ、それなのに困難が多いのでしょうか。まず重力という比喩的な状況を見てみましょう。無重力の場所では、五メートルくらい飛び上がるのもかんたんです。空を飛ぶこともできます。しかし地球にもどればジャンプもせいぜい二メートルちょっとです。空を飛ぶなどという夢は、抱きたくても抱けません。


物質的経験が起こるこの濃密な環境を支配するのは、むずかしいのです。物理的な成長にも時間がかかります。母親の子宮にいるときは、完全に母親まかせです。生まれてからも肉体的には無力です。食べること、歩くこと、しゃべることを覚え、環境をあれこれ操作することを学びます。そのことを直視してください。ついさきほどまで、思考がすぐに実体化するような非物質的な環境を経験していたものにとって、それはまさに拷問でしょう。しかし、そのうち意識が縮小してこの肉体になじむようになり、創造の可能性に満ちた他次元の感触など締め出してしまいます。


かんたんに言えば、意識は、物質的環境のもつ濃い密度に吸収されてしまいます。そこで罠にかかり、犠牲者になったような気がします。制限のゆるかった状態を思い出すこともありません。自分が肉体でなかったことも思い出しません。


ごくまれに、物質という教室に入ったときにも意識が完全に縮小しない例もあります。そういう人々は肉体に住んでいますが、非物質的次元の記憶を保持しています。自分が肉体のみの存在ではないと知っています。自分が、他人の思考や行動の犠牲者ではないと知っています。自分の思考の力で現実を創造できることを知っています。


こうした人々がスピリチュアルな教師となるのです。わたしも、兄弟姉妹に自分の非物質的な本性を思い出させるために物質レベルに転生した、多くの教師のひとりなのです。こうした教師がいなければ、地上次元の密度の濃さは、集合意識に影を投げかけ、ほとんどのスピリチュアルな知識とのきずなを断ち切ってしまうでしょう。人類の歴史においては、地球がまさにそうした闇の中に落ち込んだことが何度かあります。あなたがたはみずからその時代を「暗黒時代」と呼びました。あなたがたの経験に時間的に近い暗黒時代の例は、二十世紀の最初の三分の二の期間です。


あなたがたが物質的な教室にいるこの時代は、移行の時代です。テクノロジーの発達により、物質的環境を何度も破壊できるような力を手に入れました。しかし、現代は、人類史上もっとも多くの光がこの惑星上にある時代でもあります。


さてそうすると、わたしがなぜ肉体をもって転生してこないのか、ふしぎに思われるかもしれません。わたしがふたたび肉体をもって再臨すると信じている人は多いのですが、そうはならないでしょう。わたしのここでの仕事はほぼ終わりました。わたしが肉体をもって、あなたがたとともにいれば、まさに起きようとしているあなたがたの変容を遅らせることにしかなりません。


いまではほとんどの人が、この変容の性質を知っているはずです。あなたがたは犠牲者の人生をようやっと克服するために、ここに来たのです。自分の現実(リアリティ)を自分で決定する創造的な力を受けいれ、また、兄弟みずからの創造的な力に目覚めさせるために、あなたがたはここに来ました。集団として、それをなしとげる用意は整いました。わたしもあなたがたに力を貸します。あなたがたはわたしやほかの教師との非物質的な交流を通して、自分の苦しみを増大させるような状況を手放し、本来の”聖性”に目覚めてゆくでしょう。


地上でのわたしの使命を達成するには、あなたがたひとりひとりの力が必要です。あなたがたを通して、わたしの教えは瞬間瞬間に行動で実現されてゆくでしょう。人々をたがいに分断するような言葉というものには、もう重きをおくことはできません。愛と宥しの原理を行動にうつすことにこそ、重点は移ってゆくべきです。


個人的にも、そして集団としても、非物質的現実に波長を合わせることが、惑星の変容のプロセスの欠かせない第一歩です。わたしがここに肉体をもって存在すれば、磔刑(たっけい)という経験がくりかえされます。まわりを見渡せば、”世間の常識”に挑戦する人が汚名を着せられ、迫害され、処刑されるという例はいまでもよく見受けられます。そういうことを起こさない唯一の道は、あなたがた自身が目を覚ますことです。


あなたのもっとも神聖視する信念に敵対したからといって、その兄弟を死刑にしようとは思わないでください。彼を非難することは、わたしを非難することです。また兄弟を完全無欠と思いこんで、まつりあげるようなこともしないでください。完全無欠な人はいません。生きているかぎり、人は過ちをおかします。


兄弟よ、わたしも多くの過ちをおかしたのです。わたしは兄弟を見捨て、わが神を見捨て、それなのに、あなたたちはわたしを見捨てたといって兄弟と神とを非難しました。わたしを特別視しないことです。兄弟のだれかを特別なものにしないでください。あなたがたはみな同じレッスンを学んでいるのですから。


兄弟姉妹とあなたの対等性を、祝福することを学んでください。そのことによって、あなたはわたしとも対等になるのです。わたしを対等なものとみなしたとき、わたしとあなたの交流はみちがえるように進むことでしょう。


あなたが兄弟姉妹をハートに迎えいれるとき、あなたはわたしに対しても扉を開いたことになります。わたしが愛しく思わないような兄弟姉妹はいないからです。わたしは相手を害した人と、害された人、両方の魂をのぞきこみます。どちらも愛されたい、受けいれられたいと声をあげているので、わたしは拒否することができません。わたしの手であり、足であり、この世界における声であるあなたがたに同じようにすることを頼んでも、ふしぎはないでしょう。


忍耐をもち、そしてしっかりと立ってください、兄弟姉妹よ。わたしたちの仕事は、迫害者と犠牲者がいなくなるまでは終わりません。わたしたちが神の愛を受けいれ、その愛を出会うすべての人に分かつまでは、わたしたちの旅は終わりません。例外はありません。万人が、あるがままに受けいれられるべきです。そうすれば、その人は恐怖心や、他人への復讐心を手放すことができるでしょう。


わたしとともに歩むことは、神と人の双方に仕えることです。人に仕えるというのは、神がその人を覚えて心にかけておられる、ということを思い出させてあげることによってです。食べ物や飲み物、それに苦しんでいるときには慰めを与えてあげなさい。相手を抱擁し、あなたの肩に頭をのせさせてあげなさい。そして泣いていいのだと言いなさい。相手は両親にも、子どもにも、恋人にも、神にも見捨てられたと感じています。泣いているあいだに、慰めてあげなさい。なぜなら、あなたもついこのあいだまで見捨てられたと感じ、はらわたのよじれるような思いで、悲しみと後悔の涙を流していたではありませんか。


これが人間の経験というものなのです。兄弟に思いやりをもたねばなりません。あなたも同じような苦しみを経験し、また解放を経験したのですから。


対等というレッスンが地上に行きわたったとき、この惑星の磁場は変化し、大地は新しい、もっと輝かしいカリキュラムを生み出します。この変容の種子はもうすでにまかれています。あなたの仕事は、それに水をやり、育みそだてることです。


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質問者 私が見るには、世界はヨーガの学校であり、人生そのものがヨーガの修練です。誰もが完成を求めて闘っています。ヨーガもまた戦いにほかなりません。いわゆる「一般」の人びとと彼らの「一般」の人生は、何も卑しいものではありません。彼らもヨーギと同じように厳しい努力をし、苦しみます。ただ彼らは真の目的を知らないだけなのです。


マハラジ いったいあなたの言う一般の人びとがどのようにヨーギなのかね?


質問者 彼らの究極的目標は同じです。ヨーギが放棄(ティアーガ)によって確保するものを、一般の人びとは体験(ボーガ)によって実現するのです。ボーガの道は無意識で、それゆえ反復し、長引きます。一方ヨーギの道は熟考され、強烈で、それゆえより迅速なのです。


マハラジ おそらくヨーギの期間とボーギの期間は交替するのだろう。まずボーギ、ヨーギ、そしてまたボーギ、ふたたびヨーギと。


質問者 その目的は何なのでしょうか?


マハラジ 弱い欲望は内省と瞑想によって取り除かれる。しかし、強く、深く根づいた欲望は満たされ、その結果は甘かろうと苦かろうと体験されなければならない。


質問者 それでは、なぜ私たちはヨーギに敬意を払い、ボーギを軽んじるのでしょうか?ある意味では誰もがヨーギなのです。


マハラジ 人間的な価値の尺度では、意図的な努力は賞賛されるものと考えられている。実際には、ヨーギもボーギも機会と環境に合わせ、彼らの本質にしたがっているのだ。ヨーギの人生はひとつの欲望、真実を見いだすことに支配されている。ボーギはたくさんのマスターに仕えている。しかし、ボーギはヨーギとなり、ヨーギはひと巡りしてボーギとなるかもしれない。最終的な結果は同じだ。


質問者 意識における完全な逆転と変容である悟りがあるという話を聞くことは、途方もなく重要なことだと仏陀が言われた、と伝えられています。この良き知らせは船荷の綿に火がつくことに匹敵します。ゆっくりと、しかし容赦なくそのすべては灰になるのです。同じように、悟りの良き知らせが遅かれ早かれ変容をもたらすでしょう。


マハラジ そうだ。まず聞くこと(シュラヴァナ)、覚えること(スマラナ)、そして熟考すること(マナーナ)など、私たちにはなじみ深い分野だ。知らせを耳にした人がヨーギとなる。残りの人たちはボーガを続けるのだ。


質問者 しかし、川が大量の水を集めることで海への道を見いだすように、死ぬために生まれ、生まれるために死ぬという世間的な平凡な人生を生きることは、その生きた総量によって、人を前進させるということに、あなたは同意しましたよ。


マハラジ 世界が存在する以前に、意識は存在していた。意識のなかに世界は存在を顕し、意識のなかで世界は維持され、純粋な意識のなかに世界は消え去る。すべての根底には、「私は在る」という感覚があるのだ。「世界は在る」はマインドの状態であり、二次的なことだ。なぜなら、私は存在するために世界を必要とせず、世界が私を必要とするからだ。


質問者 生きようとする欲望は途方もないものです。


マハラジ それよりも偉大なのは、生きようとする衝動からの自由だ。


質問者 石の自由ですか?


マハラジ そう、石の自由、そしてより以上のものがそこにはある。限りなき自由と意識だ。


質問者 体験を積むには人格が要求されるのでしょうか?


マハラジ 今のあなたのままでは、人格はただの障害にすぎない。身体との自己同一化は幼児にとってはいいかもしれないが、真の成長は身体との自己同一化を離れることにあるのだ。通常、人は人生の初期に身体的な欲望から成長し、脱却するものだ。快楽を否定しないボーギでさえも、ひとたび味わったものを熱望したりはしない。習慣と欲望の反復はヨーギとボーギをともに挫折させる。


質問者 なぜあなたは個人(ヴィヤクティ)を重要ではないとして退けつづけるのでしょうか? 人格は私たちの存在にとって根本的な事実です。それは人生の舞台全体を占めるものです。


マハラジ 人格とは記憶によって組み立てられ、欲望によって喚起されるただの習慣だということを見抜かないかぎり、あなたは自分自身を、生き、感じ、考え、行動的あるいは受動的で、喜ばされ、苦しめられる個人だと考えるだろう。あなた自身に尋ねなさい。「本当にそれはそうなのか?」「私は誰なのか?」「これらすべての背後とその彼方には何があるのか?」と。そうすれば、すぐに自分の過ちを見いだすだろう。見られることによって消え去るということが過ちの本性なのだ。


質問者 生きることの、生命そのもののヨーガは、いわゆる自然のヨーガ(ニサルガ・ヨーガ)と呼ばれるものです。それはマインドと生命の結婚として、『リグ・ヴェーダ』のなかの原初のヨーガ(アディ・ヨーガ)に記述されているものを思い出させます。


マハラジ 注意深く、完全な気づきのなかで生きられた生は、それ自体ニサルガ・ヨーガだ。


質問者 マインドと生命の結婚とはどういう意味なのでしょうか?


マハラジ 自発的な気づきに生きること、努力のいらない生の意識、己の生に完全な興味を抱くこと──これらがみなそれに暗示される。


質問者 ラーマクリシュナ・パラマハンサの妻であるサーラダー・デーヴィは、彼の弟子たちの行き過ぎの努力をよく叱ったそうです。彼女は、彼らを熟する前に摘み取られたマンゴーに比較して、「どうして急ぐの?あなたが完全に熟し、甘く、芳醇になるまで待ちなさい」とよく言ったそうです。


マハラジ 何と彼女は正しいことか! 多くの者たちが、完全な真我実現前のつかの間の体験で夜明けを昼と間違え、過剰な自尊心から彼の得たわずかばかりでさえも台無しにしているのだ。謙遜と沈黙は、どんなに進歩していてもサーダカ(真我の探求者)にとって本質的なものだ。完全に成熟したジニャーニ(賢者)だけが、己に完全な自発性の発揮を許すことができるのだ。


質問者 あるヨーガのアーシュラムでは弟子が光明を得た後、沈黙を七年、十二年、あるいは十五年、または二十五年にわたってまでも守っていくといいます。バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシでさえも教えはじめる前に、彼自身二十年もの沈黙を守ったのです。


マハラジ そうだ。内なる果実は熟さねばならない。それまでは戒律を守り、気づきのなかに生きることは必須となる。徐々に修練はより微妙になっていき、最後にはまったく形のないものとなる。


質問者 クリシュナムルティも気づきのなかに生きることを語っています。


マハラジ 彼はつねに究極を直指している。そうだ。あなたの言うとおり、究極的にはすべてのヨーガは意識(花嫁)と生命(花婿)の結婚であるアディ・ヨーガに行き着く。存在と意識(サット-チット)は至福(アーナンダ)のなかで出会うのだ。なぜなら、至福が現れるにはそこに出会いが、接触が、二元性のなかでの統合の主張がなければならないからだ。


質問者 ニルヴァーナ(涅槃)を達成するには、人は生きている存在へと進まなければならない、と仏陀もまた言っています。意識は成長のために生命が必要なのです。


マハラジ 世界そのものが接触だ。世界はすべての接触の全体が意識のなかで実現されたものなのだ。魂が物質に触れて意識が起こる。この意識が記憶と期待に汚されるとき、束縛となる。純粋な体験は束縛しない。体験が欲望と恐れに捕らえられて不純になり、カルマをつくり出すのだ。


質問者 統合のなかでの幸福がありえるのでしょうか? すべての幸福は必然的に接触を暗示します。それゆえ、二元性を生みだすのではないでしょうか?


マハラジ 葛藤をつくり出さないかぎり、二元性には何の問題もない。争いのない多様性と多彩性は喜びだ。純粋な意識のなかには光が在る。暖かさには接触が必要だ。存在の統合の上に愛の統合がある。愛が二元性の意味と目的なのだ。


質問者 私は養子です。実の父を私は知りません。私の母は、私が生まれたときに亡くなりました。子供ができなかった私の養母を喜ばせるために、養父が私を養子にしたのです。ほとんど偶然の出来事です。彼は純朴な人で、トラックの所有者であり運転手です。母は主婦をしています。私は今二十四歳で、この二年半の間、落ち着かず、探し求めながら旅をしてきました。私は良き人生、神聖な人生を送りたいのです。どうしたらいいでしょうか?


マハラジ 家に帰って父親の仕事を引き継ぎ、年老いた両親の面倒を見なさい。あなたを待っているだろう女性と結婚し、誠実に、純朴に、謙虚に在りなさい。あなたの徳を隠し、静かに生きるがいい。五感と三つの質(グナ)があなたにとってヨーガの修練の八段階だ。そして「私は在る」が偉大な真言(マハー・ヴァーキャー)だ。あなたに必要なことはすべて、これから学ぶことができる。注意深く在り、絶え間なく探求しなさい。それだけだ。


質問者 もしただ自分の人生を生きることで解放されるならば、なぜ皆解放されないのでしょうか?


マハラジ すべての生きるものたちは解放されている。あなたが何を生きるかではなく、どう生きるか、それが問題なのだ。真我の実現の概念がもっとも重要だ。そのような可能性があるということを知るだけで、その人の全視野が変化する。それはおがくずの山に火をつけるようなものだ。すべての偉大な師たちは皆そうしたのだ。真実の火花が偽りの山を焼き尽くす。その逆もまた真実だ。真実の太陽は、身体との自己同一化という雲の背後に隠されてしまうのだ。


質問者 この悟りの良き知らせを広めることは、とても重要なことのようです。


マハラジ そのことを聞くということ自体が、悟りを約束している。グルに出会うこと自体が解放の保証なのだ。完全なるものは生命を与え、創造的だ。


質問者 賢者は「私は実現した」と考えることがあるのでしょうか?人びとが彼を祭りあげることに彼は驚かされるのでしょうか? 彼は自分自身を普通の人間と見なしているのではないでしょうか?


マハラジ 普通でも特別でもない。ただ気づいていて、愛情深いのだ──強烈に。彼は自己定義にも、自己同一化にもふけることなく彼自身を見る。彼は世界から離れた彼自身を知らない。彼が世界なのだ。彼は絶え間なく自分の富を分け与えるとても裕福な人のように、完全に彼自身を除き去る。彼は裕福ではない、なぜなら彼は何ももっていないからだ。彼は貧困ではない、なぜなら彼は豊富に与えるからだ。彼はただ無所有なのだ。同様に、賢者は無我だ。彼は何とであれ自己同一化する能力を失ったのだ。彼は場所をもたず、時間と空間を超え、世界を超えている。言葉と思考を超えた者、それが彼なのだ。


質問者 私にとっては深い神秘だとしか言いようがありません。私はただのシンプルな人間です。


マハラジ 深く、複雑で、神秘的で、理解し難いのはあなたのほうだ。あなたに比べれば、私はシンプルそのものだ。私は内面と外面、私のものとあなたのもの、善と悪といったいかなる区別もない、あるがままだ。世界であるものが私で、私であるものが世界なのだ。


質問者 人がそれぞれ自分自身の世界をつくり出すとは、いったいどのように起こるのでしょうか?


マハラジ 数人の人が眠るとき、それぞれが彼ら自身の夢をみる。多くの異なった夢という疑問は目覚めとともにだけ現れ、それらはすべて夢、あるいは何か想像されたものとして見られたときに消え去る。


質問者 夢でさえ根拠があります。


マハラジ 夢は記憶のなかにあるのだ。たとえそうだとしても、思い出されたものとは、もうひとつの夢にほかならない。偽物の記憶は、偽物をもたらすことしかできない。記憶自体に何も間違ったことはない。偽りはその内容にあるのだ。事実を覚え、意見は忘れなさい。


質問者 何が事実なのでしょうか?


マハラジ 純粋な気づきのなかで、欲望と恐れから影響を受けずに知覚されたことは事実なのだ。


* 訳注1 ニサルガ・ヨーガ 付録I参照。
* 訳注2 ラーマクリシュナ・パラマハンサ Ramakrishna Paramahansa(1836─1886)
ベンガル地方出身の偉大なる聖者。ビジョンを通しての直接体験によって、世界中の主要な宗教が本質においてひとつであることを解き明かした。スワミ・ヴィヴェーカナンダの師でもある。
* 訳注3 ヴァガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ Bhagavan Shree Ramana Maharsh(1879─1950)
南インド、カミール・ナードゥ州のティルヴァンナーマライにある、聖なる丘アルナーチャラの麓にてその半生を送った、現代においてもっとも広く認識されている聖者。彼の沈黙の教え、「私は誰か?」という問を用いた明確で革新的な真我探求の方法と彼の聖者としての生涯は、世界中の信奉者を引きつけている。
* 訳注4 ジッドゥ・クリシュナムルティ Jiddu Krishnamurti(1895─1986)
南インドのチェンナイ近郊に生まれる。一四歳のとき、未来の「救世主」として神智学協会のリードビーターによって発見され、英国にて英才教育を受ける。二七歳のとき神秘体験を持つ。後に救世主であることを否定し、精神的指導者、師といった一切の呼び名を拒絶して、ひとりの自由人として世界中を巡って講話をした。
* 訳注5 ヨーガの修練の八段階 アシュターンガ・ヨーガ Ashtanga Yoga
(一)ヤマ 非暴力、真実、不盗、独身生活、無所有といった善行の修養。
(二)ニヤマ 善行の尊守。
(三)アーサナヨーガの姿勢。
(四)プラーナーマーヤ 呼吸の制御を通しての修練。
(五)プラティヤーハーラ 思考の制御。
(六)ダーラナー 意識をブラフマンドラ、頭頂点に集中させる修練。
(七)ディヤーナ 瞑想。
(八)サマーディ 瞑想の修養を通して得る三昧状態。ここでは、マハラジは五感と三つのグナ、つまり視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚の五感とサットヴァ、ラジャス、タマスの三つのグナがヨーガの八段階に代わると示唆している。


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Fiora & nobody