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「あなたのまわりで起こる問題のすべては、あなたを反映する鏡である」


ということを信じる必要があります。これまで自分で見ることを拒否していた、自分の意識の部分を見せてくれるよう、あなた自身がこうした出来事や人々を自分の人生に引き寄せたのです。これはたとえば、いやらしい男に出会ったからといって、あなたもいやらしい、という意味ではありません。それは、あなたがいやらしい人間を批判しているということを意味します。そして、断言しますが、自分の心のどこかで他人を批判する者は、自分自身をも批判しているのです。そして、この点こそが──他人を批判することで他人に優越感を感じる必要を持つ、そういうあなたの部分こそが、あなたがしっかり吟味すべきところなのです。


人を批判するたびに、自分がしていることを理解してください。そういうとき、あなたは他人の上に立って、その分少しでも高くなろうとしているのです。「高い」というのは、この場合、世間の基準ではなく、自分にそう思えるということです。批判するとか、裁くというのは、人間が持つ性質のなかでも、最も人とのあいだに対立を起こさせるものです。なぜなら、裁く心は何としてでも、自分のほうがすぐれていると証明しようとするからです。けれども、ここであなたがしようとしていることは、本当は、自分が相手と対等だと感じたいということにすぎません。自分が本当に相手よりすぐれていると知っているなら、その人は慈しみの心を持つはずです。そういう人は、人を裁くことによっては何事も癒されない、ということを知っているからです。


裁きの心は、どんなときにも、誰をも、何事をも、癒しません。裁きの心は人を殺します。自分のまわりの人々をあれこれ批判する人は、自分自身に対する批判の心を、見えないところにおし隠そうと必死になっている自分に気づく必要があります。人の心理構造のなかには、自分の内面を見つめたくない部分があって、代わりに外界に目を向けるよう仕向けるのです。人を裁く人は、慈しみの心を持ちません。このふたつは共存できないのです。慈しみの心を持つ人は、人を裁くことができません。その人は、自分の前にいる人が今、それ以外のどんな行動もとることができないということを、慈しみの心で理解しているからです。さらに、あなたの意識のなかには、他人の目から見ると、まちがっていると判断できる部分が必ずあるので、あなたは自分のやり方を他人に強制することはできません。



無条件の愛は、自然にあなたのもとにやってきます。自分自身や他人にあわれみを寄せるのは、あなたの本性なのです。手をのばし、友人を慰めたいと思うのは、あなたにとって自然なことです。気遣ってくれる人たちの愛を受けいれるのは、あなたにとって自然なことです。


どれにも努力はいりません。学習もいりません。


ではなぜ、無条件の愛を経験することが、めったにないのでしょうか。その答えを聞いて、あなたはきっと驚くでしょう。


もともと、あなたがたは神とひとつで、その愛の全能の力を分かちもっていました。あなたにとって不可能はありませんでした。ところが、そのうちに、神から離れたらどうなるだろうという思いが起きました。離れてみると、それは初めての経験でしたから、自信がもてません。疑いが入りこんできて、こう思います。「もし、なにかうまくいかなかったら?」この疑いは、分離の不安にすぎなかったのですが、ほかの多くの恐怖心を呼び起こしてしまいました。その中には、「わたしが事態をめちゃくちゃにしたら、神はお怒りのあまり、わたしを愛してくださらなくなるだろう」というものもありました。この考えが決め手になったのです。


ほどなく罪悪感と、愛に満ちた神から切り離されるという感情が経験されるようになりました。この分離はあなたがたが創りあげて、自分に押しつけたものですが、とてもリアルに感じられます。あなたがたはそれを信じるようになりました。


そのあとであなたがたの創造したものは、その信念の結果です。つまり「神はわたしを愛しておられない。わたしに満足しておられない。わたしは神の愛に値しない」ということです。


そして自分自身の心(マインド)の中でかってに、恩寵から失墜してしまいました。神の愛の全能の力を分かちもっていたのに、その愛を怖れるようになりました。自分自身の創造力を怖れるようになって、それを見えないところへ隠してしまったとも言えます。あなたは創造者であることをやめ、犠牲者になりました。原因であることをやめ、結果になりました。つまり、事実を逆転させてしまったのです。愛を恐ろしいものにしてしまいました。


分離を感じているときには、その分離以前がどんな感覚だったのか、思い出すことはできません。それがあなたがた特有のジレンマのようです。


神へもどる道を見いだすには、一歩一歩足跡を逆にたどって、「分離」は自分が選んだもので、神が選んだのではないと悟ることです。「わたしが、もしこの力を濫用してしまったら」とあなたは考えました。そのせいで、自分の力が恐ろしいものになるような世界を創る方向へ行ってしまいました。あなたはさらに先へ進んでゆき、神があなたの疑いと恐れに答えてくださるのを待たなかったのです。


もし神のお答えを聞いたとしたら、それはたぶん次のようなものでしょう。「おまえは無条件に愛されている。わたしはおまえへの愛をひっこめたことは一度もないのだよ。愛されていることを思い出せば、おまえは愛に満ちたふるまいしかできないだろう」


神のこのお答えを聞いたら、分離されたというあなたがたの夢も終わることでしょう。それは、自分が愛されていないという思いこみを、まっこうから打ち破るものだからです。この思いこみが非現実的な考えのおおもとです。あらゆる犠牲者意識は、この思いこみから生まれます。自分が「愛されるに値しない」と信じていないかぎり、「悪い」ことを考えたり「悪い」ことをしたりはできません。あらゆる攻撃も、このたったひとつの思いこみから来るのです。


アダムとイブも同じように「もし」と考えました。「もし、わたしがこのリンゴを食べ、神様と同じくらいの力を持つようになったら?」ふたりもまた、自分でかってに恐ろしい答えを考えだし、恥ずかしいと思って、神の目から姿を隠そうとしました。あなたがたはいま同じ問いを立てています。おなじリンゴをかじっているのです。あなたがたも、神と隠れんぼをしようとしています。


あなたの犠牲者としての経験を作っているのは、たえまないこの自問自答なのです。自分で創りあげた世界で、あなたは犠牲者であると同時に迫害者でもあります。このふたつの役割をよく調べれば、そのあいだにほとんど違いがないのがわかるでしょう。犠牲者は迫害者を必要とし、逆もまた真です。


自分には愛を与えたり受けとったりする価値がないのでは、と疑ったとき初めて、悪の問題が生じてきました。愛を与え、受けとることこそ、あなたの存在のありかたです。あなたは自分が愛に値しないかもしれないと疑いました。自分だけでなく、この世界のすべてのものがです。そこで、さあ選択です。あなたがなすべき唯一の選択は、「わたしは愛に値するか」という問いに、自分で答えるか、神のお答えを待つかです。


実にかんたんなことです。神に、あなたのもともとの誤った思いこみを正していただくか、この思いこみを真実として受け入れ、その上に自分の人生を築くかです。


リンゴをしゃぶるのをやめるのに、遅すぎることはありません。自分の立てたそもそも誤った問いへの答えは不満足なものでしかありえない、と悟るのに遅すぎるということはありません。神に向きなおって、こう言うのに遅すぎるということはありません。「神よ、わたしの出した答えは、自分の心を恐怖で満たしました。その答えは、人生に悩みと苦労をしか持ちこみませんでした。だからこの答えはきっと誤っているのです。どうか別の答えを探すのを手伝っていただけませんか」


地上でのスピリチュアルな生活は、この問いを口にすることから始まります。どんな宗教を信じているかは関係ありません。社会的地位あるいは経済的状況は関係ありません。自分の誤った信念や思いこみに立ちむかう準備の整う瞬間が、だれの人生にも必ずやってきます。それはあなたの癒しの始まりであり、本来の力と生きる目的の回復となります。


自分自身の疑いを疑うこと、自分自身が否定的な存在であることを否定することが、ターニング・ポイントになります。物質世界への下降の終わりであり、天への上昇の始まりです。それは神とのパートナーシップの更新であり、モーゼ以来の”新たな契約”となります。


自分自身を、またほかの人を、不幸な犠牲者と見ているかぎりは、神のパートナーにはなれません。”新たな契約”はあなたに、神の王国を自分のハートの中に認めることを求めています。それはつまり、神があなたと分離しているという考えを拒否することでもあります。自分が、あるいは兄弟が、愛に値しないという考えを拒否してください。悪とは恐怖心の中で生み出された考えだとして拒否してください。神の力を濫用しうるなどという考えを、拒否してください。


”新たな契約”とは、「もし……したら?」という問いへの、神の答えを受けいれることです。それは自分自身の救済の始まりであり、神の王国を人類が地上に受けいれる第一歩でもあります。


むかし、あなたがたは、神と自分との創造的なパートナーシップを拒否しました。いま、あなたはそれをとりもどす準備ができています。むかし、あなたがたは、自分が神の目からみれば愛に値しないという考えをもてあそびました。いま、あなたは神との永遠の愛の交流をとりもどそうとしています。


神をふたたび人生に受けいれれば、この世界およびそこに住むものとの経験すべては、すっかり変わってしまいます。あなたは近寄ってくるすべての子どもの父親であり、母親であり、近寄ってくる老人の息子、娘となります。友だちの多い人にも孤独な人にも、友だちとなります。自分が愛されていることを覚えている人をも、それを忘れた人をも愛します。


あなたの愛に満ちた存在と神の愛の実践が、必要とされないような場所はありません。すべての場所があなたのやさしい言葉を呼び求めています。あなたが渇きを癒す杯(さかずき)からいっしょに飲むことを、すべてのものが待ち望んでいます。


不幸という夢は、その存在を問いつめ、拒絶したときに、終わっています。あなたが自分の不幸を問いつめるとき、ハートの中にある無条件の愛に目覚めてゆくのです。不幸に甘んじていれば、その経験はさらに度を増してゆき、底まで落ちます。でも底に達すれば、もうたくさんだとわかるでしょう。


だれも他人を、むりやりに目覚めさせることはできません。だれでも、条件つきの愛をやりとりすることの不毛を経験する時がやってきます。分離とコントロールが耐えがたくつらいものになるまでは、そういう愛にしがみついています。どのくらいで耐えられなくなるかは人によって違いますが、だれでもいつかは限界に達します。


ですから、人にお説教するのではなく、ただ愛を及ぼすようにと、わたしは言うのです。それを受けいれる準備のできた人は、あなたについてきて助けを求めるでしょう。まだ準備のできていない人は、あなたとはかかわりなく自分の旅をつづけるでしょう。


「教師」は求められればそれを「教え」ます。愛を願い求める人には、行いで、あるいは言葉で、愛を及ぼします。こうすればそのうち救われると言ったり説いたりして、信じない人をおどしつけたりしません。


救済は、いま、救われたいと願う人すべてに与えられています。ほかの人を批判・判断しないでください。それはあなたの役目ではありません。遅れて神の愛のひざにもどってくる人が、早々ともどった人よりも価値がないとはいえません。


ほんとうのことを言えば、あなたをひきあげるのは神ではありません。わたしでもありません。あなたがあなたをひきあげるのです。自分がいかに愛すべき存在かを思い出し、神の計画のなかでの自分の役割を受けいれることで、自分をひきあげます。


自分の全能性を受けいれるためには、まず神と和解しなくてはなりません。すべての力は神から来るからです。あなたも対等のパートナーとしてそれを分かちもつのですが、神と離れては、その力を行使することはできません。「もし……したら」の夢を見ているさなかでさえ、あなたは神の愛から完全に分離することはできません。その夢の中で苦しみが限界に達すれば、もどることを選ぶでしょう。それはだれでも同じことです。


神の愛の力は、濫用などできません。拒絶し、否定し、隠してしまうことはできるでしょう。しかしあらゆる拒絶、否定、秘めた罪悪感にも限界があります。真実は、ゆがめられるかもしれませんが、完璧に抹消されたり否定されたりすることはありません。どんな暗闇にも一点の光はつねに残っています。その光は、それを見つけたいという望みがわきあがったときには、つねに見つかります。


友よ、あなたは自分の夢の主人公です。闇を夢見たのもあなたなら、光をもたらすのもあなたです。あなたは誘惑者と救済者のひとりふた役です。そのことを、あなたはすでに知っているはずなのですが、あらためて知るようになります。


この自作自演のドラマの中で、あなたのかかえる問題は神との関係のみです。見かけは兄弟とのもめごとのように感じるかもしれませんが、そうではありません。善悪の木は、あなたの心(マインド)の中に生えています。自分がつまらないものだとか、力を誤ったふうに使うとか、あなたが考えているのは、あなたの心の中でだけです。


あなたの答えと神の答えが、ぴったりひとつになるときがやってきます。そのとき善悪の木は、分かちがたい全体である、生命の木になるでしょう。愛はもはやその敵対物をもたず、自由にあらゆる方向へ広がってゆきます。


だれかが近づいてきて、あなたの愛に、また自分の愛に条件をつけようとしたら、あなたはこう言います。「兄弟よ、わたしはその夢を見たけれども、その結果を知った。それは苦しみと死にしかつながらない。どちらにとっても満足はいかない。そんな夢を生みだした、もともとの思いこみをよく調べてみよう。いっしょに考えれば、きっと道が見つかるはずだよ」


地上での自分の目的はなんだろうか、と考えたことがあったとしたら、この前の段落をもう一度読んでください。そうすれば、自分の目的とは、愛の呼びかけを聞いたらつねにそれに応(こた)えることだけだったのだ、と思い出します。あなたにその気があれば、むずかしいことではありません。特別な能力も才能もいりません。どのようにとか、なぜとかは、あなたが目の前に開かれた扉を通りぬければ、愛がみずから取りはからうでしょう。


わたしはあなたがたに、レンガの壁を通りぬけなさいとか、水の上を歩きなさいと言った覚えはありません。扉が開いているのを示し、入る準備ができているかどうか、たずねただけです。あなたも兄弟に対して、それだけをたずねてください。


条件をつけずに愛することのできる人は、結果に執着しません。人は来て、また去ってゆき、あなたにはその理由はけっしてわかりません。いかにも楽々と門を通りぬけそうに見える人が、手前でくるりときびすを返して立ち去っていきます。とうてい門の見える地点まで来るとは思えないような人が、思いもかけない潔(いさぎよ)さでそこをくぐっていきます。


心配をやめてください。だれが来て、だれが去ってゆくかは、あなたの問題ではありません。契約はすべての人のハートの中にあって、神のみが、だれが準備ができているかをご存じです。それは神におまかせし、ただ神とともに働くことに心がけましょう。神の意志を行うとき、人生ははるかにスムーズに流れてゆきます。神を信じるとき、ハートはそのふちまで愛と受容になみなみと満たされ、あふれ出るのです。


こうしてわたしたちは、愛の供給に限りのないことを知るでしょう。それには始まりもなく、終わりもありません。地上のすべての限界は、神の王国がわたしたちのハートの中に建てられるとき、きわまりのない天の愛のなかに溶け去るのです。


hakuj
質問者 私の友人のひとりである二十五歳の青年は、不治の心臓病で苦しんでいます。彼は緩やかな死よりも、自殺を選ぶと手紙に書いてきました。私は、西洋医学で治療できない病気も、何かほかの方法で癒すことができるかもしれない、と返事を書きました。人間の身体にほとんど即座と言えるほどの変化をもたらすヨーガの力があります。繰り返し断食をすることも、奇跡に近い効果を上げることができます。私は彼に、死に急ぐよりもほかの方法を試みるようにと書きました。ボンベイ近郊に、奇跡的な力をもったひとりのヨーギがいます。私は何人かの彼の弟子と出会い、彼らを通して友人の写真と手紙をヨーギに送りました。何が起こるか見てみましょう。


マハラジ  そうだ。奇跡はしばしば起こる。しかし、そこには生きようとする意志がなければならない。それなしには奇跡も起こらないだろう。


質問者 そのような欲望を吹きこむことができるのでしょうか?


マハラジ  表面的な欲望なら――できる。だが、それは尽きてしまうだろう。根本的には、誰もほかの人に生きるように強いることはできないのだ。その上、かつては自殺を承認し、尊重する文化も存在したのだ。


質問者 自然な一生の長さを生きることは、人の義務ではないでしょうか?


マハラジ  自然で、自発的で、たやすい人生なら――そのとおりだ。だが、病気をし、苦しむ人生なら自然とは言えない。何であれ来るものに揺らぐことなく耐えることは高尚な徳だ。しかし、無意味な苦悶や屈辱を拒否する尊厳もまたあるのだ。


質問者 あるシッダ(解脱者)の書いた本を手にしたのですが、彼はそこに奇妙な、驚くべき多くの体験を描写しています。彼によると、真のサーダカ(修行者)の道はグルと出会い、師に身体、マインド、ハートを明け渡すことで終わると言います。それ以降は、弟子の人生のもっともささいな出来事さえもグルが引き継ぎ、責任を取ります。それは自己同一化を通しての真我の実現とも言えるでしょう。弟子は制御することも、抵抗することもできない力によって選ばれ、嵐の中の一枚の枯葉のように無力に感じるのです。彼を狂気と死から救うのは、グルの愛と力への信頼だけなのです。


マハラジ  すべての師たちは、彼の自己体験にしたがって教えるのだ。体験は信念によって形づくられ、信念は体験によって形づくられる。グルでさえも弟子の自己イメージによって形づくられてしまう。グルを偉大にするのは弟子たちなのだ。ひとたびグルが内側と外側から解放される力の媒介として見られれば、全身全霊での明け渡しも自然でたやすいものとなるだろう。苦痛に苛まれた人が外科医の手に完全に身をまかせるように、弟子もまた自分自身をためらいなくグルに預け渡すのだ。激しく必要性が感じられたとき、助けを求めるのはまったく自然なことだ。だが、いかにグルが強力であろうとも、弟子に彼の意志を押しつけるべきではない。その反対に、ためらい、信頼しない弟子は、グルの過ちがなくても満たされないままとどまるのだ。


質問者 それでは、何が起こるのでしょうか?


マハラジ  すべてが失敗したとき、人生が教えるのだ。だが、人生の教訓は長い時を必要とする。信頼し、服従することによって多大な遅延と困難が回避される。しかし、そのような信頼も、無関心と落ち着きのなさが明晰性と平和に場所を明け渡したときにしか起こらないのだ。自分自身を尊重できない人には、自分自身も他者も信頼することができない。それゆえ、師ははじめに弟子の存在の源の高貴さ、高尚な本性、そして荘厳な運命を再保証することに最善をつくすのだ。師はある聖者や彼自身の体験を語る。弟子に自信をもたせ、かぎりない可能性を教えこむ。弟子への確信と師への信頼が整ったとき、弟子の人格と人生に、急速な、断固とした変化が見られるのだ。


質問者 私は変化を求めていません。私の人生は今のままで充分良いものです。


マハラジ  あなたがそう言うのは、あなたの人生がいかに苦痛に満ちたものかを、まだ見てはいないからだ。あなたはキャンディーを口にくわえたまま眠る子供のようなものだ。完全に自己中心的で、つかの間の幸せを感じているかもしれない。しかし、苦しみの普遍性を知覚するためには、人類の顔をよく見てみるだけで充分だ。あなた自身の幸福でさえ、銀行の破産、あるいは胃潰瘍によって翻弄されるほど壊れやすく、短命なのだ。それは単に、二つの苦しみの間の和らいだ瞬間でしかない。真の幸福は壊れやすいものではない。なぜなら、それは環境に依存しないからだ。


質問者 あなたは自分自身の体験から語っているのでしょうか?あなたもまた不幸せなのでしょうか?


マハラジ  私にはいかなる個人的な問題もない。だが、世界は恐れと欲望の間に押しつぶされて生きている人たちでいっぱいなのだ。彼らははねまわり、飛びまわり、何の心配もなく幸せそうに屠殺場に連れていかれる仔牛のようだ。それにもかかわらず一時間後には殺され、皮を剥がされるのだ。あなたは幸せだと言う。あなたは本当に幸せなのだろうか?それとも、単に自分を納得させているだけなのだろうか?恐れなしに、あなた自身を見てみなさい。そうすれば、あなたの幸せは条件と環境に依存し、それゆえ一時的で、実在ではないことが即座に理解できるだろう。真の幸福は内側から現れるのだ。


質問者 あなたの幸福が私にとってどんな意味があるというのでしょうか?それが私を幸せにするわけではありません。


マハラジ  あなたはそのすべて、そしてそれ以上を求めるだけで得ることができる。だが、あなたは求めない。あなたはそれを欲しくはないようだ。


質問者 なぜそう言われるのでしょうか?私は幸福になりたいのです。


マハラジ  あなたはまったく快楽に満足しているのだ。幸福のための場所は残されていない。あなたのコップを空っぽにして洗いなさい。そうしなければ、それを満たすことはできないのだ。他者はあなたに快楽を与えることができる。だが、幸福を与えることはできないのだ。


質問者 一連の快い出来事は充分良いものです。


マハラジ  それはすぐに、もし破滅でなければ、苦痛に取って代わる。結局、ヨーガとは内なる永遠の幸福の探求にほかならないのだ。


質問者 あなたの話されることは東洋のためのものです。西洋では条件があまりにも異なり、あなたの言われることはあてはまりません。


マハラジ  悲しみと恐れには、西洋も東洋もない。苦しみと苦しみの終焉という問題は普遍的なものだ。苦しみの原因は依存にある。独立がその治療法なのだ。ヨーガとは自己理解を通しての自己解放の芸術と科学なのだ。


質問者 私がヨーガにふさわしいとは思えません。


マハラジ  ほかの何にふさわしいと思っているのかね?快楽を求めて行ったり来たりし、愛したり憎んだりすることは、あなたが自ら押しつけた、あるいは受け入れた限界に対して闘っていることを示しているのだ。無知からあなたは過ちを犯し、あなた自身や他者にも苦しみを生みだしている。だが、衝動はそこにあり、それは否定されてはならない。誕生、幸福、死を求める同じ衝動が、理解と開放を求めるのだ。それは積荷の綿が発火したようなものだ。あなたはそのことに気づいていないかもしれない。だが、遅かれ早かれ船は炎に包まれるだろう。解放は自然な過程だ。そして、長期にわたって見れば、不可避なものだ。だが、それを今のなかにもたらす力はあなたの内にあるのだ。


質問者 それでは、なぜ世界中にこれほど解脱した人が少ないのでしょうか?


マハラジ  森林のなかで完全に開花している樹は、一時にはほんのわずかだろう。それでも、すべての樹がそれぞれの時期をもっているのだ。遅かれ早かれ、あなたの身体的、精神的源泉にも終焉がやってくる。そうなったとき、あなたはどうするだろう?絶望するのかね?では、絶望するがいい。あなたは絶望に疲れてくるだろう。そして、疑問に思いはじめる。そのときこそ、あなたは意識のヨーガにふさわしくなるのだ。


質問者 私には、この探求や黙想がもっとも不自然に見えます。


マハラジ  あなたにとっては不具として生まれてくることが自然なのだ。あなたはそれに気づいていないかもしれない。だが、それがあなたを正常にすることはないのだ。正常、あるいは自然であることの意味をあなたは知らない。そして、あなたが知らないということも、あなたは知らないのだ。現在のあなたは漂っているだけだ。そして、それゆえ危険なのだ。なぜなら、漂流者にはいつ、何が起こるかわからないからだ。目を覚まし、あなたの置かれた状況を見てみる方がいい。あなたが存在することを、あなたは知っている。あなたが何なのか、それをあなたは知らないのだ。あなたが何かを見いだしなさい。


質問者 なぜ、世界にはこれほど多くの苦しみがあるのでしょうか?


マハラジ  利己主義が苦しみの原因なのだ。ほかの原因はない。


質問者 苦しみは限界のなかに固有のものだと私は理解しています。


マハラジ  相違や区別は苦しみの原因ではない。多様性のなかの統合は自然であり、良いものだ。ただ分離と自己本位とともに、本当の苦しみが世界に現れるのだ。


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