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休暇のことばかり考えていたら、新しい会社をうまく軌道に乗せることはできません。会社を大きくするためには、どうすれば成功するかについて考えなくてはなりません。意識の問題も同じです。努力が必要なのです。


究極的には、人生に苦悩があるのは、分離意識をいつまでも感じつづけようとするからです。


(感じつづけよう、としている)


質問者 アートマ・サークシャートカーラ(真我実現)とは何でしょうか?


マハルシ あなたはアートマン(真我)であり、サークシャート(今ここにある直接体験)でもあるのです。そのどこにカーラ(実現)が必要でしょうか? この質問は、あなたが自分を真我ではないと考えていることを表しています。


この質問の根底には、あなたが自分自身を粗大な身体と同一視しているという事実があるのです。


今、あなたは自分自身を身体だと見なしています。そして自分の周りに物事を見るように、真我も目で見たいと考えているのです。





習慣はそのように影響を与えるものです。





アートマ・サークシャートカーラとはアナートマ・ニラーサナ(真我ではないものの放棄)なのです。

(対話565)


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「未知なる神」とは誰だったのか? それは私自身であり、夜の巣の中の鳥たちであり、葦に降った霜、夜明け、たそがれ時の空だった。それは太陽であり、月であり、子どもたちとその笑い声、なめらかな脚、流れる水、そしてニンニクと革と真鍮の香りだった。それはいつも私の目の前にあったのだが、私がこの理解にいたるまでには長い時間がかかった。「未知なる神」は月や太陽を超えたところにいるのではなかった。それは私のまわりにあるすべてのものだったのだ。この新しい考え方が生まれてからは、私は人生を抱き容れ始め、人生を大切なものだとみなし始めた。そして生きる理由にも気づき始めた。流血や死や戦争の悪臭よりもすばらしいもの、すなわち生命というものがあったのだ。それは、われわれがこれまでに考えていたよりも遥かに偉大なものだったのだ。


その後の長い年月の中で、私はまさにこの気づきを通して、人間はあらゆるものの中で最も偉大な存在であるということを理解するようになる。





生命とその絶え間ない継続性を観察し、それらについて熟考してはじめて、私には「未知なる神」が本当は誰なのかがわかった。「未知なる神」は人間の歪んだ考え方から創り出された神々ではない、という結論に私はいたった。人間のマインドの中に存在する神々は、単に彼らが最も恐れ、敬っているものが人格化したものにすぎないと気づいたのだ。つまり、本当の神とは、絶え間なく続く本質の部分であり、それこそが人間に、自分の選んだ通りの幻を何でも創造することを許し、その幻を最後まで演じきることを許しているのだ、ということに気づいたのだ。そして春がめぐり、人間がふたたびこの場所に戻ってきて別の人生を送るときにも、それは依然としてここに存在し続けているのだということに気づいた。生命の力と、その絶え間ない継続性の中にこそ、まさに「未知なる神」が存在するのだと私は気づいたのだ。


…本当の神とは、絶え間なく続く本質の部分であり、それこそが人間に、自分の選んだ通りの幻を何でも創造することを許し、その幻を最後まで演じきることを許している…


…生命の力と、その絶え間ない継続性の中にこそ、まさに「未知なる神」が存在する…


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質問者 私は公認会計士を引退し、妻は貧しい女性たちのための社会奉仕活動に従事しています。息子がアメリカへと旅立つため、見送りに来たのです。私たちはパンジャブ地方出身ですが、現在、デリーに暮らしています。私たちにはラダ・ソアミ教* のグルがいます。そして、サットサン、聖者との交わりを高く評価しています。ここに連れてこられたことをたいへん幸福に感じています。今まで多くの聖者たちに出会ってきました。そして今、もうひとりに出会えることを嬉しく思っています。


(*訳注 ラダ・ソアミ教 Radha Soami 開祖シヴァ・ダヤール・サーヒブによって1861年に創設された宗派。シーク教徒とヒンドゥ教徒が主な信奉者。第三の目を通して内なる光と音の流れに意識を向けることが彼らの主要な修練。またサットサンを重視している)


マハラジ あなたたちは多くの隠者や苦行者に出会ってきた。だが、神性(スワルーパ)を意識した完全に真我実現した人を見いだすことは困難なのだ。聖者やヨーギたちは計り知れない努力と犠牲によって多くの奇跡的な力を習得し、人びとを助け、信仰心を起こさせるといった善行を施すことができる。それでも、それらが彼らを完全にすることはない。それは実在への道ではなく、単に偽物に豊かさを与えただけなのだ。すべての努力はより多くの努力へと導く。何であれ構築されたものは維持されなければならない。何であれ得たものは、衰退や喪失から保護されなければならない。何であれ失われるものは自己のものではないのだ。そしてあなた自身のものでないなら、いったいあなたにとって何の役に立つというのだろう? 私の世界では、何も強要されることはない。すべてはひとりでに起こるのだ。すべての存在は時間と空間のなかにあり、限定され一時的なものだ。私は「何が存在するか」や「誰が存在するか」には関心がない。私の立場はその彼方に在る。私はその両方であり、そのどちらでもないところに在るのだ。
多くの努力と苦行を終えてその野心を満たし、より高次の体験と行為を確保した人たちは、たいていの場合、彼らの地位を鋭敏に意識している。彼らは人びとを最低の未達成者から最高の達成者までに分類し、階級のなかに類別してしまう。私にとっては皆が同等だ。現れや表現のなかの違いはそこにあっても、それは問題ではないのだ。金の装飾品の形が金そのものに影響を与えないように、人の本質も影響を受けることはない。この同等の感覚が欠乏しているならば、それはつまり、実在には触れられていなかったということだ。
単なる知識では充分ではない。知る者が知られなければならないのだ。学者やヨーギは多くのことを知っているかもしれない。だが自己が知られていないとき、単なる知識が何になるというのか? それは間違いなく誤用されてしまうだろう。知る者の知識なしには平和はありえないのだ。


質問者 人はどのようにして、知る人を知るのでしょうか?


マハラジ 私自身の体験から知っていることだけをあなたに話そう。私がグルに出会ったとき、彼は私に言ったのだ。「あなたはあなたが自分自身だと見なしているものではない。あなたが何であるのかを見いだしなさい。『私は在る』という感覚を見守り、あなたの真我を見いだしなさい」と。私は彼に服従した。なぜなら彼を信頼したからだ。私は彼が言ったとおりにし、許すかぎりの時間を、沈黙のなかで自分自身を見つめることに費やした。そして、何という変化をもたらしたことか! それもこんなに早く! 三年という短い時間で、私は真我を実現したのだ。私がグルに会ったすぐ後、彼は死んでしまった。だが、それは何の違いももたらさなかった。私は彼が私に言ったことを、たゆまず覚えつづけていたのだ。その成果は、私とともにここにある。


質問者 それは何なのですか?


マハラジ 私は真の私自身を知っているのだ。私は身体でもマインドでもなく、知的能力でもない。私はそれらすべてを超えているのだ。


質問者 あなたはただの無なのでしょうか?


マハラジ ばかなことを言ってはいけない。もちろん、もっとも実質的に、私は存在している。ただ、私はあなたが考えているような私ではないのだ。これがあなたにすべてを伝えるだろう。


質問者 それは私に何も伝えていません。


マハラジ なぜなら、それは語ることのできないものだからだ。自分自身の体験をもたなければならないのだ。あなたは物質的、精神的なものを扱うことには慣れている。私はものではなく、あなたもまたものではない。私たちは物質でもなくエネルギーでもない。身体でもなくマインドでもない。ひとたびあなたが自己の存在の一瞥を得るなら、私を理解するのは難しくないと知るだろう。
私たちは聞き伝えでたくさんのことを信じてしまう。遠くの土地や人びとのこと、神や女神のことなどを、ただそう聞いたというだけで信じてしまうのだ。同じように、私たちは自分自身について、両親や名前、地位や義務などについて話を聞いてきた。一度もその真偽を確かめることなしに。真実への道は虚偽の破壊を通っていくものだ。偽りを破壊するために、あなたはあなたのもっとも根深い確信を疑わなければならない。そのなかで、あなたが身体であるという確信が最悪のものなのだ。身体とともに世界が現れ、世界とともに、世界を創造したと考えられている神が現れる。このようにして、恐れ、宗教、礼拝、捧げ物、あらゆる類の体系がはじまるのだ。すべては自らがつくり出した怪物に正気を失うほどおびえた幼稚な人間を保護し、支持するためのものだ。あなたは生まれることも、死ぬこともできないものだということを悟りなさい。そうすれば恐れは去る。すべての苦しみは終わるのだ。
マインドが発明したものは、マインドが破壊する。だが、実在は発明されたものではなく、破壊することもできない。マインドの力が及ばないそれをつかまえなさい。私があなたに話していることは、過去のなかにも、未来のなかにもない。また、今起こっているような日々の生活のなかにもないのだ。それは永遠であり、その永遠性の全体はマインドを超えている。私のグルと、そして彼の言葉、「あなたは私自身だ」は、永遠に私とともにある。はじめのうちはそれらにマインドを固定させなければならなかったが、今ではそれも自然なものとなった。グルの言葉を真実として受け入れ、日々の生活の細部にわたって自発的にそれによって生きるようになったそのときが、真我の実現の戸口に立ったときなのだ。ある意味では、それは信頼による開放だ。だが、その信頼は強烈で、持続しなければならない。
しかしながら、信頼そのものだけで充分だと考えてはならない。信頼が行為のなかで表現されることが実現への手段なのだ。それはあらゆる手段のなかで、もっとも効果のあるものだ。信頼を否定し、論証のみを信じる教師もいる。実際には、彼らが否定するのは信頼ではなく、盲信なのだ。信頼は盲目的なものではない。それは試みようとする意志なのだ。


質問者 すべての霊的修練のなかでもっとも効果的なのは、単なる観照の態度だと聞きました。それは信頼とどのように比較されるのでしょうか?


マハラジ 観照の態度もまた信頼なのだ。それは自分自身への信頼だ。あなたとはあなたが体験するものではないと信じ、すべてに距離をおいて見ることだ。観照に努力はいらない。あなたはあなたがただの観照者なのだと理解し、その理解が働いていく。それ以上何も必要ないのだ。ただ、あなたが観照者だということを覚えていなさい。もし観照の状態のなかで「私は誰か?」と自分自身に尋ねれば、その答えは直ちにやってくる。ただ、それは言葉ではなく、沈黙のものだ。
起こっているすべてのことの主体となり、客体であることをやめなさい。ひとたび内側に向きを変えたなら、あなたは主体を超えたあなた自身を見いだすだろう。あなた自身を見いだしたとき、あなたは客体をも超えていることを見いだす。主体と客体はともにあなたの中に存在するが、あなたはそのどちらでもないのだ。


質問者 あなたはマインド、マインドを超えた観照意識、そして気づきを超えた至高なるものについて語ります。それはつまり気づきさえも実在ではないという意味なのでしょうか?


マハラジ あなたが実在─非実在という言葉で論じるかぎりは、唯一実在でありうるのは気づきだけだ。だが、至高なるものはすべての区別を超えているため、それに「実在」という言葉は適用しない。なぜなら、そのなかではすべてが実在だからだ。それゆえ、そのように名づけられる必要もない。それは実在の源そのものだ。それは、何であれそれが触れたものに実在性を分け与えるのだ。


質問者 しかし、誰が世界を創造したのでしょうか?


マハラジ 宇宙のマインド(チダーカーシュ)がすべてを創造し、破壊する。至高なるもの(パラマーカーシュ)が、何であれ存在のなかに現れたものに実体を与えるのだ。それを宇宙的な愛と呼ぶことが、言葉によってはもっとも近いものと言えるだろう。それは愛のように、すべてを真実に、美しく、望むべきものにするのだ。


質問者 なぜ、望むべきものなのでしょうか?


マハラジ いけないかね? 創造されたすべてを互いに反応し合うようにさせ、人びとを結びつける強引に引きあう力は、もし至高なるものからでなければ、どこからやってくるというのだろうか? 欲望を避けてはならない。ただそれが正しい経路を流れていることを見なさい。欲望なしには、あなたは死んだも同然だ。だが、低次の欲望とともにあるなら、あなたは亡霊と同じなのだ。


質問者 至高なるものにもっとも近い体験とはどのようなものでしょうか?


マハラジ 計り知れない平和とかぎりない愛だ。何であれ、宇宙のなかに真実で、高尚な、美しいものがあれば、それはすべてあなたから現れたのだと自覚しなさい。あなた自身がその源なのだ。世界を指揮する神や女神は、もっとも素晴らしい荘厳な存在かもしれない。それでも彼らは、彼らの主人の富と力を宣伝する、豪華に着飾った召使いのようなものなのだ。


質問者 どのようにして人は至高なるものに到達するのでしょうか?


マハラジ すべてのより低い欲望を放棄することによってだ。より低い欲望に満足するかぎり、最高のものを手にすることはできない。何であれ満足させるものが、あなたを引き止めるのだ。すべてのものの不満足さ、はかなさ、限界を悟らないかぎり、そしてすべてのエネルギーを多大なる熱望に集めないかぎり、最初の一歩さえも踏めない。その反対に、至高なるものへの誠実な欲望は、それ自体至高なるものからの招きなのだ。身体的、精神的な何もあなたに自由を与えてはくれない。ひとたび束縛はあなたが創りだしているということを理解し、あなたを拘束する鎖を鋳造することを止めれば、あなたは自由なのだ。


質問者 どのようにして、グルへの信頼を見いだせばいいのでしょうか?


マハラジ グルを見いだし、また彼を信頼することはまれな幸運だ。それはそうそう起こることではない。


質問者 それは運命に定められているのでしょうか?


マハラジ それを運命と呼ぶことでは何も説明されない。それが起こったとき、あなたにはどうしてそれが起こったのかを言うことはできない。そして、それをカルマや恩寵、また神の意志と呼ぶことは、単にあなたの無知を覆い隠すだけだ。


質問者 クリシュナムルティは、グルは必要ないと言っています。


マハラジ 誰かが至高の実在と、それへの道について語らなければならないのだ。クリシュナムルティがしていることは、ほかの何ものでもない。ある意味では、彼は正しい。ほとんどのいわゆる弟子たちは、彼らのグルを信頼していないのだ。彼らはグルにそむき、グルを放棄してしまう。そのような弟子たちにとっては、グルを持たない方が、そして導きを得るために、ただ内面を見ることのほうがどれだけ良かったか知れないのだ。生きたグルを見いだすことは稀少な機会であり、大いなる責任でもある。これらのことを軽く扱ってはならないのだ。あなたたちは天国を買おうとやっきになって、値段の額を支払えばグルがそれを与えてくれると想像している。わずかばかりを捧げて、多くを要求する売買契約を求めているのだ。あなたが騙しているのは、ほかでもないあなた自身なのだ。


質問者 あなたはグルから、「あなたは至高なるものだ」と言われました。そして彼を信頼し、その通りに行動したのです。何があなたにこの信頼を与えたのでしょうか?


マハラジ 私はただ、道理を聞き分けただけだ。彼を疑うとしたら、愚かなことだっただろう。私を惑わせることで、いったい彼がどんな利益を得るというのだろうか?


質問者 あなたはある質問者に、私たちは同じであり、同等だと言われました。私にはそれが信じられません。私に信じられないのなら、あなたの表明が私にとって何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ あなたの不信は問題ではないのだ。私の言葉は真実であり、それはその仕事をする。これがサットサン、聖者との交わりの美しさなのだ。


質問者 ただあなたの近くに座っているだけで、それを霊的な修練だと考えることができるのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。生命の川は流れている。その水のいくらかはここにある。だが、大変な量の水がすでに目的地に到達しているのだ。あなたは現在しか見ていない。私は遥か彼方の過去と未来を、あなたが何であるか、そしてあなたが何になることができるのかを見ているのだ。私には、あなたを私自身としてしか見ることができない。違いを見ないこと、それが愛の本質なのだ。


質問者 どうすれば、あなたが私を見るように、私自身を見ることができるようになるのでしょう?


マハラジ もしあなた自身を身体だと想像しなければ、それで充分だ。災いをもたらすのは「私は身体だ」という想念なのだ。それはあなたを真実の本性に対して、完全に盲目にしてしまう。ほんの一瞬でさえ、自分が身体だと考えてはならない。あなた自身にいかなる名前も形も与えてはならない。実在は闇と沈黙の中で見いだされるのだ。


質問者 私が身体ではないという確信を持って考えなくてはならないのでしょうか? どこにそのような確信を見つけることができるのでしょうか?


マハラジ あたかも完全に得心したかのようにふるまいなさい。そうすれば、確信はやってくるだろう。単なる言葉が何の役に立つというのだろう? マントラや精神的パターンは助けにならないだろう。しかし非利己的な行為、身体の関心事とその利益のすべてから自由になった行為が、あなたを実在の確信そのものに連れていくだろう。


質問者 確信なしに行為する勇気を、私はどこから得るというのでしょうか?


マハラジ 愛があなたに勇気を与えるだろう。あなたが誰か本当に賞賛すべき、愛するに足る崇高な人に出会ったなら、あなたの愛と敬慕が、あなたに高尚にふるまおうという衝動を与えてくれるだろう。


質問者 賞賛すべき人を賞賛するということを、誰もが知っているわけではありません。ほとんどの人々はまったく感受性に欠けているのです。


マハラジ 生命が彼らに進化を認めさせるようにするだろう。積まれてきた体験の重みが、彼らに見る目を与えるだろう。賞賛に値する人に出会ったなら、あなたは彼を愛し、信頼し、彼の助言にしたがうことだろう。他の者たちが賞賛し、愛するに足る完全な模範を示すこと、これが自己実現した人の役目だ。その人の人生と人格の美しさは、公益のための途方もない貢献なのだ。


質問者 私たちは成長のために苦しむべきではないでしょうか?


マハラジ そこに苦しみがあり、世界は苦しんでいるということを知るだけで充分だ。快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。ただ理解だけがそれをもたらすのだ。ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、それを超えていこうとする衝動とエネルギーを見いだすだろう。快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。至福を通してだけではあなた自身を知ることはできない。あなたの本性そのものが至福だからだ。悟りを得るためには、あなたではないもの、対極と向き合わなければならないのだ。


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