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嫌悪感について


あなたの人生に起こることのすべては、たとえそれがどんなにひどいことで、破局やみじめさをもたらすものに見えても、そうなるように導かれてきたのです。あなたが自分の内部に向かい、自分の本質を示してくれる静寂の次元に深く沈潜することを選ぶようになるにはどうすればよいか、それをよく知っているあなたのなかの”大いなる完全性”が、そうし向けたのです。


もっとも深い意味では、意識のもつ潜在的創造性がグリッドを決めます。または、別の言い方をすると、すべて神から生まれます。けれどもこの創造力の中にはあなた自身の<個人的な>グリッドも含まれています。あなたのグリッドはあなた自身の可能性や必要性にしたがって創られ、非個人的な神の性質と個人的なあなたの過去やカルマや欲望の両方をあわせもっています。あなたは、いま自分だと思っている人間として姿を現している目覚めた意識です。<あなた>は、完全に目覚めた人間とはどういうものかという可能性のすべてを体験するために肉体をまといます。そこで、まだ体験していないことで体験する必要のあることをグリッドに設定します。自分がすでに体験して理解したことはグリッドに入れません。
たとえば過去生で僧侶だった人がいて、僧侶としての人生が不完全だったとします。僧侶であることを完全に理解する必要があるので、この理解されていない部分が別の人生に戻ってくるわけです。


自分が嫌っている相手や感情を本当に知ると、嫌悪感はなくなります。自分を怖がらせるものや自分にはとても対処できないと思う状況に人は嫌悪感を抱くのです。恐怖を感じる状況をみずから体験しないですむためには、その状況にまつわる心理を感じ取り、理解しようとする意志をもてばいいのです。また、自分とその状況とは何の関係もないのだ、そうした嫌悪したくなる状況を現在演じている人間と自分とのあいだにははっきりとした区別があるのだ、という非現実的な思いこみをなくせばいいのです。その人たちが演じてくれていることに感謝しましょう。おかげで、あなたは彼らという鏡の中に自分自身を見る機会をあたえられ、みずからそれを直接体験せずにすんでいるわけです。
どういう形であれ、あなたがほかの人に同情したり、共感したりするとき、あなたはもはやその相手から分離されてはいません。


前にも言いましたが、自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。


神とは単なる概念ではありません。それは圧倒的にすばらしい意識の感覚なのです。それは、「すべてよし。いままでもつねに完璧であったし、これからも完璧でしかない」ということを、思考を超えた次元で知り、その境地に安心して完全に憩うということです。あなたのなかには、完全に心安らかでいのちにあふれ、目覚めている部分があります。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに自由が存在します。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに完全なる心の平安と絶対的安全が存在します。それを求めてください。そうすれば見つかります。何度も何度も探してください。あなたがこの世に来たのはそのためです。それが人生の旅の目的なのです。


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自分の望みを物質世界で実現することがじょうずな人は、現実的な目標をたて、状況に応じて柔軟に対応していくことを学んでいます。


柔軟性ということの意味を知りたいなら、風のなかの若木をごらんなさい。幹は細くもろくても、すばらしい強靭さと耐久性をもっています。それは木が風にさからうのではなく、それに合わせて動くからです。


あることの起きる条件が整っていれば、たいした努力なしに実現します。条件が整っていなければ、たいへんな努力をしても実りません。風とともに動くには、現在の条件に対する敏感さがいります。休んで英気をたくわえるときがあり、エネルギッシュに前進するときがあっていいのです。


いつ動き、いつ動くべきでないかは、常識と直感の問題です。抽象的な思考だけでは、ほんとうにものごとを感じとることはできません。抽象思考は、感情の敏感さと結びつくべきです。


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


内的現実が外的現実のそれを決定するのだ、という人がいます。逆だという人もいます。どちらも真実です。ニワトリは、卵がなければ存在しないし、逆もまた真です。原因と結果は直線的に結ばれるものでもないし、こうなればこうなる、と次々ドミノ倒しのようにつながっていくものでもありません。それは同時にあらわれます。本質は円環的なのです。原因が結果を決めるだけでなく、結果も原因を決めます。


「ニワトリか卵か、どちらが先か」という問いに対する答えは、どちらでもあるし、どちらでもない、ということです。ニワトリと卵は同時存在です。「Aか、さもなければAでないか」という問いはすべて同じように答えられます。そうでなければ、その答えはまちがっています。


”至高のリアリティ”とは、AでなければBであるというような二極性の枠ではとらえられません。それは内なる主観的現実と、外なる客観的現実の両方を含み、また両者の自発的な相互作用を含んでいます。


”至高のリアリティ”は、全的な受容、全的な降伏、全的なすべてを受けいれる愛の産物です。そこにふくまれないものはありません。


木が根こそぎひきぬかれ、川に流されたとしても、そこに悲劇はありません。木と川のあいだには、なんの差異もないからです。


”至高のリアリティ”の流れと対照的に、世の中には”抵抗”というものがあり、これがさまざまの条件づけを生みだします。弁別、比較、評価判断が起き、自然の流れが妨げられます。


”至高のリアリティ”の本質は「イエス」と言うことです。それにはもともと陶酔と熱狂がそなわっています。それは、あらゆるものごとを吸収同化します。それは目に見えるようになった幸福です。すべての人、すべてのものを、自分自身とみなすからです。


”抵抗”はつねに「ノー」と言います。それは本来、葛藤や努力をともなっています。あらゆるものに反対しますので、不幸の具現化ともいえます。抵抗がないとき不幸はありません。不幸はつねに、なんらかの条件に対して抵抗します。不幸は、これは良いという解釈、あるいは悪いという解釈の上に立っています。不幸の根とは、執着、こだわりです。


さて、わたしはあらゆる執着を捨てなさいと言っているわけではありません。友よ、それは現実的に達成できるゴールとはいえないでしょう。ただ、自分の執着、ものごとの感じかた、良い悪いという解釈方法に気づきはじめてください。あなたが自分の幸福をいかに条件つきのものにしているかに、気づいてほしいと求めているのです。


無条件というものを理解したければ、風に身をゆする木を見なさい。あれ以上の比喩はありません。木は深く根をはり、がっしりと枝をひろげています。足もとは確固とし、上のほうは柔軟です。それは力強さと、ゆだね、あけわたすことのシンボルです。


柔軟性を人生のあらゆる状況において発揮することによって、あなたもまた同じような力強さを発達させることができます。背筋をのばして立ち、この瞬間に根ざしていてください。自分の欲しているものを知り、しかし、それらをむりやりに求めるのではなく、人生の流れがおのずとそれをかなえてくれることを知りなさい。あなたの欲しいものを、ある方法で手に入れるということに執着してはなりません。それは、不必要な抵抗をもたらします。


風とともに動くのです。人生はダンスです。動きであり、持続です。


あなたの選択は簡潔です。ダンスできるか、できないか。
ダンスをしないことに決めても、ダンスフロアから追い出されるわけではありません。ダンスはあなたのまわりで、くりひろげられ続けています。ダンスは続き、あなたもその一部です。


あらゆる条件は、無条件という状態に対して開かれています。ただ自分をオープンにして、この瞬間の中にいれば、神の腕の中に抱きとめられるでしょう。しかし一瞬でも抵抗すれば、自分で作り出した不必要なもつれに絡まってしまいます。


人間は条件つきの現実(リアリティ)から自由になることはできません。なぜなら、条件つきの現実は、人間の意識が創造したものだからです。自分の創造物から逃げようとするのをやめてください。ただ受けいれるのです。木が風を受けいれるように。あなたの聖性は、完全に人間らしくあること、
自分や他人の欠乏や欲求を完全に受けいれる態勢になることのなかにあります。
深いあわれみの気持ちは、自分を感情的体験から切り離してしまうのでなく、完全にその体験に参加することによってのみ持つことができます。


「ここは苦しみの場所だ、あるいは喜びの場所だ」とは言わないでください。あなたの体験を、実際とはべつのものに仕立てあげないでください。解釈から遠ざかりなさい。解釈は、人生のどちらかいっぽうの極をだけ受けいれるよう、うながすのです。


この世界でのわたしの経験も、あなたがたと同じでした。わたしはあなたがたと同じように、人生のダンスの中へ入ってゆき、理解と受容のなかで成長し、条件づけられた愛から、条件なき愛の経験へと移行してゆきました。愛する兄弟姉妹よ、あなたがたが感じたり経験したりしたもので、わたしが味わわなかったものはありません。わたしはあらゆる欲望と恐怖心を知っています。それらすべてを通りぬけたからです。


わたしもあなたと同じ程度のダンサーです。わたしはそこに参加し学びたいと、喜びいさんで願っただけです。わたしがあなたがたに求めるものも、それだけです。喜びいさんでおこなってください。参加してください。触れ、触れられてください。そのためにこそ、あなたがたはここにいます。


ハートは開くとき、愛に満たされています。奇蹟は、開いているハートに、そしてコントロールしたい、知りたいという欲求をあけわたした心(マインド)に、自然にやってきます。


神の一部であるあなたに、神が供給をさしひかえることはありえません。あなたを分離した別存在として見ることはありません。親が子どもを見るように、ゆるぎない愛と関心をもってあなたを見守ります。


たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。覚えておきなさい、友よ。たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。
「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」


もし答えが「イエス」なら、あなたはハートに”聖なる存在”のぬくもりを感じます。答えが「ノー」なら、あなたの意識がその”聖なる存在”のことを思い出させ、あなたをそちらへつれてゆきます。


いま現在の瞬間に対してオープンになれると、心と経験の中にある”聖なる存在”に気づく回数も多くなります。この拡大した意識の内部で、あなたという個人の目的も明らかになり、自分と他人にとって最善のことをするにはどうすればよいか、その道も見えてくるでしょう。


ある環境が、あなたの目の前にあらわれてきます。見かけは混乱したものかもしれませんが、あなたはもう、判断をくだすことはありません。あなた自身にも他人にも、もはや不備な点は見いだせません。いまここにある状況に全面的に身をあけわたすようになり、ベストをつくし、自己放棄の力強さのなかにゆったり安らぎます。あなたは結果をますます神の手にゆだねるようになり、贈り物はつねに受けとるにふさわしいものだということがわかります。あなたの贈り物は、つねに十分なものです。


そのときあなたは、わたしのまことの姿を見るでしょう。わたしはそれを確信し、大きな喜びをもって、その瞬間を待ちのぞみます。それは真理の瞬間だからです。それは分離の終わりです。それはあらゆる苦しみの終わりです。


(”至高のリアリティ”の本質は「イエス」
=全的な受容、全的な降伏、すべてを受けいれ、そこにふくまれないものはありません)


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質問者 私はスウェーデンで生まれました。現在はメキシコとアメリカでヨーガを教えています。


マハラジ どこで学んだのかね?


質問者 アメリカに住むインドの聖者(スワミ)からです。


マハラジ それはあなたに何を与えたのだろうか?


質問者 健康と生活の糧です。


マハラジ それはいいことだ。それがあなたの求めるすべてだろうか?


質問者 私が求めているのはマインドの平和です。キリストの名のもとに、いわゆるキリスト教徒がしてきた残酷なことのすべてに嫌気がさしてしまったのです。ある期間、私は宗教なしで過ごしました。それからヨーガに魅せられたのです。


マハラジ あなたが得たものは何だろうか?


質問者 ヨーガの哲学を学んだことが助けになりました。


マハラジ どのような形でそれがあなたを助けたのかね? 何をもってあなたは助けられたと結論を出すのだろうか?


質問者 健康はその明白なしるしです。


マハラジ 健康であることは、疑いなく喜ばしいことだ。その喜びはあなたがヨーガから求めたすべてだろうか?


質問者 健康による喜びはハタ・ヨーガからの報酬です。しかし、概してヨーガはそれ以上をもたらします。


マハラジ ヨーガということで、あなたは何を意味しているのだろう?


質問者 進化、輪廻、カルマ等々、といったインドの教えの全体です。


マハラジ よろしい。あなたは求めていたすべての知識を得た。だが、それによってどのような恩恵を得たのだろう?


質問者 それは私にマインドの平和をくれました。


マハラジ そうだろうか? あなたのマインドは平和だろうか? あなたの探求は終わったのかね?


質問者 いいえ、まだです。


マハラジ そのとおりだ。それに終わりは来ないだろう。なぜなら、マインドの平和というものは存在しないからだ。マインドとは不安、落ち着きのなさそのものなのだ。ヨーガとはマインドの属性ではなく、マインドの状態でもない。


質問者 ある程度の平和はヨーガから引き出せたと思います。


マハラジ 綿密に調べてみなさい。そうすればマインドは騒然としていることがわかるだろう。それはときおり空白状態になるかもしれないが、それもひとときのことで、またいつもの落ち着きのなさに戻る。静かにさせられたマインドというのは平和なマインドではないのだ。あなたはマインドをなだめたいと言うが、マインドをなだめたいその人自身は平和なのだろうか?


質問者 いいえ。私は平和ではありません。私はヨーガの助けを借りているのです。


マハラジ あなたはそこに矛盾を見ないだろうか? もう何年もの間、あなたはマインドの平和を探してきた。それなのにあなたは見つけられなかった。本質的に落ち着きのないものを、平和にさせることはできないからだ。


質問者 ある程度の改善はあります。


マハラジ あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。あなたの言う平和はただの不安の不在だ。それに本当の価値はない。真の平安は乱されることのないものだ。けっして揺らぐことのないマインドの平安が私にはある、とあなたに言えるだろうか?


質問者 私は努力しています。


マハラジ 努力もまた不安の一形態だ。


質問者 では何が残されているのでしょうか?


マハラジ 自己を安心させる必要はない。自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさだ。心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。実在にははじまりはない。ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。


質問者 では、何ができるというのでしょうか?


マハラジ ヨーガを通してあなたは知識と体験を蓄積してきた。それは否定できないことだ。だが、それらすべてがあなたにとって何だというのだろう? ヨーガとは統合、結合を意味する。あなたは何を再統合し、再結合したのだろうか?


質問者 わたしは人格を真我に再結合しようと試みているのです。


マハラジ 人格(ヴィヤクティ)は想像の産物にすぎない。自己(ヴィヤクタ)はこの想像の犠牲となっている。あなたではないものを、あなた自身と見なすことが束縛するのだ。個人はそれ自体で独自に存在できない。個人というものが在ると信じ、個人としての存在を意識しているのは自己なのだ。すべての原因なき原因である非顕現(アヴィヤクタ)は、自己(ヴィヤクタ)の彼方に在る。個人を真我と再結合するということさえ正しいとは言えない。なぜなら、個人というものは存在しないからだ。ただ精神的画像が偽りの実在を与えただけだ。何も分割されたものはなく、統合すべきものもない。


質問者 ヨーガは真我の探求とその発見を助けます。


マハラジ あなたが失ったものは見つけることができる。だが、失わなかったものを見つけることはできないのだ。


質問者 何も失っていないのならば、私は悟っていたでしょう。しかし、私は悟ってはいません。私の探求そのものが、何かを失ったことの証拠ではないでしょうか?


マハラジ それはあなたが失ったと信じていることを意味するだけだ。だが、信じているのは誰だろうか? そして何を失ったと信じるのだろう? 誰かあなたのような人を失ったと言えるのだろうか? あなたの探している自己とはいったい何だろうか? 何をあなたは見いだすと期待しているのだろう?


質問者 真の自己知識です。


マハラジ 真の自己知識は知識などではない。それは探求によって、あらゆるところを探すことによって見つけられるような何かではない。それは時間や空間のなかに見いだすものでもない。知識とは記憶にすぎない。思考のパターン、ひとつの精神的習慣にすぎない。これらすべては喜びと苦痛によって動機づけられている。あなたが知識を追求するのは喜びと苦痛によって駆りたてられているからだ。自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。あなたはあなた自身なのだ。そしてそれには何の理由も必要ない。


質問者 ヨーガを通して私は平和を見いだすでしょう。


マハラジ 平和があなたを離れて存在するだろうか? あなたは自分自身の体験から話しているのか、それともただ本からだろうか? あなたの本による知識は、初歩の段階では有用だ。だが、じきに直接体験のために捨て去らなければならなくなる。その体験はその本性からして表現不可能なものなのだ。言葉は破壊のためにも用いられる。言葉のイメージが構築され、言葉によってそれは破壊される。あなたは言語的思考によって現在の状態に陥った。あなたは同じ道を通って脱出しなければならないのだ。


質問者 ある程度の内的平和に私は到達したのです。それを破壊するのですか?


マハラジ 到達されたものはふたたび失われるかもしれない。ただ、あなたがけっして失うことのなかった真の平和を実現したときだけ、その平和はあなたとともに残るだろう。それは一度も去ったことはなかったのだ。あなたのもっていないものを探すよりも、あなたがけっして失わなかったものとは何かを見つけなさい。すべてのはじまる以前、すべての終わった後に存在するもの、不死、不生のものだ。身体やマインドの生死に影響されない、不動なる状態、あなたはそれを知覚しなければならない。


質問者 そのような知覚を得る方法は、何でしょうか?


マハラジ 生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。快楽、苦痛という動機が道を阻んでいる。すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ。


質問者 そのような欲望をあきらめるには、時間が必要ではありませんか?


マハラジ もしあなたが時間にまかせるならば、何百万年もが必要になろう。欲望をひとつひとつあきらめていくことは、果てしない過程となる。欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。


質問者 欲望と恐れの根は同じ、幸福への切望です。


マハラジ あなたが望む幸福はただの身体的、あるいは精神的満足にすぎない。そのような感覚的、あるいは精神的快楽は真の、絶対の幸福ではない。


質問者 たとえ身体的、精神的健康とともに現れる感覚的、精神的快楽であっても、それらはその根を実在のなかにもっているはずです。


マハラジ それらはその根を想像のなかにもっているのだ。石をもらい、それが非常に貴重なダイヤモンドだと確信させられた人は、それが間違いだったと悟るまではひどく喜ぶことだろう。同様に、真我が知られたとき、快楽はその味を失い、苦痛はその刺を失う。どちらもあるがままに、条件づけの感応、ただの反応、好感と反感、記憶と先入観に基づいたものとして見られるのだ。普通、快楽と苦痛は期待されたとき体験するものだ。それはすべて習得された習慣と確信の問題だ。


質問者 なるほど、快楽は想像上のものかもしれません。しかし苦痛は現実です。


マハラジ 苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。一方からの自由はその両方からの自由を意味する。もし快楽を気にかけなければ、苦痛を恐れることはないだろう。だが、そのどちらでもなく、両方を完全に超えている幸福がある。あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的なものだ。しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でもないということだ。それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実在についての無知からやってくるのだ。


質問者 たくさんの師にしたがい、多くの教義を学びましたが、何ひとつ私の望んだものを与えてくれたものはありませんでした。


マハラジ もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望はかならず満たされるだろう。しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めてはならないのだ。もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたなら、あなたがより賢明になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるまで、本来の目的は先延ばしにされるだろう。内側に入っていきなさい。けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。


質問者 しかし、それでも私の欲望と恐れは依然そこにあるのです。


マハラジ それらはあなたの記憶以外のどこにあろう? それらの根は記憶から生じた期待のなかにあるのだと悟りなさい。そうすれば、それらがあなたにつきまとうことはないだろう。


質問者 社会奉仕はきりのない仕事なのだと、よくよく理解しました。なぜなら改善と堕落、進展と退行が肩を並べていくからです。私たちにはそれがあらゆる段階のすべての面にあることがわかります。だとすれば、最後に残るのは何なのでしょうか?


マハラジ 何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求めるかぎりは、新しい仕事に手を着けてはならない。まずあなた自身を見いだしなさい。そうすれば、かぎりない祝福が続くだろう。利益を放棄することほど世界に利益をもたらすことはない。もはや損得でものごとを考えない人は、真に非暴力的な人だ。なぜなら、彼はすべての葛藤を超えているからだ。


質問者 そうです。私はつねにアヒンサー(非暴力)の考えに魅了されてきました。


マハラジ 本来、アヒンサーは「傷つけてはならない」という意味だ。善を行うことがはじめに来るのではなく、傷つけるのをやめ、苦しみを加えないということなのだ。他者を喜ばせることがアヒンサーなのではない。


質問者 私は喜ばせることを話していたわけではありません。他者を助けることを思っているのです。


マハラジ 与える価値のある唯一の助けとは、さらなる助けの必要性からの自由にある。繰り返される援助は、まったく助けになっていない。他者が援助の必要性を超える地点にあなたが連れていくまでは、他者を助ける話はしない方がいい。


質問者 どのようにして援助の必要性を超えるのでしょうか? そして人は他者がそうするのを助けることができるのでしょうか?


マハラジ すべての存在は分離と限界のなかにあり、苦痛に満ちていると理解したとき、そして、あなたが純粋な存在として、すべての生命と「ひとつであること」のなかに完成されて生きようとする意志をもったとき、あなたはすべての助けの必要性を超えたのだ。あなたは規範と実例によって、とりわけあなたの存在によって、他者を助けることができる。あなたがもっていないものを与えることはできないし、あなたは、あなたでないものはもっていないのだ。あなたであるものしか与えることはできない。そしてそれは、あなたがかぎりなく与えられるものなのだ。


質問者 しかし、すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当でしょうか?


マハラジ この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか? 幸せな人が幸せを探すだろうか? なんと人びとは落ち着かないのだろう! なんとつねに動きまわっているのだろうか! 彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。


質問者 もし私が自分自身と見なしている個人が幸福になれないのなら、どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 現在のあなたとしての在り方をやめるだけだ。私の言うことは何も残酷なことではない。悪夢から人を目覚めさすことは慈悲だ。あなたは苦痛で苦しんでいるために、ここに来たのだ。そして、私が言えることは、「目覚めなさい。あなた自身を知りなさい。あなた自身で在りなさい」ということだけだ。苦痛の終焉は、快楽のなかにはない。あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、超然として屈することなく気づくとき、幸福を追求することはやみ、結果として悲しみも消え去る。なぜなら、苦痛は快楽の後を追い、快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。


質問者 究極の状態では、幸福もありえないのでしょうか?


マハラジ 不幸もまたありえない。ただ自由だけがある。幸福は何かに依存し、やがて消え去る。すべてからの自由は何にも依存せず、失われることはない。不幸からの自由には原因がなく、それゆえ破壊されない。その自由を実現しなさい。


質問者 私は過去の結果として苦しむために生まれたのではないでしょうか? 自由を得ることは本当に可能なのでしょうか? 私は自分の意志で生まれたのでしょうか? 私はただの創造物なのではないでしょうか?


マハラジ 誕生と死は、意識内の一連の出来事のはじまりと終わりにすぎない。分離と限界という観念のために、それらは苦痛となるのだ。苦痛からの一時的な解放を、私たちは快楽と呼ぶ。そして、いわゆる幸福と呼ばれる終わりなき快楽を期待して、私たちは空中に城を築くのだ。それはみな誤解であり、誤用だ。目を覚ましなさい。それらを超えていきなさい。真に生きはじめなさい。


質問者 私の知識はかぎられ、力は取るに足らないのです。


マハラジ 自己は知識と力の両方の源であり、またそれらを超えている。観察可能なものはマインドのなかにある。自己の本性は純粋な気づき、純粋な観照であり、知識の存在や不在に影響されることはない。この身体の誕生と死の外に、あなたの存在を置きなさい。そうすれば、あなたの問題は解決するだろう。それらの問題が存在するのは、あなたは死ぬために生まれてきたと信じているからだ。迷いから覚め、自由になりなさい。あなたは個人ではないのだ。


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