人間は、心の傷に直面することなど、とてもつらくてできないと怖れ、感情を感じることを避けながら一生を終えます。ところが、実際には、あなたはすでに傷を負っているのです。ただ、その傷を超えたところにある、もっと大きな自分の存在を感じていないだけです。それを感じれば、そこにはエネルギーの動きが生じます。ところが、そこにあるのはエネルギーの動きなのだという真理を見ようとせずに、マイナス極への振れを怖れるという幻影に生きる限り、身動きがとれなくなってしまいます。感情は、自分のなかの動いている部分ですから、止まれません。感情は生まれたり、消えたりします。自分と静かに向かいあって、このことを自分で発見する必要があります。


出来事に対する自分なりの解釈やいわゆる<事実>だけを述べ、相手も同じように解釈と事実のみを語った場合、そのふたつが融合することはけっしてありません。なぜなら何が起きたかについてふたりの人間が同意することはあり得ないからです。同じ出来事を別々の観点から見ているので、ふたりの意見が一致することはありません。ですから出来事だけに目を向けないで、出来事の裏にある感情に耳を傾けてください。そこに痛みが存在します。相手の怖れが理解できると、人は自分にも怖れがあることを知っているので、相手に同情できます。誰かとうまくいっていなかったら、その人とふたりだけで静かに話してごらんなさい。問題となっている出来事の事実関係をほじくり返したりしないで、心の底にある自分の気持ちを伝え、相手の反応を待ってみましょう。


人間を”大いなる故郷”に連れ戻すために、神はあらゆることを利用します。神は人間が創ったものはどんなものでも利用しながら、すべては”大いなる一”なのだということを人間が理解して、地球がひとつになる──そのためにどのような愛が必要なのかを示すわけです。それが、この神の実験の目的です。どうやってそこに到達するかは、あなたが選ぶことです。これがいかにすばらしいことであるか、充分に理解してほしいと思います。


別の言葉で言えば、人生がどんなにつらくてひどいみじめなものであっても、これと同じ基本法則があてはまるということです。あなたの心や頭のなかでどんな感情が起こり、どんな争いが起こっていても、あなたの行動がどんなものであっても、内なる神はそれぞれの瞬間を利用することができます。ただ、神にまかせるのだという気持ちを持っていなくてはなりません。そして神にそうするように頼むのです。



マハルシ 「存在」はどの場合においても実在です。万象、多様性、個人は非実在です。それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。絶対なる存在は描写を超えているのです。

(対話112)


体の死は、眠りに入るのに似ている。スピリットが魂を呼びよせると、魂は「シール」、あるいは「チャクラ」と呼ばれている体の中のエネルギー・センターを通りながら上昇していく。魂とは記憶であるが、それは、頭の中心に位置する最後のシールである第七シール、すなわち脳下垂体と呼ばれる部分を通って体の細胞組織から離れていく。魂がここを通過するとき、しばしば風の音を聞きながらトンネルを通過するような感じとして体験される。トンネルの向こうに見える光が、あなたの存在の光、あなたの存在のスピリットである。魂が体を離れると、体はその役目を終え、その存在は自由な「魂としての自分」になる。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みはまったくない。


死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいほど明るくなってくる。なぜなら、この天界から去る瞬間、あなたは物質の濃密さから抜け出し、光の存在に戻るからだ。そこでのあなたは強力なマインドと感情だけの存在で、光の体があなたの体となる。そして、自分の光の体を通して受け容れた思考によって、その電気的な状態が変わるのである。そこからは、あなたは七つの天界のうちのひとつに行くことになる。あなたがどの天界に行くかは、この天界にいたときに感情的に表現されていた態度によって決まるのである。


「気づき」あるいは「意識の理解レベル」にも、七つの段階がある。その七つの理解とは、「生殖と生存」、「恐れと苦痛」、「力」、「感じる愛」、「表現する愛」、「すべての生命の中に見える神」、そして「私は神である」だ。


この天界、この天国は、「見せる天界」と呼ばれている。なぜならここでは、自分の創造的な力、そして感情という形で表現している自分のどんな態度であろうと、それらを物質の中に見ることができるからだ。この天界は、七つの中でただひとつ、暗闇がその上をおおっている天界であり、光の音楽を耳にできないただひとつの天界でもある。ここに生まれてくる存在たちは、偉大なる「知っている状態」から生まれてきながらも、結局は、社会意識のプログラミングを受けて「何も知らない状態」へと追いやられてしまうのだ。それがここで起こることである。そして、この天界で先に進むのがしばしば非常に困難なのも、やはりこのためである。


あなた方のこの時代は終わりを迎えようとしている。それは「肉体の時代」であった。新しい時代はすでに地平線上にその姿を見せつつある。それは「光の時代」、「純粋なスピリットの時代」、「神の時代」と呼ばれるものだ。すべては平等であり、天の王国はつねに自分の中にあったのだということを人間が知っている時代である。「光の時代」は、人間を無限の思考へと、そしてただ在ることの愛と喜びと自由という崇高な王国へと連れ戻してくれるだろう。この新しい王国そのものになる者たちは、人間の中でも将軍や暴君たちではなく、平和の布告者であり、制限というよどみを超えてこのように言う者たちだ。「私は神であり、自分が見るものすべてを愛する。なぜなら、私は自分が見るものすべてであり、私は自分であるものを愛しているからだ」と。この理解に到るそれぞれの者は、自らのたったひとつの光によって、意識全体を上昇させることになる。そして、あなた方は叡智という真珠で豊かに満たされ、ひとりずつ無限の状態へと戻っていくのだ。そしてその叡智によって、あなた方はそれから先の永遠の中で、さらに賢く創造していくことができるのである。


自分は神であるすべてを受け容れるに値するのだと感じられるほど自分自身を愛するとき、そして自分が「父」とひとつであるのを知ることを望むとき、あなたはこのすばらしい花を咲かせ始める。これが、神のマインドの中にあるすべての思考を受け取るために、あなたが自分の脳の力を開く方法なのだ。つまり、知りたいと望むことによって、そしてその「知っている状態」の感情をすべて感じたいと望むことによってである。



質問者 幸運にも、全人生において私は聖者との交わりをもってきました。それは真我の実現のために充分でしょうか?


マハラジ それは、あなたがそれから何をつくり出すかによる。


質問者 サットサン(聖者との交わり)のなかで起こる解放への働きは自動的なものだと聞きました。川が人を入り江まで運ぶように、善き人びとの深遠な沈黙の影響が私を実在へと導くのです。


マハラジ それは川まであなたを連れていくだろう。しかし、川を渡るのはあなた自身なのだ。自由への意志なしには、自由を獲得することも維持することもできない。解放に向かってあなたは努力しなければならない。最小限あなたにできることは、入念に障害の覆いを取り除くだけだ。もしあなたが平和を求めるのなら、努力しなければならない。ただ静かにしているだけでは、平和は得られないだろう。


質問者 子供はただ成長します。彼は成長のための計画を立てません。パターンももってはいませんし、こちらの手、あちらの足というように、部分的に成長するわけでもありません。彼は完全な形で、無意識のうちに成長するのです。


マハラジ なぜなら、彼は想像から自由だからだ。あなたもまたそのように成長することができる。しかし、記憶や期待から生まれた予測や計画に熱中してはならないのだ。未来に関心がないこと、それがジニャーニ(賢者)の独自性のひとつなのだ。あなたの未来への関心は苦痛への恐れと、快楽への欲望によるものだ。ジニャーニにとってはすべてが至福だ。彼は何が来ようとも幸せなのだ。


質問者 ジニャーニでさえ惨めになるような、多くのことがかならずあるはずです。


マハラジ ジニャーニは困難に遭遇するかもしれない。しかし、それが彼を苦しめることはない。子供を誕生から成人まで育て上げることは困難な仕事かもしれない。しかし、母親にとっては苦難の思い出も喜びなのだ。世界には何の間違いもない。誤りはあなたの見方にあるのだ。あなたを惑わせるのは、あなた自身の想像だ。想像なしには世界もない。あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。あなたが知覚している世界は意識でできている。あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。あなたは永遠に続く時間だ。あなたはそれに生命を与える愛なのだ。想像と執着を切り落としなさい。すると、何が残るだろうか?


質問者 世界が残り、私が残ります。


マハラジ そのとおりだ。だが、あなたが欲望と恐れのスクリーンを通して見ず、あるがままに見るとき、何と違うことだろう。


質問者 実在と幻想、智慧と無知、聖人と罪人、これらすべての区別は何のためにあるのでしょうか?誰もが幸福を探し求めています。誰もが必死になって努力をしています。誰もがヨーギであり、彼の人生は智慧の学校なのです。各人が各々の方法で、必要な教訓を学んでいるのです。社会はある者たちを認め、ほかを否認します。どこでも、いつのときにでも適応する法則というものはないのです。


マハラジ 私の世界では、愛が唯一の法則だ。私は愛を求めず、ただ与えるだけだ。それが私の本性なのだ。


質問者 あなたはパターンにしたがって毎日を生きています。朝には瞑想のクラス、講話と討論を定期的にもっています。一日に二度、礼拝(プージャ)があり、夕方には宗教的な献歌(バジャン)があります。あなたは一日の課程を綿密に固守しているようです。


マハラジ 私の見るかぎり、礼拝や献歌に関しては、私が干渉する理由はない。一般的な日課は、私がともに生活するようになった人びとや、話を聞きに来る人たちの要望に応えたものだ。彼らは働いている人たちで、多くの義務があり、時間の調整は彼らの都合に合わせている。いくつかの繰り返し課程は避けられない。動物や植物でさえ、彼らの時間割をもっているのだ。


質問者 そうです。私たちは生命すべてに規則的な順序を見ます。誰がその秩序を維持しているのでしょうか?そこには法をしき、秩序を守らせる内なる支配者がいるのでしょうか?


マハラジ すべてはその本性にしたがって動くのだ。どこに警察の必要があるだろう?あらゆる行動は反応を生み出し、それが行動を中立化させ、バランスを取る。すべては起こる。だが、そこには絶え間ない取り消しがある。そして最後には、あたかも何も起こらなかったかのようになるのだ。


質問者 最終的な調和で私をなだめようとしないでください。勘定は合っても、損失は私のものなのです。


マハラジ 見ていなさい。最後にあなたは支出を正当化するに充分なだけの利益を得るかもしれないのだ。


質問者 私には長い過去があり、しばしばその多くの出来事が偶然起こったのか、それともひとつの計画によるものなのかと不思議に思うのです。私が生まれる以前に、生きるべき人生のパターンが定められているのでしょうか?もしそうならば、誰がその計画をつくり、誰がそれを強制したのでしょうか?そこに逸脱や誤りはありうるのでしょうか?ある人は、運命は変えられないもので、あらゆる瞬間があらかじめ決定されていると言います。ほかの人たちは、純粋な偶然がすべてを決定するのだと言います。


マハラジ あなたの好きなように受け取るがいい。人生のなかにひとつのパターンを判別することはできるだろうし、単なる偶然の連鎖を見ることもできる。説明とはマインドを喜ばすためにあるのだ。それらが真実である必要はない。実在は定義不可能であり、描写不可能なものだ。


質問者 あなたは私の質問を避けています!私はあなたがどう見ているのかが知りたいのです。私たちは、どこを見ても信じがたいほどの知性と美を見いだします。どうして私に宇宙が無形で混沌としていると信じることができるでしょうか?あなたの世界、あなたが住んでいる世界は無形かもしれませんが、混沌としている必要はないはずです。


マハラジ 客観的な世界には構造があり、秩序をもち、美しいものだ。誰もそれを否定できない。だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示しているのだ。私の世界は絶対的に自由だ。そのなかのすべてが自己決定するのだ。それゆえ、私はすべてがひとりでに起こると言いつづけているのだ。私の世界にも秩序がある。しかし、それは外側から押しつけられたものではない。それはその永遠性によって自発的に即座に起こるのだ。完全性は未来にあるのではない。それは今在るのだ。


質問者 あなたの世界は私の世界に影響を与えますか?


マハラジ 今という一点においてだけだ。それは一時的な存在、つかの間の実在の感覚をそれに与えるのだ。完全な気づきのなかでその接点は確立される。それには努力を要しない非自意識の注意力が必要なのだ。


質問者 注意とはマインドの態度なのではありませんか?


マハラジ そうだ。マインドが実在を熱望しているとき、それは注意を与えるのだ。あなたの世界には何の間違いもない。あなた自身がそれから分離していると考えることが無秩序を生みだす。利己主義がすべての悪の源なのだ。


質問者 私の質問に戻ります。私が生まれる前に、内なる自己が人生を詳細にわたって決定するのでしょうか、それとも完全に偶然のものであって、遺伝と環境のなすがままなのでしょうか?


マハラジ 父親と母親を選択し、つぎの生をどのように生きるかを決定したと宣言する者たちが知っているかもしれない。私自身に関して言えば、私はけっして生まれてこなかったのだ。


質問者 あなたが私の前に座って質問に答えているのを私は見ていますよ。


マハラジ あなたの見ているのは身体だけだ。もちろん、それは生まれてきたし、死ぬだろう。


質問者 私に興味があるのはこの「身体─精神」の人生の物語です。それはあなたによって定められたのでしょうか、それとも誰かほかの人によるのでしょうか、あるいはそれは偶然起こったのでしょうか?


マハラジ あなたの質問自体に策略がある。私は身体と宇宙の間に区別をつけはしない。それぞれが互いの原因であり、互いは真実においてひとつなのだ。だが、私はそのすべての外にいる。私はけっして生まれてこなかったと言っているときに、なぜ私がつぎの生のためにどのような準備をしてきたかといった質問をするのだろうか?あなたが想像を展開させることを許した瞬間、それはただちに宇宙を紡ぎだすのだ。それはあなたが想像するようなものではまったくない。そして、私はあなたの想像には拘束されないのだ。


質問者 命ある身体を育て、維持するには、知性とエネルギーが要求されます。それらはどこから来るのでしょうか?


マハラジ そこには想像があるだけだ。知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされてしまった。あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなってしまったのだ。想像が豊かな創造力であることに疑いはない。宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり、実際には存在しないのだ。


質問者 最近私が読んだ記事に、幼年期に残酷に扱われた少女の話があります。彼女はひどく身体を傷つけられ、不具にされ、完全に周囲から疎外されて孤児院で育ってきました。この少女はもの静かで従順ですが、完全に無関心なのです。子供たちの面倒を見ていた尼僧のひとりは、少女は知的障害ではなく、ただ引きこもり、無反応なだけなのだと確信しました。ひとりの精神分析医が治療を頼まれ、一週間に一度面会し、二年間にわたって孤立の壁を打ち破ろうと試みました。彼女は従順で行儀正しいのですが、医師に注意を向けませんでした。彼は彼女におもちゃの家を与えました。移動可能な家具や部屋、父親や母親、そして子供たちの姿の人形を添えて。それが彼女の反応を引き起こし、興味をもたらしました。ある日、古傷が回想され、よみがえり、表層に呼び起こされたのです。次第に彼女は回復し、何度かの手術によって顔と身体は正常な状態に戻りました。そして彼女は有能で、魅力的な若い女性へと成長したのです。それは医師にとって五年以上の歳月を要しました。しかし、仕事は為されたのです。彼は真のグルです!彼は何の条件も押しつけず、用意や適性についても話しませんでした。信頼も希望もなしに、ただ心からの愛をもって何度も何度も試みたのです。


マハラジ そうだ。それがグルの本性なのだ。彼はけっしてあきらめない。しかし、成功するためには、彼はあまり強い抵抗を受けてはならないのだ。疑いや不服従は遅れを余儀なくしてしまう。自信と従順さを与えることで、彼は弟子のなかに革新的な変化をもたらすことができる。グルの深い洞察と弟子の誠実さ、その両方が必要とされるのだ。彼女の状態がどのようなものであろうと、あなたの話のなかの少女は、人びとの誠実さの欠如に苦しんだのだ。もっとも難しいのが知的な人びとだ。彼らは多くを語るばかりで誠実ではないからだ。
あなたが真我の実現と呼ぶものは自然なことだ。あなたの用意が調ったとき、グルは待っている。サーダナ(修練)は努力を要しないものだ。あなたと師の関係性が正しいとき、あなたは成長する。何よりも、彼を信頼することだ。彼があなたを惑わすことはないのだ。


質問者 たとえ、彼が明らかに間違ったことをするように要求したときも信頼すべきでしょうか?


マハラジ そうしなさい。ひとりの隠遁者(サンニャーシン)がグルから結婚をするようにと言われた。彼はそれに従い、苦渋を味わった。しかし、彼の四人の子供たちは皆、マハーラーシュトラ州のもっとも偉大な聖者や賢者となったのだ。何であれあなたのグルから来るものは、喜びとともに受け取りなさい。そうすれば、あなたは努力することなく完成へと成長するだろう。


質問者 師よ、何か欲しいものや望みがありますか?何かあなたのためにできることがあるでしょうか?


マハラジ 私のもっていない何を与えることができるというのだろうか?物質的なものは満足をもたらすために必要だ。だが、私は私自身に満足しているのだ。ほかに何が必要だというのだろう?


質問者 もちろん、空腹のときには食べ物が、病気のときには薬が必要です。


マハラジ 空腹が食べ物を、病気が薬をもたらすのだ。それはすべて自然の仕事だ。


質問者 もしあなたにとって必要だと私が信じるものをもってきたならば、あなたは受け取るでしょうか?


マハラジ あなたに差しださせたその愛が、私をして受け取らせるだろう。


質問者 もし誰かが美しいアーシュラムを建設すると願い出たならどうしますか?


マハラジ 彼にぜひそうさせるがいい。富を使い、何百もの人を雇い、何千人に食事を供させるがいい。


質問者 それは欲望ではないのでしょうか?


マハラジ まったくそうではない。私は彼に適切に、中途半端ではなく、惜しむことなくするように頼むだけだ。私の欲望ではなく、彼が彼自身の欲望を満たしているのだ。彼に成功させ、人や神々のあいだで名を挙げさせるがいい。


質問者 しかし、あなたはそれを望んでいるのでしょうか?


マハラジ 私はそれを望んではいない。


質問者 あなたはそれを受け入れるのでしょうか?


マハラジ 私には必要ないのだ。


質問者 あなたはそのなかに住むでしょうか?


マハラジ もし強要されたならば。


質問者 何があなたを強要するのでしょうか?


マハラジ 光を探し求めている人たちの愛だ。


質問者 ええ。あなたの言われることがわかります。ところで、どうすれば私はサマーディ(三昧状態)に入れるのでしょうか?


マハラジ もしあなたが正しい状態にいれば、何であれ見るものがあなたをサマーディに引き入れるだろう。結局、サマーディは特別な状態ではないのだ。マインドが強烈に興味をもっているとき、それは興味の対象とひとつになる。見る者と見られるものは、見ることのなかでひとつとなり、聞く者と聞かれるものは、聞くことのなかでひとつとなり、愛する者と愛されるものは、愛することのなかでひとつとなる。あらゆる体験がサマーディの根底となるのだ。


質問者 あなたはつねにサマーディに在るのでしょうか?


マハラジ もちろん、そうではない。サマーディは、要するにマインドの状態なのだ。私はすべての体験を超え、サマーディさえも超えている。私は偉大な貪り食う者、破壊者だ。何であれ私が触れるものは虚空(アーカーシュ)のなかへと消え去るのだ。


質問者 私は真我実現のためにサマーディが必要なのです。


マハラジ あなたはあなたに必要な真我実現のすべてを手にしている。だが、それを信頼していないのだ。勇気をもちなさい。あなた自身を信頼しなさい。行き、話し、行為しなさい。それ自体が証明する機会を与えるがいい。ほとんど気がつかないほどの真我の実現が起こるかもしれない。だが、とにかくそれには確信が必要なのだ。変わったにもかかわらず、それに気づかないでいる。そのような劇的ではない場合のほうが、しばしば、もっとも信頼のおけるものなのだ。


質問者 人は自分が真我を実現したと信じたり、誤解したりすることができるのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。「私は真我を実現した」という考えそのものが過ちだ。自然な状態のなかには、「私はこれだ」、「私はあれだ」といった考えはないのだ。
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Fiora & nobody