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共謀罪施行


犯罪の合意を処罰する「共謀罪」の趣旨を含む改正組織犯罪処罰法が十一日午前零時に施行される。日本の刑法は犯罪実行後の処罰を原則としてきた。しかし「共謀罪」法の施行で、二百七十七もの対象犯罪が実行着手前の計画(合意)段階から処罰可能となる。合意の察知にはこれまで以上の監視の拡大が必要で、捜査機関はその根拠を得ることになる。捜査機関の乱用の恐れも指摘される。


今回、新設されたのは「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪の計画」を処罰する罪。処罰の核となるのは犯罪の計画や合意だ。「組織的犯罪集団」の活動として、二人以上で犯罪の実行を計画し、そのうちの一人でも金品の手配などの準備行為をした場合、全員が処罰される。


実際に犯罪を実行していなくても、犯罪の実行に合意したことを処罰するため、捜査では、外部からは分からない心の中で何を考えていたかを調べることになる。計画や合意だけでなく準備行為が行われなければ処罰できないが、準備行為は日常的な行為との区別がつきにくい。


適用対象は「組織的犯罪集団」となっているが、政府は構成員の周辺者が処罰される可能性も認めている。テロとは関係ない環境団体や人権団体でも、捜査機関が「実態を隠しているだけだ」と判断すれば、適用の余地がある。


二百七十七の対象犯罪には、組織的威力業務妨害や組織的強要など、市民団体や労働組合の取り締まりに使われる可能性が排除できない罪が含まれている。実行前に自首すれば、刑が減免される。


自民、公明両党は六月十五日、「共謀罪」法の参院法務委員会での採決を省略した上で、参院本会議での「中間報告」と採決を強行し可決、成立させた。学校法人加計(かけ)学園(岡山市)問題を巡る野党の追及をできるだけ避け、東京都議選への影響を最小限にとどめる狙いだったが、自民は都議選で歴史的大敗を喫した。


◆取材班の目 物言う自由の危機


共謀罪は、犯罪の実行を計画した段階で罪に問うものだ。計画を客観的に立証するには、電話やメール、LINE(ライン)を傍受するなど、日常生活に入り込まなくては立証が難しい構造になっている。捜査側は、共謀罪を通信傍受の対象犯罪にすることや衛星利用測位システム(GPS)捜査の立法化、令状の要らない盗聴(行政傍受)や室内盗聴(会話傍受)といった新たな捜査手法が必要だ、という主張を強めるだろう。


心配なのが捜査機関の成績主義だ。仕組みをつくると結果を出さなければいけなくなる。警察が選挙違反をでっちあげた鹿児島の志布志(しぶし)事件、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件など、予断や偏見、見込みで誤った捜査が行われてきた。共謀罪の立証では、自白や密告が重要な鍵となるため、見込み通りの供述や証言を得ようとする強引な捜査がこれまで以上に行われかねない。


捜査機関が密告に頼ることで、市民による市民監視につながらないか懸念される。こうした捜査や監視が、市民団体や労働組合などに向けられる可能性は否定できない。


沖縄・辺野古の新基地反対運動では、座り込む市民と沖縄県警の間で微妙なバランスが保たれていたが、二〇一五年十一月の警視庁機動隊の派遣後、警察の排除行動が激しくなったという。その後、運動のリーダーが長期勾留された。警察が国策に沿って恣意的に権力を使ったのではないか。共謀罪は、そうした捜査をも早い段階から可能にするもので、市民の萎縮につながる。物言う自由が危機にさらされる。 (西田義洋 / 東京新聞7月10日)


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自分の望みを物質世界で実現することがじょうずな人は、現実的な目標をたて、状況に応じて柔軟に対応していくことを学んでいます。


柔軟性ということの意味を知りたいなら、風のなかの若木をごらんなさい。幹は細くもろくても、すばらしい強靭さと耐久性をもっています。それは木が風にさからうのではなく、それに合わせて動くからです。


あることの起きる条件が整っていれば、たいした努力なしに実現します。条件が整っていなければ、たいへんな努力をしても実りません。風とともに動くには、現在の条件に対する敏感さがいります。休んで英気をたくわえるときがあり、エネルギッシュに前進するときがあっていいのです。


いつ動き、いつ動くべきでないかは、常識と直感の問題です。抽象的な思考だけでは、ほんとうにものごとを感じとることはできません。抽象思考は、感情の敏感さと結びつくべきです。


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


内的現実が外的現実のそれを決定するのだ、という人がいます。逆だという人もいます。どちらも真実です。ニワトリは、卵がなければ存在しないし、逆もまた真です。原因と結果は直線的に結ばれるものでもないし、こうなればこうなる、と次々ドミノ倒しのようにつながっていくものでもありません。それは同時にあらわれます。本質は円環的なのです。原因が結果を決めるだけでなく、結果も原因を決めます。


「ニワトリか卵か、どちらが先か」という問いに対する答えは、どちらでもあるし、どちらでもない、ということです。ニワトリと卵は同時存在です。「Aか、さもなければAでないか」という問いはすべて同じように答えられます。そうでなければ、その答えはまちがっています。


”至高のリアリティ”とは、AでなければBであるというような二極性の枠ではとらえられません。それは内なる主観的現実と、外なる客観的現実の両方を含み、また両者の自発的な相互作用を含んでいます。


”至高のリアリティ”は、全的な受容、全的な降伏、全的なすべてを受けいれる愛の産物です。そこにふくまれないものはありません。


木が根こそぎひきぬかれ、川に流されたとしても、そこに悲劇はありません。木と川のあいだには、なんの差異もないからです。


”至高のリアリティ”の流れと対照的に、世の中には”抵抗”というものがあり、これがさまざまの条件づけを生みだします。弁別、比較、評価判断が起き、自然の流れが妨げられます。


”至高のリアリティ”の本質は「イエス」と言うことです。それにはもともと陶酔と熱狂がそなわっています。それは、あらゆるものごとを吸収同化します。それは目に見えるようになった幸福です。すべての人、すべてのものを、自分自身とみなすからです。


”抵抗”はつねに「ノー」と言います。それは本来、葛藤や努力をともなっています。あらゆるものに反対しますので、不幸の具現化ともいえます。抵抗がないとき不幸はありません。不幸はつねに、なんらかの条件に対して抵抗します。不幸は、これは良いという解釈、あるいは悪いという解釈の上に立っています。不幸の根とは、執着、こだわりです。


さて、わたしはあらゆる執着を捨てなさいと言っているわけではありません。友よ、それは現実的に達成できるゴールとはいえないでしょう。ただ、自分の執着、ものごとの感じかた、良い悪いという解釈方法に気づきはじめてください。あなたが自分の幸福をいかに条件つきのものにしているかに、気づいてほしいと求めているのです。


無条件というものを理解したければ、風に身をゆする木を見なさい。あれ以上の比喩はありません。木は深く根をはり、がっしりと枝をひろげています。足もとは確固とし、上のほうは柔軟です。それは力強さと、ゆだね、あけわたすことのシンボルです。


柔軟性を人生のあらゆる状況において発揮することによって、あなたもまた同じような力強さを発達させることができます。背筋をのばして立ち、この瞬間に根ざしていてください。自分の欲しているものを知り、しかし、それらをむりやりに求めるのではなく、人生の流れがおのずとそれをかなえてくれることを知りなさい。あなたの欲しいものを、ある方法で手に入れるということに執着してはなりません。それは、不必要な抵抗をもたらします。


風とともに動くのです。人生はダンスです。動きであり、持続です。


あなたの選択は簡潔です。ダンスできるか、できないか。
ダンスをしないことに決めても、ダンスフロアから追い出されるわけではありません。ダンスはあなたのまわりで、くりひろげられ続けています。ダンスは続き、あなたもその一部です。


あらゆる条件は、無条件という状態に対して開かれています。ただ自分をオープンにして、この瞬間の中にいれば、神の腕の中に抱きとめられるでしょう。しかし一瞬でも抵抗すれば、自分で作り出した不必要なもつれに絡まってしまいます。


人間は条件つきの現実(リアリティ)から自由になることはできません。なぜなら、条件つきの現実は、人間の意識が創造したものだからです。自分の創造物から逃げようとするのをやめてください。ただ受けいれるのです。木が風を受けいれるように。あなたの聖性は、完全に人間らしくあること、
自分や他人の欠乏や欲求を完全に受けいれる態勢になることのなかにあります。
深いあわれみの気持ちは、自分を感情的体験から切り離してしまうのでなく、完全にその体験に参加することによってのみ持つことができます。


「ここは苦しみの場所だ、あるいは喜びの場所だ」とは言わないでください。あなたの体験を、実際とはべつのものに仕立てあげないでください。解釈から遠ざかりなさい。解釈は、人生のどちらかいっぽうの極をだけ受けいれるよう、うながすのです。


この世界でのわたしの経験も、あなたがたと同じでした。わたしはあなたがたと同じように、人生のダンスの中へ入ってゆき、理解と受容のなかで成長し、条件づけられた愛から、条件なき愛の経験へと移行してゆきました。愛する兄弟姉妹よ、あなたがたが感じたり経験したりしたもので、わたしが味わわなかったものはありません。わたしはあらゆる欲望と恐怖心を知っています。それらすべてを通りぬけたからです。


わたしもあなたと同じ程度のダンサーです。わたしはそこに参加し学びたいと、喜びいさんで願っただけです。わたしがあなたがたに求めるものも、それだけです。喜びいさんでおこなってください。参加してください。触れ、触れられてください。そのためにこそ、あなたがたはここにいます。


ハートは開くとき、愛に満たされています。奇蹟は、開いているハートに、そしてコントロールしたい、知りたいという欲求をあけわたした心(マインド)に、自然にやってきます。


神の一部であるあなたに、神が供給をさしひかえることはありえません。あなたを分離した別存在として見ることはありません。親が子どもを見るように、ゆるぎない愛と関心をもってあなたを見守ります。


たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。覚えておきなさい、友よ。たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。
「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」


もし答えが「イエス」なら、あなたはハートに”聖なる存在”のぬくもりを感じます。答えが「ノー」なら、あなたの意識がその”聖なる存在”のことを思い出させ、あなたをそちらへつれてゆきます。


いま現在の瞬間に対してオープンになれると、心と経験の中にある”聖なる存在”に気づく回数も多くなります。この拡大した意識の内部で、あなたという個人の目的も明らかになり、自分と他人にとって最善のことをするにはどうすればよいか、その道も見えてくるでしょう。


ある環境が、あなたの目の前にあらわれてきます。見かけは混乱したものかもしれませんが、あなたはもう、判断をくだすことはありません。あなた自身にも他人にも、もはや不備な点は見いだせません。いまここにある状況に全面的に身をあけわたすようになり、ベストをつくし、自己放棄の力強さのなかにゆったり安らぎます。あなたは結果をますます神の手にゆだねるようになり、贈り物はつねに受けとるにふさわしいものだということがわかります。あなたの贈り物は、つねに十分なものです。


そのときあなたは、わたしのまことの姿を見るでしょう。わたしはそれを確信し、大きな喜びをもって、その瞬間を待ちのぞみます。それは真理の瞬間だからです。それは分離の終わりです。それはあらゆる苦しみの終わりです。


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質問者 あなたは、私がけっして生まれてこなかったし、死ぬこともないと言いつづけています。もしそうならば、どうして私の目には、世界は誕生し、間違いなく死にゆくものとして映るのでしょうか?


マハラジ そう信じるのは、明らかにあなたが生まれ、そして死んでいく身体だという考えを一度も疑ったことがないからだ。生きている間、身体は注意を引き、完全にあなたを魅了する。それゆえ、自己の真の本性を知覚する人は本当にまれなのだ。それは大海の表面を眺め、その下にある広大さを忘れるようなものだ。世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ。私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。マインドが静かなとき、それは実在を反映する。マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残るのだ。この実在は非常に堅固であり、現実であり、マインドや物質よりも実質的なものだ。それに比べればダイヤモンドさえもバターのように柔らかい。この圧倒的な実在の現実性が、世界を夢のように霧のかかった無意味なものにするのだ。


質問者 あまりにも多くの苦しみを抱えたこの世界を、どうして無意味なものとして見ることができるのでしょう。なんと冷淡な!


マハラジ 冷淡なのはあなたであって、私ではない。もしあなたの世界がそれほどにも苦しみに満ちているのなら、何とかするがいい。強欲や怠惰をそれに加えてはならない。私はあなたの夢のような世界に束縛されてはいない。私の世界では、苦しみ、欲望、恐れの種子はまかれてはいない。それゆえ、苦しみは育たないのだ。私の世界は対極から自由であり、相互に破壊的な不一致がなく、調和が遍在しているのだ。その平和は岩のように堅固であり、この平和と沈黙が私の身体なのだ。


質問者 あなたが言われることは、仏陀のダルマカーヤ(法身)を思い出させます。


マハラジ そうかもしれない。学術用語で脇道にそれる必要はない。ただ、あなたはマインドのなかで知覚する世界の一部分としての個人をあなた自身だと想像していることを理解しなさい。そしてマインドを外側から見てみなさい。なぜなら、あなたはマインドではないのだから。結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に自己同一化することなのだ。この習慣を捨てなさい。あなたはあなたが知覚するものではないのだ。注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。そうすれば、あなたのふるまいはあなたの見解を表現するだろう。ひとたびこの世界にあなた自身のものと呼べるものは何もないと悟れば、あなたはそれをステージ上の劇やスクリーン上の画像を見るように外側から見る。賞賛し、楽しみながら、しかも実際には動じることのないままに。あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空間のなかに実際に存在し、短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、あなたは存続し、拡大していくことを切望するようになるだろう。だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうでなければすべてに遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅なるものだと知るとき、もはや恐れることは何もなくなるのだ。あるがままのあなたを知りなさい。ほかに恐れに対する治療法はない。
あなたはこの路線で考え、感じることを学ばなければならない。さもなければ、いつまでも欲望と恐れ、獲得と損失、成長と衰退という個人のレベルにとどまったままだ。個人的な問題はそれ自体のレベルにおいて解決することはできないのだ。幸せであろうと切望することは不幸の原則であるように、生きようとする欲望自体が死のメッセンジャーなのだ。世界は苦痛と恐れの、不安と絶望の大海だ。快楽は魚たちのように、わずかばかりまれにやってきては、たちまちのうちに去っていく。理解力の低い人たちは、あらゆる証拠にも反して彼だけは例外であり、世界が彼に幸福をもたらすことこそ当然だと信じている。だが、もっていないものを世界が与えることはできない。徹底的に世界は非実在であり、真の幸福のためには無用のものなのだ。そうであるほかないのだ。私たちが実在を求めるのは、非実在に苦しんでいるからだ。幸福が私たちの真の本性なのだ。そして、それを見いだすまで私たちはけっして休まないだろう。しかし、それをどこに求めればいいのかを知る人はごくまれだ。ひとたびあなたが、世界とは実在の錯誤した光景であり、それはそう現れたとおりのものではないと理解すれば、それに取りつかれることから自由となる。あなたの真の存在と一致するものだけがあなたを幸福にする。見てのとおり、世界は明らかにそれを完全否定するものなのだ。
ただ静かに在りなさい。そしてマインドの表層に現れるものを見守りなさい。既知なるものを受けつけず、まず未知なるものを歓迎しなさい。そして然る後に、それもまた拒否しなさい。このようにして、あなたは知識のない存在だけの状態に到達するのだ。そこでは存在自体が知識だ。在ること自体によって知ることが直接の知識なのだ。間接的な知識は記憶と感覚を根底とし、知覚者と知覚されたものとの関係の近さ、その二つの間の対比によって制限されてしまう。幸福においてもそれは同様だ。普通、喜びを知るために悲しみ、悲しみを知るために喜ばなければならないものだ。真の幸福には原因がなく、刺激がなくなっても消え去ることはない。それは悲しみと対立するものではない。それはすべての悲しみと苦しみを含むものなのだ。


質問者 こんなにも多くの苦しみに囲まれながら、どうやって幸福でありつづけることができるのでしょうか?


マハラジ それはどうすることもできないのだ。内なる幸福は圧倒的に現実のものだ。空の太陽のように、その現れが雲に隠れたとしても、けっして不在ではないのだ。


質問者 私たちが困難に在るとき、不幸となるのは避けられないことです。


マハラジ 問題はただ恐れだけだ。あなた自身を何にも依存しないものとして知りなさい。そうすれば、あなたは恐れとその影から自由になるだろう。


質問者 幸福と快楽との違いは何でしょうか?


マハラジ 快楽はものに依存している。幸福は依存しない。


質問者 もし幸福が依存しないものなら、なぜ私たちはつねに幸福ではないのでしょうか?


マハラジ 幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不幸になるに違いないと信じることだろう。マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。それゆえ人は、幸福になろうと駆りたてられる必要はないのだと確信することが重要なのだ。その反対に、快楽は混乱と厄介者であり、幸福になるには何かをもち、何かをしなければならないという偽りの確信を、単に増長するだけなのだ。しかし、なぜ幸福について話さなければならないのか? 不幸であるとき以外、幸福について話したりはしない。「私は今幸せです」と言う人は、過去と未来という二つの不幸の間にいるのだ。この幸福は苦痛から解放されたことによる単なる興奮にすぎない。真の幸福とは、まったく自己意識のない状態だ。それがもっとも良く表されるのは否定によって、「何も私には間違ったところはない。私には何も心配することがない」と言うことだ。結局、すべてのサーダナの最終的な目的は、この確信が言葉上のものでなく、実際の常在の体験を根底にした地点に到達することなのだ。


質問者 どの体験でしょうか?


マハラジ 空として在ることの体験だ。記憶や期待で混乱していない、開かれた空間の、若々しい、すべての時間とエネルギーを発見や冒険のために得たような幸福だ。


質問者 発見するための何が残されているというのでしょうか?


マハラジ 実在のなか、そして神の偉大なマインドとハートのなかに存在する、外なる宇宙と内なる無限の空間の広がりだ。存在の意味と目的、苦しみの秘密、人生の無知からの救済だ。


質問者 もし幸福であることが恐れと心配からの解放であるなら、困難の不在が幸福であると言えるのではないでしょうか?


マハラジ 不在、非存在の状態は原因とはなりえない。ある原因が前もって存在するということは、それが観念のなかに暗黙のうちに含まれていたことを意味するのだ。何も存在しないあなたの自然な状態のなかに、成ることの原因はありえない。原因は偉大で神秘的な記憶の力のなかに秘められている。しかし、あなたの真の住処はすべての内容物が空っぽの、無のなかにあるのだ。


質問者 空っぽと無──なんと恐ろしい!


マハラジ あなたは眠るとき、喜んでそれにであうのだ! 目覚めた眠りの状態をあなた自身で見いだすがいい。そうすれば、それがあなたの真の本性と完全に調和していることを知るだろう。言葉はあなたに概念しか与えられない。そして概念は体験ではないのだ。私に言えることはただ、幸福には何の原因もなく、原因のないものは不動だということだ。それは快楽のように知覚可能なものではない。知覚可能なものは苦痛と快楽なのだ。不幸から解放された状態は否定を通してしか描写できない。それを直接知るには、因果律に耽溺したマインドと時間の支配を超えていかなければならないのだ。


質問者 もし幸福が意識ではなく、意識が幸福ではないのなら、それら二つの間のつながりは何なのでしょうか?


マハラジ 意識的存在は条件と環境の産物であり、それらに依存し、それらとともに変化する。独立し、創造されたものではなく、永遠で不変のもの、しかもつねに新しく新鮮なものはマインドを超えている。それについて考えるとき、マインドは消え去り、ただ幸福だけが残るのだ。


質問者 すべてが去った後、無が残るのです。


マハラジ 何もないところに無がありうるだろうか? 無とはひとつの概念にすぎない。それは何かの記憶に依存しているものだ。純粋な存在は、定義可能で描写可能な存在から完全に独立しているのだ。


質問者 どうか教えてください。マインドを超えても意識は継続するのでしょうか、それともマインドとともに終焉するのでしょうか?


マハラジ 意識は来ては去っていく。気づきは永遠不変に輝くのだ。


質問者 気づきの中で気づいているのは誰でしょうか?


マハラジ 個人がそこにいるとき、意識もまたそこにある。「私は在る」、マインド、意識はどれも同じ状態を表している。もしあなたが「わたしは気づいている」というなら、それは「わたしは気づいていることについて考えていることを意識している」という意味だ。気づきの中に「私は在る」はない。


質問者 観照はどうでしょうか?


マハラジ 観照はマインドのものだ。観照者は観照されるものとともに在る。非二元性の状態のなかでは、すべての分離がやむのだ。


質問者 あなたはどうなのでしょうか? あなたは気づきのなかに在りつづけるのでしょうか?


マハラジ 個人、「私は身体だ」、このマインド、この記憶の連鎖、この一束の欲望と恐れは消え去る。だが、アイデンティティと呼ばれる何かはそのまま残る。それは必要とされるとき、私が個人となることを可能にするのだ。愛はそれ自身の必要性をつくり出すのだ。ひとりの個人と成ることさえも。


質問者 実在はそれ自体を存在─意識─至福として現すと言われています。それらは絶対的なものでしょうか、それとも相対的なものでしょうか?


マハラジ それらは互いにとって相対的であり、相互に依存している。実在はその表現とは別なのだ。


質問者 実在とその表現はどのような関係にあるのでしょうか?


マハラジ 何の関係もない。実在のなかではすべてが真正で同一なのだ。それは、私たちが「サグナ(顕現)とニルグナ(非顕現)はパラブラフマン(至高の実在)のなかでひとつだ」と表現するのと同じだ。ただ至高なるものだけが存在するのだ。運動のなかでは、それはサグナであり、不動においては、それはニルグナなのだ。だが、動いているのは、あるいは動かないのはマインドだけだ。実在は彼方にあり、あなたも彼方にあるのだ。ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものはあなた自身ではありえないと理解するならば、あなたはあなたの想像から自由になる。すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、真我の実現に必要不可欠なのだ。私たちは注意の欠如から実在を失い、過剰な想像から偽りを生みだすのだ。あなたはこれらのことにマインドとハートを捧げ、繰り返し熟考しなければならない。それは食べ物を料理するようなものだ。用意ができるまでは、それを火にかけておかなければならないのだ。


質問者 私は運命、カルマに支配されているのではないでしょうか? それに対して何ができるのでしょうか? 私が何であるのか、何をするのかは前もって決められているのです。私のいわゆる自由選択さえも先決されているのです。ただ私が気づかず、自分は自由だと想像しているだけなのです。


マハラジ またしても、それはあなたがどう見るかにかかっている。無知とは熱のようなものだ。それはあなたにそこにはないものを見させる。カルマとは神の力によって処方された治療法なのだ。それを歓迎し、その指導に信頼をもってしたがうがいい。そうすればあなたは良くなるだろう。回復すれば患者は病院を去っていく。選択と行為の即座の自由をせがむことは、単に回復を延長させるだけだ。運命を受け入れ、それを満たすがいい。これが運命からの自由への近道なのだ。だが、愛とその欲求からの自由ではない。欲望と恐れから行為することは束縛だ。愛から行為することが自由なのだ。


02 2024/03 04
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Fiora & nobody