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水平(スイヘイ)シラク


すべての善きものは神から生まれる。
水平とは
静かな水面のように平らなこと。地球の重力の方向と直角に交わる方向。


ティーンエイジャーは、車や金をもちだして、好き勝手なことをするかもしれませんが、いつかはその車を使って家に帰ってくることを親は望んでいます。神も同じ気持ちです。神は、人間が神のもとを離れ、ティーンエイジャーのように好きなことをして、遊びまわるままにさせています。しかし、人間もいつかは寂しくなって「家」に帰りたくなるだろう、と神は期待しています。


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期待感について


神がすべてであり、すべては一つなのだとしたら、普遍的な深い”愛”の感情が存在し、「相手」がいなくでも、それを感じることができるはずです。何をしているときにも、これが真実であると固く信じて、”大いなる愛”の感覚を探し求め、それを待ち望んでください。それを感じることができると、自分にパワーが戻ってきます。そうなるとあなたは、”大いなる愛”のパワーがある、自分の「存在」の中心にいることになるのです。

 
そのために必要なのは、そうした愛を自分は当然感じるだろうという「期待感」です。


「見つける人」は、いま現在より以上に神が存在することはけっしてない、ということを少なくとも知っています。


知るためにはどうすればいいでしょうか?


自分の存在のなかでいままでとは違った賛美歌を歌い、いままでとは違ったマントラを唱えるのです。


「私の目の前に何があろうともそれは神である。何であろうとも、それは神だ。神はいま、この瞬間に、この呼吸とともに存在し、私が見るものすべてのなかに、私が聞くものすべてのなかに存在する」こう断言するのです。
「あれはイヤな感じがしたから、神であるはずがない。何かほかのものにちがいない」と、言ったりしないことです。


神がすべてのもののなかに存在するということを、信じることはまだできないかもしれませんが、信じるよう努めてみてください。「期待感」と希望を持って待つのです。


自分以外の人間や、まわりで起こっている出来事を見るときに、自分は”神の大いなる光”のなかにいるのだ、ということを忘れないでください。あらゆるものの本質は愛です。そのことを忘れないようにつねに努力するならば、そうした覚醒意識を得るのを妨げているものが少しずつ明らかになってきて、やがて消えていきます。このことを忘れないでいると、”大いなる光”以外のものはどれでも一時的なものであり、生まれては消え、やってきては去っていく、つかのまのはかない障害物にすぎないのだ、ということがわかってきます。不断に変化する考えや信念などというカムフラージュの陰にある、実在するものにつねに意識を向けてください。


人は、自分とは肉体のことだと思っています。人はまた、カルマや輪廻転生があると深く信じているので、過去をなかなか捨てられないし、”大いなる光”が”大いなる光”に出会っているのだ、ということに気づけません。


”大いなる光”が”大いなる光”に出会うと、その結果、よりパワフルな”大いなる光”が生まれます。どんな方法を用いてでも、あらゆるものは神なのだということを覚えていられるならば、自分の悩みの本質がはっきり見えてきます。


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質問者 あなたがあなたの息子さんの家で昼食が出されるのを待っているところを目にしました。そのとき、私の意識とあなたの意識の内容が似たものなのか、部分的に異なるのか、それともまったく違うのかと不思議に思っていたのです。あなたは私のように空腹や喉の渇きを覚え、食事が給仕されるまで落ち着かずにいるのでしょうか、それとも、まったく異なったマインドの状態に在るのでしょうか?


マハラジ 表面上の違いはほとんどない。だが、その奥深くではたいへん異なる。あなたはあなた自身を感覚とマインドを通してのみ知っている。あなたはそれらが示唆することをあなた自身として受け入れ、自己の直接の知識をもっていない。あなたのもっているのは単なる観念だけだ。すべて平凡で、使い古しのうわさによるものにすぎない。あなたは何であれ、あなたであると考えたことを真実として受け入れてしまう。あなた自身が知覚可能で、描写可能なものだと想像する習慣が、非常に強固になってしまっているのだ。
私はあなたが見るように見、あなたが聞くように聞き、あなたが味わうように味わい、あなたが食べるように食べる。私はまた喉の渇きや空腹を感じ、時間通りに食事が給仕されることを期待する。飢えたとき、また病気をしたとき、私の身体とマインドは弱まる。これらすべてを私はまったく明確に知覚するが、どういうわけか、私はそのなかにはいないのだ。私は自分がその上を漂い、超然として離れてあるように感じるのだ。超然として離れていると言うことさえ、本当ではない。そこに空腹や渇きがあるように、超然と分離の感覚がそこにあるのだ。そこにはまた、気づきと計り知れない距離の感覚がある。あたかも、身体とマインド、そしてそれらに起こるすべてが、どこか遥か地平線の彼方で起こっているかのようだ。私は映画のスクリーンのように明白で空っぽだ。画像はその上を通り過ぎ、明白で空っぽのままの状態を残して消えていく。どの点においてもスクリーンが画像に影響されることはない。また、画像もスクリーンによる影響を受けはしない。スクリーンは画像を遮り投影する。スクリーンが画像を形づくるのではないのだ。それはフィルムと何の関わりもない。フィルムはフィルムとして、ひと塊の運命なのだ。だが、私の運命ではない。スクリーン上の人びとの運命だ。


質問者 あなたは画像のなかの人びとが運命をもっていると言うのではないでしょうね! 彼らは物語に属しているのです。物語は彼らのものではありません。


マハラジ では、あなたはどうだろうか? あなたはあなたの人生を形づくっているだろうか、あるいはあなたがそれによって形づくられているのだろうか?


質問者 確かに、あなたの言われるとおりです。人生の物語はそれ自体で繰り広げられ、私はそのなかのひとりの役者にすぎません。私なしにはそれが存在しないように、その外側に私の存在もないのです。私はただの登場人物であって、個人ではありません。


マハラジ 彼が人生を起こるがまま受け入れる代わりに、自分でそれを形づくりはじめ、彼自身をそれと同一化するとき、登場人物は個人となるのだ。


質問者 私が質問し、あなたが答えるとき、正確には何が起こっているのでしょう?


マハラジ 質問と回答は、ともにスクリーン上に現れるだけだ。唇は動き、身体が話す。そして、ふたたびスクリーンは明白で空っぽになる。


質問者 あなたが明白で空っぽだと言うとき、あなたは何を意味しているのですか?


マハラジ それはすべての内容から自由であることを意味しているのだ。私自身にとっては、私は知覚可能なものでも、想像可能なものでもない。「これが私だ」と示唆できるようなものは何ひとつないのだ。あなたは自分自身をいともたやすくあらゆるものと自己同一化してしまう。私にとって、それはまったく不可能だ。「私はこれでもなく、あれでもない。また、何も私のものではない」という感覚が私のなかで非常に強いため、あるもの、あるいはある想いが現れるやいなや、「これは私ではない」という感覚がやってくるのだ。


質問者 あなたは「これは私ではない、あれも私ではない」と繰り返すことで時間を過ごしていると言われるのでしょうか?


マハラジ もちろん、そうではない。私はただ、あなたのために言葉に置き換えてみただけだ。グルの恩寵によって、私は主体でも客体でもないということを永久に実現し、つねに自分自身に思い起こさせる必要はないのだ。


質問者 あなたが主体でも客体でもないと言われることで、正確には何を意味しているのか私には理解できません。私たちが話している今この瞬間、私はあなたの体験の客体であり、あなたがその主体ではないでしょうか?


マハラジ 見なさい。私の親指は人差し指に触れている。触れるものと触れられるものの両方だ。私の注意が親指にあるとき、親指が感じるものであり、人差し指は──自己なのだ。注意の焦点を移行し、その関係を逆転してみなさい。注意の焦点を移行することで、私は私が見ているそのものと成り、それがもっている意識を体験し、そのものの内なる観照者となることを見いだしたのだ。この他者の意識の焦点に入る能力を、私は愛と呼ぶ。あなたはあなたの好きなように呼ぶがいい。愛は、「私はすべてだ」と言い、智慧は、「私は無だ」と言う。その二つの合間を私の人生は流れていく。いかなる時間と空間の点においても、私は体験の主体と客体の両方であることができるため、私はその両方であり、どちらでもなく、またその両方を超えていると表現するのだ。


質問者 あなたはあなた自身に関するそのような並外れた表明を行います。何があなたにそのようなことを言わせるのでしょう? 時間と空間を超えると言うことで、あなたは何を意味しているのでしょうか?


マハラジ あなたが尋ね、そして答えがやってくる。私は私自身を見守り、答えを見て、そこに矛盾のないことを見るのだ。私が話していることが真実だということは明らかだ。それはまったくシンプルなことだ。あなたは、ただ私を信頼しなければならない。つまり、私が話すことはまったく真剣だということだ。すでに話したように、グルは私に自己の本性と世界の本性を見せてくれた。それを実現したため、私は世界とひとつであり、しかもそれを超えているのだ。私は欲望と恐れのすべてから自由になった。私が自由になるべきだと論証したのではない。まったく予期せず、何の努力もなく、私は自由であることを見いだしたのだ。この欲望と恐れからの自由は、それ以来、私とともにとどまっている。もうひとつ見いだしたことは、私は何の努力をする必要もなく、何の遅れも軋轢もなしに、行為が思考にしたがうということだった。私はまた、思考が自己充足するようになり、ものごとがすらすらと、正しい場所に落ち着いていくことも見いだしたのだ。主な変化はマインドのなかだった。それは不動で、沈黙し、素速く反応するが、反応を永続させなくなった。自発性が生のあり方となり、真実は自然になり、自然さは真実となった。何にもまして、生は無限の愛、幽玄で静穏な、すべての方角に輝き、すべてを抱擁し、すべてを興味深く、美しく、意味深くする幸運なものとなったのだ。


質問者 自己本来の存在を実現した人には、さまざまなヨーガの能力が自然と手に入ると聞いていますが、これに関するあなたの体験はどのようなものでしょうか?


マハラジ 人間の五つの層の身体* は、私たちのもっとも突飛な夢をも実現可能にする能力をもっている。人のなかには宇宙全体が反映されているばかりではなく、彼には宇宙をコントロールする力も提供されている。賢者は、状況がそれを必要としないかぎり、そのような力を使うことを切望したりしない。日々の生活のためには、彼は個人のもつ技術と能力で充分に適切だと見ているのだ。ある能力は特別な訓練で発達させることができる。しかし、そのような能力を誇示する人は、いまだに束縛のなかにいるのだ。賢者は何ひとつ、自分のものと見なさない。ある時と場所で、ある奇跡がある人のせいで起こったとしても、彼は出来事と人びととの間にいかなる因果的な結びつきも証明しないだろう。また、いかなる結論も引き出すことを許さないだろう。すべては起こるように起こるのだ。なぜなら、それは起こらなければならないからだ。すべてはそのように起こる。なぜなら、宇宙はあるがままだからだ。


質問者 宇宙は幸福に生きる場所のようには見えません。なぜこれほど多くの苦しみがあるのでしょうか?


マハラジ 苦痛は身体的なもの、苦しみは精神的なものだ。マインドを超えたところに苦しみはない。苦痛は身体が危険にあり、注意を要求しているという単なる信号なのだ。同様に、苦しみは個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、喪失、あるいは変化によって脅かされていると私たちに警告しているのだ。苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。苦しみは完全に、執着すること、あるいは抵抗することを理由に起こる。それは私たちが人生とともに流れ、進んでいくことを自ら欲しないことの兆候なのだ。
健全な人生が苦痛から自由であるように、聖人の人生は苦しみから自由なのだ。


質問者 聖人ほど苦しむ人は誰もいないでしょう。


マハラジ 彼らがあなたにそう言ったのかね? それともあなたが自分からそう言うのだろうか? 聖人のような高徳な生き方の本質は、現在のこの瞬間の完全な受容と、起こるがままとの調和にあるのだ。聖人はあるがままから変わってほしいとは望まない。すべての要因を考慮した上で、それが不可避であることを彼は知っているのだ。彼は必然的なものと親しくあり、それゆえ苦しむことがないのだ。苦痛なら彼も知っているだろう。だが、それが彼を打ちのめすことはない。もし彼にできるならば、失われたバランスを必要なだけ回復するだろう。あるいは、ものごとがそれ自体の流れを取るにまかせるだろう。


質問者 彼は死ぬかもしれません。


マハラジ それが何だというのだろう? 生きつづけることで、彼が何を得るというのだろう? 死ぬことで彼が何を失うというのだろうか? 生まれたものは死なねばならない。生まれなかったものは死ぬことはできないのだ。すべては彼が彼自身を何であると見なしているかによるのだ。


質問者 あなたが致命的な病気になったと想像してください。あなたは後悔したり、憤ったりするのでしょうか?


マハラジ だが、私はすでに死んでいるのだ。あるいは今まで生きたことも死んだこともなかったのだ。あなたは私の身体が習慣的にふるまっているのを見て、あなたなりの結論を引き出す。あなたの結論が、ほかの誰でもないあなた自身を束縛するということを、あなたは認めないだろう。あなたが抱いている私のイメージはまったく誤ったものかもしれないということを見て取りなさい。あなた自身のイメージもまた誤りなのだ。しかし、それはあなたの問題だ。だが、私のために問題をつくり出しておいて、それから私に解決するように要求する必要はない。私は問題をつくり出してもいなければ、解決してもいないのだ。


* 訳注 五つの層の身体
人間は五つのさやに包まれているというヒンドゥー教の概念。
(一)アンナー・マヤ・コーシャ 物質的身体
(二)プラーナ・マヤ・コーシャ 呼吸にともなう五つの気と五つの行動器官の身体
(三)マノー・マヤ・コーシャ マインドと五つの行動器官の身体
(四)ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ 知性と感情の器官の身体
(五)アーナンダ・マヤ・コーシャ 至福の身体。


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