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異質な二つの文化がある場合、それぞれが、自分の文化の方が優れていると感じる傾向がつねにあります。優越感というのは、愛の存在をほとんど不可能にします。この二つの文化のあいだには、理解やコミュニケーションがほとんど存在しません。ということは、愛の心が生む叡智がそこにはないということです。
ところが戦争のような極限状況にあっても、愛の心を動かすことはできます。なぜなら双方とも、基本的に同じ恐怖と混迷のなかにあるからです。そこに愛の生まれるチャンスがあります。相手も自分と同じ恐怖に直面しているのだとわかって、固定観念を捨て、心の理解を通しておたがいと向き合うチャンスが生まれます。


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マハルシ 身体は生命意識を持たず、「私」と言うことはできません。真我は非二元的な純粋意識です。それも「私」と言うことはできません。眠りの中では誰も「私」とは言いません。


それでは自我とは何でしょうか?


人は暗闇にいると、そばに何かがいると想像してしまいます。それは何か黒い物体かもしれません。近寄って見ると幽霊は見えず、ただ木やポストのような物体を見間違えただけだということがわかるのです。近づいて見てみなければ、幽霊は彼を脅かしたでしょう。必要なのは、ただよく見ることだけです。そうすれば、幽霊は消え去ります。幽霊は初めからそこにいなかったのです。自我においても同じことです。それは身体と純粋意識の間に介在する実体のない結び目です。それは実在しません。よく見てみないかぎり、それは問題を与え続けるでしょう。

(対話612)


質問者 人は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生に起こるすべては運命づけられ、あらかじめ決められているのでしょうか?


マハルシ 自由意志は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意志は存在するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意志を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意志や運命は誰にとって問題となるのか? それを見いだし、その中にとどまりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。


もしあなたが自分を身体と見なすなら、それらは常にあなたを支配するでしょう。
もしあなたが自分を身体と見なさなければ、それらがあなたに影響を与えることはなくなります。


眠りの中では、あなたは身体ではありませんでした。
あなたは今、身体なのでしょうか?

(対話426)


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質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


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