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誰の視点で他人を視ているのか?
他人を視て、この人はこういう人、弱みは、限界は、と視ているときに自分に問いかけることは、これは誰の視点なのか? 楽をしたい、ときもそう。いったい誰が楽をしたい、と視ているのか。



なんで仏頂面をしているのか?
平たく分析すると、いまその人は神を感じていないということに尽きる。顔は仏頂面をしていても神を感じている人は気が華やいでいる。顔も心も仏頂面なのは、感じていない、見失っているのだ。では感じていないときどうすればいいのか? まず不自然な上書きをやめることだ。私は人間だ、私は肉体だ、私は神と一緒にいない、私は神に見捨てられた、私は神に唯一例外的に冷遇されている、私は一人で対処しなければならない、などなどをやめる。今この瞬間、私が一人だと決めているのは私本人一人だけなのだ。



誰が怒ったのか?
自分の「存在」の中で誰が、どの部分が怒ったのか検討してみると、深層が怒ったということはまず滅多にない。子供っぽい怒りであればあるほど表層が怒っている。そしてそれは「誰」だ? 誰として、誰のつもりで人生を送っている? という話になる。この誰のつもりで、の部分を突き詰めると「被害者になりうる主体、または不運にも損をしてしまった主体」という概念で瞬間的に物事を見ているということがわかる。怒りというのは、この視線(概念の投影)が先にある。そしてそれは根本の問題につながる。つまり私は、私を誰だと思っていて、その私というのは「神との関係」に直訳するとどういう距離感、どういう「私 - 神」構造を推測しているのか、ということだ。ほんの一瞬とはいえ、「神がいない」と感じたことに恐怖したのだ。
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