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今後、いつどの段階で最後のときを迎えるかはわからないので、最も大切なことを中心に据えている必要があると思う。それは、神の御心に沿っていること。概念としての神ではなくて、やはり少なくとも良心神以上の神だろう。どんなに細かな問題も、ただ一人裏切ってはいけない存在と一緒に生きて最後を迎えたいと思うのは人として自然の成り行きだと思う。直霊(なおひ)に照らせば、謝らなければならなかった、謝っておきたかった人が何人もいる。フィオラは私に最優先事項を語るとき、黄金の太陽「皇(すめらぎ)」を胸の奥に復位させることを主張した。神が呼ぶ。その呼びかけにはどんなことを差し置いても応えよ、と言った。個性を活かし、兄弟姉妹が置かれている状況の差異に敬意を払い続け、中心に太陽を仰ぎ、その周囲を自分らしく舞うことを円舞と呼んでいた。星の軌道は中心なしではいられないのかもしれない。フィオラは稀に曲を指定することがあって、ハナミズキとこの曲はそれだった。



戦争の影が迫っています。
きっと誰かが大人の、良識ある賢者のような対応をしてこの歪みと窮地を誰も涙を流すことがないようにぎりぎりで救ってくれるに違いない、と信じてしまう無責任さを痛感しなければなりません。Fiora

 

(~へ)行きましょう
の場所指定がないものはどういう意味でしょうか。指定の必要すらない場所があるのか、そもそも場所というのは「一つしか存在しない」のか。存在は一つしかないのに、純粋に(存在として)とどまるか否かに違いがある、ということでしょうか。では不純物とはなんでしょうか? 想念ですか? それとも(想念に基づいた)錯覚、ですか?
(あの場所へ)行きましょう。あなたが覚える(意図的に選択できる)ことは、それだけかもしれないのですから。Fiora





変わるものは浅く、変わらないものには何かがある。何かがそこからやってくる。継続しないものは大したことがなく、「本当に継続しているもの、本当にどんなときも変わらないもの」から深みが生まれる。それは風景でも感覚でもない。ラマナ・マハルシは不純物ろ過こそその方法だと説明した。バーソロミューは(継続しないものに焦点を当てることによって)本当に継続しているものだけが体験できなくなっていると指摘した。ニサルガダッタは「私は在る」にだけ集中しなさい、だった。焦点というのはそこにこそ定めるものであり、何度も何度もただひたすらにそこに行けという意味だろう。私の経験から言うと、これこそ「輪郭」の指摘が最もむずかしい対象物(実際は主体でも対象物でもない存在)だ。意識の焦点はそこに向かえるが、一回成功したあとは二度目も成功するとは限らない。輪郭を誤って捉えてしまいやすいからだ。そのため、ラマナ・マハルシは不純物のろ過という逆側の方法しかないとしていた。すべての否定によって、いま在る場所から(癖によって)動くな。ということを指していた。フィオラは想念に基づいた錯覚「私」によって水面を自分で泡立てていることに自覚的になれと言っているのだと思う。フィオラは最初から「ただ一つ(の場所へ)」を指摘するのが好きだった。


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