第三のヒロシマ前夜24



金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)
金剛とはダイヤモンドのことで、大日如来の知恵が、こわれることのない強いものであることを表しています。9つのグループに分けられていて、右上の「理趣会(りしゅえ)」以外すべて中心が大日如来。まわりをとりかこむ仏たちとの間では、大日如来の知恵が、内から外、外から内へと、コンピュータの回路のように、たえまなく動き続けているのです。四角と丸の組み合わせが特徴的ですね。



胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)
大日如来を中心に、12のグループで構成されています。すべての仏は大日如来から生まれるのであり、それとおなじように、人々の心の中にある(胎蔵する)「さとり」を開く種を、大日如来が守り育てていくようすを表しています。金剛界曼荼羅では、大日如来の知恵が規則ただしく、縦横ななめに動いているのに対し、こちらでは太陽の光のように、やさしく力強く、中心から世界を照らしているのです。





誰かに腹を立てたり、人生そのものに嫌気がさしたりしたとき、そう感じるのはかまいませんが、一見原因らしく見えるものは、じつは真の原因ではないのだ、ということを覚えていてください。怒ったり寂しかったり不安になったりしている本当の理由は、あなたが思っている理由とは別のものです。まったくちがいます。人生という物質界のなかで、望むものを手にできないのではないかという不安よりも、もっともっと深刻な不安、もっと強烈な怖れがそこにはあるのです。


人の持つ不安がどんなに強烈なものであったとしても、神からあまりにも遠くかけ離れてしまって、自分はもう神のところへ戻れないのではないか、という不安に比べると、そうした不安はものの数ではありません。自分は神のところに行けるほどの価値がないのではないか、という巨大な怖れを人は持っています。これは圧倒的な力を持った無意識の怖れであり、誰のなかにもあるものです。どうかそれに目を向けてください。


忘れないでほしいのは、怖れとともにその解決法も姿を現すということです。それらは表裏一体をなしています。自分のなかに魂のうずき──”大いなる故郷”へ帰りたい、心の平安を得たい、愛が欲しい、怖れをなくしたい──こうした気持ちがあることを認め、それを感じるようにしてください。それは魂の奥深くから送り出されてきた叫びです。


自分と自分以外のものをつねに分断するエゴの動きの枠外に出ると、魂の叫びや苦痛そのもののなかに、じつはすばらしい解決がひそんでいたことを発見します。それらはいっしょに現れます。不安を感じることを怖れないでください。あまりに長いあいだ思考の世界に生きてきたので、自分が生き生きとダイナミックに存在する神であるという体験をしていないのだ、ということに気づいてください。あなたは純粋な目覚めた意識なのです。



人生において失敗した、あるいは何か間違ったことをしてしまった、というふうにあなたが思っているとすれば、あなたは自分自身の内面と外面の偉大さ、そして人生全体の重要性に気づく能力を衰えさせていることになる。自分の過去のどの部分であろうと、それをなくしたいなどと絶対に思ってはならない。過去のどんな部分でもだ。なぜなら、あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験から生まれた葛藤が、あなたの魂の中に偉大なる美しい叡智の真珠を生み出したからだ。それは、もう二度とそれらの夢を見る必要はないし、それらのゲームを創造したり、それらを体験したりする必要はないことを意味している。というのも、あなたはすでにそれらを体験し、それらがどんなふうに感じるかを知っており、自分の魂の中にそれらに関する記録、すなわち人生において何にも勝る本当の宝物である「フィーリング」と呼ばれるものを持っているからだ。


私がここにいるのは、愛についてのあなたの理解を超えるほど、あなたが愛されているということを伝えるためだ。というのも、あなたはこれまで、自分自身を理解しようと奮闘しているひとりの神として以外、見られたことがないからだ。そして、自分のすべての生におけるあらゆる体験から、あなたは知識と叡智を獲得してきた。あなたはそれらを世界に与えてきた。広がりつつある生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。


あなたのこれまでの人生は、あなたの内に宿る炎が生み出したすばらしい壮観だった。それは、敬意を払うべきもの、聖なるもの、神なるものとして再評価されるべきである。なぜなら、あなたが何をしようと、あなたはつねに神であるからだ。どのような仮面を身につけようと、あなたは神なのだ。どのような人間関係を体験していようと、あなたはそれでも神なのである。


あなたはこの人生の冒険に値する。あらゆる冒険に値する。そして、それよりも遥かにすばらしいことは、これから先あなたを待っている輝かしい冒険にも値するということである。だが、これまで自分がしてきたすべてのことは、単に自分自身である神についての理解を得るためだったということに気づくまでは、あなたはけっして「私は在る」という状態になることはないし、永遠への扉を通過することもない。あなた自身である神とは、人生という舞台でのあなたのあらゆる体験がもたらした美徳を通して、今ここで実演されているものである。


自分の背中にのしかかる重荷を抱えている者は、もしそうすることが自分を幸せにするのであれば、そうしなさい。だが、もしそれらから学ぶべきものをすべて学び、いいかげんうんざりしているのなら、そんなものは捨ててしまいなさい。どうやって?それらを愛し、抱き容れ、自分の存在の中にそれらがあることを許すことによってである。ひとたびあなたがそうしてしまえば、それらがふたたびあなたを押さえつけることはなくなる。そしてそのあとは、生きることのすばらしさを透明な視界を通して見ることができ、愛を価値判断なしに感じることができ、存在することの喜びが、無限の「知っている状態」の力となることができるのである。



質問者 私は数カ月前にヨーロッパからやってきました。カルカッタ近郊に住む私のグルを、今まで定期的に訪ねていました。今回の訪問を終え、今帰途に着つこうとするところです。友人に招かれ、あなたのもとにやってきたのです。お会いできて嬉しく思っています。


マハラジ あなたのグルから何を学び、どのような修練をしてきたのだろうか?


質問者 彼は崇敬すべき、齡八十近い老人です。彼の教えはヴェーダーンタ哲学に属し、マインドのなかの無意識のエネルギーを目覚めさせ、隠れた障害や妨害を意識のなかにもたらすことが、彼の指導する修練の主要な点です。
私の個人的なサーダナは、私の幼少期に固有の問題に関連しています。私の母親は子供の正常な成長にとってもっとも重要な、愛と安全に守られた存在の感覚を与えることができませんでした。不安と神経症に悩まされ、自分に自信がもてず、彼女にとって私は、彼女の能力を超えた重荷であり、責任であったのです。彼女はけっして私に生まれてきてほしいと思ってはいませんでした。私に成長しないでほしいと望み、生まれる以前、存在する以前の子宮のなかに戻ってほしかったのです。私の人生におけるどんな動きも、彼女は拒んできました。彼女の習慣的生活の狭い輪を私が超えようと試みるたびに、彼女は猛烈に抵抗してきました。私は、繊細で、愛情深い子供でした。子供に対する純粋で本能的な母親の愛を拒まれてきた私は、ほかの何よりも愛情を切望してきました。子供にとっての母親の愛を探求することは、私の人生における主要な動機となり、成長してそれから抜けだすことはけっしてありませんでした。幸福な子供、幸せな幼少時代は私にとって強迫観念となったのです。
妊娠、誕生、幼年期は私に熱烈な興味をもたらしました。私は著名な産科医となり、無痛分娩法の開発に貢献してきました。幸せな母親の幸せな子供──が私の全人生の理想なのです。しかし、私の母はいつもそこにいて、彼女自身が不幸なため、幸福な私を見ることができないでいるのです。それはとても奇妙な形で現れました。いつであれ私に元気がないとき、彼女はより良く感じ、私が元気だと、彼女自身も私をも呪って落胆するのです。あたかも、私が生まれてきたという罪をけっして許さず、生きていることへの罪悪感を私に抱かせるかのように。「あなたが生きているのは私を憎んでいるからでしょう。もし私を愛しているならば、死になさい」──これが沈黙を通しての彼女の絶え間ないメッセージだったのです。それゆえ私は、愛ではなく死を差しだされて生きてきたのです。
母親のなかで永久に幼児として監禁されたため、私は女性との意味深い関係を発展させることができませんでした。許すことも、許されることもない母親のイメージが間に立ちはだかるのです。私は仕事のなかに多くの慰めを見いだしてきましたが、幼児という深い穴から抜けだすことはできませんでした。最終的に、霊的探求に方向を変えてからすでに数年間、この路線を着実に進んでいます。しかしある意味では、それは相変わらず母親の愛情の探求なのです。それを神と呼ぼうと、アートマ(真我)、あるいは至高の実在と呼ぼうとも。基本的に、私は愛し、愛されたいのです。
不運にも、いわゆる宗教的な人びとは生に反対し、まったくマインドのいいなりです。生の要求と衝動に直面したとき、彼らは分類し、抽象化し、概念化します。そして分類を生自体よりも重要と見なすのです。彼らはひとつの概念に集中し、それを人格化するように求めます。愛による自発的な統合よりも、ひとつのマントラに、慎重に勤勉に集中することを勧めるのです。神、あるいは真我、私、あるいはアートマ、それが何であれ同じことです! 愛するための誰かではなく、考えるための何かなのです。私に必要なのは、理論やシステムではありません。同じように魅力的で、もっともらしいものは数多くあります。しかし、私に必要なのは、心からの感動、生命の再生であり、新たな考え方ではありません。新たな考え方というものはありません。しかし、感情はつねに新鮮であることができます。私が誰かを愛するとき、私は彼に自発的に、強烈な熱意と活気をともなって瞑想します。それは私のマインドでは制御できないものです。
言葉は感情を形づくるのに適しています。感情をともなわない冷たく、気の抜けた、身体の入っていない洋服のようなものです。私の母は、私の感情のすべてとその源を枯渇させてしまいました。ここで私は、子供としてたっぷりと必要だった豊富であり余るほどの感情を見いだすことができるでしょうか?


マハラジ あなたの子供時代は今どこにあるのだろうか?そしてあなたの未来とは何だろうか?


質問者 私は生まれました。私は成長してきました。そして私は死ぬでしょう。


マハラジ  あなたは、もちろん身体のことを意味しているのだろう。そしてあなたのマインドを。私はあなたの生理学や心理学について話しているのではない。それらは自然の一部であり、自然の法則によって支配されているのだ。私はあなたの愛の探求について話しているのだ。それには始まりがあっただろうか?それには終わりが来るのだろうか?


質問者 私には、とても言うことができません。それは私の人生の最初から最後の瞬間までそこにあるのです。この愛への切望は何と不変で、何と絶望的なのでしょうか!


マハラジ 愛の探求のなかで、あなたは正確には何を探しているのだろうか?


質問者 ただ、愛し、愛されることです。


マハラジ  ある女性を意味しているのだろうか?


質問者 そうである必要はありません。その感覚が輝いて、明らかでありさえすれば、友達でも、師でも、導き手でもいいのです。もちろん、女性はお決まりの答えではあります。しかし、それだけである必要はありません。


マハラジ  あなたは愛することと愛されることの二つのうち、どちらを取るだろうか?


質問者 むしろ、両方を取るでしょう! しかし、愛することの方がより偉大で、より高尚で、より深いことは私にも理解できます。愛されることが快いのは確かですが、それは人を成長させてはくれません。


マハラジ あなたは自らを愛することができるだろうか?あるいは、愛するようにさせられなければならないだろうか?


質問者 もちろん、愛するに足る人に出会わなければなりません。私の母は愛情がないばかりでなく、愛すべき人でもなかったのです。


マハラジ  何が人を愛すべき人にするのだろうか?それは愛されることではないだろうか?まず、あなたは愛し、それから理由を探すのだ。


質問者 その反対もありえます。あなたはあなたを幸せにするものを愛するのです。


マハラジ  だが、何があなたを幸せにするのだろうか?


質問者 そこには何の規則もありません。その問題全体が非常に個人的な、予期できないものなのです。


マハラジ  そのとおりだ。どのように表現しようとも、あなたが愛するまで幸せはありえないのだ。しかし、愛はつねにあなたを幸せにするだろうか?愛が幸せと結びついているのは、むしろ初期の、幼稚な段階ではないだろうか?あなたの愛する人が苦しむとき、あなたも苦しむのではないだろうか?そして、あなたが愛するのをやめるのは、あなたも苦しむからではないだろうか?愛と幸せはともに来て、ともに去っていくものだろうか?愛とは単に快楽への期待なのだろうか?


質問者 もちろん、そうではありません。愛にたいへんな苦しみをともなうことはありえます。


マハラジ  では、愛とは何だろうか?それはマインドの状態というより、むしろ存在の状態ではないだろうか?愛するために、あなたが愛しているということを知らなければならないだろうか?あなたは母親を気づかぬうちに愛していたのではないだろうか?彼女の愛と彼女を愛する機会を切望することは、愛の行動ではないだろうか?愛とは存在の意識としてのあなたの一部分ではないだろうか?あなたが母親の愛を求めたのは、あなたが彼女を愛していたからだ。


質問者 しかし、彼女は私に愛することを許さなかったのですよ!


マハラジ  彼女にあなたを止めることはできなかった。


質問者 それでは、なぜ私の人生は不幸せなのでしょうか?


マハラジ  なぜなら、あなたはあなたの存在の根底まで行きついていないからだ。あなた自身についての完全な無知が、愛と幸せを覆い隠し、あなたにけっして失わなかったものを探求するようにさせたのだ。愛とは意志だ。すべてとともにあなたの幸せを分かちあう意志なのだ。幸せで在ること、幸せになること──これが愛のリズムだ。


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Fiora & nobody