愛の光はなんとなく想像がついても、叡智の光とはなんだろうか、とときどき思うことがある。浸透(神道)する光が、内在する感覚の源を、いま何が最も適切かをわずかに照らしている。それって「自分」を前面に押し出していると見えないし、沿えない小道に近いかもしれない。浮かび上がる道とかき分けて進む道は違うのではないだろうか。n


マハルシ 知識とは物事を知ることではありません。物事を知ることは相対的な知識です。しかし知識はその純粋さにおいて唯一無比なる超越的な光として在り続けるのです。

(対話589)


マハルシ 眠りから目覚めへの移行期における「私」(アハム)は純粋です。なぜなら、「これ」(イダム)は抑えられてまだ現れず、「私」が優占しているからです。
なぜその純粋な「私」は、今この瞬間に認識されないのでしょうか? なぜわれわれはそれを想い出そうとさえしないのでしょうか? なぜなら、それを知ろうとする意志が欠けているからです。もしそれに意識を向けさえすれば、それは認識されるでしょう。
それゆえ、努力をして意識的にそれを達成すべきなのです。

(対話314)


マハルシ 心を内側に向けるには、心を直接「私」の中に落ち着かせなければなりません。そうしたとき外的な活動はやみ、完全な平和が支配するのです。

(対話519)


何か目に見えたら、それではありません。何か考えが浮かんだら、それではありません。あなたのすることでもありません。けれどもこうしたことの中に常にあるものです。


『わたしはイライラしている』と言うときの<わたし>はどんな感覚ですか。
『わたしは落ち着いている』と言うときにもその感覚がありますか。
あなたの中には決して変化しない何かがあります。それは生まれることも消えることもなく、いま起きていることを完全に知っています。何かがすべてを観察し、すべてを感じ、すべてに反応します。それから離れないでください。


狂気を目の前にしても、すぐれたセラピストは一つの絶対的真実を知っています。それは、患者の意識がどんなに混乱し、もうろうとしていても、人格の中心の核となるものは、依然として存在しているという事実です。意識が完全に存在しているところが、どこかにあるはずです。患者の内面の統合がなされている場所があり、セラピストは患者をその部分にくり返し連れ戻します。「私」というものを感じる部分がかならずあるのです。「私は気が狂っている。私は絶望している。私はもう何が何だかわからない」というときの「私」が、つねに存在します。



存在する全てのものの本質とは何でしょうか? それらの源は何でしょうか? それらの本質は何でしょうか? それらの運命は? これらの問いへのラムサのアプローチは、彼の「ヴォイド」という概念から始まります。ヴォイドは、存在する全てのものが生じる源です。彼はヴォイドを「物質的には何もない広大な無でありながら、潜在的に全てのものでもある」と言う風に描写します。ヴォイドの中には何もありません。つまり動きも活動もありません。神に関する問いへの哲学的なアプローチの多くは(一神教の宗教の神学も含めて)、神というものを、「全知」、「無限」、「絶対」、「超越的」、「不変」の存在とみなしてきました。ラムサの体系では、絶対性、無限性、不変性といった属性は、ヴォイドの持つ性質です。ヴォイドは自己完結的、自己充足的であり、一種の休止した状態、何も必要としない状態です。ヴォイドは、全てを包含する広大なもののように見えるにもかかわらず、その原初の状態では、自分自身について何も知りません。というのも、知るということは、ひとつの活動だからです。


アリストテレス哲学やトマス・アクィナス神学の中に私たちが見いだす、創造者としての神の概念、すなわち「第一原因」、「不動の動者」といった概念は、ラムサによって、「自分自身について熟考し、自分自身を知ろうとするヴォイド」という言葉で描写されます。この「熟考」という行為は、自分自身に気づき、自分自身を知っているひとつの点を生み出すという、ヴォイドの中での独特の動きを象徴しています。自分自身に気づいているこの点は、「ゼロポイント」、「観察者」、「第一意識」、「意識とエネルギー」、「神」と呼ばれています。ゼロポイントは、広大なヴォイドの中に潜在的可能性として含まれている未知のものをすべて体験して既知にする、という原初の意図をたずさえています。これが進化の基礎です。自分自身について熟考したヴォイドは、人間の源であり、起源です。「あなたは神である」というラムサの言葉は、人間は観察者であり、ゼロポイントが肉体化したものであり、創造的な意識とエネルギーである、ということを言っているのです。



質問者 出来事には原因がないと繰り返しあなたは言われました。ものごとはただ起こり、どのような原因もそれに当てることはできないと。それでもすべてに原因があるはずです、かならずいくつかの原因が。いったいどうやって原因がないということを理解すればいいのでしょうか?


マハラジ 至高の見地から見れば、世界に原因はない。


質問者 しかし、あなた自身の経験ではどうなのでしょう?


マハラジ すべては原因なくして起こる。世界には何の原因もない。


質問者 私は世界創造の原因に関して尋ねているのではありません。誰が世界の創造を見たというのでしょう? それははじまりもなく、つねに存在してさえいるのかもしれません。しかし、私は世界について話しているのではありません。それでも世界は存在すると私は思います。それはあまりにも多くのものを包括しているのです。間違いなく、そのそれぞれにいくつかの原因があるはずです。


マハラジ ひとたびあなたが時間と空間のなかに因果関係に支配された世界をつくり出せば、すべてに原因を探そうとし、そして見つけだすことになるのはまぬがれない。あなたが質問を設定し、答えを無理強いするのだ。


質問者 私の質問はとてもシンプルです。私はあらゆる類のものごとを見て、それぞれに何らかの原因があるはずだ、と理解したのです。あなたはあなたの視点から見るとそれらに原因はないと言います。しかし、あなたにとっては何も存在していないのです。だから因果関係の質問ももち上がりません。それにもかかわらず、あなたはものごとの存在を認めており、しかも因果関係を否定します。これが私には理解しがたいところなのです。ものごとの存在を認めておきながら、なぜ原因を拒絶されるのですか?


マハラジ あなたが、映画のスクリーンに映しだされた画像が光以外の何ものでもないと知っているように、私は意識のみを見て、すべては意識だと知っているのだ。


質問者 それでも、光の運動には原因があります。


マハラジ その光はまったく動かない。あなたもよく知っているように、フィルムのなかの色彩と光を遮る一連の動きは幻想なのだ。動いているのはフィルムであり、それがマインドなのだ。


質問者 だからといって、それが画像に原因のない理由にはなりません。フィルムがあり、役者、技術者、監督、演出家、制作者がいます。世界は因果関係に支配されており、すべては連結しあっているのです。


マハラジ もちろん、すべては相互に連結しあっている。そしてそれゆえ、すべてに無数の原因が在る。宇宙全体がもっとも微少な存在に貢献している。あるものはあるがままだ。なぜなら世界はあるがままだからだ。わかるかね、あなたは金の装飾品を扱っている。そして私は金そのものを扱っている。二つの異なった装飾品の間には何の因果関係もない。あなたがある装飾品をふたたび溶解して別のものをつくるとき、その二つの間には何の因果関係もない。共通の要因は金だ。だが金が原因だとは言えない。それを原因と呼べないのは、それ自体では何の原因にもならないからだ。装飾品が持つ特定の名前と形のように、それはマインドのなかで、「私は在る」として映しだされる。それにもかかわらず、すべてはただの金にすぎない。同様に、実在はすべてを可能にする。それでも、あるものをその名前と形としてつくり出す無は、実在からやってくるのだ。
しかし、なぜそんなに因果関係について心配するのかね? 原因の何が問題なのか? ものごとは、それ自身はかない一過性のものなのだ。来るものは拒まず、去るものは追わず──なぜものごとを捕まえてその原因について尋ねまわるのだろうか?


質問者 相対的な視点からは、すべてに原因があるはずです。


マハラジ 相対的視点がいったい何になるというのかね? あなたは絶対的な視点から見ることができるのだ。なぜ相対性に後戻りするのか? 絶対性を恐れているのかね?


質問者 恐れています。私はいわゆる絶対的確実性と呼ばれるもののなかに眠り陥ってしまうことが恐いのです。立派な生活を送るのに絶対性は助けになりません。シャツが必要なときには、生地を買い、仕立屋を呼び、それから……。


マハラジ これらの話はあなたの無知をあからさまにしているだけだ。


質問者 では知者の見解はどうでしょうか?


マハラジ 光だけがあり、光がすべてなのだ。そのほかすべては光によってできた画像にすぎない。画像は光のなかに、光は画像のなかにある。生と死、自己と非自己。これらすべての概念を捨て去りなさい。それらは何の役にも立たない。


質問者 いったいどの見地から、あなたは因果関係を否定されているのでしょうか? 相対的視野からは、宇宙がすべての原因であり、絶対的視野からは、まったく何も存在してはいません。


マハラジ あなたはどの状態から尋ねているのかね?


質問者 目覚めの状態からです。これらの討論が起こるのは目覚めの状態においてだけです。


マハラジ これらすべての問題は、目覚めの状態のなかで起こる。それがその本性なのだ。だが、あなたはつねにその状態にいるわけではない。いやおうなくあなたは目覚めの状態に現れ、いやおうなくそこから消え去る。そんな状態のなかでいったい何ができるというのだろう?因果関係が目覚めの状態のなかで現れるからといって、それがどう因果関係の有無を知る助けになるのだろうか?


質問者 世界と目覚めの状態はともに立ち現れ、ともに消え去ります。


マハラジ マインドが静かに、完全に沈黙したとき、目覚めの状態は消え去る。


質問者 神、宇宙、全体、絶対、至高といった言葉は、空気中の騒音にすぎません。なぜならそれらに対して、何も行動を起こすことはできないからです。


マハラジ あなたはあなただけが答えられる質問を持ちかけている。


質問者 そんなふうに私をあしらわないでください。あなたはすぐに全体や宇宙といった想像上のことについて話します。全体や宇宙はあなたのもとにやってきて、そのように語ることをやめてほしいと頼むことはできません。私はそういった無責任な概括化に我慢ができないのです。その上、あなたはすぐにそれらを個人的立場で話しはじめます。因果関係なしではどんな秩序も目的ある行動も不可能なのです。


マハラジ あなたはそれぞれの出来事の、すべての原因を知りたいのだろうか? それは可能だろうか?


質問者 それが可能でないことはわかっています。私の知りたいことは、ただすべてのものごとには原因があるのか、そして原因に影響を与えることができるならば、それが出来事にも影響を与えるのではないかということです。


マハラジ 出来事に影響を与えるのに、原因を知る必要はない。あなたがあらゆる出来事の源であり終焉ではないだろうか?それを源そのものでコントロールするがいい。


質問者 毎朝、新聞を手にするたびに、貧困、憎悪、戦争といった、いつまでも排除されることがない世界中の不幸を知って、私は落胆します。私の質問は悲しみの要因とその原因、そしてその救済に関わるものです。それを仏教主義だとあしらわないでください。どうか決めつけないでください。原因はないというあなたの主張は、変化し続ける世界の希望すべてを消し去ります。


マハラジ あなたは混乱しているのだ。なぜなら、あなたのなかに世界があるのではなく、世界のなかにあなたがいると信じているからだ。誰が初めに現れるのだろう? あなたか、あなたの親だろうか? あなたは自分がある時、ある場所で生まれ、父と母、名前と形をもっていると想像している、それがあなたの罪と禍なのだ。もちろん、あなたが働きかければ世界を変えることができる。ぜひとも働きなさい。誰があなたを止めているのかね? 私は思いとどまらせてはいない。原因があろうとなかろうと、あなたがつくった世界だ。あなたはそれを変えることができる。


質問者 原因のない世界は完全に私のコントロールを超えています。


マハラジ その反対に、あなたがその根源であり土台である世界を変える力は、完全にあなたの力のなかにあるのだ。想像されたものはいつでも溶解し、つくり変えることができる。もしあなたが本当に望むならば、すべては望むように起こる。


質問者 私の知りたいことは、世界の不幸をどうすればいいのかということです。


マハラジ 世界の不幸はそれと関わるなかで、あなたがあなた自身の欲望と恐れからつくり出してきたのだ。すべてはあなたが真我の存在を忘れてしまったためだ。スクリーン上の画像に現実性を与えた上で、あなたはそれらの人々を愛し、彼らのために苦しみ、彼らへの救いを求める。そうではない。あなたはまず、あなた自身からはじめなければならないのだ。ほかに道はない。そうだ、働きなさい。働きかけることに問題はない。


質問者 あなたの宇宙は、あらゆる可能性のある経験を含んでいるようです。人はそれをたどって方針を決め、喜びや悲しみの経験を持ちます。これが疑う心と探求心を目覚めさせ、視野を広げ、自己中心的で、かぎられた、自分だけの狭い世界を超えさせてくれます。この個人の世界を時間のなかで変えることはできますが、宇宙は永遠であり完全です。


マハラジ ただの現れにすぎない幻を実在と見なすことは悲しむべき罪であり、すべての災いの原因だ。あなたはすべてに遍在する、永遠で無限の創造的気づき──意識なのだ。それ以外のすべてはかぎられた時と場所のなかに在る。何が本来のあなたなのか、忘れてはならない。その合間に心ゆくまで働きなさい。仕事と知識は手に手をとって進むべきだ。


質問者 私の感覚では、霊的成長は私の手の内にはないと思います。自ら計画を立て、それを実行していくことは、どこにも導いてくれません。ただ自分自身のなかで輪を描いて走るまわるだけです。神は果物が熟したと思ったとき、それを採って食べるでしょう。まだ完熟していない果物なら、その日が来るまで世界の樹に残すでしょう。


マハラジ 神があなたのことを知っていると思うのかね? 世界のことさえ彼は知らないのだ。


質問者 私の神は、あなたの神とは違う神です。私の神は慈悲深く、私たちとともに苦しみます。


マハラジ あなたがひとりを救おうと祈る間に、何千人もが死んでいく。そして、もしすべての死が止められたならば、地球上に空間がなくなってしまうだろう。


質問者 私は死を恐れてはいません。私の関心は悲しみと苦しみにあるのです。私の神はシンプルな、むしろ無力な神です。彼には私たちに賢くなるよう強いる力はありません。彼はただ傍らに立ち、待つだけです。


マハラジ もしあなたとあなたの神がともに無力ならば、そのことが、世界は偶然の産物だということを暗示しているのではないだろうか? そして、もしそうならば、唯一あなたにできることはそれを超えていくことだ。


02 2024/03 04
S M T W T F S
30
31
HN:
Fiora & nobody