マハルシ 活動や現象が真我から離れて起こるものではないということを悟ったとき、真我は実現されます。


それに注意を与えないことが無知なのです。


質問者 束縛をもたらすのは執着心だけということでしょうか?


マハルシ まったくそのとおり。執着心が束縛なのです。

(対話317)



無条件の愛は、自然にあなたのもとにやってきます。自分自身や他人にあわれみを寄せるのは、あなたの本性なのです。手をのばし、友人を慰めたいと思うのは、あなたにとって自然なことです。気遣ってくれる人たちの愛を受けいれるのは、あなたにとって自然なことです。


どれにも努力はいりません。学習もいりません。


ではなぜ、無条件の愛を経験することが、めったにないのでしょうか。その答えを聞いて、あなたはきっと驚くでしょう。


もともと、あなたがたは神とひとつで、その愛の全能の力を分かちもっていました。あなたにとって不可能はありませんでした。ところが、そのうちに、神から離れたらどうなるだろうという思いが起きました。離れてみると、それは初めての経験でしたから、自信がもてません。疑いが入りこんできて、こう思います。「もし、なにかうまくいかなかったら?」この疑いは、分離の不安にすぎなかったのですが、ほかの多くの恐怖心を呼び起こしてしまいました。その中には、「わたしが事態をめちゃくちゃにしたら、神はお怒りのあまり、わたしを愛してくださらなくなるだろう」というものもありました。この考えが決め手になったのです。


ほどなく罪悪感と、愛に満ちた神から切り離されるという感情が経験されるようになりました。この分離はあなたがたが創りあげて、自分に押しつけたものですが、とてもリアルに感じられます。あなたがたはそれを信じるようになりました。


そのあとであなたがたの創造したものは、その信念の結果です。つまり「神はわたしを愛しておられない。わたしに満足しておられない。わたしは神の愛に値しない」ということです。


そして自分自身の心(マインド)の中でかってに、恩寵から失墜してしまいました。神の愛の全能の力を分かちもっていたのに、その愛を怖れるようになりました。自分自身の創造力を怖れるようになって、それを見えないところへ隠してしまったとも言えます。あなたは創造者であることをやめ、犠牲者になりました。原因であることをやめ、結果になりました。つまり、事実を逆転させてしまったのです。愛を恐ろしいものにしてしまいました。


分離を感じているときには、その分離以前がどんな感覚だったのか、思い出すことはできません。それがあなたがた特有のジレンマのようです。


神へもどる道を見いだすには、一歩一歩足跡を逆にたどって、「分離」は自分が選んだもので、神が選んだのではないと悟ることです。「わたしが、もしこの力を濫用してしまったら」とあなたは考えました。そのせいで、自分の力が恐ろしいものになるような世界を創る方向へ行ってしまいました。あなたはさらに先へ進んでゆき、神があなたの疑いと恐れに答えてくださるのを待たなかったのです。


もし神のお答えを聞いたとしたら、それはたぶん次のようなものでしょう。「おまえは無条件に愛されている。わたしはおまえへの愛をひっこめたことは一度もないのだよ。愛されていることを思い出せば、おまえは愛に満ちたふるまいしかできないだろう」


神のこのお答えを聞いたら、分離されたというあなたがたの夢も終わることでしょう。それは、自分が愛されていないという思いこみを、まっこうから打ち破るものだからです。この思いこみが非現実的な考えのおおもとです。あらゆる犠牲者意識は、この思いこみから生まれます。自分が「愛されるに値しない」と信じていないかぎり、「悪い」ことを考えたり「悪い」ことをしたりはできません。あらゆる攻撃も、このたったひとつの思いこみから来るのです。


アダムとイブも同じように「もし」と考えました。「もし、わたしがこのリンゴを食べ、神様と同じくらいの力を持つようになったら?」ふたりもまた、自分でかってに恐ろしい答えを考えだし、恥ずかしいと思って、神の目から姿を隠そうとしました。あなたがたはいま同じ問いを立てています。おなじリンゴをかじっているのです。あなたがたも、神と隠れんぼをしようとしています。


あなたの犠牲者としての経験を作っているのは、たえまないこの自問自答なのです。自分で創りあげた世界で、あなたは犠牲者であると同時に迫害者でもあります。このふたつの役割をよく調べれば、そのあいだにほとんど違いがないのがわかるでしょう。犠牲者は迫害者を必要とし、逆もまた真です。


自分には愛を与えたり受けとったりする価値がないのでは、と疑ったとき初めて、悪の問題が生じてきました。愛を与え、受けとることこそ、あなたの存在のありかたです。あなたは自分が愛に値しないかもしれないと疑いました。自分だけでなく、この世界のすべてのものがです。そこで、さあ選択です。あなたがなすべき唯一の選択は、「わたしは愛に値するか」という問いに、自分で答えるか、神のお答えを待つかです。


実にかんたんなことです。神に、あなたのもともとの誤った思いこみを正していただくか、この思いこみを真実として受け入れ、その上に自分の人生を築くかです。


リンゴをしゃぶるのをやめるのに、遅すぎることはありません。自分の立てたそもそも誤った問いへの答えは不満足なものでしかありえない、と悟るのに遅すぎるということはありません。神に向きなおって、こう言うのに遅すぎるということはありません。「神よ、わたしの出した答えは、自分の心を恐怖で満たしました。その答えは、人生に悩みと苦労をしか持ちこみませんでした。だからこの答えはきっと誤っているのです。どうか別の答えを探すのを手伝っていただけませんか」


地上でのスピリチュアルな生活は、この問いを口にすることから始まります。どんな宗教を信じているかは関係ありません。社会的地位あるいは経済的状況は関係ありません。自分の誤った信念や思いこみに立ちむかう準備の整う瞬間が、だれの人生にも必ずやってきます。それはあなたの癒しの始まりであり、本来の力と生きる目的の回復となります。


自分自身の疑いを疑うこと、自分自身が否定的な存在であることを否定することが、ターニング・ポイントになります。物質世界への下降の終わりであり、天への上昇の始まりです。それは神とのパートナーシップの更新であり、モーゼ以来の”新たな契約”となります。


自分自身を、またほかの人を、不幸な犠牲者と見ているかぎりは、神のパートナーにはなれません。”新たな契約”はあなたに、神の王国を自分のハートの中に認めることを求めています。それはつまり、神があなたと分離しているという考えを拒否することでもあります。自分が、あるいは兄弟が、愛に値しないという考えを拒否してください。悪とは恐怖心の中で生み出された考えだとして拒否してください。神の力を濫用しうるなどという考えを、拒否してください。


”新たな契約”とは、「もし……したら?」という問いへの、神の答えを受けいれることです。それは自分自身の救済の始まりであり、神の王国を人類が地上に受けいれる第一歩でもあります。


むかし、あなたがたは、神と自分との創造的なパートナーシップを拒否しました。いま、あなたはそれをとりもどす準備ができています。むかし、あなたがたは、自分が神の目からみれば愛に値しないという考えをもてあそびました。いま、あなたは神との永遠の愛の交流をとりもどそうとしています。


神をふたたび人生に受けいれれば、この世界およびそこに住むものとの経験すべては、すっかり変わってしまいます。あなたは近寄ってくるすべての子どもの父親であり、母親であり、近寄ってくる老人の息子、娘となります。友だちの多い人にも孤独な人にも、友だちとなります。自分が愛されていることを覚えている人をも、それを忘れた人をも愛します。


あなたの愛に満ちた存在と神の愛の実践が、必要とされないような場所はありません。すべての場所があなたのやさしい言葉を呼び求めています。あなたが渇きを癒す杯(さかずき)からいっしょに飲むことを、すべてのものが待ち望んでいます。


不幸という夢は、その存在を問いつめ、拒絶したときに、終わっています。あなたが自分の不幸を問いつめるとき、ハートの中にある無条件の愛に目覚めてゆくのです。不幸に甘んじていれば、その経験はさらに度を増してゆき、底まで落ちます。でも底に達すれば、もうたくさんだとわかるでしょう。


だれも他人を、むりやりに目覚めさせることはできません。だれでも、条件つきの愛をやりとりすることの不毛を経験する時がやってきます。分離とコントロールが耐えがたくつらいものになるまでは、そういう愛にしがみついています。どのくらいで耐えられなくなるかは人によって違いますが、だれでもいつかは限界に達します。


ですから、人にお説教するのではなく、ただ愛を及ぼすようにと、わたしは言うのです。それを受けいれる準備のできた人は、あなたについてきて助けを求めるでしょう。まだ準備のできていない人は、あなたとはかかわりなく自分の旅をつづけるでしょう。


「教師」は求められればそれを「教え」ます。愛を願い求める人には、行いで、あるいは言葉で、愛を及ぼします。こうすればそのうち救われると言ったり説いたりして、信じない人をおどしつけたりしません。


救済は、いま、救われたいと願う人すべてに与えられています。ほかの人を批判・判断しないでください。それはあなたの役目ではありません。遅れて神の愛のひざにもどってくる人が、早々ともどった人よりも価値がないとはいえません。


ほんとうのことを言えば、あなたをひきあげるのは神ではありません。わたしでもありません。あなたがあなたをひきあげるのです。自分がいかに愛すべき存在かを思い出し、神の計画のなかでの自分の役割を受けいれることで、自分をひきあげます。


自分の全能性を受けいれるためには、まず神と和解しなくてはなりません。すべての力は神から来るからです。あなたも対等のパートナーとしてそれを分かちもつのですが、神と離れては、その力を行使することはできません。「もし……したら」の夢を見ているさなかでさえ、あなたは神の愛から完全に分離することはできません。その夢の中で苦しみが限界に達すれば、もどることを選ぶでしょう。それはだれでも同じことです。


神の愛の力は、濫用などできません。拒絶し、否定し、隠してしまうことはできるでしょう。しかしあらゆる拒絶、否定、秘めた罪悪感にも限界があります。真実は、ゆがめられるかもしれませんが、完璧に抹消されたり否定されたりすることはありません。どんな暗闇にも一点の光はつねに残っています。その光は、それを見つけたいという望みがわきあがったときには、つねに見つかります。


友よ、あなたは自分の夢の主人公です。闇を夢見たのもあなたなら、光をもたらすのもあなたです。あなたは誘惑者と救済者のひとりふた役です。そのことを、あなたはすでに知っているはずなのですが、あらためて知るようになります。


この自作自演のドラマの中で、あなたのかかえる問題は神との関係のみです。見かけは兄弟とのもめごとのように感じるかもしれませんが、そうではありません。善悪の木は、あなたの心(マインド)の中に生えています。自分がつまらないものだとか、力を誤ったふうに使うとか、あなたが考えているのは、あなたの心の中でだけです。


あなたの答えと神の答えが、ぴったりひとつになるときがやってきます。そのとき善悪の木は、分かちがたい全体である、生命の木になるでしょう。愛はもはやその敵対物をもたず、自由にあらゆる方向へ広がってゆきます。


だれかが近づいてきて、あなたの愛に、また自分の愛に条件をつけようとしたら、あなたはこう言います。「兄弟よ、わたしはその夢を見たけれども、その結果を知った。それは苦しみと死にしかつながらない。どちらにとっても満足はいかない。そんな夢を生みだした、もともとの思いこみをよく調べてみよう。いっしょに考えれば、きっと道が見つかるはずだよ」


地上での自分の目的はなんだろうか、と考えたことがあったとしたら、この前の段落をもう一度読んでください。そうすれば、自分の目的とは、愛の呼びかけを聞いたらつねにそれに応(こた)えることだけだったのだ、と思い出します。あなたにその気があれば、むずかしいことではありません。特別な能力も才能もいりません。どのようにとか、なぜとかは、あなたが目の前に開かれた扉を通りぬければ、愛がみずから取りはからうでしょう。


わたしはあなたがたに、レンガの壁を通りぬけなさいとか、水の上を歩きなさいと言った覚えはありません。扉が開いているのを示し、入る準備ができているかどうか、たずねただけです。あなたも兄弟に対して、それだけをたずねてください。


条件をつけずに愛することのできる人は、結果に執着しません。人は来て、また去ってゆき、あなたにはその理由はけっしてわかりません。いかにも楽々と門を通りぬけそうに見える人が、手前でくるりときびすを返して立ち去っていきます。とうてい門の見える地点まで来るとは思えないような人が、思いもかけない潔(いさぎよ)さでそこをくぐっていきます。


心配をやめてください。だれが来て、だれが去ってゆくかは、あなたの問題ではありません。契約はすべての人のハートの中にあって、神のみが、だれが準備ができているかをご存じです。それは神におまかせし、ただ神とともに働くことに心がけましょう。神の意志を行うとき、人生ははるかにスムーズに流れてゆきます。神を信じるとき、ハートはそのふちまで愛と受容になみなみと満たされ、あふれ出るのです。


こうしてわたしたちは、愛の供給に限りのないことを知るでしょう。それには始まりもなく、終わりもありません。地上のすべての限界は、神の王国がわたしたちのハートの中に建てられるとき、きわまりのない天の愛のなかに溶け去るのです。



質問者 人間と宇宙に関して数多くの理論があります。創造の理論、幻想の理論、夢見の理論等々、数えきれません。どれが本物なのでしょうか?


マハラジ すべて本物で、すべて偽物だ。どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。


質問者 あなたは夢の理論を好んでいるようですが。


マハラジ それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。理論は正しくも間違ってもいない。それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。理論を試すことがそれを価値あるものにする。あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のなかにいる。そして解決法を探している。あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。どれも本物とは言えない。だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。だが、あなたが本当に真剣ならば、理論ではなく、あなたの真剣さが解放へと導くのだ。


質問者 理論は迷わせるかもしれず、真剣さは盲目にさせるかもしれません。


マハラジ あなたの誠実さがあなたを導くだろう。自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろう。そしてあなたは智慧と知性、そして愛とともに生きはじめる。理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。早ければ早いほどいい。


質問者 真我の実現のためには、ヨーガの八段階の修練は必要なく、意志の力のみで充分だと説くヨーギがいます。純粋な意志の力への完全な確信をもって目的に集中するならば、ほかの者たちが何十年もかけて到達することも、努力なしに急速に達成すると言います。


マハラジ 集中力、絶対の確信、純粋な意志! そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟した探求者にとってはいいだろう。つまるところ、意志とは安定したハートとマインドのことなのだ。そのような不動の姿勢で臨めば、達成できないものなど何もない。


質問者 ヨーギが意味していたのは、単に絶え間ない追求と勉学への不動の意志を意味していたのではないと私は感じています。目的への意志が確固であれば、どのような勉学も、研究も必要ないということです。単に意志を持っているという事実が、対象を引きつけるのです。


マハラジ あなたが意志、決心、一途な心、何という名でそれを呼ぼうと、つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来の目的に結びつける。ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。あなたは目的に完全に献身する。意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。身動きがとれなくなるのも無理はない。ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。


質問者 欲望と運命、どちらがより強力なのでしょうか?


マハラジ 欲望が運命を形づくる。


質問者 そして運命が欲望を形づくります。私の欲望は遺伝と環境、チャンスと偶然、いわゆる運命によって条件づけされているのです。


マハラジ あなたの言うとおりだろう。


質問者 いつ私は望む自由をもてるのでしょうか?


マハラジ たった今、あなたは自由なのだ。あなたが望むことは何だろう? それを望むがいい。


質問者 もちろん、望むことは自由ですが、それに働きかけることは自由ではありません。ほかのものへの衝動が、私を迷わせるのです。たとえ私が容認したものでも、私の欲望は充分強くありません。私が容認しない欲望のほうが強いのです。


マハラジ おそらく、あなたはあなた自身を偽っているのだろう。たぶんあなたが容認する欲望は体裁を保つため表面にとどめておいて、本当の欲望には表現の機会を与えていないのだろう。


質問者 あなたの言うとおりかも知れません。しかし、それもまた別の理論です。事実は、私はすべきだと想うことを自由に望めないと感じ、正しく望んでいるように見えるときには、それにしたがって行為をしないのです。


マハラジ それはみな精神的弱さと、不完全な脳によるものだ。マインドを落ち着け、強化しなさい。そうすればあなたの思考、感情、言葉、行為は、あなたの意志の方向に沿うようになるだろう。


質問者 マインドを統合し、強化することはたやすい仕事ではありません。いったいどのようにはじめればいいのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたがいるところからはじめることができる。あなたは今ここに在る。今ここを離れることはできないのだ。


質問者 ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたの存在に気づくことができる。今ここで。


質問者 それだけですか?


マハラジ それだけだ。それ以上何もありはしない。


質問者 夢見の状態と目覚めの状態で、いつも私は自分を意識しています。それは大した助けにはなってはいません。


マハラジ あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。


質問者 どのような新しい要因をもちこめばいいのでしょうか?


マハラジ 出来事に巻きこまれることなく見守る、純粋な観照の姿勢だ。


質問者 それが私に何をするのでしょうか?


マハラジ 弱いマインドは知性と理解の欠如から起こる。それはまた不注意の結果でもある。気づきのために努力することによって、あなたはマインドをひとつにし、それを強力にするのだ。


質問者 私は何が起こっているかには完全に気づいているかも知れませんが、それに影響を与えることはまったく不可能なのです。


マハラジ そうではない。何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。一方、知識が力を与える。その訓練はとてもシンプルなものだ。自己を制御するために、自己を知りなさい。


質問者 おそらく、私は自分を制御できるようにはなるかもしれません。しかし、世界の混乱を扱うことができるようになるでしょうか?


マハラジ あなたのマインドがつくり出した混乱以外に世界の混乱というものはない。それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを中心に自己創造されるのだ。実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。


質問者 私は自分が喜びへの欲望と苦痛への恐れによって、完全に動機づけされていることを見いだしました。いかに私の欲望が高尚であり、恐れが正当化されたとしても、喜びと苦痛は、その間で私の人生が振動する、二つの極なのです。


マハラジ 苦痛と喜び、恐れと欲望、その両方の源へと行きなさい。観察し、調査し、理解することを試みなさい。


質問者 欲望も恐れも身体的、精神的要因によって起こる感情です。それらはそこにあり、たやすく観察できます。しかし、なぜそれらはそこにあるのでしょうか? なぜ私は喜びを望み、苦痛を恐れるのでしょうか?


マハラジ そこに身体と身体を守るマインドが存在するかぎり、好感と反感は作用するだろう。それらが出来事のなかに現れても、あなたに影響することはない。あなたの留意の焦点は別の場にあり、それに迷わされることはないのだ。


質問者 それでも、それらはそこにあるでしょう。完全に自由になることは不可能なのでしょうか?


マハラジ あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の結果なのだ。普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろう。


質問者 しばしば、人びとは自らの意志で死にます。


マハラジ 選択が死より一層悪いときにかぎってだ。しかし、そのような死ぬ用意も生きる意志と同じ源から流れてくる。その源は生命そのものよりも深いものだ。生きる存在として在るということは、究極の状態ではない。そこには彼方にある、何かはるかに素晴らしい、存在でも非存在でもなく、生命でも非生命でもないものがある。それが時間と空間の限界を超えた純粋な覚醒だ。ひとたびこの「身体─精神」が自己だという幻想が放棄されたならば、死はその恐怖を失い、それは生きることの一部となるのだ。


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