上流階級の教養あるインド人女性リーナ・シャラバーイの質問に、シュリー・バガヴァーンが答えた。


マハルシ 平静な状態が至福の状態です。『ヴェーダ』の中の「私はこれだ、あるいはあれだ」という宣言も、心の平静を得るだけのためにあるのです。


質問者 それでは、一つの目的を持って探求することは間違いなのですね?


マハルシ もし到達されるべき目的地があるとすれば、それは永遠のものではありえません。目的地は、すでにそこにあるものでなければなりません。私たちは自我によって目的地に到達しようとしています。しかし目的地は自我が現れる以前から存在しているのです。目的地は私たちの誕生、つまり自我の誕生以前から存在しています。私たちが存在するため、自我も存在するように見えるのです。


(中略)


マハルシ 実現はすでにそこに在ります。想念から自由になった状態だけが真の境地であって、実現といったような行為はないのです。真我を実現していない人がいるでしょうか? 自分の存在を否定する人がいるでしょうか?


(中略)


マハルシ 心を殺したいと思っているのは、心そのものではないでしょうか? 心がそれ自体を殺すことはできません。それゆえ、あなたの仕事は心の真の本性を見いだすことにあるのです。そうすれば、心が存在していないことを知るでしょう。
真我が探求されたとき、心はどこにも見当たりません。真我の内にとどまれば、心の心配をする必要はなくなるのです。


(中略)


マハルシ 誰が自分以外のもの(外側にあるもの)を見るのでしょうか? 最初に自我が現れ、外側に物事を見ます。自我が立ち現れなければ、真我だけが存在し、自分以外のものは何もなくなるのです。
自己の外側に何かがあるとしたら、それは内側に見る者がいることを暗示しています。その見る者を探し出せば、疑いや恐れは起こらなくなるでしょう。恐れだけではありません。自我を取り巻くすべての想念も、それとともに消え去るのです。


(中略)


マハルシ もし単一性があるなら、そこには二元性もあるということです。一という数が、その他の数を生じさせるからです。しかし真理には一も二もありません。「それ」はあるがままなのです。


(中略)


「あなたは自我ではない。実在を実現しなさい」と言われたにもかかわらず、なぜまだ自我と自分自身を同一視するのでしょうか? それはちょうど「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」という諺のようなもので、不可能なことです。普通の人々にも同じことが起こります。実在について教えられたのに、なぜ「私はシヴァである」や「私はブラフマンである」に瞑想し続けるのでしょう? その真の意義を見極め、理解しなければなりません。単に言葉を繰り返したり、それについて考えたりするだけではだめなのです。
実在とはただ自我を失うことです。

(対話146)



あなたは誰が自分の運命を創造していると思っているのだろうか? 多くの人間が、ひとりの至高の存在がすべての者を操り、すべてのことを起こしていると信じている。そう信じていれば、自分自身の人生に対する責任という重荷をもはや背負う必要がなくなるからだ。しかし、あなたの運命を支配しているのは、あなたである。この瞬間に考えていることや感じていることによって、あなたは自分の人生のあらゆる瞬間を創造している張本人である。あなたが学ぶ必要があるのは、この瞬間、この「今」こそが、まさに永遠そのものであり、それは絶え間なく続いていくということだけだ。そして、この「今」という絶え間ない継続性の中では、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのだ。それは昨日にとらわれているわけではない。明日を夢見て現実化するためにあなたが創造したのは、この「今」という瞬間である。それゆえ、この瞬間に、あなたは自分が望むどんなことでもできる自由を持っている。それが「父」のあなたへの愛である。その愛とは、それぞれの瞬間を新たに創造していくために、「父」があなたに与えてくれた自由と力のことである。


過去というものは、すでに体験されたひとつの「今」にすぎず、もはや存在しないものである。過去が現在と関係している点があるとすれば、あなたはすでに過去から学べることをすべて学んだのだということだけである。つまり、あなたが自分自身の内奥の思考プロセスと意図的なデザインにしたがって、自分の能力を最大限に発揮しながらこの瞬間を創造するための叡智を、過去はあなたにもたらしたのだ。


過去は終わったものである。それはもはや存在しない。この「今」という瞬間においては、過去はあなたの内面で叡智としてのみ生きている。叡智こそが、過去があなたにもたらしてくれたものである。それゆえに、この「今」という瞬間のあなたは、これまでの人生の中で最も偉大なのだ。



質問者 私の職業は医師です。外科からはじめて、現在は精神医学をやっています。また、信仰による精神的健康とヒーリングに関する何冊かの著作があります。あなたから霊的健康の法則を学ぶために来ました。


マハラジ あなたが患者を治療しようとするとき、正確には、あなたは何を治そうとしているのだろうか? 治療とは何だろうか? 人が治ったと言えるのはどの時点だろうか?


質問者 私は身体を治療すると同時に、身体とマインドのつながりも改善しようとします。また、マインドを回復させようともします。


マハラジ あなたはマインドと身体の連結を調べただろうか? どの点でそれらは連結しているのだろうか?


質問者 身体と内在する意識の間にマインドがあるのです。


マハラジ 身体とは食べ物によってできたものではないだろうか? そして、食べ物なしにマインドがありうるだろうか?


質問者 身体は食べ物によって築かれ維持されています。食べ物なしにはマインドは通常衰弱していきます。しかし、マインドは単なる食べ物ではありません。そこにはマインドを身体のなかにつくり出す、ある変容させる要因があります。その変容させる要因とは何でしょうか?


マハラジ 木が木ではない火を生みだすように、身体は身体ではないマインドをつくり出すのだ。しかし、マインドは誰にとって現れるのだろう? あなたがマインドと呼ぶ思考や感情を知覚するのは誰だろうか? 木があり、火があり、火を楽しむ人がいる。誰がマインドを楽しむのだろうか? 楽しむ人もまた食べ物の結果だろうか、あるいはそれに依存しないのだろうか?


質問者 知覚する人は依存しません。


マハラジ どうやってあなたは知るのだろう? あなた自身の体験から語りなさい。あなたは身体でもなくマインドでもないと言う。どのようにしてそれを知るのだろうか?


質問者 私は本当は知りません。そう推測したのです。


マハラジ 真理は永遠のものだ。実在は不変だ。変化するものは実在ではない。実在は変化しない。さて、あなたのなかで変化しないものとは何だろうか? 食べ物があるかぎり、身体とマインドはある。食べ物がなくなれば、身体は死に絶える。マインドは溶け去る。だが、観察者は消えるだろうか?


質問者 私は消え去らないと思いますが、証拠がありません。


マハラジ あなた自身がその証拠なのだ。ほかのどんな証拠もあなたはもっていないし、もつこともできない。あなたはあなた自身だ。あなたはあなた自身を知り、あなた自身を愛している。何であれマインドがすることは、それ自身への愛のためにするのだ。自己の本性そのものが愛なのだ。それは愛し、愛され、そして愛すべきものだ。身体とマインドをそんなにも興味深く、親しくするのは自己だ。それらに与えられる配慮自体も自己からやってくるのだ。


質問者 もし真我が身体でもマインドでもないなら、身体とマインドなしに自己は存在できるのでしょうか?


マハラジ できる。自己がマインドと身体から独立した存在だということは実際の体験なのだ。それは存在─意識─至福だ。存在の意識は至福なのだ。


質問者 それはあなたにとっては実際体験でしょうが、私にとってはそうではありません。私はどのようにして同じ体験に行き着くことができるでしょうか? 何の修練にしたがい、どのような訓練をすればよいのでしょうか?


マハラジ あなたが身体でもマインドでもないと知るには、あなた自身を油断なく揺るぎなく見守ることだ。また、あなたの身体とマインドに影響を受けることなく、完全に距離を置き、あたかも死んでいるかのように生きるがいい。つまりあなたは身体にもマインドにも既得権をもっていないという意味だ。


質問者 それは危険です!


マハラジ 私はあなたに自殺しろと言っているのではない。それに、あなたにはできない。あなたが殺せるのは身体だけだ。精神的過程を止めることはできないし、あなたがあなただと考えている個人に終止符を打つこともできないのだ。ただ、影響を受けずにいなさい。このまったく超然と離れて在ること、マインドと身体に無関心であることは、存在の核心では、あなたが身体でもマインドでもないことの最良の証明なのだ。身体とマインドに起こることは、あなたの力では変えられないかもしれない。しかし、あなたはいつでもあなたが身体とマインドだと想像することをやめられるのだ。何が起ころうとも、影響を受けるのはあなたの身体とマインドだけで、あなた自身ではないのだと思い出しなさい。覚えなければならないことを覚えることに誠実であればあるほど、あるがままのあなた自身に早く気づくようになるだろう。なぜなら、記憶が体験となるからだ。誠実さが存在を明かすのだ。想像し、決意したことが現実となる。ここに危険性と、また同様に解決の糸口があるのだ。
あなたがどのようにして不変である本来の自己を身体とマインドから切り離したのか、話してみなさい。


質問者 私は医者です。私は多くを学び、訓練方法としての厳しい制御と、定期的な断食を自らに課してきました。私は菜食主義者です。


マハラジ しかし、ハートの奥底で、本当にあなたが欲しているものは何だろうか?


質問者 私は実在を見いだしたいのです。


マハラジ  実在のために、どれほどの代償を支払う用意があるのかね? いくらでもかまわないかね?


質問者 理論的には、いかなる代償も支払う用意があります。実際の人生では、何度も何度も私と実在の間を阻むような行動をさせられてきました。欲望が私を夢中にさせるのです。


マハラジ あなたの欲望を、実在以外にはそれを満たすことができなくなるほど増大させ、拡大させなさい。欲望が間違いなのではない。だがその狭さ、小ささが間違いだ。欲望とは献身だ。ぜひとも真実に、かぎりなきものに、生命の永遠のハートに献身しなさい。欲望を愛に変容させなさい。あなたが求めているのは幸福であることだけだ。あなたのすべての欲望はそれが何であれ、あなたの幸福への熱望の表現なのだ。基本的に、あなたはあなた自身の幸福を望んでいるのだ。


質問者 そうすべきではないと、私は知っています……。


マハラジ 何だって! 誰がそうすべきではないとあなたに言ったのかね? 幸せになることの何が悪いのか?


質問者 自己は去らねばなりません。


マハラジ しかし、自己はそこにある。あなたの欲望はそこにある。あなたの幸福への熱望はそこにある。なぜか? なぜなら、あなたはあなた自身を愛しているからだ。あなた自身を愛しなさい。賢明に。あなたを苦しめることになるような、愚かな仕方であなた自身を愛してはならない。あなた自身を賢明に愛しなさい。耽溺も禁欲も、ともにあなたを幸せにする同じ目的をもっている。耽溺は愚かな方法であり、禁欲は賢い方法だ。


質問者 禁欲とは何でしょうか?


マハラジ ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが禁欲だ。不必要なことを避けることが禁欲だ。つねにものごとを制御することが禁欲だ。欲望自体は何も悪いものではない。それは生命そのもの、知識と体験のなかに成長しようとする衝動なのだ。
間違いはあなたの選択にある。食べ物、セックス、権力、名声といったささいなことがあなたを幸せにすると想像するのは、自分自身を欺くことだ。あなたの本来の自己のように、深く、広大な何かだけがあなたを真に、永遠に幸福にするのだ。


質問者 自己愛の表現としての欲望が何も基本的に間違ったものではないとすれば、どのように欲望を扱えばよいのでしょうか?


マハラジ つねにもっとも深い自己への興味を心に保ち、生を知的に生きなさい。結局、あなたが本当に欲しいのは何なのか? 完璧ではない。あなたはすでに完璧なのだ。あなたが求めているのは、あなたであるものを行為のなかで表現することなのだ。このためにあなたは身体とマインドを持っているのだ。それらを手にし、あなたに仕えさせなさい。


質問者 ここで操作をする人は誰でしょうか? 誰が身体とマインドを手にしているのでしょうか?


マハラジ 浄められたマインドが自己の誠実な奉仕者なのだ。それが内面と外面の道具を監督し、それらを目的のために仕えさせるのだ。


質問者 それらの目的とは何でしょう?


マハラジ 自己は普遍のものだ。そしてその目的も普遍のものだ。自己には個人的なものは何もない。秩序ある生を生きなさい。だが、それ自体を目的にしてはならない。それは高次の冒険のための出発点であるべきだ。


質問者 あなたは私がインドを繰り返し訪れることを勧めますか?


マハラジ もしあなたが真剣ならば、あちこち動き回る必要はない。どこにいようと、あなたはあなた自身だ。そして、あなたは自分自身の空気をまわりにつくり出す。移動や交通は解放を与えはしない。あなたは身体ではないのだ。身体を場所から場所へと引きずりまわしても、あなたをどこへも連れて行きはしない。あなたのマインドは三界を思いのままに行き来するのも自由なのだ。それを最大限に利用するがいい。


質問者 もし私が自由ならば、なぜ身体のなかにいるのでしょうか?


マハラジ あなたは身体のなかにはいない。身体があなたのなかにあるのだ! マインドはあなたのなかにある。身体とマインドはあなたに起こるのだ。それらがそこにあるのは、あなたがそれらに興味をもったからだ。あなたの本性は楽しむための無限の能力をもっている。いっぱいの情熱と愛情をもっている。それはその輝きを気づきの焦点のなかに来るすべてに放ち、何ひとつ除外されるものはない。あなたの本性は悪も醜さも知らない。それは期待し、信頼し、愛する。あなたたちはあなたの本来の自己を知らないことで、どれほど逃しているかを知らないのだ。あなたは身体でもマインドでもない。燃料でも火でもない。それらはそれら自体の法則にしたがって現れては消えるのだ。
あなたであるそれ、あなたの本来の自己、あなたはそれを愛している。そして何であれあなたのすることは、あなた自身の幸福のためにするのだ。それを探し、それを知り、慈しむのはあなたの基本的な衝動なのだ。遥かなる昔から、あなたはあなた自身を愛してきた。だが、けっして賢明なやり方ではなかったのだ。自己に仕えるために、あなたの身体とマインドを賢く使いなさい。それだけだ。あなた自身の自己に真実でありなさい。あなた自身を絶対的に愛しなさい。
他者をあなた自身のように愛しているというふりをしてはならない。彼らとあなたがひとつであると悟らないかぎり、あなたに彼らを愛することはできない。あなたではないもののふりをしてはならない。あなたであることを拒んではならない。あなたの他者への愛は自己知識の結果であって、その原因ではない。真我の実現なしには、いかなる徳も本物ではない。すべてを通して同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。あなたが、あなた自身へのあなたの愛の深さと豊かさを悟ったとき、すべての生きているものたちと宇宙全体があなたの愛情のなかに含まれていることを知るだろう。しかし、何であれあなたから分離していると見るとき、あなたはそれを愛せない。なぜなら、あなたはそれを恐れているからだ。疎外は恐れを引き起こし、恐れは疎外をより深くする。それは悪循環だ。真我の実現だけがその輪を断ち切ることができる。固い決意でそれに向かいなさい。


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