私だけが存在する。何も私のものはない。他の何ものも私ではない。
私ではない人を私は見ない。私のものでない人はいない。

『マハーバーラタ』第12章788節


マハルシ アハム──「私」はただ一つです。自我は異なります。
「私」は唯一の存在であり、「私」が真理なのです。その後に続く言葉は、すべて二元的感覚を否定するためのものです。

(対話284)



一つの根本的真理を認めなくてはなりません。現在この瞬間、いまの自分に何もつけ加えることも取り除くこともせず、いまあるがままの姿で、自分は神であることを知ることができる、という真理を認めなければなりません。



質問者 私が見るかぎり、あなたはわずかばかりの資産をもち、あらゆる貧困と老いの問題に直面している、誰とも変わらない、ただの貧しい人のようです。


マハラジ 私が大金持ちだとしたら、どんな違いをもたらすというのかね? 私は私だ。ほかの何になれるというのだろう? 私は貧しくもなく、金持ちでもない。私は私自身だ。


質問者 それでも、あなたは喜びと苦痛を体験しています。


マハラジ 私はそれらを意識のなかで体験している。しかし、私は意識でもなければ、その中身でもない。


質問者 あなたは、実存において私たちは等しいと言われました。どうしてあなたの体験は、私たちのものとこうも違うのでしょうか?


マハラジ 私の実際の体験は何も違わない。違いは私の評価と態度にある。私もあなたと同じ世界を見ている。だが、同じように見てはいない。何も神秘的なことはないのだ。誰もが世界をその人自身の観念を通して見ている。あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考えるようにあるのだ。もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分離して現れる。そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。私は世界を私から分離したものとして見てはいない。だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。


質問者 あなたは世界のなかの光の点です。誰もがそうではありません。


マハラジ 私が私自身を私だと知っていること以外、私と他者の間にはどんな違いも絶対にない。私はすべてだ。私は確実にそれを知り、あなたは知らないのだ。


質問者 ですから、私たちはまったく違うのです。


マハラジ いいや、そうではない。違いはマインドのなかにだけある。それも一時的なものだ。私もあなたのようだった。あなたも私のようになる。


質問者 神はもっとも多様な世界を創造しました。


マハラジ 多様性はあなたのなかだけにある。あなた自身をあるがままに見なさい。そうすれば、あなたは世界をひと塊の実在、分割不可能な、描写不可能なものとしてあるがままに見るだろう。あなた自身の創造的力が画像をその上に投影したのだ。あなたの質問はみな、その画像に関係するものだ。


質問者 あるチベット人のヨーギは、神は目的をもって世界を創造し、ある計画にしたがって維持していると書いています。その目的は善であり、計画はもっとも賢明なものです。


マハラジ それらはみな一時的なものだ。私は永遠について語っている。神と宇宙は来ては去っていく。アヴァターラ(神の化身)たちは終わりなき継続性のなかでつぎつぎと現れ、最終的に私たちは源に帰っていく。私はすべての神と彼らの宇宙、過去、現在そして未来の時間を超えた源についてのみ語っているのだ。


質問者 あなたはそれらをみな知っているのでしょうか? それらをみな覚えているのでしょうか?


マハラジ 数人の子供たちが舞台の上で劇を演じているとき、注意を払ったり、覚えていなければならないようなことが何かあるだろうか?


質問者 なぜ世界の半分が女性で、半分は男性なのでしょうか?


マハラジ 彼らの幸福のためだ。非個人性(アヴィヤクタ)は関係性のなかでの幸福のために個人性(ヴィヤクタ)となる。グルの恩寵によって、私は個人性と非個人性を等しい目で見ることができるのだ。私にとって二つはひとつだ。生のなかで、個人性は非個人性のなかに溶け去る。


質問者 どのようにして個人性は非個人性から出現するのでしょうか?


マハラジ 二つはひとつである実在の相にほかならない。ひとつをもうひとつに先んじて語ることは正しくない。これらすべての観念は目覚めの状態に属するのだ。


質問者 何が私を目覚めの状態に連れだすのでしょうか?


マハラジ すべての創造の根底には欲望がある。欲望と想像が互いを促進し、増強しあう。第四の状態(トゥリーヤ)は純粋な観照、無執着の気づきであり、醒めた、世界のない状態だ。それは空間のように、何であれそれが包括しているものに影響されない。身体的、精神的苦痛はそれに達しない。それらは外側の「そこ」にあり、一方、観照はつねに「ここ」にあるのだ。


質問者 実在とは何でしょうか? 主観的なものでしょうか、それとも客観的なものでしょうか? 私には客観的宇宙が実在であり、私の主観的精神は絶えず変化し、はかないものだと考える傾向があります。あなたは内なる主観的状態を実在と主張し、外的な具体的世界の実在を否定しているようです。


マハラジ 主観も客観もともに変化し、はかないものなのだ。それらには何の実在性もない。無常なるもののなかに永遠なるものを見いだしなさい。それはあらゆる体験のなかにある、ひとつの不変の要因だ。


質問者 この不変の要因とは何でしょうか?


マハラジ あなたがそれを見る能力をもつまでは、私がそれにさまざまな名前を与えたり、いろいろな方法で指し示したりしたところで、助けにはならないだろう。視界のかすんだ人は、あなたがいかに彼に見るように促しても、樹の枝の上にいるオウムを見ないだろう。よくても、あなたの示す指を見るくらいだろう。まずあなたの視界を清めることだ。じっと見つめることよりも、どう見るかを学びなさい。そうすればあなたはオウムを見るだろう。見ようとする熱望も必要だ。自己知識には明晰性と真剣さの両方が必要なのだ。あなたにはどんなに小さなことでも、日々の生活のなかで理解したことを誠実に適用することで成熟していくハートとマインドが必要となる。ヨーガには妥協といったものは存在しない。
もしあなたが罪を犯したいのなら、全身全霊で、こそこそせずに罪を犯しなさい。誠実な聖者にとって徳がそうであるように、罪もまた誠実な罪人には良き戒めとなる。その二つが混ざりあった状態がもっとも悲惨なのだ。妥協ほど効果的にあなたを妨げるものはほかにない。なぜなら、それは真剣さの欠如を表し、真剣さなしには何も為しえないからだ。


質問者 私は禁欲生活の価値を認めます。しかし実際には、私はぜいたくばかりしています。快楽を追い、苦痛を避けることは、私のなかにとても深く染みこんでいて、理論上はとても生き生きした私の高い目的意識も、日々の生活に根を下ろしていないのです。私のことを正直ではないと言ったところで助けにはなりません。なぜなら、私はただどうやって正直になればいいのかわからないからです。


マハラジ あなたは正直でも、不正直でもない。精神状態に名前を与えることは、あなたの容認、または否認を表すことぐらいしか役に立たないからだ。問題はあなたのものではない。それはただあなたのマインドの問題なのだ。あなたをあなたのマインドから分離することからはじめなさい。あなたはマインドではなく、その問題もあなたのものではないと思い起こすように堅く決心しなさい。


質問者 私は「私はマインドではない。私はその問題に関わらない」と自分に繰り返し言いつづけるかもしれません。しかし、マインドもその問題もそのまま残るでしょう。だからといって、それは私が充分真剣ではないからだ、もっと真剣になりなさいとは、どうか言わないでください。私は知っていますし、認めもします。ただどうか教えてください。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 少なくともあなたは尋ねている。はじめるには充分だ。熟考し、驚き、道を見いだすことを熱望しなさい。あなた自身を意識し、マインドを見守り、充分な注意を払いなさい。即座の結果を求めてはならない。あなたが気づく範囲内では、どんな結果もないかもしれない。知らぬ間に、あなたの精神状態は変化を遂げ、より慈愛の感情と行為の純粋さが見られるようになるだろう。それらを目的とする必要はない。あなたはそれらの変化を観照するだけだろう。なぜなら、現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結果だからだ。


質問者 ただ気づくことが、なぜそれほどの違いをもたらすのでしょうか?


マハラジ 今まではあなたの人生は暗く(タマス)、落ち着かない(ラジャス)ものだった。注意力、油断のなさ、気づき、明晰性、元気、活力はみな真の本性(サットヴァ)とひとつであること、統合の現れなのだ。タマスとラジャスを中和し、調和させることはサットヴァの本質なのだ。サットヴァは自己の誠実な僕であり、つねに注意深く、従順だ。


質問者 私は単なる注意を通してそれを知るようになるのでしょうか?


マハラジ 注意を過小評価してはならない。それは関心であり、愛なのだ。知るため、行なうため、発見するため、あるいは創造するためには、それにハートを捧げなければならない。それが注意力を意味する。あらゆる祝福はそこから流れだすのだ。


質問者 あなたは「私は在る」に集中するよう勧めましたが、これもまた一種の注意力なのでしょうか?


マハラジ そのとおりだ。分割されない注意を、あなたの人生のなかのもっとも重要なもの、あなた自身に与えなさい。あなたの個人的な宇宙の中心が、あなたなのだ。中心を知らずに何を知ることができるだろう?


質問者 ですが、どうやって私自身を知ることができるのでしょうか? 私自身を知るには、私自身から離れなければなりません。しかし、私から離れているものは私ではありえません。ですから、私が私として見なしてきたもの以外は、私を知ることはできないのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。鏡の反映にしか自分の顔を見ることができないように、あなたは汚れのない純粋な意識の鏡に映るあなたのイメージしか知ることはできないのだ。


質問者 どのようにしてそのような汚れのない鏡を得ることができるのでしょうか?


マハラジ 言うまでもなく、汚れを取り除くことによってだ。汚れを見て、それを取り除きなさい。古来の教えは完全に有効だ。


質問者 見ることとは何でしょう、取り除くこととは何でしょうか?


マハラジ 完全な鏡の本性とは、あなたには見ることができないということだ。何であれあなたが見ることのできるものは、汚れであらざるをえない。それに背を向け、棄て去りなさい。


質問者 知覚可能なものすべてが汚れなのでしょうか?


マハラジ すべては汚れだ。


質問者 世界全体が汚れなのですか?


マハラジ そのとおりだ。


質問者 何とひどい! では宇宙は何の価値もないのですか?


マハラジ それは途方もない価値をもっている。それを超えていくことによって、あなたはあなた自身を実現するのだ。


質問者 それでは、いったいなぜその存在を現したのですか?


マハラジ それが終わるときにあなたは知るだろう。


質問者 終わりが来るのですか?


マハラジ そうだ。あなたにとっては。


質問者 いつそれが始まるのでしょうか?


マハラジ 今だ。


質問者 いつそれが終わるのでしょうか?


マハラジ 今だ。


質問者 今、終わりませんが?


マハラジ あなたがそうさせないのだ。


質問者 私はそうさせたいのです。


マハラジ あなたはそうしない。あなたの全人生がそれにかかっているからだ。あなたの過去と未来、欲望と恐れ、すべてがその根を世界に下ろしている。世界なしにあなたはどこにいるだろう? あなたは誰だろう?


質問者 しかし、まさにそれこそ、私が見いだしたかったものなのですよ。


マハラジ そしてまさにそれこそ、私があなたに言っていることなのだ。立脚地の彼方を見いだしなさい。そうすればすべては明らかで、容易になる。


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