洞窟の底の底で


真っ暗で、光源がなくて、誰も何も咎めないとき、あなたはどうありたいか、どう自分(御霊)を定義したいか、そこに自由を与える。人間社会はそういうものかもしれないと思います。綺麗事なんて役に立たないことも多いです。某国で虐殺が起きている最中逃げまどう人々は教会に逃げ込みました。殺す者は武器を手に教会に踏み込み、人々を連れ去りました。
「教会に逃げ込んだ連中を捕まえるのは最も簡単だった」
加害者はそう語っていました。人間社会には、別種の知恵が必要とされている事実から目を背けることはできません。暗い話のトーンになりましたが、上の写真は死んだふりです。n


マハルシ まず、あなたが何なのかを学びなさい。そのためには聖典も学識も要りません。これはシンプルな体験なのです。


「存在」の状態は常に、





今ここに在ります。自分自身を見失って、





あなたは他者に指導を求めています。


自我は立ち現れ、あなたをとらえています。あなた自身をとらえなさい。
それが起こるまでは、賢者は「在る」と言い、愚者は「どこに?」と尋ねるでしょう。

(対話132)



月が天空を舞いながら、神秘的ですばらしいやり方で暗闇を照らすとき、その青白い光の美しさにじっと見入った。われわれの野営地から上がるたき火の炎が夕暮れ時の空を照らすのを見た。野鳥が水面に降りる音や、夜の巣の中で鳥たちが動く音、そして子どもたちの笑い声を聞いた。流れ星やナイチンゲール、葦に降る霜を見つめ、湖面が凍り、別世界のような幻を創り出している湖を観察した。風が吹くにつれて、オリーブの木の葉がエメラルドグリーンから銀色に変わっていくのを見た。


自分であるものすべてを愛することが、なぜ重要なのだろうか? 自分のすべてを愛すれば、あなたはすぐに社会意識を超越するからだ。そのときあなたは、まわりから受け容れられるかどうかというレベルを超越する。…その道にこそ、在るものすべてを知っている状態があるのだ。


自分は神であるすべてを受け容れるに値するのだと感じられるほど自分自身を愛するとき、そして自分が「父」とひとつであるのを知ることを望むとき、あなたはこのすばらしい花を咲かせ始める。…知りたいと望むことによって、「知っている状態」の感情をすべて感じたいと望むことによってである。R


友よ、あなたにたずねたいと思います。あなたは現在の幸福のために「重要な」目標群をよろこんで捨てようと思いますか。いまこの瞬間がどこへつながっていくかわからないけれども、それでもこの瞬間を完全にわがものとしたい、と言いきる勇気はありますか。


あなたの心や経験のなかの混沌や混乱はすべて、完全にいま現在にいて、現在にのみ注意を向けることで乗りこえられます。これこそ奇跡的な真実です。Y


存在する全てのものの本質とは何でしょうか? それらの源は何でしょうか? それらの本質は何でしょうか? それらの運命は? これらの問いへのラムサのアプローチは、彼の「ヴォイド」という概念から始まります。ヴォイドは、存在する全てのものが生じる源です。彼はヴォイドを「物質的には何もない広大な無でありながら、潜在的に全てのものでもある」と言う風に描写します。ヴォイドの中には何もありません。つまり動きも活動もありません。神に関する問いへの哲学的なアプローチの多くは(一神教の宗教の神学も含めて)、神というものを、「全知」、「無限」、「絶対」、「超越的」、「不変」の存在とみなしてきました。ラムサの体系では、絶対性、無限性、不変性といった属性は、ヴォイドの持つ性質です。ヴォイドは自己完結的、自己充足的であり、一種の休止した状態、何も必要としない状態です。ヴォイドは、全てを包含する広大なもののように見えるにもかかわらず、その原初の状態では、自分自身について何も知りません。というのも、知るということは、ひとつの活動だからです。


アリストテレス哲学やトマス・アクィナス神学の中に私たちが見いだす、創造者としての神の概念、すなわち「第一原因」、「不動の動者」といった概念は、ラムサによって、「自分自身について熟考し、自分自身を知ろうとするヴォイド」という言葉で描写されます。この「熟考」という行為は、自分自身に気づき、自分自身を知っているひとつの点を生み出すという、ヴォイドの中での独特の動きを象徴しています。自分自身に気づいているこの点は、「ゼロポイント」、「観察者」、「第一意識」、「意識とエネルギー」、「神」と呼ばれています。ゼロポイントは、広大なヴォイドの中に潜在的可能性として含まれている未知のものをすべて体験して既知にする、という原初の意図をたずさえています。これが進化の基礎です。自分自身について熟考したヴォイドは、人間の源であり、起源です。「あなたは神である」というラムサの言葉は、人間は観察者であり、ゼロポイントが肉体化したものであり、創造的な意識とエネルギーである、ということを言っているのです。



質問者 世界が幻想(その無常さではなく)であるという論理を否定している、ある有能な人びとによって書かれた非常に興味深い本があります。彼らによると、最低位から最高位にわたる生きものの階層が存在し、各々の有機体の複雑性のレベルが意識の深さ、広さ、強靱さを反映していると言います。成長のための形態の進化、意識の向上、無限の可能性の表現などにおいて、一貫してひとつの至高の法則が支配しているというのです。


マハラジ そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。たとえそうであったとしても、それは単にマインドにおける視点にすぎない。だが事実は、宇宙全体(マハーダーカーシュ)はただ意識(チダーカーシュ)のなかにのみ存在し、そして私自身は至高の絶対性(パラマーカーシュ)のなかに在るのだ。純粋な存在のなかに意識が現れる。意識のなかで、世界は出現し消滅していく。存在するものはすべて私であり、すべては私のものだ。すべてがはじまる以前にも、そしてすべてが終わった後にも──私は在る。すべては私のなか、すべての生きるもののなかに輝く「私は在る」という感覚のなかにその存在がある。非存在でさえ私なしには考えることもできない。何が起ころうとも、観照者としての私がそこにいなければならないのだ。


質問者 なぜあなたは世界の存在を否定されるのでしょうか?


マハラジ 世界を否定してはいない。私は世界を、広大な未知のなかの既知全体としての意識、その意識のなかの現れとして見ている。
はじまり、そして終わるもの、それはただの現れにすぎない。世界は現れるとは言えても、存在するとは言えない。その現れは、ある時間の比率においては非常に長い間続くだろうが、ほかの比率では非常に短いかもしれない。だが、結局は同じことだ。何であれ時間の範囲内にあるものは、はかなく実在性がない。


質問者 間違いなく、あなたはあなたを取り巻く現実の世界を見ています。あなたはごく普通にふるまっているように見えますよ!


マハラジ それはあなたにとってそう見えるだけだ。あなたの意識界全体を占めるものは、私にとっては微小片にすぎない。世界は続いていく。だが、ほんのつかの間だ。記憶が、世界は継続するとあなたに考えさせるのだ。記憶のなかに生きていない私にとって、世界は意識のなかのつかの間の現れにすぎない。


質問者 あなたの意識のなかにですか?


マハラジ 「私」や「私のもの」といったすべての観念、「私は在る」という観念さえ意識のなかに在る。


質問者 それでは、あなたの「絶対存在(パラマーカーシュ)」は無意識のなかにあるのでしょうか?


マハラジ 無意識という概念も意識のなかに存在する。


質問者 それでは、あなたが至高の境地に在るとどうやって知るのでしょう?


マハラジ なぜなら、私はそのなかに在るからだ。それはただ自然な状態なのだ。


質問者 それを描写できますか?


マハラジ それは原因なく、依存なく、関係なく、分割せず、創造せず、揺らぐことなく、問うことなく、努力によっては到達できないものとして、否定においてのみ表現することができる。どのような肯定的な定義も記憶によるものであり、それゆえ適切ではない。しかし私の境地は至高の実在であり、それゆえ可能であり、実現でき、達成できるものなのだ。


質問者 あなたは時を忘れて抽象世界のなかに没頭しているのですか?


マハラジ 抽象世界は知的な、言語的なものであって、睡眠や気絶のなかで消滅し、時間のなかでふたたび現れる。私は永遠なる今のなかに、私自身の境地(スワルーパ)のなかに在るのだ。過去と未来はマインドのなかだけに在る。私は今に在る。


質問者 世界も今に在ります。


マハラジ どの世界のことだろう?


質問者 私たちを取り巻く世界です。


マハラジ あなたの世界はあなたのマインドのなかに在り、それは私のものではない。あなたとのこの会話でさえ、あなたの世界のなかにあるだけだというのに、私の何を知っているというのだろうか? 私の世界があなたの世界と同一だと信じる理由は何もない。私の世界は知覚されたままの実在、真実だ。ところがあなたの世界は、あなたのマインドの状態にしたがって現れては消える。あなたの世界は何か相容れないものであり、あなたはそれを恐れている。私の世界は私自身であり、わが家同然だ。


質問者 もしあなたが世界ならば、どうやってそれを意識することができるのでしょうか? 主観的意識はその対象から区別されるものではありませんか?


マハラジ 意識と世界はともに現れ、ともに消える。それゆえ、それらは同じ状態の二つの相なのだ。


質問者 眠りのなかで私は存在しないのに、世界は続いています。


マハラジ どうやってそれを知ったのだろうか?


質問者 目覚めとともに知るのです。記憶がそう言っています。


マハラジ 記憶はマインドのなかに在り、マインドは眠りのなかで続く。


質問者 それは部分的に停止しています。


マハラジ だが、世界のありようは影響されないままだ。マインドがそこにあるかぎり、あなたの身体と世界はそこにある。あなたの世界はマインドでつくられ、主観的で、マインドに閉ざされ、断片的、個人的で、記憶の糸にしがみついている。


質問者 あなたの世界もまたそうなのですか?


マハラジ いいや、私の世界は実在であり、あなたの世界は想像にすぎない。あなたの世界は個人的な、私的な、分かちあうことのできない、あなたにとってだけ親密なものなのだ。あなたはあなたが見るように見、聞くように聞き、あなたの感情を感じ、あなたの想いを考え、誰もそこに入りこめない。あなたの世界のなかで、あなたは本当に孤独だ。あなたが人生と呼ぶ、絶えず変わりつづける夢に囲まれながら。私の世界は開かれた世界だ。すべてに共通し、誰にでもアクセスできる。私の世界には共有性、洞察、愛、実在の質がある。個が完全であり、個のなかに全体性がある。すべては一であり、一がすべてなのだ。


質問者 あなたの世界は私のと同じように人びとや物でいっぱいなのでしょうか?


マハラジ いいや、それは私自身で満ちている。


質問者 あなたは私たちのように見たり聞いたりするのでしょうか?


マハラジ そうだ。私も見たり、聞いたり、話したり、行動するように見えるだろう。しかし、あなたの呼吸や消化作用がただ起こるように、私にとってそれらはただ起こるのだ。「身体─精神」器官がそれらの面倒を見、私は関わらない。あなたが髪の毛の成長を心配する必要がないように、私も言葉や行動についてマインドを煩わせたりはしない。それらはただ起こる。そして私は気にかけない。なぜなら、私の世界ではけっして何も間違いは起こらないからだ。


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