学生の頃から知っておきたかったこと


良心に従うこと、思いやり、が最優先されるということです。全てに対して、全局面で、これこそが万能の支配者です。それは自分に対してもですし、自分と絡んだ人たちの背景や、涙や、事情に対してもそうです。私がフィオラに叱られたことの第一位がこれでした。人のも自分のも「涙」を理解しようとしない人間に何故愛がわかるのですか? 「涙」と「愛」は同じものです。そう言われました。今イライラしているなら、どこか別の瞬間に逃げたいなら、自分に聞いてください。関わった人の「涙」を理解しようとしていましたか? 天があなたに学ばせたかったことがもしもあるのだとしたら、彼らの「涙」、あなたの「涙」はどこに位置しているのでしょうか? もう一度よく質問を聞いてください。どこに位置しているのですか? そう聞かれて何も答えられなくなる、その繰り返しでした。n


質問者 幻影には段階があるのでしょうか?


マハルシ 幻影そのものが幻影なのです。幻影はそれを超えた者によって見られるはずです。そのような「見る者」が幻影の支配を受けるでしょうか? 「見る者」が幻影の段階について語ることなどできるでしょうか?
映画の画像がスクリーンの上に投影されています。火は建物を灰へと焼き尽くし、水は船を難破させるかのように見えます。それでも、画像がその上に映し出されるスクリーン自体は、焼けることもなければ濡れることもありません。なぜでしょうか? なぜなら画像は実在ではなく、スクリーンが実在だからです。
同様に、鏡の中の反映は移り変わりますが、反映されたものの量や質に鏡が影響を受けることはありません。
それゆえ、世界は「一なる実在」の上に現れた単なる現象でしかなく、実在が現象から影響を受けることはないのです。実在はただ一つです。
幻影に関する議論は、見る角度の違いによるのです。

(対話446)


真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。


エネルギーが動くままにまかせて、エネルギーにしたがうようにすると、エネルギーはそれ独自の道を開いてくれます。まるで奥山にわきでた小さなせせらぎが軽やかに山を流れ下りるかのようです。


悲しみ、苦しむというエネルギーの動きであれ、楽しい喜びのエネルギーの動きであれ、人生のなかに変化があるときには、あなたは命を感じています。そうしたときに、パワー因子の動きを感じているのです。この動きに対する自覚こそが、パワー因子に対処するときに、あなたが必要とする力です。


自分を愛しているのなら、とぎすました意識のなかにいる方法を何か見つけてください。そのような意識の中心に自分をすえることで、人生の困難に出合ったときに頼りとなる力の基盤を、育てることができるからです。B


風になったとき、自分がこれまでどれだけ限られた存在であったか、そして自然界の力がどれだけ自由であるかが、よくわかった。風になったとき、私は形を持たない見えない力となったのだ。それは脈動する光であり、分割できないものであった。風としての私は、谷や峡谷の間を通りぬけ、山々や海や雲の層の中を通りぬけて、自由に動くことができたが、私の姿を見ることができる者はいなかった。そして、風のように、木々の葉をエメラルド・グリーンから銀色に変えたり、大木を動かすこともできたし、赤ん坊の肺や愛する者の口の中に入り込んでから、ふたたび雲の中に戻ってそれを押しやることもできた。風になったとき、私は最高の動力となったのだ。それは、けっして飼い慣らすことのできない激しい動きであり、完全に自由であった。つまり、重さからも、大きさからも、時間からも解放されていたのである。


風になったとき、人間は自分自身について無知であれば、どれほど小さく無力であるか、そして知識の中へと自分を広げていけば、どれほど偉大になれるかを、私は理解した。ただ単に望むことを通して、長い間何かについて熟考すれば、それが何であろうと人間はそれになるのだということも知った。もしある人間が、自分は不幸で、魂もなく、無力なのだと自分にずっと言い続ければ、その人間はそれを信じるようになり、実際にそうなってしまうのだ。自分を「風の主(あるじ)」と呼ぶならば、その人間は風の主になる。私が風の主となったように。そしてもし人が自分自身を神と呼ぶならば、その人間は実際に神となるのである。R



人生で、あれもこれもと多くのことをしようとすればするほど、死は恐ろしいものになります。死は、それらの行為の終わりだからです。それは思考の終わり、他人の考えや行動に感情的に反応することの終わりともなります。死は分離の終わり……つまり身体の終わり、条件づけられた心(マインド)の終わりです。


身体を抜け出たときには、もはや考える心、計画を立て、夢を描き、プランをひねりまわす心はありませんが、人と人の交流は一瞬にして起きます。なぜでしょうか。


心には本来、制限がないからです。時間や空間に縛られてはいません。あらゆる障壁を突きぬけます。


あなたが、そしてあなたがたが、経験にあわせて切りつめ、制限した心のこの部分のみが、人生では体験されていました。


死は主観的なものの終わり、分離された心の終わりです。それはあなたが理解しているような形の交流の終わりです。なぜならあなたの心の交流は、分離した個別のふたつの心のあいだでしか経験されていないからです。そういうコミュニケーションの経験は幻想にすぎません。つまりそれは、制限なきものであるはずの経験の、極端に制限された描写にしかすぎないのです。死が近づいた人は、この世の知覚の制限をこえた現実(リアリティ)があることを知っています。その世界では、交流はひとりでにそしてすべてをふくむ形で起きます。言い換えると、あなたが考えていることを知らない人はなく、しかしそれはあなたにとってなんの不都合でもありません。あなたも、ほかのみなが考えていることを知っているからです。


そこには人に秘密にされている個人的考えはありませんから、あらゆる制限の強い考えは、制限の少ない考えによって、すみやかに是正されます。自己という感覚は、思考によって定義されていますから、思考自身が制限をこえて拡大してゆくにつれ、”自己”もたえまなく拡大してゆくような感じになります。


おもしろいことに、たったいまこの瞬間にも、あなたは苦労や意識的な努力なしに、制限なき存在と交流しているのです。あなたの身体は光に浸されています。ハートは無条件の愛を受けとることができ、心は真理を直接に把握できます。こうしたことは、あなたが静かにして体験したいと思いさえすれば、すべて可能です。


いったん肉体を離れたあなたには、もう選択はありません。準備ができていようがいまいが、その経験の中に入ります。もしそれに抵抗するなら、真理を徐々に段階的に体験させてくれる、また新たな制限された肉体へと吸いこまれてゆきます。もしあなたに無条件の愛の経験をする準備ができていれば、あなたはいままでに抱いたすべての恐怖心と、自分に課したことのあるすべての制限を通りぬけて、恐怖心と制限を超えた場所へと移行してゆきます。そこはいわゆる天国と呼ばれるところです。


天国に入ること、生死のサイクルに終止符を打つこと、ニルヴァーナ(涅槃)に入ること、カルマを超越すること、条件づけられた心を抜け出すこと、これらはみな同じひとつのことです。すべて、意識の旅の最終目標です。万人がみな、ここにいたります。だれでも最後にはそれを達成します。


あらゆるスピリチュアルな修行の形態は、あなたがたの時間の節約のために存在しているにすぎません。それらはいま、ここにある無条件の愛と恵みの体験へと、あなたを招きよせます。行為を止め、思考を止め、はからいや計画を捨てることへと招きます。沈黙の中での自分自身との一体感へと、つれていきます。兄弟たちのあなたに対する思考や行動を、あなたが自分をどう考えているかの鏡として見るようにさせてくれます。


それらの修行は、人生の縦糸横糸を、たったひとつの考え、ひとつの呼吸、ひとつの行為へと単純化します。あらゆる事件、あらゆる関係、あらゆるハートや心の動きは、神の意識を運ぶ器なのだということを教えてくれます。


あらゆる教義、あらゆる空虚で大々的な儀式を捨て去りなさい。そうすれば、あなたは核となるスピリチュアルな体験、神を崇めるほんとうの道へといたるでしょう。それはあらゆる伝統の中にひそんでいます。


まことに、平和や歓喜、幸福への呼び声は、あなたのハートと心のなかにあります。この呼びかけに応えることは、小径(こみち)に足を踏み入れることです。それをなんと呼ぶかは重要ではありません。それをどんなふうに言いあらわすかも重要ではありません。与えるという小径が、あなたの前に開かれます。あなたが与えれば、あなたはそれだけ他人からも受けとります。


この小径には、独得の簡素な美しさと神秘性があります。あなたが思い描くようなものとはまったくちがいます。それでいて、それは次のステップを踏み出そうとすれば、その足をどこに置くべきかをちゃんと教えてくれるのです。


スピリチュアリティの王道というものは、直線的に進むものではありません。あらかじめ決まっているようなものではありません。「これをせよ。あれをせよ。そうすればこれこれのことが起きるだろう」ということはいえません。


なんであれ、なされることは、内面深くからなされねばなりません。それはみずみずしく、明確で、ハートの中心からでなければなりません。ひとりでにおのずと起きねばなりません。


過去をひきずっていたり、恐怖心があったりすれば、信頼は失われ、奇蹟は起きはしないでしょう。恐怖心と無縁な考え、そして「なすべき」「救うべき」「癒すべき」という強制から自由な行為は、本質的に奇蹟的なものです。それは時空の法則から自由でありながら、しかもひとりでに楽々とその法則にかなっています。


なぜ、これらのことが真実であるのでしょうか。それは、前もって予習されていないからです。条件づけられた心から出てきていないからです。ひとりでに起き、完璧に信頼しているからです。こうした思考や行動は、生ける祈りです。それはこうあるべきだということもないし、うまくいったからといってくりかえすべきでもありません。それはあなたの学びの成果ではありません。それは、あなたが無条件の心と、生き生きとしたかかわりをもったからです。


あなたの魂の奥底には、目覚めへの呼び声が埋めこまれています。ほかの人には聞こえないような声です。ほかの人の言葉に耳を傾けるなら、あなたは決してその呼び声をきくことはありません。


しかし、一度その声をきいたら、他の人も、その人なりのやりかたでそれを聞いたことがあるのだとわかります。あなたはただサポートをすることで、かれらといっしょに進むことができます。かれらを祝福するとき、あなたは自分を祝福しています。かれらを自由に旅に発たせてあげることで、あなたは自分の旅の道を歩きだすことができます。


そこに競争はありません。嫉妬はありません。そこには「獲得」「達成」すべきものがないからです。すべては自由に手に入れることができ、またそののち人に与えるものです。あなたにであれ、人にであれ、与えられた贈り物すべてに奇蹟がふくまれています。Y



質問者 私の職業は医師です。外科からはじめて、現在は精神医学をやっています。また、信仰による精神的健康とヒーリングに関する何冊かの著作があります。あなたから霊的健康の法則を学ぶために来ました。


マハラジ あなたが患者を治療しようとするとき、正確には、あなたは何を治そうとしているのだろうか? 治療とは何だろうか? 人が治ったと言えるのはどの時点だろうか?


質問者 私は身体を治療すると同時に、身体とマインドのつながりも改善しようとします。また、マインドを回復させようともします。


マハラジ あなたはマインドと身体の連結を調べただろうか? どの点でそれらは連結しているのだろうか?


質問者 身体と内在する意識の間にマインドがあるのです。


マハラジ 身体とは食べ物によってできたものではないだろうか? そして、食べ物なしにマインドがありうるだろうか?


質問者 身体は食べ物によって築かれ維持されています。食べ物なしにはマインドは通常衰弱していきます。しかし、マインドは単なる食べ物ではありません。そこにはマインドを身体のなかにつくり出す、ある変容させる要因があります。その変容させる要因とは何でしょうか?


マハラジ 木が木ではない火を生みだすように、身体は身体ではないマインドをつくり出すのだ。しかし、マインドは誰にとって現れるのだろう? あなたがマインドと呼ぶ思考や感情を知覚するのは誰だろうか? 木があり、火があり、火を楽しむ人がいる。誰がマインドを楽しむのだろうか? 楽しむ人もまた食べ物の結果だろうか、あるいはそれに依存しないのだろうか?


質問者 知覚する人は依存しません。


マハラジ どうやってあなたは知るのだろう? あなた自身の体験から語りなさい。あなたは身体でもなくマインドでもないと言う。どのようにしてそれを知るのだろうか?


質問者 私は本当は知りません。そう推測したのです。


マハラジ 真理は永遠のものだ。実在は不変だ。変化するものは実在ではない。実在は変化しない。さて、あなたのなかで変化しないものとは何だろうか? 食べ物があるかぎり、身体とマインドはある。食べ物がなくなれば、身体は死に絶える。マインドは溶け去る。だが、観察者は消えるだろうか?


質問者 私は消え去らないと思いますが、証拠がありません。


マハラジ あなた自身がその証拠なのだ。ほかのどんな証拠もあなたはもっていないし、もつこともできない。あなたはあなた自身だ。あなたはあなた自身を知り、あなた自身を愛している。何であれマインドがすることは、それ自身への愛のためにするのだ。自己の本性そのものが愛なのだ。それは愛し、愛され、そして愛すべきものだ。身体とマインドをそんなにも興味深く、親しくするのは自己だ。それらに与えられる配慮自体も自己からやってくるのだ。


質問者 もし真我が身体でもマインドでもないなら、身体とマインドなしに自己は存在できるのでしょうか?


マハラジ できる。自己がマインドと身体から独立した存在だということは実際の体験なのだ。それは存在─意識─至福だ。存在の意識は至福なのだ。


質問者 それはあなたにとっては実際体験でしょうが、私にとってはそうではありません。私はどのようにして同じ体験に行き着くことができるでしょうか? 何の修練にしたがい、どのような訓練をすればよいのでしょうか?


マハラジ あなたが身体でもマインドでもないと知るには、あなた自身を油断なく揺るぎなく見守ることだ。また、あなたの身体とマインドに影響を受けることなく、完全に距離を置き、あたかも死んでいるかのように生きるがいい。つまりあなたは身体にもマインドにも既得権をもっていないという意味だ。


質問者 それは危険です!


マハラジ 私はあなたに自殺しろと言っているのではない。それに、あなたにはできない。あなたが殺せるのは身体だけだ。精神的過程を止めることはできないし、あなたがあなただと考えている個人に終止符を打つこともできないのだ。ただ、影響を受けずにいなさい。このまったく超然と離れて在ること、マインドと身体に無関心であることは、存在の核心では、あなたが身体でもマインドでもないことの最良の証明なのだ。身体とマインドに起こることは、あなたの力では変えられないかもしれない。しかし、あなたはいつでもあなたが身体とマインドだと想像することをやめられるのだ。何が起ころうとも、影響を受けるのはあなたの身体とマインドだけで、あなた自身ではないのだと思い出しなさい。覚えなければならないことを覚えることに誠実であればあるほど、あるがままのあなた自身に早く気づくようになるだろう。なぜなら、記憶が体験となるからだ。誠実さが存在を明かすのだ。想像し、決意したことが現実となる。ここに危険性と、また同様に解決の糸口があるのだ。
あなたがどのようにして不変である本来の自己を身体とマインドから切り離したのか、話してみなさい。


質問者 私は医者です。私は多くを学び、訓練方法としての厳しい制御と、定期的な断食を自らに課してきました。私は菜食主義者です。


マハラジ しかし、ハートの奥底で、本当にあなたが欲しているものは何だろうか?


質問者 私は実在を見いだしたいのです。


マハラジ  実在のために、どれほどの代償を支払う用意があるのかね? いくらでもかまわないかね?


質問者 理論的には、いかなる代償も支払う用意があります。実際の人生では、何度も何度も私と実在の間を阻むような行動をさせられてきました。欲望が私を夢中にさせるのです。


マハラジ あなたの欲望を、実在以外にはそれを満たすことができなくなるほど増大させ、拡大させなさい。欲望が間違いなのではない。だがその狭さ、小ささが間違いだ。欲望とは献身だ。ぜひとも真実に、かぎりなきものに、生命の永遠のハートに献身しなさい。欲望を愛に変容させなさい。あなたが求めているのは幸福であることだけだ。あなたのすべての欲望はそれが何であれ、あなたの幸福への熱望の表現なのだ。基本的に、あなたはあなた自身の幸福を望んでいるのだ。


質問者 そうすべきではないと、私は知っています……。


マハラジ 何だって! 誰がそうすべきではないとあなたに言ったのかね? 幸せになることの何が悪いのか?


質問者 自己は去らねばなりません。


マハラジ しかし、自己はそこにある。あなたの欲望はそこにある。あなたの幸福への熱望はそこにある。なぜか? なぜなら、あなたはあなた自身を愛しているからだ。あなた自身を愛しなさい。賢明に。あなたを苦しめることになるような、愚かな仕方であなた自身を愛してはならない。あなた自身を賢明に愛しなさい。耽溺も禁欲も、ともにあなたを幸せにする同じ目的をもっている。耽溺は愚かな方法であり、禁欲は賢い方法だ。


質問者 禁欲とは何でしょうか?


マハラジ ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが禁欲だ。不必要なことを避けることが禁欲だ。つねにものごとを制御することが禁欲だ。欲望自体は何も悪いものではない。それは生命そのもの、知識と体験のなかに成長しようとする衝動なのだ。
間違いはあなたの選択にある。食べ物、セックス、権力、名声といったささいなことがあなたを幸せにすると想像するのは、自分自身を欺くことだ。あなたの本来の自己のように、深く、広大な何かだけがあなたを真に、永遠に幸福にするのだ。


質問者 自己愛の表現としての欲望が何も基本的に間違ったものではないとすれば、どのように欲望を扱えばよいのでしょうか?


マハラジ つねにもっとも深い自己への興味を心に保ち、生を知的に生きなさい。結局、あなたが本当に欲しいのは何なのか? 完璧ではない。あなたはすでに完璧なのだ。あなたが求めているのは、あなたであるものを行為のなかで表現することなのだ。このためにあなたは身体とマインドを持っているのだ。それらを手にし、あなたに仕えさせなさい。


質問者 ここで操作をする人は誰でしょうか? 誰が身体とマインドを手にしているのでしょうか?


マハラジ 浄められたマインドが自己の誠実な奉仕者なのだ。それが内面と外面の道具を監督し、それらを目的のために仕えさせるのだ。


質問者 それらの目的とは何でしょう?


マハラジ 自己は普遍のものだ。そしてその目的も普遍のものだ。自己には個人的なものは何もない。秩序ある生を生きなさい。だが、それ自体を目的にしてはならない。それは高次の冒険のための出発点であるべきだ。


質問者 あなたは私がインドを繰り返し訪れることを勧めますか?


マハラジ もしあなたが真剣ならば、あちこち動き回る必要はない。どこにいようと、あなたはあなた自身だ。そして、あなたは自分自身の空気をまわりにつくり出す。移動や交通は解放を与えはしない。あなたは身体ではないのだ。身体を場所から場所へと引きずりまわしても、あなたをどこへも連れて行きはしない。あなたのマインドは三界を思いのままに行き来するのも自由なのだ。それを最大限に利用するがいい。


質問者 もし私が自由ならば、なぜ身体のなかにいるのでしょうか?


マハラジ あなたは身体のなかにはいない。身体があなたのなかにあるのだ! マインドはあなたのなかにある。身体とマインドはあなたに起こるのだ。それらがそこにあるのは、あなたがそれらに興味をもったからだ。あなたの本性は楽しむための無限の能力をもっている。いっぱいの情熱と愛情をもっている。それはその輝きを気づきの焦点のなかに来るすべてに放ち、何ひとつ除外されるものはない。あなたの本性は悪も醜さも知らない。それは期待し、信頼し、愛する。あなたたちはあなたの本来の自己を知らないことで、どれほど逃しているかを知らないのだ。あなたは身体でもマインドでもない。燃料でも火でもない。それらはそれら自体の法則にしたがって現れては消えるのだ。
あなたであるそれ、あなたの本来の自己、あなたはそれを愛している。そして何であれあなたのすることは、あなた自身の幸福のためにするのだ。それを探し、それを知り、慈しむのはあなたの基本的な衝動なのだ。遥かなる昔から、あなたはあなた自身を愛してきた。だが、けっして賢明なやり方ではなかったのだ。自己に仕えるために、あなたの身体とマインドを賢く使いなさい。それだけだ。あなた自身の自己に真実でありなさい。あなた自身を絶対的に愛しなさい。
他者をあなた自身のように愛しているというふりをしてはならない。彼らとあなたがひとつであると悟らないかぎり、あなたに彼らを愛することはできない。あなたではないもののふりをしてはならない。あなたであることを拒んではならない。あなたの他者への愛は自己知識の結果であって、その原因ではない。真我の実現なしには、いかなる徳も本物ではない。すべてを通して同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。あなたが、あなた自身へのあなたの愛の深さと豊かさを悟ったとき、すべての生きているものたちと宇宙全体があなたの愛情のなかに含まれていることを知るだろう。しかし、何であれあなたから分離していると見るとき、あなたはそれを愛せない。なぜなら、あなたはそれを恐れているからだ。疎外は恐れを引き起こし、恐れは疎外をより深くする。それは悪循環だ。真我の実現だけがその輪を断ち切ることができる。固い決意でそれに向かいなさい。


When the night has come

夜になって

And the land is dark

あたりは真っ暗闇で

And the moon is the only light we'll see

月の光だけが僕らを照らす唯一の明かりになってしまっても

No I won't be afraid, no I won't be afraid

べつに僕は恐くなんてないよ

Just as long as you stand, stand by me

きみがそばにいてくれたらね

And darlin', darlin', stand by me, oh now now stand by me

Stand by me, stand by me

ねえ、ダーリン 僕のそばにいておくれ

If the sky that we look upon

たとえばもし、ずっと見上げてきた空が

Should tumble and fall

ある日突然、崩れ落ちてしまっても

And the mountains should crumble to the sea

大地が崩れてみんな海の底に沈んでしまっても

I won't cry, I won't cry, no I won't shed a tear

僕は泣かないよ 涙なんて流さない

Just as long as you stand, stand by me

きみがそばにいてくれるのなら

And darlin', darlin', stand by me, oh stand by me

Stand by me, stand by me, stand by me

だから、ダーリン 僕のそばにいておくれ

Whenever you're in trouble won't you stand by me, oh now now stand by me

困ったことがあったら、僕のそばにおいでよ

Oh stand by me, stand by me, stand by me

ねえ、ダーリン 僕のそばにいておくれ きみにそばにいてほしいんだ


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