校長先生が言ってたでしょう! あきらめるなって!
すれ違った小学生たちが仲間内で叫んでいました。なんだか嬉しくなりました。いま次の世代に引き継ぎが行われているんですよね。本当に頼りになるのは、自分で見いだし、自分で育んだ、扱いに慣れ、自由自在にできるようになったもの、”純我流”のものだけだと思っています。それでも、料理の前提となる材料を提供する役割は大人たちにほぼ全ての責がありますね。n


トランプ旋風
「トランプ政権は、今後40年間に起こるはずだった現象をわずか1年で実現してみせた。」(4月5日ニューズウィーク日本版 グレン・カール氏)は米国の影響力低下と否定的な意味でこれを書いていましたが、プラスかマイナスかは脇に置いて、彼は時を早めたという指摘にハッとしました。これが事実であれば日本は米国が早めた40年分の環境変化に対応を余儀なくされていることになります。できるかできないかの問題ではなく、やらなければ取り残され、最悪攻め込まれてしまいます。この発酵の時を早める触媒のようなトランプ菌の作用を「上」は知っていたのでしょうか。意図してのものかどうかはともかく、どの陣営もこれを利用しないで待つことはありえない選択です。上(向こう側)も下(地上)もあらゆる団体、個人が、この突風のような環境変化を利用して目指すべき方向を決め直している最中です。n


攻撃欲
多くの欲望のなかで攻撃欲という棚(分類)は有用だと感じたんですよね。人のせいにしたい病というか、誰でも日常的にあります。正当な理由がある場合は攻撃でも攻撃欲でもありません。自分のせいなのに不当に人のせいにしたくて仕方ない場合が攻撃欲です。そういう場合は往々にして正見(しょうけん)から離れています。クリシュナムルティの言い方なら「観察者なしに、見ること」です。重心が神ではなく、自分にあればあるほど自分の誤りを認めるような心境にはなれません。当たり前でしょう、自分が破壊されたらもう後がないのですから。n


今日発見したんですが、ちあきなおみさんの東京の花売娘の動画をフルで上げてくださった方ありがとうございます。探していました。美空ひばりさんよりうまいという評価が一部にありますが、同感です。特にこの曲は一度聞いてから忘れることができずにいました。n


こういう見解を教えてくれる学校、学問所はないと思います。ですから貴重です。n





マハルシ 無教養は無知ですが、教養は学問を修めた無知なのです。そのどちらも真の目的に気づいていません。一方、賢者が無知でないのは、彼に目的というものがないからです。

(対話355)


もしあなたが継続したエゴだとしたら、誕生以来あなたに起こった考えや信念、アイデアや体験、記憶や気づきなどのすべてが脈々とこの瞬間に生きてあふれ返っていなくてはなりません。自分が継続した実体だと思い込もうとすることで、本当に継続しているものが体験できなくなっています。


本当に継続しているものはこれまでもずっとありましたし、いまもあります。それは<我在り>と言うときの”我”です。それはあらゆるものが流れ出る”源”です。それは始まりの前にあり終わりの後にあるもので、意識の本質です。それは純粋な意識そのものです。それが継続するもので、それ以外には何も継続しません。それ以外のものであなたがこの瞬間にもたらすものはすべて、目に見える、継続した有限の人間として自分が存在すると思い込みたいがためにあなたがもたらしているものです。


そうした自己像で自分を縛ってしまわないでください。自分を無力でちっぽけな存在だと信じて、『ああ、人から嫌われたらどうしよう』、『太りすぎじゃないだろうか』、『お金に困ったらどうしよう』などと心配するのをやめてください。あなたのまわりにはいたるところにあなたの本質が実在していて、細胞の一つひとつ、意識のすみずみまで雷鳴のごとく激しい音を立てて流れています。あなたは持っているものを使わずに損をしているのです。でも損をする必要はありません。これまでに話した方法のひとつを使えば、その習慣はやめられます。思考をやめて、いまの瞬間にいましょう。何か特別のことを聞こうとしないで、ただ耳を傾けましょう。見ている物を判断せずに見ましょう。ゆったりとした意識で呼吸しましょう。物事を評価したり選んだり受け入れたり拒否したりすることなく、いまこの瞬間に意識を向けましょう。いまこの瞬間に安らぎ、完全に心を開いて、意識を完全にいまの瞬間に向けていると、それが起きます。純粋な意識がその姿を現します。いまやっても、後でやってもいいですが、どちらにしてもあなたはいずれ実行します。


あらゆるものの中を息づくただひとつの現実があるだけです。それ以外はすべて幻影です。あなたは自分が考えているものとは違います。あなたはいつどう変わるともしれない短い命を、あてもなくおびえながら生きる意識のかけらではありません。あなたは広大無辺の完全に目覚めたすばらしい意識であり、それを充分に体験するのはあなたの持って生まれた権利です。これからのあらゆる瞬間にそのことを完全に完璧に知るようになってほしいというのが、わたしの願いです。


あなたが自分自身と呼んでいるあの慣れ親しんだ感覚、間違って<自分>と呼んでいるあの感覚に気づくように、ここでまたお願いしたいと思います。実際のところ、あの慣れ親しんだ感覚というか、歓喜の絶頂から憂鬱のどん底まで、愛から憎しみにいたるまで、不安から喜びにいたるまで、あらゆる過程に存在する感覚こそがあなたの本質です。あなたは”わたし”を間違って<自分>と呼んでしまったのです。生まれたり消えたりするのは有限の<自分>です。あなたといつもいっしょにいて、朝目覚めた瞬間からもっとも深い夢の瞬間までいるのが”わたし”の本質です。


あなたは”わたし”の本質をいつも感じているのですが、それをいままでは間違った名前で呼んできました。これまであらゆる瞬間に感じてきた感覚があなたが求めているものです。ほかのあらゆるものはその上に反映されます。こうしてここにすわっているときも、常に変わらず存在するのはその純粋な意識です。わかりますか。あなたは自分がすでにそうであるものを求めているのです。あまりに明らかで、不変で、強く、なじみが深いので、それがわからなかったのです。どうか見過ごさないでください。



神ではなく、人間が人間に審判を下すのだ。自分の兄弟たちから表現の自由を奪うために、人間はその創造性の中で善悪のバランスというものを考え出した。宗教の教義や政府の法律にしたがわない者に対する刑罰への恐れは、長い間、さまざまな国家を統治し、支配するための剣となってきた。だが、もしあなた方の言葉で「悪」と呼んでいるものがあるとすれば、それは、ある存在が自分の内面にある神を表現する自由をその人間から奪ってしまうものである。そして、誰かほかの人間に対してそのようなことをするたびに、それは自分自身に対しても同じことをしていることになる。しかも、より深刻な形で同じことをしているのだ。なぜなら、あなたが他人に対して下す審判や、他人に課す制限は、どんなものであろうと、あなた自身の意識の内面においてもひとつの法となるからだ。そしてその法によって、あなた自身も制限され、自分自身に審判を下すことになるのである。


あなたに知ってほしいこと、そしてすべての者に理解してほしいことは、あなた方が「カルマ」と呼んでいるものは、神の法ではないということだ。つまり、カルマはそれを信じている者たちの法なのだ。残念ながら、この教義を信じている者は大勢いて、彼らは「完璧さ」と呼ばれる架空の理解を達成するために、懸命に格闘している。そして彼らは、自分が人生でどんなことをしようと、その代償を支払うために次の人生に戻ってこなければならないと信じているのだ。自分の身に起きることはどんなことでも、「カルマの成就」のせいにしてしまうのである。だがマスターよ、人生の説明としては、これはきわめて不十分なものだ。人生はこの説明を遥かに超えたものである。


カルマの法則は確かにひとつの現実だが、それはその法則を信じる者たちにとってだけ、現実なのだ。法として存在するのは、あなたが自分の王国の中で有効だとしたものだけだ。真に法を与える者は、それぞれの至高の存在である。というのも、それぞれの存在が、真実を受け容れる自我を持っているからだ。そして、その人間がどんなものを真実と呼ぼうと、つまり自分の存在の中でどんなものを法として創造しようと、それはそのとおりになる。したがって、多くの人間が「バランスと完璧さの法則」を自分たちのために法として据えてきたのは、信念や変質した理解を通してである。R


マハルシ 身体の底辺にはムーラーダーラ(脊柱の底辺に位置する一番目のチャクラ)、中心にはハート、頂点にはサハスラーラ(頭頂部)などという想像をすることはすべて誤りです。一言で言えば、「考えることはあなたの本性ではないのです」

(対話184)


気づくことから始めましょう。自分の罪悪感、恐怖心、攻撃欲に気づくようにします。それらを見て見ぬふりをしたり、否定したり、あいつのせいだと別の人に投影したりしないように。ただあなたの意識の中にわきおこってくる、その現象を見つめます。


あらゆる経験は、真実を受けいれて、思いこみの幻想を拒絶するための機会です。この観点からみれば、どんな経験もそれ自体でいいとか悪いとかはいえません。あらゆる経験には、同じように力があります。すべてはただ、あなたの神聖さの生まれるべき土壌として存在しています。


どのような人生の状況も、他人とより親密になり、かつ、より自由になるという機会を与えてくれます。あなたは愛すれば愛するほど、そして多くの人をより深く愛するほど、個々の人に執着しなくなるでしょう。


定義したりコントロールしたりしない親密さの中に入っていってください。Y



質問者 私の友人はドイツ人です。そして私はイギリス生まれで、両親はフランス人です。私はアーシュラムからアーシュラムを巡りながら、一年以上もインドにいます。


マハラジ 何かサーダナ(修練)をしているのかね?


質問者 研究し、瞑想しています。


マハラジ 何に瞑想しているのだろうか?


質問者 私が読んだことに瞑想しています。


マハラジ よろしい。


質問者 あなたは何をされているのでしょうか?


マハラジ 座っているのだ。


質問者 ほかには?


マハラジ 話している。


質問者 あなたは何について話をされるのでしょうか?


マハラジ あなたは講義が聞きたいのかね? あなたが深く感じられるように、本当に心に触れるような何かを尋ねるほうがいい。感情的に関わらないかぎり、私と議論をしたとしても、本当の理解は私たちの間に生まれないだろう。もしあなたが「何も私を悩ますことはない、問題はない」というのなら、それはそれでいい。私たちは静かに黙っていよう。だが、本当にあなたの心に触れる何かがあるのならば、話す目的もあるというものだ。
私があなたに尋ねようか? あなたがひとつところから別のところへと、移動しつづける目的は何だろうか?


質問者 人びとに出会い、彼らを理解することです。


マハラジ 人びとの何をあなたは理解しようとしているのだろう? 正確には、あなたは何を求めているのだろうか?


質問者 統合です。


マハラジ もしあなたが統合を望むのなら、誰を統合するのか知らなければならないだろう。


質問者 人びとに出会い、彼らを見守ることで、人は自分自身をもまた知ることになるのです。それはともに進むのです。


マハラジ それはかならずしもともに進むとはかぎらない。


質問者 一方が他方を改善していきます。


マハラジ それはそのように働かないのだ。鏡はイメージを映しだすが、イメージが鏡を改善することはない。あなたは鏡ではなく、鏡のなかのイメージでもない。鏡を完全なものにし、それが正確に、真実に投影するようにしてから鏡の向きを自分自身の方向に変え、鏡が反映できるかぎりの、真実のあなたの投影を見なさい。しかし、投影はあなた自身ではないのだ。あなたは投影を見る者だ。それを明確に理解しなさい。あなたが何を知覚しようとも、あなたはあなたが知覚するものではないのだ。


質問者 私が鏡で、世界は投影なのでしょうか?


マハラジ あなたは鏡と投影の両方を見ることができるのだ。あなたはそのどちらでもない。あなたは誰なのか? 決まり文句で答えてはならない。答えは言葉のなかにないからだ。言葉で表せるもっとも近い表現は、「私は知覚を可能にし、体験者とその体験を超えた生命だ」と言えよう。
さて、あなたは鏡と鏡のなかのイメージから自分を引き離し、完全にひとりで、まったくあなただけで立つことができるだろうか?


質問者 いいえ、できません。


マハラジ どうしてできないと知っているのかね? どのようにやっているのかも知らずに、あなたはたくさんのことをしているのだ。消化し、血液やリンパ液を循環させ、筋肉を動かしている。すべて、どのようにしているのかさえ知らずに。同じように、あなたはなぜ、どのようにしてるのかも知らないまま、知覚し、感じ、考えている。同じように、あなたは知らなくてもあなた自身なのだ。真我としてのあなたに何も間違ったところはない。それはそれとして完全だ。正しく澄んでいないのは鏡なのだ。それゆえ、それがあなたに偽りのイメージを与えるのだ。あなた自身を正す必要はない。ただあなた自身に関するあなたの考えを正しなさい。あなた自身を鏡と鏡のなかのイメージから引き離すことを学びなさい。つねに、「私はマインドでも、その考えでもない」ということを覚えておきなさい。信念とともに、忍耐強くそれをしなさい。そうすればあなたは、すべてを抱擁し、すべてに遍在する永遠の存在─知識─愛の源としての、あなた自身の直接の姿を知るときがかならず来るだろう。あなたは身体のなかに焦点を合わせた、無限なるものだ。今、あなたは身体しか見ていない。真剣に試みてみなさい。そうすれば、無限なるものだけを見るようになるだろう。


質問者 実在の体験、それはいつやってくるのでしょう、それは続くものなのでしょうか?


マハラジ すべての体験は、かならず一時的なものだ。だが、すべての体験の根底にあるものは不動なのだ。出来事と呼ばれるものは何ひとつ永続しない。だが、ある出来事はマインドを浄化し、ある出来事はそれを汚してしまう。深い洞察とすべてを抱擁する愛の瞬間はマインドを浄化する。だが、欲望と恐れ、妬みと怒り、盲目と知的慢心は精神を汚し、鈍くしてしまうのだ。


質問者 真我の実現はそれほどまでに重要なのでしょうか?


マハラジ それなしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味に欲望と恐れを繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや葛藤を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。あなたは自由になれることを知っている。そして今、それはあなたにかかっているのだ。永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り去ることもない永遠の完成の状態を探求しにでかけるか、どちらかだ。そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなのだ。


質問者 ここまでは、あなたの言われることを理解しました。さて、私は何をすべきなのでしょうか?


マハラジ 何もすることはないのだ。ただ在りなさい。何もしてはいけない。在りなさい。山に登って洞窟のなかに座ることはない。私は「あなた自身で在りなさい」とさえ言わない。なぜなら、あなたはあなた自身を知らないからだ。ただ在りなさい。あなたは知覚可能な「外側」の世界でもなければ、思考可能な「内側」の世界でもない。あなたは身体でもマインドでもないことを見極めたのだ。ただ在りなさい。


質問者 真我の実現には、確かに段階があるはずです。


マハラジ 真我の実現に段階などない。何も漸進的なところはないのだ。それは突然起こり、後戻りできないものだ。あなたは新しい次元のなかに入り、そこから以前の次元が単なる抽象的観念でしかなかったことを見る。日の出とともに、ものごとをあるがままに見るように、あなたは真我を実現することですべてをあるがままに見るのだ。幻想の世界は後に残されたままだ。


質問者 真我の実現の状態のなかでは、ものごとは変わるのでしょうか? それらは色彩豊かになり、深い意味をもつようになるのでしょうか?


マハラジ その体験はまったく正しい。しかし、それは実在(サダーヌバーヴァ)の体験ではなく、宇宙との調和(サットヴァヌバーヴァ)の体験だ。


質問者 それでも、そこには進歩があるのでしょうか?


マハラジ 準備(サーダナ)のなかに進歩はありうる。実現は突然のものだ。果実はゆっくり熟していく。しかし、落ちるのは突然であり、しかも、もとに戻ることはないのだ。


質問者 私は身体的にも精神的にも安らかです。これ以上何が必要なのでしょうか?


マハラジ  あなたの状態は究極の状態ではないかもしれない。あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によって自覚するだろう。結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという感覚があるのだ。関節がはずれているかぎり、脱臼したところが痛むように、そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。


質問者 そのとおりです。しかし、自然な状態に達するためのサーダナとは何なのでしょうか?


マハラジ 「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新しい知識とともに振動するのだ。すべては自発的にやってくる。ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがするようになったのか説明ができない。真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽─苦痛から自由であると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのかを説明できないのだ。あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。「私には、もはや何も間違ったところがない」と。ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。ほかの人たちに伝えようとしてはならない。もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。沈黙しなさい。そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。


質問者 もし私が何に成るのかを言うことがあなたにできるのなら、それは私の成長を見守る助けになるかもしれません。


マハラジ 何かに成るということなどないとき、どうして誰かに、あなたが何になるのか言うことができるだろうか? あなたはただ、あなたで在ることを発見するのだ。自分自身をひとつのパターンに鋳造することなど、悲惨なる時間の浪費だ。過去も未来も考えず、ただ在りなさい。


質問者 どうしてただ在ることができるでしょうか? 変化は不可避なのです。


マハラジ 変化の絶えないなかにあっては、変化は不可避だ。だが、あなたがそれに支配されることはない。あなたはそれに対して変化が知覚される、不変の背景なのだ。


質問者 すべては変化します。背景もまた変化するのです。変化に気づくための不変の背景など、必要ありません。自己は一時的なものです。それは単なる過去と未来の遭遇点でしかないのです。


マハラジ もちろん、記憶をもとにした自己は一時的なものだ。しかし、そのような自己は、その背後に不断の継続性を必要とする。あなたの体験からも、自己を忘れてしまう隙間があることを知っているだろう。何がそれを蘇らせるのだろうか? 朝、あなたを目覚めさせるのは何だろうか? 意識のなかのその隙間を橋渡しする、何か不断の要因がなければならない。もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れるひらめきのようなものでしかないと知るだろう。その隙間のなかには何があるのだろうか? ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。それにとっては、マインドもノー・マインドもひとつなのだ。


質問者 霊的な成就のためにあなたが勧める、私が行くべき特定の場所がありますか?


マハラジ 唯一、正しい場所は内側だ。外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れていきはしない。未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。完全に、今に集中するのだ。起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさい。


質問者 放浪しようとする衝動は何が原因なのでしょうか?


マハラジ 原因はない。あなたはただ、放浪しているという夢を見ているだけだ。数年後には、あなたのインドでの滞在も夢として現れることだろう。そのころ、あなたは何かほかの夢を見ていることだろう。夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。これが絶対的な真理なのだ。


質問者 物理的には動きまわりながら、内面においては動じずにいることはできないでしょうか?


マハラジ それはできる。しかし、それが何の役に立つというのだろう? もしあなたが真剣なら、最後にはうろつき回ることに飽きて、今まで時間とエネルギーを浪費してきたことを後悔するだろう。あなた自身を見いだすためには、一歩を踏みだすことさえ必要ないのだ。


質問者 真我(アートマン)の体験と絶対なるもの(ブラフマン)の体験の間には、何か違いがあるのでしょうか?


マハラジ 絶対なるものの体験などありえない。それはすべての体験を超えているからだ。その反対に、自己はあらゆる体験のなかの体験要因だ。それゆえ、それはある意味で体験の多様性を有効にするのだ。世界は偉大な価値あるもので満ちているかもしれない。だが、誰も買う人がいなければ、それらに価値はない。絶対なるものは、体験可能なあらゆるものを包含している。体験を可能にするもの、それが絶対なるものだ。それを現実のものにするのが真我なのだ。


質問者 私たちは段階的な体験を通して絶対なるものに到達するのではないでしょうか? もっとも粗雑な体験からはじまり、もっとも崇高な体験で終わるように。


マハラジ それを熱望しないかぎり体験はありえない。欲望の間に段階はありうる。しかし、もっとも崇高な欲望とすべての欲望から自由になることの間には、渡らなければならない深遠がある。実在ではないものが実在に見えることはあるかもしれない。しかし、それは一時的なことだ。実在は時間を恐れてはいないのだ。


質問者 非実在は実在の表現ではないのでしょうか?


マハラジ  どうしてそうありえよう? それは、あたかも真理は夢のなかでそれ自体を表現すると言うようなものだ。実在にとって、非実在は存在しない。あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。疑ってみなさい。そうすればそれは消え去る。誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思っていたが、そうではなかった」と。一時性は非実在の最高の証拠なのだ。時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在ではない。実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。
ほかの何よりも、あなたはあなた自身を大切にする。あなたはあなたの存在を、何ものとも交換することを許さないだろう。在ることへの欲望は、すべての欲望のなかで最強のものだ。そして、あなたが真我を実現したときだけ、それは去るだろう。


質問者 非実在のなかにさえ、そこには実在の感触があります。


マハラジ そうだ。それを実在と見なすことで、あなたがそれに実在性を分け与えるのだ。あなたは自分を納得させた上で、自分の確信によって束縛されてしまうのだ。日が照るとき、色彩が現れる。日が沈むとそれらは消え去る。光なしにどこに色彩があるだろうか?


質問者 これは二元性のなかでの考えです。


マハラジ 考えることはすべて二元性のなかにある。本質のなかではいかなる思考も生き残らないのだ。


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