人の役割は「近づける」こと


自分の見る「色」を神がご覧になる「色」に近づけること、それが目的に近いのではないかと思います。全体ではたくさんの写真を並べて一枚の大きな絵が見えてくるアートに似ています。全体で神がご覧になる色は、本当は一枚一枚の写真の人生にも浸透しているので、気づこうと努力する人には一枚の中でその人自身にも見えてくる可能性があります。青いものが赤く見えるようになるとか、黒いものが金に見えるようになるのは、対象に内在していた元々の色に気づき、見るこちら側に内在していた元々の色に気づくからです。本当はこちらも対象もありません。色はひとつです。つまり色はただひとつの結果です。事情を多角的に見るようになるには、一方的な見方の不当性にも気づかなくてはなりません。不当性に気づく、ことそのものが体験のかたちをとりますので、ある種の衝突が発生します。神がご覧になる愛は、叡智は、人のすべての言い訳を吹っ飛ばしてしまうものなので、「近づけなかった責任」は本人にのみ帰するものであると、本人が自覚する小休止(劇の休み時間)を挟むのかもしれません。フィオラは愛は茜色だと発言していました。人の傷からいまも流れ続けている血の色であり、天空の太陽を知らしめる色であり、絆であると。n


人生を変える必要はありません。何か小さな一つの原因が何か小さな一つの結果を生むわけではありません。AがBになり、BがCになるというような直線型思考を何とか打ち破ろう、と私はつねに努力しています。人間は直線型の体験の産物ではないのです。あなた方は意識の爆発であり、ものごとは一瞬たりとも休みなく動いています。ものごとはつねに変化しているのですから、そのまま変化するにまかせてください。神を見つけるために、外の世界を変えたり何かをしたりする必要はありません。


ただ覚えておいてほしいのは、人生で起きることはすべて、人々の心の奥深くに孤独があることを思い出させるために生じているのだ、ということです。変えなければならないのは外の世界だと思っているうちは、そうした問題は一生なくならないでしょう。外の世界はどうでもいいとか、外の世界には問題がない、と言っているわけではありません。私は単に、外の世界は第二義的なものだと言っているのです。確かにそこには悩みや苦しみがあります。けれどもどんなにその悩みや苦しみが深刻なものであっても、自分は神を怒らせるようなことを何かしたので、こんな苦しみという罰を受けているのではないか、という怖れに比べたら、それほど深刻ではありません。


欲しいと思っているものが何であれ、それはあなたが本当に望んでいることのカムフラージュにすぎません。カムフラージュは第二義的なものだということを覚えておいてください。


だからといって、自分の人生に関心を払うなとか、自分に必要な物を求めるなと言っているのではありません。それらをすべて認めた上で、自分の真の目的は何なのかを忘れないように、ということです。すると、問題と答えは一体なので、”大いなる光”が輝きはじめ、自分のなかにパワーがみなぎりはじめます。やがて、そのすばらしく穏やかな静けさのなかに、あるやさしい感覚がたえず存在するのに気づくでしょう。それに注意を払ってください。その継続的感覚こそが神なのです。第二義的なものから離れ、魂の根源的な叫びのなかに深く身を置いてください。そして”大いなる故郷”へ帰ってください。B


フリダヤ・グランティ(ハートの結び目)


質問者 身体に苦痛があれば、私はそれを感じますが、他の人の身体の苦痛は感じません。私にはこの身体を克服することができないのです。


マハルシ この身体との自己同一化がそのような感覚の原因です。それがフリダヤ・グランティ(ハートの結び目)と呼ばれるものです。


質問者 どうすればこの結び目を解くことができるでしょうか?


マハルシ 誰にとっての結び目なのでしょうか? なぜそれが解かれることを望むのでしょうか? 結び目がそれを望むのでしょうか、それともあなたがそれを望むのでしょうか?


質問者 結び目ではなく、私がそれを望むのです。


マハルシ その「私」とは誰でしょうか? それが見いだされたとき、結び目は解かれるでしょう。

(対話336)


マハルシ 世界はローカにすぎません。ローカとはローキャテー・イティ・ローカハ(知覚されたものが世界である)です。見られるものがローカ、つまり世界なのです。それを見ている目とは何でしょうか? それは(目覚めと眠りのたびに)周期的に立ち現れては消えてゆく自我です。しかしあなたは常に存在しています。それゆえ、自我の彼方に在る「それ」とは意識、つまり真我なのです。


深い眠りの中では、心は沈み込んでいても破壊されてはいません。沈み込んだものは再び現れてきます。しかしひとたび破壊された心が再び現れることはありません。ヨーギーの目標は心を破壊することであって、ラヤ(心が一時的に停止した状態)の中に沈ませることではないのです。ディヤーナの静寂の中でラヤは継続しますが、それは十分ではありません。心を破壊するためには別の修練の補助を得なければならないのです。


認識しなさい。日々の活動の中でこそ、それを認識するときです。活動は自動的に続いて行きます。心が活動を促していると考えるのは真理ではありません。心は真我から現れた幻影でしかないということを知りなさい。こうして心は破壊されるのです。

(対話76)



あなた方は、それぞれが美しい存在であると同時に、一人ひとりが異なっている。なぜなら、一人ひとりが、自分独自の意図的かつ創造的な目的を持ちながら表現している神だからだ。


あなた方のすべてが、かつては小さな思考、輝く光であったが、その光が、神が永遠に動き続け、絶え間なく存在し続けていくための継続性そのものになったのである。探求のためのさらに偉大な世界を建設するために、多大な配慮とたくさんの実験を通して、あなた方は物質、あるいは「凝固した思考」でできた化身をつくり上げた。この化身によって、あなた方はそれまでとは別の存在の天界において、表現できるようになったのだ。こうしてあなたは、神と呼ばれる思考のすべてのパターンを探求できたのである。


あなた方のすべてが、自分の創造的な知性の力を「見せる」ために、「見せる天界」と呼ばれる生命のこのレベルにいるのだ。


神とは、思考の中のより高い振動数であるだけでなく、物質と呼ばれる最も濃密で、最も振動数が低い思考でもあるのだ。


自分の思考プロセスのすべてを理解するためには(つまりあなたであるすべて、あなた自身である神のすべてを抱き容れるためには)、この天界も含めたすべての存在の天界で生きることができるほどの、適応力と自己愛を持たなければならない。


この旅は、神であるすべてのものの中で神を知るということを、その目的にしてきた。すなわち、思考から光へ、エレクトラムの分裂へ、物質へ、そしてこの天界へと。あなた方全員が、このような旅をしてきたのだ。これは偉大なだけでなく、かなり勇気のあることでもあるが、この旅には少しばかりのリスクがともなう。偉大なる不死の自己を変容させてこの物質の天界に入ってくることによって、自分のアイデンティティーを見失い、生存というものに完全にとらわれてしまう可能性が高いからだ。


神のすべてのレベルを体験し、それらについてじっくり考えてみることによって、すべての生命についての叡智と理解を得ることができるのだが、「神なる人間」にまだなったことのない者たちは、神のすべてのレベルをまだ体験していない。この天界の壮麗さの一部となるために、この天界に旅した者たち、つまりこの天界を進化させ、山々を動かし、色を創造し、荘厳なるモニュメントを創造した者たちだけが、愛や喜びや創造の複雑さを理解できるのだ。これらの旅人たちだけが(あなたもこの旅人であるわけだが)、永遠というものの理解、そして永遠を追い求める願望を手に入れたのである。なぜなら、すべての生命のために永遠というものを創造したのは、彼らだからだ。というのも、物質の天界がある限り、生命が無限の創造性へと絶え間なく続いていくことができるからだ。したがって、男であること、女であること、人間であることは、まさにひとつの特権である。それは名誉なことなのだ。それはまさに神聖なる生なのである。


あなた方が「天使」と呼んできた言葉がある。あなた方の中にも、このような神聖な存在になることを望む者がたくさんいる。だが、天使でいることには大きな制限がともなう。なぜなら、彼らはまだ人間として生きていないため、バランスのとれた判断力を持っていないからだ。彼らは単なるエネルギーであり、最終的には「神なる人間」になっていく神々である。また、彼らには人間に対する同情心、あるいは思いやりといったものがない。実際にあなたになる前に、見えない世界にいる者にどうやってあなたのことが完全に理解できるのであろうか?人間は天使よりもずっと進化しているのである。なぜなら、天使たちには、人間と呼ばれる制限された形態の中に生きる神についての理解がないからだ。それゆえに、人間と、人間の喜びや悲しみについての彼らの理解は、限られているのである。


私はあなた方に言うが、人間の一員となることは聖なる体験である。というのも、人間になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、あなたは天の王国の全領域を旅したことになるのである。


それゆえ、人間になることによって、あなたは自分を堕落させたわけではない。あなたはこのことを理解しなければならない。というのも、人間になったことがなければ、あなたはけっして、天の王国に完全に入るということができないからだ。人生というものに降下したことがないのに、いったいどうやって天国にアセンドすることができるというのか?


人間になることは価値のあることなのだ。それはなるに値するものである。全能の神と呼ばれる、自分の内に宿るこの炎を理解するために、人間になるのは賢明なことである。すべての生命はこの炎でできている。そして、物質でできた至高の知性、すなわち人間と呼ばれるものを通してこの炎を体験すれば、神とは何なのかについて、完全な視野を与えてくれるのだ。そして、あなたが神であるものをすべて完全に理解したとき、あなたは「父」そのものになるのである。


さて、あなた方がこの天界にいるのは、いま宿っている化身の密度を通して神の探求を続けるためだ。あなた方のこの創造的進化を支えているのは、生命と呼ばれるものであり、それはひとつの原子をそのあるべき形に保ち、地球を宇宙空間の中に保持しているのと同じ生命力である。この生命力には、ひとつの普遍的な法則がある。それは、つねに進化し続け、つねに拡大し続け、つねに何かになり続けるということだ。それゆえ、あなたが生きる目的はつねに、生きることを体験してそこから学び、学んだものを統合しながら発展させ、それを生命と呼ばれる根本原理の中に還元していくことなのである。R



質問者 真我を実現するには時間がかかるのでしょうか? それとも時間は実現を助けることができないのでしょうか? 真我の実現はただ時間の問題なのでしょうか? それとも時間以外の要因に依存するのでしょうか?


マハラジ 待つことは無駄なことだ。問題を解決するために時間に依存することは自己欺瞞だ。未来は、単に過去がそれ自体を繰り返すだけなのだ。変化は未来のなかではなく、いまの中だけで起こりうる。


質問者 何が変化をもたらすのでしょうか?


マハラジ 澄みきった明晰性で変化の必要性を見なさい。それだけだ。


質問者 真我の実現は物質のなかで、あるいはその彼方で起こるのでしょうか? それは身体とマインドに依存する体験なのでしょうか?


マハラジ すべての体験は限定された、一時的な幻想でしかない。体験からは何も期待してはならない。それが新しい次元の体験へと導くことはあっても、真我の実現自体はひとつの体験ではないのだ。新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実だというわけではない。真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。それは体験を可能にする気づきなのだ。すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべての体験のなかには気づきが存在している。それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。


質問者 もし気づきが体験ではないとするなら、それはどのようにして認識されるのでしょうか?


マハラジ 気づきは常にそこにある。それが認識される必要はないのだ。マインドの扉を開きなさい。そうすればそれは光で満ちあふれるだろう。


質問者 物質とは何でしょうか?


マハラジ  あなたは物質を何だと理解しているだろう?


質問者 科学は物質を理解しています。


マハラジ  科学は、単に私たちの無知の境界線を押し戻しているだけだ。


質問者 それでは自然とは何でしょうか?


マハラジ  意識的な体験の総体性が自然だ。意識的自己としてのあなたは自然の一部なのだ。気づきとしてのあなたはその彼方にある。自然を単なる意識として見ることが気づきなのだ。


質問者 気づきの段階というものはあるのでしょうか?


マハラジ 意識のなかに段階はあるが、気づきのなかにはない。それは均質なひと塊なのだ。マインドのなかでのその反映が愛と理解だ。理解における明晰性の段階や、愛の強烈さに度合いはあっても、その源に段階はないのだ。源は単一であり、シンプルだ。だがその贈り物は無限のものだ。ただ、贈り物を源と取り違えてはならない。あなた自身が川ではなく源であることを自覚しなさい。それだけだ。


質問者 私は川でもあるのです。


マハラジ もちろんだ。「私は在る」としてのあなたは、身体の岸の間を流れる川だ。だが、あなたはまた源でもあり、海でもあり、空の雲でもあるのだ。どこであれ、そこに生命と意識があるとき、あなたは在る。極小よりも小さく、極大よりも大きい。あなたは在る。ほかのすべては現れにすぎない。


質問者 存在の感覚と生命の感覚──それらは同一のものでしょうか、それとも異なるものでしょうか?


マハラジ 空間のなかのアイデンティティがそのひとつをつくり出し、時間のなかの継続性がもうひとつをつくり出すのだ。


質問者 あなたはかつて、見る者、見ること、見られるものは、三つではなくひとつの単一体だと言われました。私にとって、その三つは分離しています。あなたの言葉を疑うわけではありません。ただ、私には理解できないのです。


マハラジ 注意深く見てみなさい。すると、見る者と見られるものは、見ることがあるときにだけ現れることが理解できるだろう。それらは見ることの属性なのだ。あなたが、「私はこれを見ている」と言うとき、「私」と「これ」は見ることとともに現れ、それ以前にはないことがわかる。あなたは目に見えない「これ」や見ていない「私」をもつことはできないのだ。


質問者 私は、「私は見ない」と言うことができます。


マハラジ 「私はこれを見ている」が「私は私が見ていないことを見ている」、あるいは「私は暗闇を見ている」になるのだ。見ることは残る。知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事実だ。「私」と「これ」は疑わしいものだ。誰が知ろう? 何が知られるというのだろう? 知ることがあるということを除いては、そこには何の確実性もないのだ。


質問者 どうして私は知る者ではなく、知ることに確信があるのでしょうか?


マハラジ 知ることは、在ることと愛することとともに、あなたの真の本性の反映なのだ。知る者と知られるものは、マインドによって加えられるのだ。実際は何もないところに、主体─客体の二元性をつくり出すのがマインドの本質なのだ。


質問者 欲望と恐れの原因とは何でしょうか?


マハラジ 明らかに、過去の苦痛と快楽の記憶だ。そこには何も偉大な神秘があるわけではない。同じ対象物に恐れと欲望が関係したときにだけ葛藤が起こるのだ。


質問者 どのようにして記憶を終わらせることができるのでしょうか?


マハラジ それは必要でもなければ、可能でもない。すべては意識のなかで起こり、あなたがその根本、源、意識の根底なのだということを認識しなさい。世界は体験の連続にすぎず、あなたはそれらに意識を与えるものだ。しかも、あなたはすべての体験を超えた彼方にとどまるのだ。それは熱、炎、燃える木材のようなものだ。熱は炎を維持し、炎は木材を焼き尽くす。熱がなければ炎も燃料もなかっただろう。同じように、気づきなしには意識も、物質を意識の媒体に変容する生命もなかっただろう。


質問者 あなたは、私がいなければ世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。科学はまったくこれとは異なった結論に至っています。世界とは何か具体的な、継続的なものであり、一方、私とは神経系統の生物学的進化の副産物なのです。それは根本的には意識の中枢であるよりも、個人的、種族的存続の機構なのです。あなたの話はまったく主観的な見解です。一方、科学は客観的言語で描写しようと試みています。この矛盾は避けることができないのでしょうか?


マハラジ その混乱は明白であり、純粋に言葉によるものだ。在るものは在る。それは主観的でも客観的でもない。物質とマインドは分離したものではない。それらはひとつのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうするとあなたは宗教を手にするだろう。


質問者 しかし、何が真実なのでしょうか? マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?


マハラジ どちらも先に現れはしないし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらはともに世界をつくる。浸透し、超越するのが実在、純粋な存在─意識─至福、あなたの本質そのものなのだ。


質問者 私が知っているのは意識の流れ、出来事の果てしない連鎖だけです。時間の川は容赦なく流れ、運び去ります。つねに未来は過去へと変容していきます。


マハラジ あなたは自分の言葉の犠牲になっていないだろうか? あなたは時間の流れについて語る。あたかもあなたが不動でいるかのように。だが、あなたが昨日目撃した出来事を、誰かほかの人が明日見るかもしれない。動きのなかにいるのはあなたであって、時間ではないのだ。動きを止めなさい。すると時間は止まる。


質問者 時間が止まる? それはどういう意味でしょうか?


マハラジ 過去と未来が、永遠の今のなかで溶けあうのだ。


質問者 しかし、実際の体験のなかで、それはどういう意味をもつのでしょうか? あなたにとって時間が止まったと、どうやって知るのでしょうか?


マハラジ それは過去と未来がもはや重要ではなくなるという意味でもありうる。それはまた、かつて起こったすべて、これから起こるだろうすべてが、思いのままに開かれた本として読むことができるという意味でもある。


質問者 訓練によってアクセスできる宇宙的記憶というものを想像することはできます。しかし、どのようにして未来が知られるというのでしょうか? 予期しない出来事は不可避です。


マハラジ あるレベルで予期しなかったことは、高次のレベルから見れば確実に起こることかもしれない。結局、私たちはマインドの限界内に在る。実際には、何も起こってはいないのだ。過去もなければ、未来もない。すべては現れであり、何も存在しないのだ。


質問者 何も存在しないとはどういう意味でしょうか? あなたは虚空になるのでしょうか、それとも眠りにつくということでしょうか? あるいは、あなたは世界を消し去り、あなたのつぎの思考のひらめきで私たちが生命に連れ戻されるまで、私たちを停止の状態にとどめるということでしょうか?


マハラジ いいや。そんなひどい話ではない。マインドと物質の、そして名前と形の世界は続いていく。だが、それは私にとってまったく重要ではない。それは影のようなものだ。それはそこにある。どこへ行こうともついてくる。だが、どのような意味でも私を邪魔することはない。体験の世界はそのまま残る。だが、欲望と恐れで私に関わる名前と形は残さないのだ。体験とは、いわば属性をもたない純粋な体験だ。ほかによりよい言葉がないために、私はそれを体験と呼ぶのだ。それは大海の波のようなものだ。つねに存在しながら、その平和な力に影響を与えることはない。


質問者 体験は無名無形の定義できないものだということでしょうか?


マハラジ はじめは、すべての体験がそのようなものだ。記憶から生まれた欲望と恐れが名前と形を与え、ほかの体験と分けてしまうのだ。それは意識的な体験ではない。なぜなら、それはほかの体験と対立しているわけではないからだ。それでもそれは同じ体験なのだ。


質問者 もし体験が意識的ではないなら、どうしてそれについて話すのでしょうか?


マハラジ ほとんどのあなたの体験は無意識のものだ。意識的なものは非常に少ない。あなたは事実に気づいていないのだ。なぜなら、あなたにとっては意識的なものしか数に入らないからだ。無意識に気づくようになりなさい。


質問者 無意識に気づくことができるのでしょうか? どのようにするのでしょう?


マハラジ 欲望と恐れが覆い隠し、歪ませてしまう要因なのだ。マインドがそれらから解放されたとき、無意識は容易に手に入るようになる。


質問者 無意識が意識的になるという意味でしょうか?


マハラジ むしろ反対だ。意識が無意識とひとつになるのだ。それをどちらから見ても区別がなくなるのだ。


質問者 困惑してしまいます。どうして気づいていながら、しかも無意識であることができるのでしょうか?


マハラジ 気づきは意識に対して限定されてはいない。それは存在するすべてに対するものだ。意識は二元性のものだ。気づきのなかに二元性はない。それは純粋な知覚のひと塊なのだ。純粋な存在と純粋な創造についても同じように、無名、無形、静寂であり、しかも絶対的実在だと言うことができる。言葉では言い表せないということが、それらに影響を与えることはまったくない。それらは無意識でありながら、本質的なものなのだ。意識を根本的に変えることはできない。それは修正することができるだけだ。いかなるものも、変化するためには朦朧とした状態と消滅を、死を通らなければならないのだ。金の宝飾品は、ほかの形に鋳造される前に溶解されなければならない。死ぬことを拒むものは再誕生できないのだ。


質問者 身体の死なしに、どのように死ぬというのでしょう?


マハラジ 内側に向かうこと、超然と離れてあること、手放すことが死だ。生を全うするには、死は欠くことのできないものだ。すべての終焉がすべてのはじまりをもたらす。
その一方、よく理解しなさい、生きる者ではなく、ただ死者だけが死ぬことができる。あなたのなかで生きているもの、それは不死なのだ。


質問者 欲望はどこからそのエネルギーを引き出すのでしょうか?


マハラジ 記憶から引き出した名前と形からだ。エネルギーは源から流れだすのだ。


質問者 ある欲望は完全に間違ったものです。間違った欲望が、どうして崇高な源から流れだすことができるのでしょうか?


マハラジ 源は正しくも間違いでもない。欲望そのものも、正しくも間違いでもないのだ。それは幸福を求める努力にほかならない。自分自身を一片の身体と同一化して途方にくれ、あなたは幸福と呼ぶ充足と完全性の感覚を絶望的に探しまわるのだ。


質問者 いつそれを失ったのでしょうか? 私はけっしてもってはいなかったのです。


マハラジ 今朝、目覚める前にあなたはもっていたのだ。意識を超えていきなさい。そうすれば見いだすだろう。


質問者 どうすれば彼方へと超えていけるのでしょうか?


マハラジ あなたはすでに知っているのだ。そうしなさい。


質問者 あなたはそう言われますが、私は何も知らないのです。


マハラジ それでも、私は繰り返そう。あなたはそれを知っているのだ。そうするがいい。超えていきなさい。あなたの正常な、自然な、根本的な状態に戻りなさい。


質問者 私はとまどうばかりです。


マハラジ 目のなかのほこりが、あなたを盲目だと思わせるのだ。ほこりを洗い落として見てみなさい。


質問者 私は見ています! ただ暗闇が見えるだけなのです。


マハラジ ほこりを取り除きなさい。そうすれば、あなたの目は光にあふれることだろう。光はそこにあり、待っているのだ。目はそこにあり、用意ができている。あなたが見ている暗闇は、ほこりの影にすぎないのだ。それを取り除きなさい。そしてあなたの本性に戻るのだ。


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