結局ヒトが傷つくのは「ある階層」限定の話


肉体的にはもちろん、精神的にもです。そしてわたしたちの本質的な議論は、ヒトというものが、本当に「ある階層」にのみ押しこめられているような囚人なのかどうかという話です。囚人だと自覚するときのみ、ヒトは傷つき、目の前は暗闇が覆うようになります。その階層の中での苦闘は100億通り試されています。本来は、そういう「筋の映画」ではなかったんです。苦闘するような、もがき苦しむようなものではありませんでした。しかし、自分が「ある階層」にのみ所属する者なのではないかという想像は檻となり、ヒトは自らその中に入って鉄格子を掴むようになりました。「私は出れない」と。n


二つ目の話は「峠」のことを書こうと思います。
峠を決定するのは政治家ではありません。存在すら一般には認識されているとは言えない向こう側です。さらに向こう側の一部しか知らないのかもしれません。私は天津爆発事故のとき、事故そのものだけでなく二重の意味で驚きました。向こう側はパワープレイというか、非常に暴力的な手段も採りうるのかということです。隕石を落とされれば人間は一巻のおわりですし、普通では理解できない死因というか強制退場のさせ方もあると耳にします。火・風・水(ひふみ)の混合による巨大な手で介入することも可能なのかもしれません。そして峠というのは、肉体に与える影響や被害よりもむしろ、一人一人の精神的な変化や、魂、人間性の成長に重きが置かれていると聞きます。向こう側が「峠」と言ってきて、ではこれから何が起こるのか。それは「峠」にふさわしい歩き方ができなかった者は、選別し、「外す」と言われているような気がしてならないわけです。戦力外通告の一歩手前で、胃がきゅっと縮むような緊張感が漂っているかのようです。私はあのiphoneの契約書を何度も読み返しながらフィオラの意図を考えていました。一番言いたかったのは18番だとしても、他にも注目すべき条項はいくつもありました。そしてフィオラはリセットについてこう言いました。「リセットというのはプラグの該当対象への差し直しのことです」。該当対象が何かは言いませんでしたが、私はまるで、私自身というこの人物に差されているプラグが強制的に引っこ抜かれて、リセットされるかのような印象を受けました。あなたと私は常に学んでいるチームメイトです。一緒に答えを出していきましょう。一見やさしい言葉なのに、その裏に非常事態の足音が感じられてなりませんでした。n


あなたの人生に起こることのすべては、たとえそれがどんなにひどいことで、破局やみじめさをもたらすものに見えても、そうなるように導かれてきたのです。あなたが自分の内部に向かい、自分の本質を示してくれる静寂の次元に深く沈潜することを選ぶようになるにはどうすればよいか、それをよく知っているあなたのなかの”大いなる完全性”が、そうし向けたのです。B


マハルシ 身体は生命意識を持たず、「私」と言うことはできません。真我は非二元的な純粋意識です。それも「私」と言うことはできません。眠りの中では誰も「私」とは言いません。


それでは自我とは何でしょうか?


人は暗闇にいると、そばに何かがいると想像してしまいます。それは何か黒い物体かもしれません。近寄って見ると幽霊は見えず、ただ木やポストのような物体を見間違えただけだということがわかるのです。近づいて見てみなければ、幽霊は彼を脅かしたでしょう。必要なのは、ただよく見ることだけです。そうすれば、幽霊は消え去ります。幽霊は初めからそこにいなかったのです。自我においても同じことです。それは身体と純粋意識の間に介在する実体のない結び目です。それは実在しません。よく見てみないかぎり、それは問題を与え続けるでしょう。

(対話612)


質問者 人は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生に起こるすべては運命づけられ、あらかじめ決められているのでしょうか?


マハルシ 自由意志は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意志は存在するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意志を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意志や運命は誰にとって問題となるのか? それを見いだし、その中にとどまりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。


もしあなたが自分を身体と見なすなら、それらは常にあなたを支配するでしょう。
もしあなたが自分を身体と見なさなければ、それらがあなたに影響を与えることはなくなります。


眠りの中では、あなたは身体ではありませんでした。
あなたは今、身体なのでしょうか?

(対話426)



少し耳に残ったニュースでした。n



あなたはいつも自分の人生で、兄弟の存在を重く考えすぎています。たとえば、自分の問題をすべて兄弟のせいにし、わたしにやったように十字架につけます。かと思えば台座にのせて敬い、わたしにやったように、ひたすらにあがめたてまつるのです。


兄弟をあなたと対等なものだと見るのは、昔からむずかしかったようですね。あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい、とわたしが説いたとき、それはいろいろな状況で使える簡潔なルールのつもりでした。ところが残念ながら、自分自身を愛していないと、隣人を愛するという幸運にまで手がまわりません。


自分自身を愛するのを学ぶことと、兄弟を愛するのを学ぶことは、同時進行です。兄弟を愛して自分を憎むことはできませんし、自分自身を愛していて兄弟を憎むこともできません。兄弟に対する感情は、自分自身に対する感情を鏡に映しているにすぎません。


そんなわけですから、兄弟とのかかわりあいは、あなたが自分自身の中のなにを宥さねばならないかを見せてくれるでしょう。あなたが兄弟の出すぎたふるまいを宥すことが、相手が自分を宥すことにつながれば、そのかぎりにおいて、それも意味があります。同じように兄弟があなたのふるまいを宥してくれて、そのおかげであなたが自分を宥すことができたとすれば、それなりの意味があります。


でも他人からの宥しは、あなたがそれを必要だと信じている場合にだけ必要です。たいていの人がそうなのですが、宥してもらわねばと思いこんでいると、償いをすることが重要になります。宥しを乞うことは、その事件に関して、自分の心を変える準備ができていることのあらわれです。これはプロセスの重要な一歩です。


しかしながら、あなたを宥す「力」を兄弟に与えてしまうのは、誤りです。それでは、力をあなたの外においてしまいます。外に力はありえません。兄弟に宥しを乞うのはいいでしょう。しかし、宥してくれなければ自分は永遠に宥されないのだ、と考えてはなりません。じつは宥しとは、つねにあなたに与えられているものなのです。宥しを与えない人は、それを自分に対しても拒んでいるというだけにすぎません。


自分が兄弟を非難していることに気づいたら、自分の非難相手は、ほんとうはその当人ではないということがわかります。非難しているのは、自分が認めていない、自分の恥ずべき部分です。兄弟にどこか欠けたところがあると感じたら、いい気持ちにはならないでしょう。それは自分自身の無価値感をもつのらせるだけです。


正義も救済も、兄弟を攻撃することによっては得られません。実態をよくごらんなさい。あなたが兄弟の手に打ちつける釘はすべて、自分自身をも十字架に打ちつけています。わたしがそのよい例です。すべての攻撃がとだえるまで、わたしはずっと十字架にかかったままでいるでしょう。そのときまでは、あなたもわたしも同じです。どちらも十字架にはりつけられています。


兄弟とのかかわりの中には、シンプルな選択があります。相手を無罪とするか、有罪とするかです。この選択は何度も何度も、毎日、毎時、毎秒やってきます。ひとつの思いで兄弟を幽閉し、べつの思いで釈放します。相手をこう扱おうと決めたやりかたで、あなたはあなた自身を裁くことになります。


兄弟をひきずりおろすことによっては、天国に行けません。しかし兄弟を背負ってつれていこうとしても、やはり天国には行けないのです。あなたがたにはひとり残らず、自分自身の無実を見いだす手だてが与えられているからです。ただ、兄弟のありかたを認め、その旅を祝福しなさい。助けを求められたら、よろこんで助けなさい。しかし、彼が自分でなすべきことを肩代わりしてはいけません。


境界を超えて成長しようと思うなら、まず適切な境界線が必要です。あなたの心の平和や幸福を兄弟の責任にせず、また兄弟の平和や幸福を自分の責任にもしないことです。兄弟はあなたを救うためではなく、自分を救うためにここにいるのですから。


しかしそのいっぽうで、兄弟に浴びせていた不満や愚痴から、当人を解放しなさい。兄弟に対しては、いかなる方法でも愛の出し惜しみをしないでください。彼を幸福からひきもどそうとすることは、攻撃であり、あなた自身を恐怖心と罪悪感の中に閉じこめることにもなります。


兄弟から助けを求められたら、避けてはなりません。相手がのぞむかぎり、そばでともに学ばせてあげなさい。彼のほうで離れてゆく準備ができたら、祝福を祈って送りだすのです。旅に必要な食べ物と水を与えます。恩に着せたり、意志に反してひきとめたりしないように。


兄弟の自由は、あなた自身の自由のシンボルにすぎません。ですから、来るのも去るのも、彼の好きにまかせるのです。来たときは歓待し、去ってゆくときは快く送りだします。それ以上のことは、あなたにはできません。それでじゅうぶんです。見知らぬ人すべてをそんなふうに手厚く扱いなさい。そうすればわたしは、信頼がもどり慈悲心が支配する世界を見せてあげられます。


自分を愛するように隣人を愛しなさい。自分と相手を同じように扱いなさい。彼のために自分を犠牲にしたり、彼に犠牲を払わせたりせず、あなたのできるときに彼を助け、必要なときには感謝して、彼の助けを受けいれなさい。このシンプルでおごそかなやりとりこそ、愛と受容のありかたです。おたがいの信頼と尊重のあらわれです。


これ以上はやりすぎです。これ以下では足りません。Y



質問者 私は修練のために、さまざまなヨーガを探索しながら転々と旅をしてきました。そして、いまだにどれが私にとって最適なのか決断のつかないままでいるのです。何か的確な助言をいただければ幸いです。現在、このすべての探求の結果として、私は真実を見いだそうという考えに疲れてしまいました。私にとって、それは無用な、困難なものと見えるのです。人生はあるがままに楽しむべきものであって、それを改善することはまったく無駄に見えます。


マハラジ その満足のなかにとどまりたいのならば、そうすればいい。だが、あなたにできるだろうか? 青春、活力、金銭──それらはすべて、あなたが予期したよりも足早に過ぎ去っていくだろう。そして、それまで避けてきた悲しみがあなたにつきまとうだろう。もしあなたが苦しみを超えたければ、自らそれを出迎えに行き、抱きしめなければならないのだ。あなたの習慣や耽溺を捨て去り、シンプルで目覚めた人生を生きなさい。生きるものを傷つけてはならない。それがヨーガの根本なのだ。実在を見いだすには、日々のもっとも些細な行為においてさえ、あなたは真実でなければならない。真理の探求においては、いかなる欺瞞も許されないのだ。あなたは人生が楽しむべきものだと知ったと言う。今はそうかもしれない。だが、それを楽しむのは誰なのか知っているだろうか?


質問者 実を言えば、私は楽しむ者も楽しまれるものも知りません。私の知っているのは楽しみだけです。


マハラジ まったくそのとおりだ。しかし、楽しみとはマインドの状態だ──それは来ては去っていくものだ。そのはかなさそのものが、それを知覚可能にする。変化しないものを意識することはできない。意識とはすべて、変化の意識なのだ。だが、変化を知覚すること自体が、そこに不変の背景のあることを余儀なくしているのではないだろうか?


質問者 いいえ、そうではありません。以前の状態の記憶と現在の状態である現実との比較が、変化の体験を与えるのです。


マハラジ 記憶されたことと実際に起こっていることの間には、一瞬一瞬において観察することのできる基本的な相違がある。現実が思い出されるといった瞬間はありえないのだ。その二つの間には、単に強烈さだけではない異なった性質がある。現実とはまぎれもないものだ。意志による努力や想像では、その二つを入れ替えることはできない。さて、何が現実の状態にこの特別な質を与えるのだろうか?


質問者 現実は真正です。一方、記憶されたことには多分の不確実性があるのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。だが、なぜだろうか? ほんの一瞬前、記憶されたことは現実であったし、一瞬のうちに現実は記憶となるだろう。何が現実を独特のものにするのだろうか? 明らかに、それはあなたの存在の感覚だ。記憶と期待のなかには観察されている精神的状態という明らかな感覚がある。一方、現実のなかには根源的な現在の存在、そして気づきがそこにあるのだ。


質問者 ええ、理解できます。現実と記憶されたことの間に違いをもたらすのは気づきなのです。人は過去や未来のことを考えますが、人は今に存在しているのです。


マハラジ あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにあるのだ。それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。時間と空間はあなたのなかにあり、あなたがそれらのなかに在るのではない。時間と空間に限定された身体との自己同一化が、あなたに有限の感覚を与えるのだ。実際には、あなたは無限で永遠なのだ。


質問者 この無限で永遠の自己を、どのようにして知るのでしょうか?


マハラジ あなたが知りたがっている自己、それは何か二番目の自己のようなものだろうか? もちろん、そこにはひとつの自己があるだけだ。そしてあなたがその自己なのだ。あなたである自己、それが唯一存在する自己だ。あなた自身に関する誤った観念を取り除き、放棄しなさい。するとすべての荘厳さとともに、それはそこにある。自己知識を妨げるのはあなたのマインドだけなのだ。


質問者 どうやってマインドを追い払うのでしょうか? そしていったい人間のレベルで、マインドなしの人生が可能なのでしょうか?


マハラジ マインドというようなものはないのだ。そこには観念があって、それらのなかのいくつかは間違ったものなのだ。誤った観念を放棄しなさい。なぜならそれらは偽りであり、あなた自身に関するあなたの見解を妨げるからだ。


質問者 どの観念が誤りで、どの観念が正しいのでしょうか?


マハラジ 普通、自己主張が誤りであり、自己否定が正しいのだ。


質問者 すべてを否定することによって生きていくことはできません!


マハラジ ただ否定によってのみ、人は生きることができるのだ。自己主張は束縛だ。疑うことと否定することがなくてはならない。それは反抗の本質だ。そして反抗することなしに解放はありえないのだ。
そこに探求すべき第二の、あるいは高次の自己というものはない。あなたが最高位の自己なのだ。ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、またマインドとその幻想的な観念でもなく、社会があなたに演じるよう強要した個人としての役柄でもないと、信念と理性があなたに告げているのだ。偽物を捨て去りなさい。そうすれば真実はそれ自体で現れるだろう。
あなたはあなた自身を知りたいと言う。あなたがあなた自身なのだ。あなたはあなた以外の何者にもなれない。知ることと在ることは別々だろうか? あなたがマインドをもって知ることは何であれマインドのものであって、あなたではない。あなた自身についてあなたに言えることは「私は在る。私は気づいている。私はそれを愛する」だ。


質問者 私は生きることが苦痛に満ちた状態だと知っています。


マハラジ あなたに生きることはできない。なぜなら、あなたは生命そのものだからだ。あなたが苦しむのではない。あなたがあなた自身だと思いこんでいる個人が苦しむのだ。気づきのなかでそれを消し去りなさい。それは記憶と習慣の束でしかないのだ。偽りに対する気づきからあなたの真の本性に対する気づきに至る間には深い淵がある。ひとたびあなたが純粋な気づきの技を習得すれば、それはたやすく越せるだろう。


質問者 私の知っていることは、私自身を知らないということだけです。


マハラジ 自己を知らないということをどうして知るのだろう? あなたの直接の洞察が、何よりもあなた自身を知っていると告げているのだ。なぜなら、ものの存在を体験するあなたがそこにいないかぎり、何も存在することはできないからだ。あなたは自己を描写できないために、自己を知らないと想像しているのだ。あなたはつねに、「私は在るということを知っている」と言うことができる。そして「私はいない」という表明を偽りとして退けることだろう。だが、何であれ描写できるものはあなた自身ではありえない。そしてあなたで在るものを描写することはできないのだ。あなたは自己定義や自己描写を試みることなしに、あなた自身で在ることによってだけ、自己を知ることができるのだ。あなたが知覚可能、想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、何であれ、意識の領域に現れるものは自己ではないとひとたび理解したなら、より深い自己実現への唯一の方法として、すべての自己同一化を断ち切ることだろう。否定することによって、文字どおりあなたは、まさにロケットのように進歩するのだ。あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、しかもその両方に気づいていると知ることは、すでに自己知識なのだ。


質問者 もし私が身体でもマインドでもないなら、どうやってそれらに気づくのでしょうか? どうやって私自身にとってまったく異質な何かを知覚することができるのでしょうか?


マハラジ 「何も私ではない」が第一段階だ。「すべてが私だ」がつぎの段階だ。そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元性のあなたとして残る。今ここで、あなたはそれなのだ。だが、あなたの視野は自己に関する偽りの観念によって妨げられているのだ。


質問者 なるほど、私は在る、私は在った、私は在るだろうということは認めましょう。少なくとも誕生から死に至るまでは。今ここにおける私の存在は疑う余地もありません。しかし、それだけでは充分でないと思うのです。私の人生は、内面と外面との調和から生まれた喜びを欠いているのです。もし私ひとりしか存在せず、世界が単なる投影にすぎないなら、どうして不調和があるのでしょうか?


マハラジ あなたが不調和をつくり出しておいて、それから不平を言うのだ。欲望をもち恐れるとき、そして感情と自己同一化するとき、あなたは不幸と束縛を生みだす。あなたが愛と智慧とともに創造し、そして創造したものに執着しないとき、結果は調和と平和となるのだ。だが、マインドの状態がいかなるものであれ、それはどのようにあなたに影響を及ぼすのだろう? マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは不幸にするのだ。マインドへの隷属に反抗しなさい。あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるためにそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。


質問者 もし私が好き勝手にするなら、私は苦しむことでしょう。


マハラジ それにもかかわらず、あなたは自由なのだ。あなたの行為の結果はあなたの住む社会とその慣習に依存するのだ。


質問者 私は無謀になるかもしれません。


マハラジ 勇気とともに智慧と慈愛、そして行為における能力も現れるだろう。あなたは何をすべきか知るだろう。そして何であれ、あなたがすることは皆にとって良いこととなるだろう。


質問者 私自身のなかにはさまざまな相の自分がいて、争いあっています。私のなかに平和はないのです。どこに自由と勇気が、智慧と慈愛があるのでしょうか? 私の行動は、私が住む深淵をより深めるばかりなのです。


マハラジ それはあなたがあなた自身を何か、あるいは誰かだと見なしているからだ。やめなさい。見なさい。調べなさい。正しい質問を尋ね、正しい結論を得なさい。そしてそれにしたがって行為する勇気をもち、何が起こるか見てみなさい。はじめの段階では、頭の上に屋根が落ちてくるかもしれない。だが、すぐに混乱は晴れ、平和と喜びが現れるだろう。あなたはあなた自身に関して非常に多くのことを知っている。だが、その知っている人をあなたは知らないのだ。知られるものを知る者であるあなたとは誰かを見いだしなさい。たゆむことなく内面を見守りなさい。知覚されたものは知覚者ではありえない、と覚えておくことを覚えておきなさい。あなたが何を見ようと、聞こうと、考えようと、覚えようと──起こることがあなたなのではない。あなたはそれが起こる当人なのだ。「私は在る」という感覚のなかに深く潜っていきなさい。そうすれば、かならず知覚の中心が、世界を照らす光のように普遍的であることを発見するだろう。宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに起こる。その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネルギーであるあなたによって為されるのだ。


質問者 人が沈黙の観照者であり、また普遍的エネルギーでもあると聞かされることは、言うまでもなく喜ばしいことです。しかし、どうやって言葉上の表明から直接の知識へと超えていけばいいのでしょうか? 聞くことは知ることではありません。


マハラジ あなたが何かを直接知る前に、言葉を通してではなく知る者を知らなければならないのだ。今まで、あなたはマインドを知る者として見なしてきた。だが、そうではないのだ。マインドはイメージと観念をあなたに詰めこんできた。それは記憶に傷跡を残すのだ。あなたは覚えていることを知識だと思いこんできた。真の知識とはつねに新鮮で、新しく、予期できないものだ。それはあなたの内面から湧きあがってくるのだ。あなたがあなたで在るものを知るとき、あなたはまた、あなたが知るものでも在る。知ることと在ることの間にへだたりはないのだ。


質問者 私にはマインドによってマインドを調べることができるだけです。


マハラジ もちろん、マインドを知るためにマインドを使うがいい。それは完全に正当であり、またマインドを超えていくには最善の準備でもある。在ること、知ること、そして楽しむことはあなた自身のものだ。まず、あなた自身の存在を認識しなさい。それはやさしいことだ。なぜなら「私は在る」という感覚はつねにあなたとともにあるからだ。それから、知られるものから離れた、知る者としてのあなた自身と出会いなさい。ひとたび純粋な存在としてのあなたを知れば、自由の歓喜はあなたのものだ。


質問者 これはどのヨーガなのでしょうか?


マハラジ なぜ気にするのか? あなたをここへ来させたのは、あなたの知る身体とマインドの人生が満たされないものだからだ。あなたはコントロールを通して、また理想に合わせてそれを屈服させようとするかもしれない。あるいはすべての自己同一の結び目を断ち切り、身体とマインドを、あなたとは何の関わりもなく起こる何かとして見るかもしれない。


質問者 コントロールと戒律の道をラージャ・ヨーガ、無執着の道をジニャーナ・ヨーガと呼び、偶像礼拝をバクティ・ヨーガと呼んでいいのでしょうか?


マハラジ もしそれに満足ならば、あなたの好きにするがいい。言葉は差し示すが、説明はしない。私が教える道は、理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。あなたのマインドを理解しなさい。そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。マインドとは誤解するものだ。誤解がその本性そのものなのだ。正しい理解が唯一の治療法だ。あなたがそれをどう呼ぼうとも。理解の道はもっとも原初の、そして最新の治療法なのだ。なぜなら、それはマインドをあるがままに扱うからだ。
何をしようとあなたが変わることはないだろう。なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。いったいどうして変わることを気にするのか? 身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚しなさい。そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろう。あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。ただそれだけだ。そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。なぜなら、何も失われてはいないからだ。リラックスしなさい。そして「私は在る」を見守りなさい。実在はその背後にあるのだ。静かにしなさい。沈黙しなさい。それは現れるだろう。あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。


質問者 私は身体とマインドから自由になるべきではないのでしょうか?


マハラジ あなたにはできない。なぜなら、その考え自体があなたを身体とマインドに拘束させるからだ。ただ理解し、無視すればいい。


質問者 私には無視することができません。私は統合されていないのです。


マハラジ あなたが完全に統合され、思考と行動が完全に協調されていると想像してみたところで、それがどのようにあなたを助けるというのだろうか? それがあなたは身体とマインドだという誤解を解くことはないだろう。身体とマインドを「あなたではないもの」として正しく見なさい。ただそれだけだ。


質問者 あなたは私に忘れるために覚えておきなさいと言われるのですか?


マハラジ そうだ。それはそう見える。だが絶望的ではない。あなたにはできる。ただ誠実にはじめなさい。あなたの盲目の手探りは前途にあふれている。あなたの探求そのものが発見なのだ。失敗はありえない。


質問者 統合されていないために、私たちは苦しむのです。


マハラジ 私たちの思考と行為が欲望と恐れに誘発されているかぎり、苦しみは続くだろう。その不毛さと危険性を見なさい。そうすれば、混沌は鎮まるだろう。あなた自身を改善しようと試みてはならない。ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。変化するものは変化しつづける。その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと期待してはならない。それはけっして起こらない。変化という観念自体が偽りとし見られ、放棄されたときにのみ、不変なるものがおのずと現れるのだ。


質問者 私がどこへ行こうと、実在を見ることができるようになる前に、私は深く変わらなければならないと言われてきました。この意図的な、自ら強要した変化がヨーガと呼ばれるものなのです。


マハラジ すべての変化はただマインドに影響を与えるだけだ。あなたであるもので在るには、マインドを超え、自己の存在のなかへと行かなければならない。マインドが何なのかということは重要でない。もしあなたがマインドを永遠に捨て去るならばだが。これもまた、真我の実現なしには不可能だ。


質問者 マインドを放棄することと真我の実現、どちらが先に来るのでしょうか?


マハラジ 真我の実現がかならず先に来る。マインドはマインドによってそれ自体を超えることはできないのだ。それは爆発しなければならない。


質問者 爆発の前に探求はないのでしょうか?


マハラジ 爆発力は実在からやってくるのだ。だが、あなたはマインドをそのときに備えておくように充分教えられている。つぎの機会がやって来るまで、恐れはつねにそれを遅らせることができる。


質問者 私はチャンスがいつもあるものだと思っていました。


マハラジ 論理的にはそのとおりだ。実際は、真我実現のために、すべての必要要因が揃った状況が生じなければならないのだ。このことで落胆することはない。「私は在る」という事実にとどまることが、別のチャンスをすぐにつくり出すだろう。なぜなら、態度が好機を引き寄せるからだ。あなたの知っていることはすべて間接的な知識だ。ただ、「私は在る」だけが直接の、そして証明を必要としないものなのだ。それとともにとどまりなさい。


03 2024/04 05
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