何か特定の経路を通してそれを探しだそうとすることがあなたをかき乱す
今日書いた内容のなかでは、これが一番大事だと思います。n


愚痴「陰 ─ オン ─ 」について
意識界の現実に触れることは変な感じ(神だけは素晴らしすぎて顎が外れる感じ)です。おもちゃと本物の感覚が逆転し、この世界で目にしてきたマジメな人々が口にする「現実」は「おもちゃ」のレベルの推測にすぎなかったことを否応なしに自覚させられます。これだったら、単純素朴に中世の頃の強い信仰心をもつ人物のほうがよっぽど正確な世界観だったのではないかと感じてしまいます。この世に生きるわたしたちは強制「忘却」状態に置かれていただけだったことがはっきりとわかります。この世界で本物と呼べるのは、乗り越えるべき精神的葛藤のリアリティのみではないでしょうか。すべての支援を視界から消してしまい深刻度を増した世界で、自己の本音と弱点に向き合うことができます。それは本物です。他人の弱点や未熟度に振り回されることもまた多くて、閉口します。ところがこちらは本物ではありません。またどんなに騒いだって、あるものはあるんですから付き合っていくしかありません。人造の、造り上げられたリアリティです。負の感情「陰 ─ オン ─ 」こそ物質界の存在理由だとフィオラからは聞いています。人同士が一つところに集まることで発生する騒音のような感情の衝突、連鎖のことです。それが嫌になることも多いです。唯一の救いは、神が実在することです。唯一の不満は、神が実在することをほぼ一生にわたって強制的に忘れさせていることです。おかげさま、と言いますが、お陰さまです。「陰 ─ オン ─ 」が憎い、でもそれでこそのお陰さまでもあるし、愚痴を誰にぶつけていいのか、そう迷うことばかりです。n


あなたは普段意識をとぎすましていないので、ひとつの<わたし>と次の<わたし>とのあいだにある空間を見過ごしています。連続した個としてのアイデンティティが存在しない、大きく拡がる無の空間である隙間の瞬間に気がつきません。ということは、あなたは<過去>の瞬間に創造されたもののイメージの片鱗を現在の瞬間に持ち込んでいるということになりませんか。


過去は罪悪感を含み、未来は不安を呼び、あなたはその両極にはさまれて動けないでいるということを忘れないでください。そこから抜け出す方法は、過去か未来のどちらかに移動することでもなければ、思考が過去か未来のどちらかに習慣的に流れるのに対して抵抗することでもありません。解決法は、手短に言うと、やはり現在の瞬間に意識を置くことです。そうすると、いまこの瞬間に実際に起きていることが姿を現します。その方法を学ぶ必要はありません。意志さえあれば充分です。具体的に言うと、呼吸や聞くことや見ることに意識を向けるのです。


どこかに行く必要もなければ、何かをする必要もありません。ただ、いまこの瞬間起きていることの中で目覚めていればいいのです。B


質問者 どうすれば真我を達成できるのでしょうか?


マハルシ 真我は達成されるものではありません。なぜなら、あなたが真我だからです。


質問者 そうです。不変の自己と変化する自己が私の中に存在しているのです。そこには二人の自己があるということです。


マハルシ 変化するのは単なる想念にすぎません。すべての想念は「私」という想念が現れた後にのみ現れます。想念が誰にとって現れたのかを見いだしなさい。そうすればそれは超越され、そして静まるでしょう。すなわち、「私」という想念の源をたどることで、あなたは完全な「私─私」を実現するのです。「私」とは真我の名前なのです。


質問者 「私はブラフマンである」(アハン・ブラフマースミ)に瞑想すべきでしょうか?


マハルシ その確言は「私はブラフマンである」と考えるためのものではありません。アハム(「私」)は誰もが知っています。ブラフマンはアハムとしてすべての人の中に宿っています。「私」を見いだしなさい。「私」はすでにブラフマンなのです。そう考える必要などありません。ただ「私」を見いだしなさい。


質問者 鞘(コーシャ)を棄て去っていく方法が聖典に述べられているのではありませんか?


マハルシ 「私」という想念が現れた後、「私」と身体、感覚、心などとの偽りの自己同一化が起こります。「私」が誤ってそれらと結びついたため、真の「私」は見失われてしまったのです。汚れた「私」から純粋な「私」へと変容させるために、鞘を棄て去るということが聖典に述べられています。しかしそれは、正確には真我ではないものを棄て去ることではなく、真我を見いだすことにあるのです。
真我は無限の「私─私」です。その「私」は完全です。それは永遠なるもの、始まりも終わりもないものであり、もう一つの「私」は生まれ、そして死んでいく、はかない一時的なものです。変化する想念が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。それらは「私」という想念が現れた後に現れることがわかるでしょう。その「私」という想念をとらえなさい。そうすれば、それは静まります。「私」という想念の源をたどりなさい。そうすれば、真我のみが残るのです。

(対話266)



人間のオーラに関して私が知ったもっとも画期的な研究は、UCLAのバロリー・ハント博士のグループが行った。ロルフィングによる肉体および精神への影響の研究(構造的神経筋的エネルギーフィールドおよび感情的アプローチの研究)で、彼女は一連のロルフィング実験の間に肉体からの低ミリボルテージ信号の周波を記録した。この記録には、皮膚に取り付けた銀/銀塩化物製の基本電極を用いた。この電子信号の記録と並行して、カリフォルニア・グレンデールのヒーリング・ライト・センターのロザリン・ブライヤーがロルフィングを行う者とロルフィングを受ける者の両者のオーラを観察した。ロザリンのコメントは、電子データと同じテープレコーダーに記録された。彼女は、実験に関わるチャクラおよびオーラの色・サイズ・エネルギー運動を逐次レポートした。
その後、科学者が、記録された波動パターンをフーリエ解析法とソノグラム周波分析法で数学的に分析した。どちらの分析法でも驚くべき結果が明らかになった。一貫した波動形と周波がロザリンのレポートした色と一致していたのだ。ロザリンがオーラ内のある特定の場所に青色を観測すると、電子測定は同じ場所に青い波動形と周波を示したのである。ハント博士はさらに七人のオーラ観察者と同じ実験を繰り返した。そして、彼らも同じ周波/波動パターンと相関するオーラの色を観測した。研究を進めた1988年2月の結果は、次のような色、周波相関関係を示している。(Hz=ヘルツまたはサイクル/秒)



250-275Hz  プラス1200Hz

250-475Hz

500-700Hz
オレンジ
950-1050Hz

1000-1200Hz
青紫
1000-2000Hz  プラス300-400Hz
600-800Hz

1100-2000Hz


これらの周波数は、青と青紫の追加周波を除くと虹の色の逆の順序になる。測定された周波は、測定されたエネルギーと同様に機械のサインでもある。
ハント博士は、「超感覚知覚能力者がオーラの放射を見、描写してきた何世紀もの間、彼らの主観的な色放出の観察を証明する、これが最初の客観的な周波・振幅・時間の電子的証拠である」と語っている。
ここで発見された色周波が光または色素周波に相当しないという事実は、実験結果を否定することにはならない。私たちが色として見ているものは、肉体の目がとらえた周波であり、色を識別するために便宜上与えられた言葉だと気づけば、目と脳のプロセスセンターが色を高周波だけで判断すると示すものは何もなくなる。色の体験の最終的な判断基準は視覚的解釈である。だが、より精密な機械や進歩した記録データ処理技術を持っていれば、現在の1500ヘルツまでのこれらのデータがさらに高い周波まで捉えられるかもしれないのだ。
ハント博士は、次のように語っている。「超自然学の文献の中には、色のあるチャクラがたびたび登場する。例をあげるとクンダリニーチャクラは赤、下腹部はオレンジ、脾臓は黄色、心臓は緑、喉は青、第三の目は青紫、頭頂部は白などである。特定のチャクラの活動は、他のチャクラを活発化させるらしい。心臓のチャクラがもっとも活発である。被験者はロルフィングを施されたさまざまな体の部位に関係のある、感情、イメージ、過去の記憶などをいくつも体験した。その実験結果は、過去の記憶は肉体組織に保存されるという考え方に信頼性を与えたのである」
例えば、誰かが足をロルフィングされると、幼児期のおまるを使った体験を鮮明に思い出すことがある。その人は、体験を単に思い出すだけでなく、感情的にその体験に直面する。排泄を司る括約筋を脳がまだコントロールできないでいる時期に、子どものおまるトレーニングをしようとする親が多い。その子どもはまだ生理的に括約筋をコントロールできないために、腿の筋肉を圧縮することで補おうとする。これは肉体に多大なストレスと圧力をかける。多くの場合、この圧力ストレスは生涯を通して、あるいはロルフィングや生物エネルギー学的な深い整体が行われるまで、習慣的に保持される。それが、ロルフィングで筋肉の緊張や圧力が解きほぐされると、記憶も解放されるのである。記憶-緊張を保持している身近な例は、肩こりである。これは、恐怖や心配を抱えていることから肩に起こる。自分は何をやり遂げられないと恐れているのか。また、もしそれが成功しなかったらどうなると考えているのか?と自問自答してみるといいだろう。


結論


私たちがヒューマンエネルギーフィールドを肉体のすべてのフィールドまたは放射物と定義するなら、多くのヒューマンエネルギーフィールドの成分が実験室で測定されたことになる。それは、ヒューマンエネルギーフィールドの静電気、磁気、電磁気、音波、熱性と目に見える成分である。すべての測定は、一般的な肉体の生理学的プロセスと一致している。さらにその先を行く精神身体機能の媒体を供給している。
ハント博士の測定は、オーラの限定された色に対する限定された周波を示している。その周波は、使用された実験装置の限界のために記録されなかっただけで、より高い周波を持っているかもしれない。
上記にあげた測定は、ヒューマンエネルギーフィールドが自然界では粒子であり、気流や水流のような流体運動をしていることを表している。粒子は非常に小さく、何人かの研究者によれば原子よりも小さいという。電荷された微小な粒子が大群で移動すると、物理学者は通常それをプラズマと呼ぶ。プラズマは、物理学者にエネルギーと物体の中間状態であると考えさせるようになった物理的法則に従う。実験室で測定されたヒューマンエネルギーフィールドの特性の多くが、ある科学者たちが「バイオプラズマ」と呼ぶ、物体の第五の状態を示唆している。
これらの研究は、システム(消化器官のような)からなる肉体の通常モデルで説明するのは不充分であることを示している。生命体としてのエネルギーフィールドの概念に基づいた追加モデルが開発される必要がある。複雑な電磁界(EMF)のモデルも完全には目的を果たせない。予知や過去の生命を知る能力のようなヒューマンエネルギーフィールドに関わる多くの心霊現象は、電磁界のモデルでは説明できないのだ。
バロリー・ハント博士によると、肉体は「すべての組織とシステムに行き渡っている、肉体の原子細胞質の特性から生まれるエネルギーの量子概念から観察できる」と言う。彼女は、ヒューマンエネルギーフィールドのホログラフィック的見地がよい方法の一つかもしれないと提案する。「物理学と脳の研究で浮上しつつあるホログラムの概念は、別の段階で得たすべての生物学的発見を解釈し直すための真に統一された現実の宇宙観を供給しているように思える」
また、マリリン・ファーガソンが『ブレイン・マインド・バルタン』の中で、「ホリスティックモデルは、「イマージング・パラダイム」として、科学と精神のすばらしい未知の世界を理解するために不可欠の理論であると考えられてきた。そしてついにオープンシステムで、生物学と物理学を結合させる理論が登場したのである」と語っている。
(「光の手」上 バーバラ・アン・ブレナン 河出書房新社 5章 ヒューマンエネルギーフィールドに関する科学的発見の歴史を探る p77-p81)



質問者 私はフランスで生まれ育ち、この十年間ヨーガの修練を続けてきました。


マハラジ 十年もの修練の後、あなたは目的に近づいただろうか?


質問者 少しは近づいたのかもしれません。ご存じのように、修練は厳しいものです。


マハラジ 真我は近くにあり、それへの道は易しいものだ。あなたがすべきことは、ただ何もしないということだけだ。


質問者 それでも、私はサーダナ(修練)がたいへん難しいものだと知りました。


マハラジ あなたのサーダナは在るということだ。するということは起こるのだ。ただ注意深くありなさい。あなたは在る、と覚えていることに何の困難があるだろう? あなたはつねに在るのだ。


質問者 存在の感覚は疑いなく、つねにそこにあります。しかし注意の範囲は感情、イメージ、観念といった心理的な出来事にしばしば侵略されてしまいます。純粋な存在の感覚は、たいてい締めだされてしまうのです。


マハラジ マインドから不必要なものを取り除くためのあなたの手段はどのようなものだろう? マインドを浄化するためのあなたの方法と道具は何だろうか?


質問者 基本的に、人は恐れています。彼は彼自身をもっとも恐れているのです。私は、自分が今にも爆発しそうな爆弾を抱えこんでいる人のように感じています。彼はそれを取り除くことも、棄て去ることもできません。恐怖におののき、狂乱のなかで解決法を探しまわり、それを見いだせずにいるのです。私にとって解放とは、この爆弾から自由になることです。私はこの爆弾について多くを知りません。私の知っていることと言えば、それが私の幼年期からのものだということです。あたかも、私は愛されずにいることを激しく抗議している、怯えた子供のように感じます。子供は愛を切望し、それを得ることができないために恐れ、怒っているのです。ときどき、私は誰かを、あるいは私自身を傷つけたくなります。この欲望があまりにも強いため、つねに恐れているのです。しかも、どうやって恐怖から自由になれるのか、私は知らないのです。
ヒンドゥー教の精神とヨーロッパの精神に違いがあることはご存じだと思います。ヒンドゥー教の精神は比較的シンプルなものです。ヨーロッパ人はもっと複雑な存在なのです。ヒンドゥー教徒は基本的にサートヴィック(純質)で、ヨーロッパ人の落ち着きのなさ、より多くの一般的知識や、絶えず必要に駆りたてられた活動の追及といったことを、彼らは理解しないのです。


マハラジ 彼の論証能力は実に大したものだ。彼はすべての論拠から彼自身を論証してしまうだろう! 彼の自己主張は、論理を頼りにしているからなのだ。


質問者 考えることと論証することは、マインドの正常な状態です。マインドはただその働きを止めることができないのです。


マハラジ それが習慣的な状態ではあっても、通常の状態である必要はない。正常な状態に苦痛はない。誤った習慣は、しばしば慢性の苦痛へと導くのだ。


質問者 もしそれが自然な、あるいは正常な状態ではないとしたら、どうやってそれを止めればいいのでしょうか? マインドを静める方法があるに違いありません。私はどんなによく、自分に向かって言うことでしょう。「もう充分だ。どうか止まってくれ。この何度も何度も果てしなく繰り返すおしゃべりに疲れ果てた」と。しかし、私のマインドは止まらないのです。ほんの少しの間、それを止めることはできると感じはしますが、長くは続かないでしょう。いわゆる「霊的」な人びとでさえ、マインドを静めるために策略を使うのです。彼らはマントラを復唱し、歌い、祈り、呼吸を強いたり、静めたり、揺さぶり、集中し、瞑想し、三昧状態を追い求め、美徳を積んだりすることで、働きかけることや、追いかけること、動きまわることをやめるために、つねに働きつづけているのです。


マハラジ マインドは二つの状態で存在している。ひとつは水として、もうひとつは蜜として。水はほんのわずかな乱れでも波立ってしまう。一方、蜜はどんなに乱されても、すばやく不動の状態に戻るのだ。


質問者 マインドはその本性からして落ち着きのないものです。それを静かにさせることはおそらくできるでしょうが、それ自身は、静かではないのです。


マハラジ あなたには慢性の高熱と身震いがあるのだろう。マインドを落ち着かなくさせるのは、欲望と恐れなのだ。すべての否定的な感情から自由になれば、それは静かになるだろう。


質問者 子供を否定的な感情から守ることはできません。誕生してすぐに、それは苦痛と恐れを学ぶのです。空腹は残酷な主人であり、それは依存と憎悪を教えます。子供が母親を愛するのは、彼女が食事を与えるからで、彼女を憎むのは、食事を与えるのが遅れるからです。私たちの無意識は葛藤で満ちていて、それが意識のなかへとあふれ出るのです。私たちはいつも火山の上に暮らしていて、つねに危険にさらされています。マインドの平和な人びととの交わりが、たいへんマインドを落ち着かせる効果があることは私も認めます。しかし、彼らから離れたとたん、古い問題がまたはじまるのです。私がグルとともに在ることを求めてインドを定期的に訪れるのも、この理由からなのです。


マハラジ あなたは来ては去り、また多様な気分や状態を通り抜けていくと考えている。私はものごとをあるがままに見ている。つかの間の出来事が急速な連続性のなかで私に呈示されていく。それらは私からその存在を引き出していながら、しかも確実に、私でも私のものでもないのだ。私は数ある現象のなかのひとつではなく、いかなる支配も受けない。私はまったく純粋に、完全に独立しているため、あなたの対立と否定になれ親しんだマインドで理解することはできないのだ。私には文字通り、何の対立も否定も必要ない。なぜなら、私が何かに反対や否定をすることができないのは明白なことだからだ。私はただ彼方の、まったく異なった次元のなかに在る。私と同一化する、あるいは対抗する何かを見つけだそうとしてはならない。私は欲望も恐れもないところにいるのだ。さて、あなたの体験はどうだろうか? あなたもまた、はかないものごとすべてから超然と離れて在るように感じているだろうか?


質問者 はい。ときどきはそう感じます。しかし、ひとたび危険を感じると、私は他者との全関係性の外に孤立してしまうのです。わかりますか? ここに私たちの精神状態の違いがあるのです。ヒンドゥー教徒は感情が思考にしたがいます。ヒンドゥー教徒にひとつの考えを与えると、彼の感情は湧きあがってくるのです。西洋人の場合は反対です。彼に感情を与えると、彼はひとつの観念を生みだすのです。あなたがたの観念は、私にとって知的には非常に魅力的なのですが、感情的には感応しないのです。


マハラジ あなたの知性を脇にのけておきなさい。これらのことがらに知性を用いてはならないのだ。


質問者 私に実行することのできないアドバイスが、何の役に立つというのでしょうか? それらはみな観念なのです。あなたは観念に対して感情で応えるよう求めているのです。なぜなら、感情なしに行為はありえないからです。


マハラジ どうして行為について話すのかね? あなたが行為をしているというのだろうか? ある未知なる力が行為をし、あなたはあなたが行為をしていると想像するのだ。いかなる形であっても、影響を与えることのできないまま、あなたは単に起こることを見ているだけなのだ。


質問者 どうして私には何もできないということを受け入れるのに、これほど途方もない抵抗が私のなかにあるのでしょう?


マハラジ だが、あなたに何ができるというのかね? あなたは手術を行う外科医の手にかかり、麻酔薬の影響下にある患者と同じだ。目覚めたとき、あなたは手術が終わったことを知るのだ。それでもあなたが何かをしたと言えるだろうか?


質問者 しかし、手術を受けることを選択したのは私なのです。


マハラジ もちろんそうではない。あなたに決定をさせたのは、一方ではあなたの病気であり、もう一方では医師と家族からの強要なのだ。あなたに選択はない。ただ選択権があるという幻想だけだ。


質問者 それでもなお、私はあなたが言われるほど無力ではないと感じています。私は考えることすべてを実行することができると感じています。ただ、どうすればよいのか知らないだけなのです。私が力を欠いているのではありません。知識がないのです。


マハラジ 明らかに、知らないということは力がないのと同じだけ悪いという意味だ! だが、しばらくこの問題は置いておこう。結局、さし当たり私たちが無力だということをはっきり知っているかぎり、なぜ無力に感じるかはそれほど重要ではないのだ。
現在、私は七十四歳だ。それにもかかわらず、私は子供のように感じる。通り抜けてきたあらゆる変化にもかかわらず、私は子供であるとはっきり感じるのだ。グルは私に言ったものだ。「今でさえあなたであるその子供が、あなたの本来の自己なのだ」と。「私は在る」が、まだ「これが私だ」「あれが私だ」に汚される前の純粋な状態に戻りなさい。偽りの自己同一化があなたの重荷なのだ。それらをすべて落としなさい。グルは私に言った。「私を信頼しなさい。あなたに言おう。あなたは神聖なのだ。それを絶対の真実として受け取りなさい。あなたの喜びは神聖だ。あなたの苦しみもまた神聖だ。すべては神からやって来るのだ。それをいつも憶えていなさい。あなたは神だ。あなたの思いのみが為されるのだ」。私は彼を信じ、すぐに彼の言葉が的確であり、驚くほど真実だということを悟ったのだ。私は、「私は神だ。私は素晴らしい。私は超越している」と考えることでマインドに条件づけをしたわけではない。ただ「私は在る」という純粋な存在にマインドの焦点を合わせ、そのなかにとどまるという彼の教えにしたがっただけなのだ。私は、「私は在る」以外何もマインドのなかに置かず、何時間も坐ったものだった。そしてすぐに平安と喜びすべてを深く抱擁する愛が私の正常な状態となった。そのなかにすべては消え去っていった──私自身、私のグル、私の生きた人生、そして私の周辺の世界が。ただ、平和と計り知れない沈黙だけを残して。


質問者 それは一見、たやすく単純に見えます。しかしそうではありません。ときどき素晴らしい、喜びにあふれた平安が私の上に降り立ちます。そして私はそれを見て思うのです。「なんとたやすくそれはやってきて、なんと親密なのだろう。なんと完全に私自身のものなのだろうか。こんなに間近に在る状態のために、こんなにも努力する必要がどこにあったのだろう? 今回こそ、間違いなくそれはとどまるだろう。それにもかかわらず、なんと早くそれは消え去り、驚きのなかに私を取り残したのか──あれは実在の一瞥だったのだろうか、それとも何か異常な状態だったのだろうか? もしそれが実在ならば、どうして去ったのだろう? おそらく私を新たな状態に確立するために、何か特別な体験が必要だったのかもしれない。そして、決定的な経験が起こるまでは、このかくれんぼのゲームは続かなければならないのだ」と。


マハラジ ある特別で劇的な、何か素晴らしい爆発が起こることへの期待は、ただ単にあなたの真我の実現を妨害し、遅れさせるだけだ。爆発を期待すべきではない。なぜなら、あなたの誕生の瞬間、あなた自身を在ること─知ること─感じることとして自覚したときに、爆発はすでに起こったからだ。たったひとつ、あなたには誤りがある。あなたは内面を外面に見て取り、外面を内面として見ているのだ。あなたの内側にあるものをあなたの外側にあると見なし、外側にあるものをあなたの内側にあると見なしているのだ。マインドと感情は外側にあるのだ。だが、あなたはそれらを最も内部にあると見なしている。あなたは世界が外界のものだと信じている。だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ。これが混乱の根本であり、新たな爆発がその混乱を正すわけではない。あなた自身で考え抜かなければならないのだ。ほかに道はない。


質問者 思考が好き勝手に去来していくなかで、どのようにして考えぬけというのでしょうか? この果てしないおしゃべりが私をかき乱し、疲れ果てさせるのです。


マハラジ 通りの往来を見るように、あなたの思考を見守りなさい。人々は来ては去っていき、あなたはそれに反応することなく印象をとどめていく。はじめのうちは楽ではないかもしれないが、いくらかの修練で、マインドがいくつもの層で機能し、あなたはそれらすべてに気づくことができると知るだろう。ただ、あなたがある特定の層で、あることに関心を持つとき、それに注意を捕らわれて他の層が忘却されるのだ。そのときでさえ、意識界の外側では忘却された層への働きかけが続いている。あなたの記憶や思考と闘ってはならない。「私は誰か?」「どのようにして私は誕生したのか?」「私を取り巻くこの宇宙はどこからやってきたのか?」「何が実在であり、何が一時的なものなのか?」といった、より重要な質問をあなたの注意の領域に取り入れなさい。
もしあなたが興味を失えばいかなる記憶も持続はしない。束縛を永続させるのは感情的なつながりなのだ。あなたはつねに快楽を求め、苦痛を避けている。いつも幸福と平和を追い続けているのだ。あなたの幸福への探求自体が、あなたを惨めに感じさせているのがわからないだろうか? ほかの方法を試してみなさい。苦痛と快楽に無関心でありなさい。求めず、拒まず、永遠に存在する「私は在る」のレベルに、あなたのすべての注意を払いなさい。すぐにあなたは平和と幸福があなたの本性そのものであることを悟るだろう。何か特定の経路を通してそれを探しだそうとすることがあなたをかき乱すのだ。障害を避けなさい。ただそれだけだ。探す必要はないのだ。すでにもっているものを探すことはない。
あなた自身が神、至高の実在なのだ。まず私を信頼しなさい。師を信頼することだ。それがあなたに第一歩を踏ませる。そうすれば、自らの体験によってあなたの信頼が正しかったことを認めるだろう。人生を歩んでいくには最初の信頼は欠かせないものなのだ。それなしでは何もできない。いかなる仕事も信頼の行為だ。日々の食事さえ、あなたは信頼をもとに食べている。
私の言うことを覚えていることで、あなたはすべてを達成するだろう。今一度あなたに言おう。あなたはすべてに遍在し、すべてを超越する実在なのだ。それにしたがってふるまいなさい。全体との調和のなかで考え、感じ、行為しなさい。そうすれば、私が言ったことの実際の体験はすぐにあなたに現れるだろう。努力は必要ない。信頼をもってそのとおりに行動しなさい。
どうかわかってほしい。私はあなたから何も欲してはいないのだ。私が話すのは、あなた自身のためなのだ。なぜなら、あなたは何よりもあなた自身を愛しているからだ。あなたは自分が安全で幸福でありたい。それを恥ずかしがることはない。それを否定することはない。それは自然なことで、自分自身を愛することは良いことだ。ただ、正確にあなたが何を愛しているのかを知るべきだ。あなたの愛しているのは身体ではない。それは生命──知覚し、感じ、考え、行為し、愛し、努力し、創造する生命なのだ。あなたが愛しているのはあなた自身であり、すべてである生命なのだ。それをその全体性において認識しなさい。すべての区別と限界を超えて。そうすれば、あなたのすべての欲望はそのなかに解け去るだろう。なぜなら、大いなるものは小さなものを包含するからだ。それゆえ、あなた自身を見いだしなさい。なぜなら、それを見いだすことであなたはすべてを見いだすからだ。
誰でも存在することが嬉しい。だが、その完全な意味を知る者はいない。「私は在る」「私は知る」「私は愛する」という言葉の意味の核心を知ろうとする意志とともに、それらに心をとどめることによって、あなたは知るようになるのだ。


質問者 「私は神である」と考えることはできるでしょうか?


マハラジ 自分自身を観念と同一化してはならない。もし神が未知なるものという意味ならば、あなたは単に、「私は私が何であるか知らない」と言うだけだろう。もしあなたがあなた自身を知るように神を知っているならば、言う必要もない。もっとも正しいのは「私は在る」という純粋な感覚だ。忍耐強くそのなかにとどまりなさい。ここにおいては忍耐が智慧なのだ。失敗を思ってはならない。この仕事に失敗はありえないのだ。


質問者 私の思考がそうさせないでしょう。


マハラジ 放っておきなさい。闘ってはいけない。それについて何もしないことだ。それが何であれ、あるがままにしておきなさい。抗うこと自体がそれに生命を与えるのだ。ただ無視しなさい。見過ごすのだ。「何であれ、私が在るゆえに起こるのだ」ということを思い出すことを覚えていなさい。すべてはあなたが在るということを思い起こさせる。体験するにはあなたがいなければならないということを充分利用するがいい。関心をもたないことが自由をもたらすのだ。しがみつかないこと、それだけだ。世界は無数の輪(リング)でできている。それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。あなたの鉤をまっすぐにしなさい。そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。あなたの耽溺を放棄しなさい。ほかに何も放棄するものはない。常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。そうすれば自由の世界はあなたのものだ。努力をせずに在りなさい。


質問者 人生は努力です。そこにはするべき多くのことがあるのです。


マハラジ する必要のあることはしなさい。抵抗してはならない。あなたのマインドのバランスは、的確に正しいことをすることを基本に、瞬間から瞬間へと活動的でなければならない。成長することに反抗する子供のようであってはならない。型にはまった身振りや態度は助けにはならないだろう。完全にあなたの思考の明晰性、動機の純粋さ、行為の高潔さのみを頼りにしなさい。あなたが道を誤ることは、けっしてありえない。超えていきなさい。そしてすべてを置き去りにしなさい。


質問者 しかし、永遠に残されるような何かがありうるのでしょうか?


マハラジ あなたは二十四時間休みなしのエクスタシーのような何かが欲しいのだ。エクスタシーは来ては去っていく。人間の脳は、必然的に長期の緊張に耐えられないからだ。長引くエクスタシーは、非常に純粋で微妙なものでないかぎり、脳を焼き切ってしまうだろう。自然のなかでは何ひとつ停止しているものはない。あらゆるものが脈打ち、現れては消えていく。心臓、呼吸、消化。睡眠と目覚め──誕生、そして死、すべては波のように来ては去っていく。循環反復運動、周期性、両極の調和のとれた交替が法則なのだ。生命のパターンに対抗しても無益なだけだ。
もしあなたが不変なるものを求めるならば、体験を超えていきなさい。私が「私は在る」をつねに覚えていなさいと言うとき、それは「繰り返しそれに戻ってきなさい」という意味なのだ。いかなる特定の思考もマインドの自然な状態ではない。ただ、沈黙だけが自然な状態だ。沈黙という概念ではなく、沈黙そのものだ。マインドが自然な状態にあるとき、すべての体験の後に、自発的にそれは沈黙へと立ち返る。あるいはむしろ、沈黙の背景に反してすべての体験が起こるのだ。
さあ、あなたがここで学んだことが種子となる。表面上は、あなたは忘れてしまうかもしれない。しかし、それは生き、芽吹きの季節は訪れ、生長し、花を咲かせ、実を結ぶだろう。すべてはひとりでに起こるだろう。あなたは何もしなくてもいいのだ。ただ、それを妨げてはならない。


02 2024/03 04
S M T W T F S
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HN:
Fiora & nobody