戦艦長門の竣工


公園さんの6年前の記事より引用させていただきます。上が呼ぶ戦艦"長門"についてです。


引用はじめ





もう一つの地球、戦艦陸奥と戦艦長門は同型艦
2012.03.01 Thursday - 11:56 - by ○○公園
最近、一部の霊能者ではありますが、もう一つの地球と呼ばれる存在を言われる霊能者の方が意外とおられることが解って来ました。

私はこのモウ一つの地球の存在に関して、不思議な啓示を受けたことがあります。それは、【戦艦陸奥と戦艦長門は同型艦である】の啓示です。最初は意味がさっぱり解りませんでした。 戦艦陸奥とか戦艦長門とは、戦前の海軍の連合艦隊の戦艦であって、若い世代の方では戦艦大和と戦艦武蔵は同型艦であることぐらいは知っていても、戦艦陸奥と戦艦長門の存在などそもそも御存じ無いでしょう。
戦艦陸奥は艦内の弾薬庫からの原因不明の爆発で沈没。長門は終戦まで生き延びて、アメリカに渡されてビキニ環礁の核実験に供されて沈没しました。

何故、戦艦大和と戦艦武蔵ではなく、戦艦陸奥と戦艦長門で啓示されたのか?。陸奥は「みちのく」とも言います。大本教が出した艮金神は別名東北金神とも言いました。東北と書いても「みちのく」とも言います。すなわち、これまでの地球の艮金神を指しているのです。
一方、長門は何を意味するのでしょうか?。長門は長州と言いまして、明治維新の薩長連合の薩摩との片方です。地球維新においては、〇十の記号が使われますが薩摩紋です。長門に課せられた意味は、現在の地球は陸奥で表し、もう一つの地球は永遠の世を開く長き門の長門となるわけです。
そして、長門は「穴門あるいは穴戸」とも言われて来ました。意味することは「関門」海峡です。穴の門。穴の戸を開くことは、「天の岩戸」開け。天の岩戸と呼ばれる場所は岩の穴の場所だったでしょう。
これだけだと、少し意味が解りにくいのです。



陸奥から下関。大本教の出口王仁三郎聖師はある演技をされました。その演技の本質が解れば、この「陸奥から長門(下関)」の意味が解って来ます。
この仕組みは今日や昨日ではなくて、とんでもない長い年月を掛けた「神の計画書」に基づいていたからです。出口王仁三郎聖師が活動された明治・大正・昭和初期には何の詳細も語られていませんが、もう一つの地球が存在していることなのです。

この仕組み、大本教神諭で言えば、世に出ておられるどの神も御存じ無い仕組みの一つと言えるでしょう。
日本で祭られている神社に行って、どの神様に尋ねても、解らんの一言でしょう。モウ一つの地球の存在は、創造神レベルから来ている情報でないと解らない仕組みなのです。
否、そうとも言えませんか。聖書では昔から言っていましたね。

だが、ある程度の人数の霊能者の方がもう一つの地球を言っておられますので、高次元にその存在が見えて来ているのでしょう。





引用おわり


マハルシ これらの疑いはすべて、誤った観点と自分の外側の物事に結果を期待するために起こります。

(対話157)



神はあるレベルでは、すべてのものの材料を構成する物質である。別のレベルでは、さまざまな次元の時間の流れであり、複数の並行宇宙を創り出す時間のゆがみである。また、さらに別のレベルでは、物質を支えている光と呼ばれる振動数だ。そして、すべての中で最も偉大なレベルでは、あなたを今の位置に保っている「何もないもの」、すなわち思考であり、宇宙の永遠性なのだ。


神とは、永遠に続いていく生命全体であり、それは脈打ち、広がり、進化している。それは「在ること」であり、この「在ること」は、これまでにあったものを許容するものであり、いま在るものが広がっていくことであり、これからやってくるものを約束するものだ。それは生命を与える動きであり、特定のゴールや理想に到達するのではなく、思考から光へ、それから物質へと、絶え間なく生命を創造し続けている無限の思考プロセスなのである。神は在るものすべての本質であり、この在るものすべては、つねに変化し続け、創造し続け、広がり続け、存在し続ける「ある動機をもった力」の中に在るのである。


何か目に見えたら、それではありません。何か考えが浮かんだら、それではありません。あなたのすることでもありません。けれどもこうしたことの中に常にあるものです。


『わたしはイライラしている』と言うときの<わたし>はどんな感覚ですか。
『わたしは落ち着いている』と言うときにもその感覚がありますか。
あなたの中には決して変化しない何かがあります。それは生まれることも消えることもなく、いま起きていることを完全に知っています。何かがすべてを観察し、すべてを感じ、すべてに反応します。それから離れないでください。


存在する全てのものの本質とは何でしょうか? それらの源は何でしょうか? それらの本質は何でしょうか? それらの運命は? これらの問いへのラムサのアプローチは、彼の「ヴォイド」という概念から始まります。ヴォイドは、存在する全てのものが生じる源です。彼はヴォイドを「物質的には何もない広大な無でありながら、潜在的に全てのものでもある」と言う風に描写します。ヴォイドの中には何もありません。つまり動きも活動もありません。神に関する問いへの哲学的なアプローチの多くは(一神教の宗教の神学も含めて)、神というものを、「全知」、「無限」、「絶対」、「超越的」、「不変」の存在とみなしてきました。ラムサの体系では、絶対性、無限性、不変性といった属性は、ヴォイドの持つ性質です。ヴォイドは自己完結的、自己充足的であり、一種の休止した状態、何も必要としない状態です。ヴォイドは、全てを包含する広大なもののように見えるにもかかわらず、その原初の状態では、自分自身について何も知りません。というのも、知るということは、ひとつの活動だからです。


アリストテレス哲学やトマス・アクィナス神学の中に私たちが見いだす、創造者としての神の概念、すなわち「第一原因」、「不動の動者」といった概念は、ラムサによって、「自分自身について熟考し、自分自身を知ろうとするヴォイド」という言葉で描写されます。この「熟考」という行為は、自分自身に気づき、自分自身を知っているひとつの点を生み出すという、ヴォイドの中での独特の動きを象徴しています。自分自身に気づいているこの点は、「ゼロポイント」、「観察者」、「第一意識」、「意識とエネルギー」、「神」と呼ばれています。ゼロポイントは、広大なヴォイドの中に潜在的可能性として含まれている未知のものをすべて体験して既知にする、という原初の意図をたずさえています。これが進化の基礎です。自分自身について熟考したヴォイドは、人間の源であり、起源です。「あなたは神である」というラムサの言葉は、人間は観察者であり、ゼロポイントが肉体化したものであり、創造的な意識とエネルギーである、ということを言っているのです。



質問者 あらためて、私は快楽と苦痛、欲望と恐れの質問をしたいと思います。恐れとは、苦痛の記憶と予測だと私は理解しています。それは有機体とその生活様式の保護のために本質的なものです。欲求が感じられると苦痛に満ち、その期待は恐れでいっぱいになります。私たちは基本的な必要性を満たせないことを、当然のことながら恐れます。欲求が満たされたとき、安心を経験したり、不安が静められたりするのは、もっぱら苦痛が終わるためです。私たちはそれに快楽や喜び、あるいは幸せといった積極的な名前を与えますが、それは本質的に苦痛からの解放なのです。私たちの社会的、経済的、政治的な制度を維持しているのは、この苦痛への恐れです。
私を困惑させるのは、生存とは何の関係もないものやマインドの状態から私たちが喜びを引き出すことです。その反対に、私たちの快楽はたいてい破壊的です。それらは対象物を、また快楽の主体をも傷つけ、破壊します。そうでなければ、快楽と快楽の追求には何の問題もありません。これが私の質問の核心に導きます。なぜ快楽は破壊的なのでしょうか? なぜ破壊的であるにも関わらず、それは求められるのでしょうか?
言っておかなければなりませんが、私は自然が要求する快楽と苦痛のパターンについては考えてはいません。私が考えているのは、過食のようにもっとも粗雑なものからもっとも純粋なものまで、感覚的、そして神秘的なものの両方です。快楽に耽溺することは、たとえどのような犠牲を払おうとも普遍的なものであり、その根本には何か深い意味があるに違いありません。
もちろん、人のすべての活動が功利主義的な、必要を満たすためだけのものとはかぎりません。例えて言えば、遊びは自然なものであり、人間は存在のなかでもっとも遊び好きな動物です。遊びは自己発見や自己開発のための必要を満たします。しかし、遊びにおいてさえ、人間は自然やほかの生きもの、そして彼自身に対して破壊的になるのです。


マハラジ 要するに、あなたは快楽には反対でないが、苦痛と苦しみへの代価には反対だということだ。


質問者 もし実在そのものが至福であるならば、快楽はそれに何らかの形で関係しているはずです。


マハラジ 言葉の上の論理によって話を進めるのはやめよう。実在の至福は苦しみを除外しないのだ。その上、あなたは快楽のみを知り、純粋な存在の至福を知ってはいない。だから、快楽をそれ自体のレベルで調べてみることにしよう。
もしあなたが快楽や苦痛の瞬間にある自分を見てみれば、快楽や苦痛がものごと自体のなかにあるのではなく、状況のなかにあるということを、いつもきまって見つけだすだろう。快楽は楽しむ人と楽しまれるものとの関係性のなかにある。そしてその本質は受容にあるのだ。状況がいかなるものであれ、それを受け入れることが可能ならば、それは心地好く、受け入れがたければ、苦しいのだ。何がそれを受け入れられるようにするのかは重要でない。原因は物質的、心理的、あるいは理由のわからないものかもしれないが、受容がその決定要因だ。相対的に、苦しみは受け入れないことによるものだ。


質問者 苦痛は受け入れがたいものです。


マハラジ どうしてかね? 試したことがあるのかね? 試してみなさい。そうすれば苦痛には快楽が生みだすことのできない喜びがあることを見いだすだろう。なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあなたを導くという純然たる理由があるからだ。個人の自我はその本性からして絶えず快楽を求め、苦痛を避けている。このパターンの終焉が自我の終焉なのだ。自我と、その欲望と恐れの終焉は、幸福と平和の源であるあなたの真の本性に帰り着くことを可能にする。絶え間ない快楽への欲望は、内なる永遠の調和の反映なのだ。人が自我を意識しだすのは、選択と決定を要求する、快楽と苦痛の合間での葛藤に捕らえられたときだけだ。この欲望と恐れとの衝突が、人生において正常な、偉大なる破壊者である怒りを生みだす。苦痛がひとつの教訓と警告としてあるがままに受け入れられ、注意をもって深く見入られたとき、苦痛と快楽という分離は打ち壊され、それらはともに、抵抗したとき苦しく、受け入れたとき快いという体験になるのだ。


質問者 あなたは快楽を避け、苦痛を追求するように勧めているのでしょうか?


マハラジ そうではない。また快楽を追求し、苦痛を避けることも勧めはしない。それらが来るがままに受け入れなさい。それらが続く間はその両方を楽しみなさい。そして去るべきとき、それらを去らせるがいい。


質問者 どうすれば苦痛を楽しむことができるというのでしょうか? 身体的苦痛は行動を要求します。


マハラジ もちろんだ。そして精神的にもそれは同じことだ。至福は、その気づきのなかにしりごみせず、苦痛に背を向けないことのなかにあるのだ。すべての幸福は気づきからやってくる。私たちがより意識的であれば、喜びはより深くなる。苦痛の受容、無抵抗、勇気、忍耐──それらは、深く永久に枯渇しない真の幸福、真実の至福の源を開くのだ。


質問者 なぜ苦痛は快楽よりも効力があるのでしょうか?


マハラジ 快楽はたやすく受け入れられる。一方、自我のすべての力が苦痛を拒絶する。苦痛の受容が自我の否定であるように、自我は真実の幸福への道を妨げる。苦痛の心からの受容は幸福の源泉を解放するのだ。


質問者 苦しみの受容も同じように働くのでしょうか?


マハラジ 苦痛という事実に気づきの焦点を当てるのは容易なことだ。苦しみにあっては、ことはそう単純ではない。苦しみに焦点を当てるだけでは、充分ではないのだ。なぜなら知ってのとおり、精神的な人生とはひとつの絶え間ない苦しみの流れだからだ。苦しみのより深い層に到達するには、あなたはその根元まで行き、そして、それらの広大なネットワークを露わにしなければならない。そこには恐れと欲望が緊密に織り込まれ、生命エネルギーの流れは対立して行く手を遮り、互いに破壊しあっているのだ。


質問者 どのようにして私の意識層より完全に下にある混乱を正すことができるのでしょうか?


マハラジ あなた自身とともに在ること、「私は在る」とともに在ることによって、日々の生活におけるあなた自身を、批判するよりも理解しようという意図をもって見守ることによって、何であれ、現れることを完全に受容することによってだ。なぜなら、それはそこにあるのだから。あなたは奥深くにあったものが表層に現れることを励まし、その捕らわれていたエネルギーによってあなたの人生と意識を豊かにするのだ。これが気づきの偉大な働きだ。それは生命とマインドの本性を理解することによって障害を取り除き、エネルギーを解放する。知性は自由への扉であり、そして油断のない注意が知性の母なのだ。


質問者 もうひとつの質問です。なぜ快楽は苦痛のなかに終わるのでしょうか?


マハラジ すべてにはじまりがあり、終わりがある。快楽もまた同じなのだ。期待してはいけない。そして後悔してはいけない。そうすれば、そこに苦痛はなくなるだろう。苦しみの原因は記憶と想像なのだ。
もちろん、快楽の後の苦痛は身体とマインドの誤用によるものだろう。身体はその限度を知っているが、マインドはそれを知らないのだ。その渇望は数かぎりなく、限度を知らない。マインドを最大の努力とともに見守りなさい。なぜなら、そこにあなたの束縛が、そしてまた解放への鍵があるからだ。


質問者 私の質問はまだ完全に答えられていません。どうして人間の快楽は破壊的なのでしょうか? どうして彼は破壊することのなかに、それほど喜びを見いだすのでしょうか? 生命はそれ自身の保護、永続、拡張を気にかけているはずです。このなかで、それは苦痛と快楽に導かれているのです。いったい、どの時点でそれらは破壊的になるのでしょうか?


マハラジ マインドが占拠し、記憶し、期待するとき、それは大げさに見たり、ゆがめて見たり、見落としたりする。過去は未来へと投影され、未来は期待を裏切るのだ。感覚と行動の器官は許容範囲を超えた刺激を受け、必然的に弱ってしまう。快楽の対象物は期待されたことを満たすことができず、誤用によって尽き果て、あるいは破壊されてしまう。快楽が探し求められるところには、過剰な苦痛が結果として生じるのだ。


質問者 私たちは自分自身だけではなく、他者まで破壊してしまうのです!


マハラジ 当然、自分本位とはつねに破壊的なものだ。欲望と恐れは、ともに自己中心的な状態だ。欲望と恐れの間に怒りが、怒りとともに憎悪が、憎悪とともに破壊への激情が立ち現れる。戦争はすべての死の兵器を備え、組織化された憎悪の行為なのだ。


質問者 これらの恐ろしいものごとに終止符を打つ方法はないのでしょうか?


マハラジ より多くの人びとが彼らの真の本性を知るにつれて、いかに微妙なものでも彼らの影響は広まっていき、世界の感情的な空気は和らいでいく。人びとは彼らの指導者にしたがい、そして指導者たちの間に、何人かの偉大なマインドとハートをもち、自己本位から絶対的に自由な人が現れたとき、彼らの衝撃はこの時代の未熟さと罪を不可能にしてしまうだけの十分な影響力を与えるだろう。新たな黄金の時代が現れ、一つの時代を築き、それ自身の完成のうちに倒れていくかもしれない。なぜなら、衰退は機運がその絶頂に達したときにはじまるものだからだ。


質問者 永久的な完成というものはないのでしょうか?


マハラジ ある。だが、それはすべての未完成を包括しているのだ。それがすべてを可能にし、知覚可能にし、興味深くする自己の本性の完成なのだ。それは苦しみを知らない。なぜなら、それは好まず嫌わず、受容も拒絶もしないからだ。創造と破壊は、それがその間でつねに変化しつづけていく模様を織り成す二つの極なのだ。好き嫌いやより好みから自由になりなさい。そうすれば、マインドとその悲しみの重荷は、もはやなくなるだろう。


質問者 しかし苦しんでいるのは私ひとりではありません。ほかの人たちもいるのです。


マハラジ あなたがあなたの欲望や恐れとともに彼らのもとへ行くなら、単に彼らに不幸を加えるだけだ。まず、あなた自身が苦しみから自由になりなさい。そのときにのみ、他者を助けられる期待がもてる。期待する必要さえない。あなたの存在そのものが、ひとりの人間として同胞に与えることのできる最大の助けとなるだろう。


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