多くの客船とゴムボートがあって


行先をそれぞれ看板のように掲げています。実際にその目的地にうまく行ける船もあれば、途中で沈んだり、看板に虚偽がある船もありえます。事故で沈むかもしれないし、予想外の遭難もあるかもしれません。そしてすべては自己責任です。騙されたとしたら、あなたの目が悪かったんでしょう? と言われて終わりです。看板の中には、「同種類」のものがあります。ある界隈には「○○行き」と共通する目的地が書かれている船ばかりの場所があり、目的地ではなく「△△の正当なる継承者」とか、「イエス様はこちら」「お釈迦様はこちら」とか書かれているわけです。中には人を乗せようとしない船、なんのためにあるのかよくわからない船もたくさんあります。「徒然なるままに…」とか「最後の日に笑えたらそれで…」とか色々です。お金をとる客船の中には立派な大型客船もあります。お釈迦様の生まれ変わりと自称する方が船長だったりします。専属女優兼歌手と契約し、船内で最新のMVも流します。これらはどこも悪くありません。船旅をどのように楽しもうと自由です。そしてすべては、自己責任です。実際に行き着いた先を確認した上で非難は始まるべきです。ですがそのときに後悔してもおそらく手遅れであり、だから再三自己責任と船に乗る前から伝達されています。どこに向かっているかわからないほとんどの日本人は個人用のゴムボートに乗っているのだと私は思います。終末論のいい加減さを知りつくしている一般人は特に、こういった船の中から何を選ぶか迷うでしょう。私が以前言ったように、この世で最低最悪の思想は、自分の最低最悪な思想に「神」を絡めて説得力を持たせようとする輩の醜悪さです。曰く、神がやつらを殺せとおっしゃったのです。私は何も悪くないのです。神がやつらの土地を奪ってよいと言ったのです。共存? 必要ありません。追い出せばよい。本来エルサレムはユダヤ人にこそ与えられたと神がおっしゃっているのです。コーランではジハード(聖戦)は神によって認められています。正当な理由があるのだから異教徒への攻撃は推奨されるのです。残酷な攻撃であっても神は喜ばれるのです。このような人為的な、勝手な都合を正当化しようとする「神をかたる思想」がどぶより酷い悪臭を放ち、船の選別の必要性を感じなくなっていきます。ところが、船とそういった周辺事情をまったく無視して、海だけは冷酷に荒れ始めるのです。n


善を見て愛慕せず
悪を見て嫌悪せず


感覚の対象を見 また思うことで
人はそれに愛着するようになり
その愛着によって欲望が起こり
欲望から怒りが生じてくる


様々な欲望が次々に起こっても
追わず取りあわずにいる人は平安である


心が感覚の対象に執着しているのは
自己をあざむく者であり
彼は偽善者とよばれる


だが自己の本性を知って
「それ」に満足し 歓喜し
「それ」に安んじ 楽しむ者には
もはや為すべき義務はない


そのような人物にとっては


行為して得る目的もなく
行為せぬことによって失うものもない


この世界には二種の創造物がある
一つは神性をもつ者 他は魔性のもの
神性については既に話したから
次に魔性について説明しよう


思い上がり 尊大な態度 うぬぼれ
怒り 荒々しさ 無知
これらの性質は プリターの息子よ
魔性に属するものである


魔性の者たちは──為(す)るべきことと
為(し)てはならぬことの区別を知らない
清らかさも無く 礼儀もわきまえず
不誠実 不正直である


地獄に到るには三つの門があり
肉欲 怒り 貪欲がそれである
これらは魂を堕落させる原因ゆえ
正気の人間はこの三つを切り捨てよ


故に人間は聖典に示された教えによって
為(す)るべきことと為(し)てはならぬことを知れ
その規則を知り それに従うことにより
向上の道を着実に歩んで行きなさい

バガヴァッド・ギーター 第16章 神性と魔性



あなたに一番つらくあたっているのは、あなた自身です。あなたの兄弟姉妹も同じなのですが、あなたもまた自分がどこか欠けていて価値がない、という基本的な感覚に悩まされています。自分がおそろしい失敗をおかしていて、遅かれ早かれ、権威ある人間、または抽象的なスピリチュアルな存在──たとえば神とかカルマの法則とかいったもの──によって罰せられるだろうと感じています。


自己の価値に関するこのような未解決の問題が、具体的にあなたの状況となって現れているわけです。つまり、それらを実現化させるために、ここにいるということになります。あなたは、自分の罪悪感を増幅させるような両親を選び、自分でその罪悪感に気づくことができるようにしました。ですから両親を責めてみても、あなたがたがじつは愛にもとづいて設定したこの状況を変えることはできません。唯一の脱出口は、自身の罪悪感や恐怖心に根ざした信念や人間関係のパターンに気づき、その気づきを広げてゆくことです。


だれか特別な人を探して、両親からは得られなかった愛をもらおうとしても、うまくいきません。ただ圧力釜の温度をあげるだけです。選んだ異性が、じつは関係を修復すべき親とそっくりだったと気づいても、驚くにはあたりません。あなたは自分の傷と、しっかり向き合うしかありません。両親、伴侶、子どもは、あなた自身の癒されるべき場所を示してくれています。あなたもまた、かれらの人生において、そういう役割をはたしています。


これは良いとか悪いとか、こうであるべきだといったさまざまの条件・制約によって成立しているこの世界の中で、だれかに無条件の愛を求めても、失敗は目に見えています。なぜなら、兄弟姉妹のほうも自己の無価値感から行動しますから、あなたの期待するような愛は与えられませんし、あなたもまたそうです。一番よい道はおたがいが自分の必要とする愛への気づきを高めていくこと、自分の責任で、自分にその愛を与えはじめることでしょう。


自身の傷に対して自分で愛を与えるという責任をとらないうちは、攻撃──防御、罪悪──非難という悪循環から抜け出ることはできません。怒り、傷つけられたという思い、裏切られた感じ、それらはあたかも正当なように見えますが、おたがいのいさかいの火に油を注ぐだけでなく、自分は愛されないし、愛する能力もない、という無意識の信念をたえず強めていきます。


自分自身がどれほど自己を憎悪しているかに気づく必要があります。鏡をのぞいて、そこに自分の信じていることがそっくり映っているのがわかるまでは、まずは日々出会うすべての兄弟姉妹を鏡として、自分が自分をどう見ているのかを知ることができます。この実践は特にむずかしくはありませんが、天国への最短距離というわけではありません。自分の見ているものは、よその人への教訓なのだと考えがちだからです。


この世界のいまわしい心理戦争からのがれるには、投影というゲームをやめることです。このゲームは自分の無意識の中の死への衝動を、それは悪いというせまい道徳倫理で、自分の目からもおおい隠してしまいます。皮肉に聞こえるかもしれませんが、自分は正しくて悪いのは兄弟なのだと主張しているその瞬間に、あなたは自分自身の罪悪感と劣等感を拡大しているのです。


非難の悪循環から抜け出るには、非難をやめるしかありません。ただし、覚悟してください。苦しみの円環から抜け出ようとすると、世間からはよく言われないでしょう。まず最初に攻撃の矢面に立たされるのは、この世界の投影ゲームに参加しない人たちです。あなたがたがわたしの生涯から教訓を受けとるとしたら、まずはそのことです。


自分自身の恐怖心をだれかに投影せず、自分のものとして自覚する人は、この世界のゲームをおびやかすのです。自分自身の殺人衝動を認め、その根を自分の意識の中に探そうとする人は、社会をとりまとめている道徳倫理をおびやかします。


人間社会においては、正義があり、悪事があります。正義をおこなう人は報われ、悪事をはたらく人は罰せられます。つねにそのようになっていました。


わたしの教えは、この基本的前提をゆるがします。まず、ごく表面的なレベルでは、悪人は罰せられるべきだという考えに抵触します。処罰せよという大合唱にわたしは立ち向かい、宥しを主張しつづけるでしょう。


より深いレベルでは、わたしの教えは、これこれの行いをしたらその人は非難されるべきだ、という考えそのものにも抵触します。だれかが誤った行いをしたら、それは当人が誤った考えを抱いたからです。その考えが誤りであることに気づけば、行いを変えられます。ですから、その人をそちらの方向に導くことは社会の利益になります。しかし、もしそこに処罰が持ちこまれたら、その人の誤った考えにはさらに拍車がかかり、さらに罪悪感が増し加わるでしょう。


「悪事をふたつ重ねても、ひとつの善事にはならぬ」という言い回しを聞いたことがありますか。これこそ、わたしの教えの中心にあるものです。あらゆる悪事は、正しいやりかたで修正されなければなりません。それ以外の修正方法は、攻撃となります。


相手の議論をねじ伏せようとしたり、まちがいだぞと言い負かそうとしても、相手はいこじになるだけです。それは暴力的なやりかたです。これに対して、わたしのやりかたは非暴力的です。わたしの場合は、こうすれば問題は解決するという解答を実際に行動で見せてあげます。それは苦しんでいるものに対し、攻撃ではなく、愛をもたらします。このやりかたは、本来の目的にかなっています。


よくないこととは、罪悪感を教え、苦痛や苦しみが必要なのだという信念を確立することです。正しいこととは、愛を教え、それにあらゆる苦しみを乗りこえる力があるのを示すことです。かんたんに言えば、正しくあればよくないことはできないし、よくない場合には正しいことはできません。正しくあるために、正しいことを行いなさい。


愛の感じられないやりかたでは、真に愛することはできません。ほんとうに正しい人間なら、誤りを攻撃する態度はとれません。誤りはもちろんなくすべきです。しかし、すべての誤りの根源は恐怖心ですから、恐怖心の撲滅が誤りの修正につながります。


愛という反応だけが、恐怖心を無力にできます。信じられないのでしたら、ためしてごらんなさい。あなたが、恐怖心を起こさせるだれか、あるいはそういう状況を愛してみれば、恐怖心は消えてしまうでしょう。これはほんとうです。それは愛が恐怖心の解毒剤であるからというよりも、むしろ恐怖心は「愛の不在」だからです。ですから、愛があらわれたところに、恐怖心はいすわることはできません。


あなたがたのほとんどは、恐怖心についてはかなり理解していますが、愛についてはほとんど知りません。あなたは神を恐怖し、わたしを恐怖し、おたがいを恐怖しています。


なぜ恐怖を抱くのですか。それは、自分に愛される値打ちがなく、おたがいを愛する能力もないと信じているからです。


たったひとつ、この信念を変えさえすればよいのです。人生のすべてのネガティブなものは、自分についてのこの誤った信念をぬぎすてたとたんに、はがれ落ちます。


友よ、あなたは自分で考えているようなものではありません。ネガティブな信念や行動の単なる集合体ではありません。自分ではそう信じているでしょうが、そうではありません。


あなたはわたしと同じように、神の子です。神の真実と善は、あなたの真実と善です。この事実を一瞬でも受けいれるならば、あなたの人生は変容します。この事実を一瞬でも兄弟についても受けいれるなら、あなたがたのあいだの葛藤は終わります。


あなたが目にしているのは、自分の信念の直接の結果です。自分が罪深いと信じていれば、罪深い世界があらわれます。罪深い世界は罰せられることになるでしょうし、あなたも同じ運命をこうむるでしょう。


「神はあなたを打ち倒される。神は世界を滅ぼされる。神が復讐をなされる」これらの言葉こそ、友よ、あなたの考えていることなのです。これらは──冒瀆的に聞こえるかもしれませんが──あなたがたのほうがわたしに押しつけた、ばかげた考えです! 幸い、わたしにはわかっています。これが、あなたがたが自分を痛めつけるための粗雑なやりかただということが。


こんな小手先の操作は問題を先送りにするだけです。そのうち、あなたも飽きてくるでしょう。罪悪という考えかたぜんたいを、個人としてのあなた──そして集団としてのあなたがた──はやがて拒絶するようになり、故郷へ帰りたくなるでしょう。


友よ、あなたがたが完全に正直になり、責任を引き受けることになるその瞬間がくることを、わたしは確信し、喜びをもって待ちのぞんでいます。あなたが自分の兄弟の善をひとつのものとして見る日には、神からあなたをへだてるすべてのものがはがれ落ちて、あなたは輝かしい姿でわたしのわきに立つことになるでしょう。


そのとき、あなたは一点の疑いもなく、あなたを愛している神の愛を知るのです。そのとき、あなたは”彼女”がただの一度もあなたを見捨てたことがなかったのがわかるでしょう。たとえあなたが”彼女”の罰が自分にくだり、世界は破壊されるだろうという血迷った考えにとらわれていたさなかにもです。そのとき、あなたは自分の心の創造の力を知り、そして神と別個にではなく、神とともに創造することを選ぶでしょう。Y



質問者 今この瞬間、あなたはどのような状態にいるのでしょうか?


マハラジ 無経験の状態だ。そのなかにすべての経験が含まれている。


質問者 あなたはほかの人のマインドやハートのなかに入って、体験を分かちあうことができるのでしょうか?


マハラジ いいや。そのようなことには特別な訓練が必要なのだ。私は小麦を扱う商人のようなものだ。私はパンやケーキに関してはまったく知らない。麦粥の味さえ知らないかもしれない。だが、小麦という穀物に関してはすべて良く知っている。私はすべての体験の源を知っている。しかし、数知れない特定の形態が体験することがらを知ることは、私にはできないし、また知る必要もない。そのときどきにおいて、人生を生きていくために知る必要のあることはほんのわずかであり、私はどうにか、かろうじて知っているだけだ。


質問者 あなたの特定の存在と私の特定の存在は、創造神であるブラフマーのマインドのなかに存在するのでしょうか?


マハラジ 普遍なるものは特定のものには気づいていない。個人としての存在は個人的なものだ。個人は時間と空間のなかに存在し、名前と形をもち、はじまりと終わりがある。普遍なるものはすべての個人を含んでいる。絶対なるものはすべての根底にありながら、すべてを超えているのだ。


質問者 私は全体性には関心がありません。私の個人的な意識とあなたの個人的な意識──その二つを結ぶものは何でしょうか?


マハラジ 二人の夢を見ている人に、どんなつながりがありうるだろうか?


質問者 彼らは互いを夢見合うかもしれません。


マハラジ それこそ人びとがしていることだ。誰もが「他者」を想像し、その間につながりを探し求めている。探している人こそがつなぎ目なのだ。他者というものは存在しない。


質問者 多くの意識の点である私たちの間には、何か共通のものがあるに違いありません。


マハラジ 多くの点とはどこにあるのだろうか? あなたのマインドのなかだ。あなたはあなたの世界がマインドから独立していると主張している。どうしてそうありうるだろう? 他者のマインドを知りたいという欲望は、あなたがあなた自身のマインドを知らないためだ。まず、自分のマインドを知りなさい。そうすれば、他者のマインドという疑問は生じないだろう。なぜなら、「他者」など存在しないからだ。あなたが共通要素、すべてのマインドの連結部なのだ。存在とは意識だ。「私は在る」はすべてにあてはまるのだ。


質問者 至高の実在(パラブラフマン)は、私たちすべてに内在しているかもしれません。しかし、それが私たちにとって何になるというのでしょうか?


マハラジ あなたはあたかも「私はものをしまう場所が必要だ。だが、空間が何の役に立つというのだろうか?」あるいは、「私はミルクか紅茶、コーヒーかソーダが欲しい。だが、水は何の役にも立たない」と言っている人のようだ。至高の実在がすべてを可能にしているということが、あなたにはわからないだろうか? だが、もしそれが何の役に立つのかときくならば、「何の役にも立たない」と言わねばならない。日々の生活においては、実在を知る人には何の利点もないのだ。むしろ、彼は不利な状態にあると言えよう。欲望と恐れから自由な彼は、自分自身を守ろうとしないからだ。利益という概念自体が、彼にとっては異質なものなのだ。彼は増加や増大を嫌う。彼の人生とは、絶え間なく己から剥ぎ取り、分かちあい、与えることだ。


質問者 もし至高なるものを得ることに何の利点もないのならば、なぜそのために骨を折るのでしょうか?


マハラジ あなたが何かにしがみつくときだけ、心配事は生まれる。何にもしがみつかなければ、何の心配もない。より劣ったものを放棄することは、より偉大なものを得ることなのだ。すべてをあきらめなさい。そうすれば、あなたはすべてを得るだろう。そのとき、人生はその目的通り、無尽蔵の源からの純粋な輝きとなる。世界はその輝きのなかに、夢のようにぼんやりとかすんで現れるのだ。


質問者 もし私の世界が単なる夢であり、あなたはその一部であるとするならば、いったい私のために何ができるというのでしょう? もし夢が真実ではなく、存在していないと言うのならば、実在はどのようにそれに影響を与えるのでしょうか?


マハラジ それが続くかぎり、夢は一時的な存在をもっている。問題をつくり出すのは、あなたがそれにしがみついて離さないからだ。手放しなさい。夢があなたのものだと想像することをやめるのだ。


質問者 どうやら、あなたは夢を見る人なしに夢がありえ、私は私の勝手気ままな夢と自己同一化していると決めてかかっているようです。しかし、私は夢見る人であり、また夢でもあるのです。誰が夢見ることをやめるというのでしょうか?


マハラジ 夢に最後までそれ自体を繰り広げさせるがいい。あなたにはどうすることもできない。だが、夢を夢として見、実在の痕跡として拒否することはできるのだ。


質問者 ここで、私はあなたの前に座っています。私は夢を見ていて、あなたは私が夢のなかで話しているのを見ています。私たちの間に何のつながりがあるのでしょうか?


マハラジ あなたを目覚めさせようという私の目的がつながりなのだ。私のハートはあなたに目覚めてほしい。私はあなたが夢のなかで苦しんでいるのを見ている。そしてあなたが不幸の終焉へと目覚めなければならないことを知っているのだ。夢を夢として見るとき、あなたは目覚める。だが、私はあなたの夢自体には興味がない。私にとっては、あなたが目覚めなければならないと知ることだけで充分だ。夢の人生において一定の成果をあげる必要はないのだ。あるいは、それを高尚なものにしたり、幸福で美しいものにしたりする必要もない。あなたに必要なことはただ、夢を見ているということを自覚することなのだ。想像することをやめなさい。信じるのをやめなさい。矛盾と不調和、虚偽と悲しみの人間の状態を見るがいい。そして、それらを超えていく必要性を見なさい。無限の空間のなかに微小な意識の原子が浮遊している。そして、宇宙はそのなかに包含されているのだ。


質問者 夢のなかには、真実で、永遠に続くように見える愛があります。それらもまた目覚めとともに消え去るのでしょうか?


マハラジ 夢のなかで、あなたは誰かを愛し、ほかの人は愛さない。目覚めとともに、あなたはあなた自身がすべてを包含する愛そのものだと知るのだ。個人的な愛は、いかに強烈で真正なものであっても、かならず束縛することになる。自由のなかでの愛は、すべての愛なのだ。


質問者 人びとは来ては去っていきます。人は出会う人を愛するのです。すべてを愛することはできません。


マハラジ あなたが愛そのものであるとき、あなたは時間と数を超える。ひとりを愛することのなかで、あなたはすべてを愛し、すべてを愛することのなかで、あなたはひとりひとりを愛する。ひとりとすべては背反していないのだ。


質問者 あなたは時間を超えた状態にいると言われました。それはつまり、過去と未来があなたに対して開かれているということなのでしょうか? あなたはヴァシシュタ・ムニ、ラーマのグルに出会いましたか?


マハラジ その質問は時間のなかにあり、時間についてのものだ。またしても、あなたは夢の内容について尋ねている。永遠は時間という幻想を超えたものであり、時間の延長ではないのだ。自らをヴァシシュタと名乗るその人がヴァシシュタを知っているのだ。私はすべての名前と形を超えている。ヴァシシュタはあなたの夢のなかに現れた夢なのだ。どうして私に彼を知ることができるだろう? あなたは過去と未来に関心をもちすぎている。それはみな、あなたの存在を継続させたい、自分自身を消滅から守りたいという切望から起こるのだ。あなたは継続することを求めるために、ほかの人たちに一緒にいてもらいたい。それゆえ彼らの存続に関心をもつのだ。しかし、あなたが呼ぶ存続とは、夢の存続にすぎない。それよりは死のほうが望ましい。そこには目覚めるチャンスがあるからだ。


質問者 あなたは永遠に気づいています。それゆえ、存続には関心がないのでしょう。


マハラジ それはその反対だ。すべての欲望から自由であることが永遠なのだ。すべての執着は恐れを暗示している。なぜなら、すべてのものごとは、はかない、つかの間のものだからだ。そして、恐れは人を奴隷にしてしまう。この執着からの自由は、修練によってもたらされるものではない。人が自己の真の存在を知ったとき、自然に執着から自由になるのだ。愛は執着しない。執着は愛ではないのだ。


質問者 では、無執着を得る方法はないのでしょうか?


マハラジ そこに得るようなものは何もない。すべての想像を放棄して、真我を知りなさい。自己知識が無執着なのだ。すべての切望は不充分な感覚から生じる。何も不足してはいないと知ること、存在するものすべてはあなたであり、あなたのものなのだと知ることで欲望はやむのだ。


質問者 自己を知るために、私は気づきの訓練をしなければならないのでしょうか?


マハラジ 訓練しなければならないことは何もない。自己を知るために、あなた自身で在りなさい。あなた自身で在るために、あなたがあれやこれだと想像することをやめなさい。ただ在りなさい。あなたの真の本性を現れさせるがいい。探求によってかき乱されてはならない。


質問者 もし私がただ待っているだけならば、真我の実現にたいへんな時間がかかってしまいます。


マハラジ それが今ここにすでにあるとき、何を待つというのだろう? ただよく見て、見いだすだけなのだ。あなた自身を、あなたの自己の存在を見なさい。あなたはあなたが存在することを知っている。そして、あなたはそれを愛しているのだ。すべての想像を捨て去りなさい。それだけだ。時間に頼ってはならない。時間とは死だ。待つ者は──死ぬ。生命は今だけに在る。私に過去や未来を語ってはならない。それらはあなたのマインドのなかにのみ存在するのだ。


質問者 あなたもまた死ぬでしょう。


マハラジ 私はすでに死んでいるのだ。私の場合、身体的な死は何の違いももたらさない。私は永遠の存在だ。私は欲望と恐れから自由なのだ。なぜなら、私は過去を思い出さず、未来を想像しないからだ。何の名前も形もないところに、どうして欲望や恐れが存在できるだろうか? 無欲とともに永遠がもたらされるのだ。私は安全だ。なぜなら、存在しないものが存在するものに触れることはできないからだ。あなたは安全ではない。なぜなら、あなたは危険を想像するからだ。もちろん、あなたの現在の身体は複雑で傷つきやすく、保護を必要としている。しかし、あなたがではない。ひとたび、あなたが難攻不落の存在であると自覚したならば、マインドは平和になるだろう。


質問者 世界が苦しんでいるとき、どうして私に平和を見いだすことができるでしょうか?


マハラジ 世界が苦しむのは、それなりの妥当な理由があるのだ。もしあなたが世界を助けたいのなら、あなた自身が助けの必要性を超えなければならない。そうすれば、あなたのすること、そしてしないこともまた、もっとも効果的に世界を助けるだろう。


質問者 行為が必要なときに、どうして無為が役に立つのでしょうか?


マハラジ 行為が必要なときには、行為は起こる。人は行為者ではないのだ。彼は起こっていることに気づいて在る。彼の存在そのものが行為なのだ。窓は壁の不在だ。そして、それが空気と光を与える。なぜなら、それが空だからだ。すべての精神的内容、すべての想像と努力を空っぽにしなさい。そうすれば、その障害の不在そのものが、実在が流れこんでくる場を与えるのだ。もし本当にある人を助けたいと思うならば、近づかずにいることだ。感情的に助けることに専心しようとすれば、果たせずに終わってしまうだろう。あなたは非常に忙しく駆けまわり、自分の慈愛的な性質にとても満足するかもしれない。だが、大した助けにはならないだろう。人が本当に助けられるのは、彼がもはや助けを必要としなくなったときなのだ。それ以外はすべて無用のものだ。


質問者 ただ座っていながら助けが起こるのを待っているほど、充分な時間はないのです。人は何かをしなければなりません。


マハラジ もちろんそうするがいい。しかし、あなたにできることはかぎられている。自己だけが無限なのだ。あなた自身をかぎりなく与えるがいい。それ以外のすべては、わずかな量でしか与えることはできない。あなただけが計り知れないのだ。助けることはあなたの本性だ。食べたり飲んだりするときにも、あなたは身体を助けているのだ。あなた自身のためには、何も必要ない。あなたは純粋な明け渡しだ。無始無窮であり、無尽蔵なのだ。あなたが悲しみや苦しみを見るときは、それとともに在りなさい。性急に行動に走ってはならない。学ぶことも行動も、本当の意味での助けにはならないのだ。悲しみとともにありなさい。そして、その根底にあるものを露わにしなさい。理解することを助けることが、本当の助けとなるのだ。


質問者 私の死は近づいています。


マハラジ 時間が足りないのはあなたの身体だ。あなたではない。時間と空間はマインドのなかにのみある。あなたは束縛されてはいないのだ。ただ、あなた自身を理解しなさい。そのこと自体が永遠なのだ。


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