峠・黄泉比良坂(よもつひらさか)


少し書き足します。
フィオラは平(たいら)と崖(ひら)について繰り返し強調していたので、黄泉比良坂はここ最近のフィオラの言動をまとめると、


1、峠力(とうげりょく)が試されていて(2018年3月2日)


2、崖(ひら)の上が生者、下が荒れ狂う海で死者の世界


3、ちょうどその中間に位置する崖(ひら)が崩れそうになっている(2018年4月16日)


4、生者と死者がひとつになり(平になる=一八十成る=平成)


という方向の内容です。
4番は受け取り方によって、吉兆か凶兆かが分かれます。黄泉比良坂の中央の大岩がどかされ岩戸開き、めでたいというような希望的なニュアンスはゼロでした。n


書くべきかどうか迷ってしまうことは、書かずに書き溜めてしまって、混乱してきます。本当は毎日「峠」について書くべきなのだと思いますが、自分のなかでも言葉がまとまらなくて後回しにしてしまうことが多いです。
黄泉比良坂は4月中旬に言われました。以前ネパール地震(2015年4月25日)の前日に今が一番大事だと感じていると書きましたが、あの頃と今で大きく違う認識は、一番大事な時期は2016年2月に日本の体制が上部から変わった(とフィオラが主張する)ことと、今この時の「峠」です。
生者と死者の中間の坂、「ひら」と呼ばれる崖がいま崩れそうになっているらしいです。公園さんのおっしゃる韓国に残されていた予言系の「白十字」についても注目しています。水玉についての意見は異なりますが、フィオラもある別種の玉を重要視していて、それは金色です。水玉はある種の象徴であり、水による汚泥の浄化と、中心を認めるという認識の反転と、絶対に中心に従うという意図です。それが「米」です。「米一字」と言うのは最初から留意するよう指摘されていたので、公園さんの記事は各種スピリチュアル記事の中で最も真剣に何度も全記事を通読しました。
重要な点はわずかです。十字の中心には何か、誰かがいるんです。
その何か、誰かは古来から「神」と呼ばれ、人が人であることの意味を唯一与えられる存在、大いなる愛と大いなる叡智の塊です。
今、己の玉(魂)の中にその座標を持つか、否かの選択(洗濯)を迫られている時世であると主張する者が増えているように感じています。n


引用はじめ





みろく世に適応した専用の【水晶玉(魂)】の中に【白十字】
2018.04.20 Friday - 00:02 - by 〇〇公園
つい最近、ある方からメールを頂きました。そのメールによると、その方の前に透明の水球が現れて、その中に白色の正十字が入っている。不思議なことに、その白色の正十字はどの位置から見ても正面に見えて来る。通常ならば正面に白色の正十字が見えるならば、脇から見るとそうは見えないはずなのに何故か白色の正十字が常に正面に見えて来る。それが玉だと解ったのは光の関係からです。これが貴方が説いていおられるみろく世における○十や水晶玉(魂)のことですかの質問です。


大本教から【水晶魂(玉)】の言葉が世に出されました。今日までの魂は腐ったり捻れたりします。そうした状態になった魂は破砕されてしまいます。有能な霊能者の方達から、神社などに行くと霊能力がある人の目に微細なキラキラしたチリの様なものが見えるとされるのは、そうした破砕された魂の残骸との説も出されています。

ある霊感者は神社に行って、そうしたキラキラしたチリのようなものが無数に見えて、自分の目に異常が起きたのかと思ったと言われましたが、そうしたことを教えて貰っていないとそうした思いをも抱いてしまいます。

そうした破砕された魂の屑は「思念」だけを帯びているとなります。私の3回ほど前のブログに【壁を通過して来るオーブ】のビデオをユーチューブにアップした物を出しましたが、それらはカメラではレンズの関係で大きく見えますが微細な存在です。とても人間の魂と呼ばれる存在の大きさではありません。しかし、そうした霊物質の玉はこの世の次元とは関係ないことは映像から読み取れるわけです。


この「思念」はかなりやっかいで、一度肉体から想念が出てしまうと、そのエネルギーが尽きる迄の間は消えません。人が生きていると実感できるのは「思い」を持つからであり、その思い(想い)が一切消えると魂でもその存在は価値を無くしてしまいます。

この世は「四苦八苦」であり、「喜怒哀楽」は免れません。それが厭なら【無我】の世界しかなくなるのです。


無我になることは、完全なる魂の死


大本教神諭に、【自我があってはいけないが、まったく自我が無くても行けない】とありますが、完全【無我】となってしまいますと【自己の魂の消滅】になります。思考能力があると言うことが生きている証拠なのです。すると仏教で説かれる【本我・真我】と【無我】は本来は別物と解って来ます。

創造神は【無我】かと言いますと無我ではなくて【有我】なのです。有我であるが故に万物の創造に入られたと言えます。創造神が「完全無我」の存在であれば、私達人類も万物も何も誕生していないのです。

弥勒菩薩像の中には【思考】する姿がありますが、思考することは【識】の状態なのです。霊が見えるとか霊と会話するだけで、そうした【識】を否定していれば仏典の般若心経の「色即是空、空即是色、受想行識」を何も理解していないとなります。


完全なる無我は自己の魂の命の消滅なので、その世界に四苦八苦も喜怒哀楽も輪廻転生も無い 。

そんな世界に入ることが、人類の目的であったのだろうか?。


みろく世は永遠の世とされますが、為には今の人類の肉体の中にある魂は腐ったり捻れたりする為に、新しい【みろく世に適した永遠性の命の魂が授与される】なのです。そこで、立替前の前宣伝として大本教から「水晶魂(玉)」が明らかにされたとも言えます。

また、まったく新しい玉(魂)なので、ウシトラ金神として牛頭虎パンツの【鬼が云う】の物語が大本教霊界物語として組み立てられたとも言えます。そうでなければ、【節分の煎り豆にも花が咲く。三千世界一度に開く梅の花】などは宣伝としても出せないからです。


この大本教の【水晶魂(玉)】に関して、ある霊能者は水晶玉など重たくて持てない。落としたら割れてしまう等と言っておられました。それは大本教が予告した「水晶玉(魂)」を西洋の魔術師が占いで使う水晶玉と混同したから言えます。私が出した壁を越えて来るオーブ玉のビデオで見られたように、その【水晶玉(魂)】はこの世の物質でありません。


私にメールをくださった方が「水球」と判断されたように、【瑞(水)霊】の玉なのです。もしそれがこの世の水であれば、魂の表面に傷がつけば玉は破裂しかねません。表面は柔軟でありながら硬質という相反する特徴を持つのです。それは、この世の鉱物質で構成されているのではないからです。


朝鮮に残されていた予言に、【最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その教えが終わると最後の審判が開始される。その「米」一字の教えに従った者達の上には天罰は降りないが、その教えに従わなかった者達の上には天罰か降りる。その天罰を受けている中で「白十字」が現れる。その「白十字」によって助け出される。】との内容がありました。

私はその予言を記した本は持っておらず、読んで記憶しているだけです。その著者名は忘れましたが、出版社は精神世界関係の本を多数出していた「たま出版」であったことは覚えています。だが、三十数年前の本でしたので、たま出版に問い合わせても今では解らないでしょう。


大本教の霊界物語には【○十はみろくの神の御紋章の定めなり】とあるように、【みろく神】を意味する紋章です。そして、大本教神諭が予告した「九つ花」は【米】型で紐解かなければ意味が解りません。だが、大本教だけを見ると、その「○十」とは球玉の中に【白十字】が入っているとは書かれておりません。単に「○十」だけなのです。また、その○が球玉で霊的な「水晶玉」だとも書いてないのです。

ですから、大本教神諭は【九つ花】を誠で紐解く者が出て来ないと、大本教が予告したウシトラ神の仕組みの意味も理解出来ないと予告して来たのです。


西暦2015年11月7日付けの私のブログで【みろく世に行く切符。遂に(終に)確認された「〇十の降り注ぎ」】を出しました。そのブログ後に何人かの人から、霊的な話で現実にはそこには何も無いのですが、その「○十」を拾ったというメールを頂きました。それはみろく世に行くキップのことで、未だ【水晶玉】そのものではなかったのです。 いよいよ「玉」そのものが出て来たなのです。


私は大本教で予告した【水晶魂(玉)】には何種類かの形があることをブログで書いて来ました。仏教系からは仏教を示す玉が出ますし、聖書系からは聖書を示す玉が出ます。日本神道系からは日本神道を示す「水晶玉」が出ます。

その中で【○に白色の正十字】が入っている水晶魂(玉)を頂けるのは、【米】一字の教えから「みろく神」の言葉の仕組みを理解して、お釈迦様の悟りであった【人に内在する良心神】に向かった人達だけが、天から授かるものなのです。

ただ、それは霊的なものなので、それが自分の目には見えなかったから【授与】されていないではないのです。「米」の教えをバカにしたり敵対した方達には出ないでしようが、「米」の教えを理解して【天帝】に向かった方達には授けられるものなのです。


新しい玉魂なので、【鬼が云う】の仕組みが大本教から出たなのです


大本教の出口王仁三郎聖師は、本当は「王仁(おに)三郎」でなく、「鬼(おに)三郎」と名乗るべきだったのです。そのことは、いくら神様でも鬼と名乗れはあんまりじゃで、「王仁」にしたと述べておられるはずです。


無論、みろく世に渡るのは「みろくの仕組み」を説く「米」一字の教えを理解した者だけではなく、この仕組みを組み立てた根元となる「ウシトラ金神・国常立尊」を主神として信仰した方達のみならず、自分が信仰する宗派に良心神の存在の教えが無かったとしても、自己の良心を大切にして来た人達はみろく世にと進みます。

何故ならば、天人達が噂話としてし言ったとされるのが、最後の審判は【各自の魂の良心神】の点数で判定されるからです。宗教宗派を問わず自己の良心を神的にして来た人達は、その点数は高いとなります。


私が見て来た魂の良心神の点数が高い方は、どなたも別にスピリチュアルなどに惚けておられません。皆さん、まじめにコツコツと仕事をされ、よき社会人として生活され、先祖伝来の仏や地元の氏神様を大切にされています。別に神仏頼りではないのです。自己の良心に基づいて世の為人の為にと尽くして来た人達です。すなわち【米(世根)】だからです。

では、神など無縁であった人達はどうなるのかとなりますと、その魂の汚れの状態において各自に【魂の洗濯】が起きます。その魂の洗濯に耐えれば、魂の汚れは洗われて行きますので、これもみろく世なのです。


私は魂の洗濯は辛いので、早くから【悔い改めなさい】と言っているだけです。

自分を悔い改める為には、良心神が必要だからです。


同じみろく世に行くのであれば、何も辛い道を選ぶ必要など無いでしょう。 最後の審判の時には、日本の神社仏閣に鎮まる霊達も、全て魂の洗濯は免れないのです。


私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せると告げられましたが、自分一人だけが見ていると思われる光景に関して絶対の確信は持てませんでした。そうした中で、大本教から予告された【水晶玉(魂)】を見る方が出て来られたことは、それが降りて来ていることを意味するのかとも考えられます。





引用おわり


質問者 瞑想はプラティーカム(イメージ、象徴)があれば容易なのですが、真我探究にはプラティーカムがありません。


マハルシ 深い眠りの状態を考えてごらんなさい。あなたはそのとき存在していました。そこにどんなプラティーカムがあったでしょうか? ですから、プラティーカムがなくとも真我を実現することはできるのです。

(対話482)


マハルシ 「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題です。それらに独立した実体としての存在はないのです。そのことを調べてみなさい。


修練は、想念に乱されるたびに心を真我の内に引き戻すことにあります。それは精神集中でも心の破壊でもなく、真我の内に心を引き戻すことなのです。

(対話485)


相手は”神の大いなる光”で満ちているのだ、ということをつねに覚えていてください。そうした態度が、人の”存在”が持つ、言葉では表現できない神秘のなかから、愛の贈り物を引き出してくれます。あなたが彼らに贈り物を与え、その贈り物があなたのところに戻ってくるわけです。与えることと受け取ることは同じことです。あなた方はこの目的のためにおたがいを創造したのです。つまり、「本当の私たちは、自分たちが考えているようなものではない」ということを、おたがいに思い出させてあげるためです。


伝統的なキリスト教では「汝の隣人を愛せ」と教えています。しかし、実は「自分と同じように」という言葉がそのあとに来るのです。この点を説明したいと思います。
この部屋にいる人のなかで、「できれば隣人を愛したい」と思っていない人はいません。そこで、誰かにひどく傷つけられたとき、相手を愛そうにも、心の傷のために愛せないというジレンマにおちいります。そして、「愛そう」と努力します。それは立派な努力ですが、残念ながら、うまくいきません。それがうまくいかない理由は、自分が欲しいものを他人に与える、という難題を自分に要求しているからです。愛が欲しいのはあなたなのです。ところが、あなたは、自分を愛してくれないと感じる人に、その愛を与えよう、と自分に言いきかせているのです。


ここでちがうやり方を提案しましょう。その人たちを愛さない自分というものを愛するのです。その人たちを嫌っている自分を愛してください。頭でそう考えよ、と言っているのではありません。誤解しないでください。私が言っているのは、心で感じる感情のことです。やってみさえすれば、私が話している温かい気持ちを心で感じられない人はいないはずです。誰かを愛せない自分、誰かを嫌っている自分さえも愛しはじめると、すばらしい魔法の力によって変化が起こり、その状況そのものが温かさを帯び、自分が相手を愛せないからいやな気分になる、ということがなくなります。B



欠乏感に満ちた考えは、自分が愛に値しないという思いから出てきます。愛に値しなければ、外部に欠乏を投影します。コップの水は半分入っていても、半分しかない、というふうに見ます。


自分が愛に値すると知っていれば、他人の言葉や行為を愛の観点から解釈しやすくなります。めったに腹が立ちません。


人生をどう見るかは、自分が愛すべき存在かそうでないか、自分に価値があるかないかの感じかたで決まります。どちらの場合も、あなたは自分の意見をさらに強化するような状況を外界に作り出します。


供給に関する先入観はすべて、過去に生きていることからきます。欠乏は古傷の思い出にすぎません。それがいとも簡単に未来に投影されます。この欠乏的思考を終わらせるには、過去を宥さねばなりません。


あなたは、自分が不当に扱われていると感じていますか。もしそうなら、あなたは欠乏を人生に投影します。不当な扱いを受けていると感じる人だけが、不当に扱われるようになります。


欠乏的思考を終わらせるには、自分が不当に扱われていると感じていることに気づくのが第一歩です。それはあなたの奥深いところにある、自分には価値がないという感覚からきています。


思考を無理に変えようとしないでください。条件づけを逆にしようとして、「わたしはいま現在、愛すべき存在だ」というアファーメーションをくりかえしたりしないように。ただ気づくのです。「わたしはいま、愛すべき存在ではないと感じている、無価値だと感じている。不当に扱われていると感じている。過去に起きた悪い出来事が、また起きるのではないかとおびえている」と。


ハートが緊張し、ぎゅっと縮まることに気づいてください。自分が感情的に閉じてしまっているのに気づいてください。


自分のもとにやってきた情報を、ネガティブなものと見るか、ポジティブなものと見るかはあなたの選択でした。あなたはコップを半分「から」だと見るのを選択しました。犠牲者になることを選びました。


別にかまわないのです。恥じることはなにもありません。これ以上縮みあがる必要はありません。自分を叱咤激励する必要もありません。ただ、自分が何を選んだのか、その結果どういう気分になったのかに気づいてください。それを見極めて、手放します。


「わたしは自分のした選択を見た。不幸な気分になったのがわかった。不幸になりたくはないから、別の選択をしよう。コップには水がまだ半分も入っている、と見よう」


もしこのような言葉を、すっきりと整理された感情の状態で言えるのでしたら、あなたは過去を手放し、傷を手放したことになります。やってみてください。大きな効果があります。


あなたは犠牲者になることをずっと練習してきて、その役割には甚だ習熟しています。ですから練習なしで、いきなり勝利者になれるとは思わないほうがいいでしょう。ただ犠牲者になろうとした選択を見てとり、それを進んで手放そうとしてください。それで十分です。


豊かさの思考とは、自分が愛されていて、今のこの瞬間にも価値ある存在だということを意味します。そうだ、そう感じるぞと思っていても、電話が鳴って、莫大なお金を損したとか、奥さんが家出したとかわかったら、自分にどのくらい価値があると思えますか。改めて聞きますが、いまコップは「から」でしょうか。


そうした恐怖心に根ざした思考があるのだと認めるだけで、変容への長い道のりの第一歩が踏み出せます。自分の感情に正直になることが、スピリチュアルな成長には欠かせません。


無理にポジティブな考え方をすることはできませんが、ネガティブな考え方に気づくことはできます。ネガティブな部分に気づくことは、愛に満ちた行為です。それは希望を含んでいます。「いま起きていることを見たが、もっとうまいやりかたがあるのがわかっている、わたしは別の選択もできるのを知っている」


自分に別の選択を与えることは、個人の購いと再生の仕事です。過去を宥し、手放せば、別の選択のできる状態を準備することになります。あなたが同じ過ちを何度おかしたとしても、あなたにはつねに自分自身を宥す新しい機会があります。


宥しなくしては、欠乏的思考から抜け出すことはできません。そして宥すためには、自分が傷ついたあらゆるケースに気づいていることです。


傷ついたと認めることです。そうすれば、それを宥すことができます。傷を秘密にすれば、過去から逃れられません。


欠乏感は、たいせつな教師です。あなたの環境にあらわれた欠乏部分はすべて、内面の無価値感の反映ですから、その無価値感を意識にのぼらせなければなりません。欠乏の経験は、神があなたを罰しているのではありません。あなたが自分自身に対して、修正すべき信念があることを教えているだけです。


自分がいかに自分自身に愛を惜しんでいるかを見てとることで、自分を愛せるようになります。そして自分自身にどのくらい愛を惜しんでいるかは、他人に愛をどのくらい出し惜しみするかを見ればわかります。


豊かさがあなたの人生に入ってくるのは、なにかいわくありげな呪文を覚えることによってではなく、自分の精神の傷ついた部分に愛をもたらすことを学んだときです。愛はあらゆる分離と競合の感じを癒し、罪や罪悪感をもたない、もともとの完全さの自覚をよみがえらせてくれます。


自分自身の恐怖心、無価値感に進んで目を向ければ、神はあなたの中の神聖な火花にも目がいくようにしてくださいます。


あなたが自分自身を愛したいと思うなら、神の愛があなたのところまで流れてこられるような水路を開かねばなりません。あなたの心の中に豊かさへの扉を開き、あなたのまわりすべてに映しだされている愛の贈り物を見てください。そしてどうか、これらの贈り物の価値や、それがあなたの人生にあらわれた形を、判断・批判しないでください。その価値は問題の余地のないものですし、形はじつに誤解されやすいものなのです。



質問者 私たち二人は遠くの国からやってきました。ひとりは英国人で、もうひとりはアメリカ人です。私たちの住む世界は破滅しようとしています。私たちは若いので心配しているのです。年老いた人びとは死を迎えることを望んでいますが、若い者たちにはそのような希望もありません。私たちのうち、何人かは殺すことを拒絶するでしょうが、誰も殺されることを拒絶することはできません。私たちは生きている間に世界を正すことができるでしょうか?


マハラジ 何があなたたちに世界が破滅すると考えさせるのだろう?


質問者 破壊的兵器は信じがたいほどの可能性をもつようになりました。私たちの生産能力自体もまた、自然や文化と社会的価値を破壊するほどになったのです。


マハラジ あなたは現在について語っている。それはつねに、どこでもそうだったのではないだろうか? しかし、悲惨な状況は地域的で、一時的なものかもしれない。ひとたびそれが過ぎれば、忘れ去られてしまうだろう。


質問者 差し迫っている破局の規模は信じがたいほど大きなものです。私たちは爆発のただなかに生きているのです。


マハラジ 人はそれぞれひとりで苦しみ、ひとりで死ぬ。数字とは無関係なのだ。死においては、ひとりの死も百万人の死も重さは同じだ。


質問者 自然は何百万人も殺しますが、それが私を恐れさせることはありません。そこには悲劇、あるいは神秘があるかもしれませんが、残酷さはないのです。私をぞっとさせるのは、人間のつくり出した苦しみ、破壊、荒廃です。その創造と破壊において自然は荘厳なものです。しかし、人の行為のなかには卑劣さと狂気があります。


マハラジ そのとおりだ。確かにあなたの問題は苦しみと死ではなく、その根底にある卑劣さや狂気にある。卑劣さもまた、狂気のひとつの形ではないだろうか? そして狂気はマインドの誤用ではないだろうか? 人類の問題はマインドの誤用のなかにのみ存在するのだ。自然と精霊の持つすべての財宝は、マインドを正しく使うことのできる人に開かれている。


質問者 正しいマインドの使い方とは何でしょうか?


マハラジ 恐れと強欲がマインドの誤用の原因だ。正しいマインドの使い方とは愛、生命、真実、そして美への奉仕にある。


質問者 言うは易く、行うは難しです。真実の愛、人間への愛、善意の愛──なんというぜいたくでしょう。世界を正すには、それらは山ほど必要です。でも誰が与えるというのでしょうか?


マハラジ あなたは真実と愛、知性と善意をどこかほかのところに永遠に探し求め、神や人に嘆願することもできるが、すべては無駄なことだ。あなたはあなた自身のなかから、あなた自身とともにはじめなければならない。これが容赦ない法則なのだ。顔を変えることなく、イメージを変えることはできない。あなたの世界はあなた自身の反映だということを、まず悟りなさい。そして反映のあら探しをするのはやめなさい。あなた自身に注意を払い、精神的にも感情的にもあなた自身を正しなさい。身体は自動的に、それにしがたうだろう。あなたは経済的、社会的、政治的改善に関して多くを語る。改善と改善者であるマインドは放っておくがいい。愚かで、強欲で、冷酷な人にどんな世界がつくり出せるというのだろうか?


質問者 もし私たちがハートを変えるのを待たねばならないのなら、私たちは際限なく待たなければならないでしょう。あなたの助言は完全性への助言です。それはまた絶望への助言でもあるのです。すべてが完全なとき、世界も完全となる。何と役に立たない決まり文句でしょう。


マハラジ 私はそうは言っていない。私はただ、あなた自身を変えずに、世界は変えられないと言ったのだ。私はすべての人を変える前にとは言っていない。他者を変えることは不必要だし、不可能だ。だが、もしあなたがあなた自身を変えたなら、他の誰も変える必要はないとわかるだろう。画像を変えるにはただフィルムを変えるだけだ。あなたは映画館のスクリーンを攻撃したりはしない。


質問者 どうしてそんなに自分に確信がもてるのですか? あなたが話していることが正しいと、どうやって知るのですか?


マハラジ 私は私自身に確信があるのではない。私はあなたに確信があるのだ。あなたに必要なことは、内側でしか見つからないものを外側に探そうとするのをやめることだけだ。行動する前に、あなたの視点を正しなさい。あなたは深刻な誤解に苦しんでいる。あなたのマインドを澄ませ、ハートを浄め、生を神聖なものにしなさい。これがあなたの世界をもっとも速く変える道だ。


質問者 数多くの聖者や神秘家が生まれ、死んでいきました。彼らは私の世界を変えませんでした。


マハラジ どうして彼らに変えられるだろう? あなたの世界は彼らのものではなく、彼らの世界もあなたのものではない。


質問者 かならず、すべてに共通の現象の世界があるはずです。


マハラジ 物体とエネルギーと物質の世界のことだろうか? 仮に物体と力の共通世界が在るとしても、それは私たちの住む世界ではない。私たちの世界は感情と観念の、好感と反感の、価値の尺度の、動機と刺激の、概して精神的世界なのだ。生物学的には、私たちの必要はわずかばかりだ。私たちの問題は異なったレベルのものだ。欲望と恐れ、そして誤った観念から生じた問題は、マインドのレベルでしか解決できない。あなたは自分のマインドを克服しなければならない。そしてそのために、あなたはそれを超えていかなければならないのだ。


質問者 マインドを超えていくとはどういうことでしょうか?


マハラジ あなたは身体を超えているはずだ。そうではないかね? あなたは自分の身体の消化作用、循環作用、排出作用を綿密に追っているわけではない。それらは自動的に行われている。同様に、マインドも注意を呼び起こさずとも、自動的に働くようになるべきだ。マインドが何の欠陥もなく働くようになるまで、これは起こらない。私たちはほとんどの時間、マインドと身体を意識している。それらは絶え間なく助けを呼んでいるからだ。苦痛と苦しみは身体とマインドが注意を引こうと叫んでいるのだ。身体を超えていくためには健康でなければならない。マインドを超えるにはマインドに完全な秩序をもたらさなければならない。混乱をそのままあとに残してマインドを超えていくことはできない。混乱はあなたの足をひっぱるだろう。「自分の問題は自分で片づけなさい!」は普遍の法則のようだ。そして、それは公正な法則でもある。


質問者 あなたがどうやってマインドを超えたのか、尋ねてもよいでしょうか?


マハラジ グル(師)の恩寵によってだ。


質問者 彼の恩寵はどのような形を取ったのでしょうか?


マハラジ 彼は、何が真実なのかを私に告げたのだ。


質問者 あなたはそれについてどうしたのでしょう?


マハラジ 私は彼を信頼し、それを覚えたのだ。


質問者 それですべてですか?


マハラジ そうだ。私は彼と彼の言ったことを覚えていたのだ。


質問者 それで充分だったというのですか?


マハラジ これ以上何をする必要があるだろう? グルと彼の言葉を覚えていることは相当なことなのだ。あなたへの私のアドバイスはさらにやさしいものだ。ただ、あなた自身を覚えていなさい。「私は在る」はあなたのマインドを癒し、それを超えていくのに充分だ。私はあなたを迷わせたりしない。なぜそうする必要があろうか? 私があなたから何を欲するというのだろう? 私はあなたの幸福を願っている。それが私の本性なのだ。どうしてあなたを惑わせたりするだろうか?
一般的な常識でさえ欲望を満たしたいのならそれを思いつづけなさいと言う。もしあなたが自己の本性を知りたいと望むなら、あなたの存在の秘密があばかれるまで、つねに自己をマインドに思いつづけるべきだ。


質問者 なぜ自己想起が真我の実現をもたらすのでしょうか?


マハラジ なぜなら、それらは同じ状態の二つの側面だからだ。自己想起はマインドの領域内にある、真我の実現はマインドを超えてある。鏡のなかに映っているイメージは、実際は鏡のこちら側にある顔のものなのだ。


質問者 まったくそのとおりです。しかし、目的は何でしょうか?


マハラジ 他者を救うためには、人は救いの必要性を超えていなければならない。


質問者 私が望むのは幸福だけです。


マハラジ 幸せになるために、幸せで在りなさい。


質問者 他者のことは彼ら自身にまかせておきましょう。


マハラジ あなたは孤立していないのだ。あなたが分かち合うことができない幸福は偽物だ。分かち合うことができることだけが、真に望むべきことなのだ。


質問者 おっしゃるとおりです。しかし、私にはグルが必要でしょうか? あなたの言われることはシンプルで納得のいくものです。私はそれを覚えているでしょう。でも、これがあなたを私のグルにするわけではありません。


マハラジ 重大なのは個人を礼拝することではなく、あなたのすべきことへの帰依の深さと確固たる姿勢なのだ。生そのものが至高のグルだ。その教えに注意を注ぎ、その命令に従順でありなさい。その源を人格化するなら、あなたは外側にグルをもつ。あなたがそれを生から直接得るならば、グルは内側にある。内面の外面であるあなたのグルの言葉を覚えていなさい。自問し、熟考し、それとともに生きなさい。それを愛しなさい。それに合うように成長し、それとともに成長しなさい。それを自分のものにしなさい。それをすべて果たすならば、あなたはすべてを得るだろう。私はそうしてきた。グルと、彼が私に言ったことに、すべての時を捧げたのだ。


質問者 私の職業は作家です。何か私に特別な助言をいただけますか?


マハラジ 執筆は才能と技術の両方だ。才能を成長させ、技術を発展させなさい。望む価値あることを、正しく望みなさい。人びとの間を行くとき、群衆のなかでも自分の道を見いだすように、自分の方向を失わずに多くの出来事からあなたの道を見いだすのだ。もしあなたが真剣ならば、やさしいことだ。


質問者 何度となくあなたは真剣であることの必要性を話されました。しかし、私たちは単一の意志をもつ者ではありません。私たちは欲望と必要、本能と衝動の集積です。それらは互いに混ざり合い、ときにはあるものが、あるときは別のものが支配し、しかも長続きしません。


マハラジ 必要というものはない。欲望だけだ。


質問者 食べ、飲み、自分の身体を保護すること、生きることは?


マハラジ 生きようと望むことは基本的な欲望だ。他のすべてはそれに依存している。


質問者 私たちは生きています。なぜならば、そうしなければならないからです。


マハラジ 私たちは生きている。なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。


質問者 普遍的なことがらは、間違いのはずがありません。


マハラジ もちろん間違いではない。その時と場所においては間違ったことなど何もない。しかし真実に関心を持ち、実在に関心を持つならば、あなたはすべてを、あなたの人生そのものを疑わなければならない。感覚的必要性、知的体験を主張することによって、あなたは真理の探究を安楽の追求へと狭めてしまうのだ。


質問者 私は安楽ではなく、幸福を探しているのです。


マハラジ マインドと身体の安楽を超えて、あなたはどんな幸福を知っているというのだろう。


質問者 何かほかにあるでしょうか?


マハラジ 自分で見いだしなさい。あらゆる衝動を疑いなさい。どんな欲望も正当化してはならない。身体的、精神的所有物を解き放ち、私利私欲を離れ、発見に対してオープンでありなさい。


質問者 ただ聖者や賢者のそばで生活することだけで解放へ導き、ほかに何の手段も必要ないというのが、インドの霊的な伝統の一部です。なぜあなたは、人びとがあなたのそばで生活できるようにアーシュラムを組織しないのでしょうか?


マハラジ ある組織を設立したとたん、私はその囚人となる。実際問題として、私はすべての人に開かれている。共有の屋根や食事が人びとをより歓迎するわけではない。「近くに生きること」とは、同じ空気を呼吸するという意味ではない。それは信頼し、したがい、師の善意を無駄にしないことだ。グルをつねにあなたのハートのなかに保ち、彼の教えを覚えていることが、本当に真実とともに生きることだ。身体的距離の近さが重要なのではない。あなたの全人生を、師への信頼と愛の表現にするがいい。これが真にグルとともに生きることだ。


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