鍵と鍵穴


役者さんが台本を事前に読み込み、台詞は腹から出るように役作りをしました。いつどこへどのように動くか、染みわたるように覚えています。ではその暗黙知はどこに保管されているのでしょうか。脳内? 魂? みえない図書館? その保管場所に容量制限はありますか? 容量制限がないなら、その無限の可能性は、いつ、どこで、どのようにわたしたちと接触しているのでしょうか? もしも「いま」接触していないなら、利用不可能です。逆に「いま」接触していると認めるのなら、無限の可能性、「潜在的可能性」と「アハム・ヴリッティ(私という想念)」は接触しています。「私」が「可能性」に接触しているのか? 「可能性」が「私」を表示しているのか? 鍵と鍵穴の形状は似ています。望まれている世、待望の世界は、それに形状が似ている鍵が必要なのではないかと思います。悪徳だらけの人類のまま、徳に溢れた新世界を拓けるとは思いません。人類なんて大げさなことを言わなくとも、個人的にもそうです。幽霊って実在すると思いますか? 悪魔は? 妖怪は? 河童は? 神は? これらの存在確率が低すぎると思うのなら、「私」は存在するでしょうか? その存在確率は? 鍵は100%にあります。99.9999%にはありません。「いま」接触していないなら、利用はそもそも不可能だったのです。「私」が存在しているのでしょうか? 「可能性」が存在しているのでしょうか? 存在している、のは確かなんです。n



2015年3月22日に公園さんが書かれた木札と天紋のイラストなんですが、私はこれを見た瞬間からずっと気になっていて、画像を保存していました。鍵、というか、要点というか、多くの人が大事なことはコレだよ、と一言で伝えてくださるのは助かりますし、大好きです。天紋は、「中心」と「全体」を同時に表しているのだと思います。n





マハルシ 眠りから目覚めへの移行期における「私」(アハム)は純粋です。なぜなら、「これ」(イダム)は抑えられてまだ現れず、「私」が優占しているからです。
なぜその純粋な「私」は、今この瞬間に認識されないのでしょうか? なぜわれわれはそれを想い出そうとさえしないのでしょうか? なぜなら、それを知ろうとする意志が欠けているからです。もしそれに意識を向けさえすれば、それは認識されるでしょう。
それゆえ、努力をして意識的にそれを達成すべきなのです。

(対話314)


マハルシ 心を内側に向けるには、心を直接「私」の中に落ち着かせなければなりません。そうしたとき外的な活動はやみ、完全な平和が支配するのです。

(対話519)


何か目に見えたら、それではありません。何か考えが浮かんだら、それではありません。あなたのすることでもありません。けれどもこうしたことの中に常にあるものです。


『わたしはイライラしている』と言うときの<わたし>はどんな感覚ですか。
『わたしは落ち着いている』と言うときにもその感覚がありますか。
あなたの中には決して変化しない何かがあります。それは生まれることも消えることもなく、いま起きていることを完全に知っています。何かがすべてを観察し、すべてを感じ、すべてに反応します。それから離れないでください。


狂気を目の前にしても、すぐれたセラピストは一つの絶対的真実を知っています。それは、患者の意識がどんなに混乱し、もうろうとしていても、人格の中心の核となるものは、依然として存在しているという事実です。意識が完全に存在しているところが、どこかにあるはずです。患者の内面の統合がなされている場所があり、セラピストは患者をその部分にくり返し連れ戻します。「私」というものを感じる部分がかならずあるのです。「私は気が狂っている。私は絶望している。私はもう何が何だかわからない」というときの「私」が、つねに存在します。B


別の訪問者が尋ねた。「すべての方法の中で最も効果のあるものはどれでしょうか? 神への礼拝、グルの恩寵、精神集中……」


マハルシ 一つの方法の結果がもう一つの方法へと導きます。そのそれぞれが次のステージへと導きながら、継続的に全体を構成していくのです。神、グル、真我は異なったものではありません。それらは一つであり、同じです。それゆえ、方法を選択するという問題ではないのです。

(対話440)


あなたがこれまでに考えたあらゆること、つまりこれまでに空想したあらゆることや、これまでに語ったあらゆることは、もうすでに起こったか、これから起こるのを待っているのだ。そうでなければ、いったいどうやってすべては創造されると思うのか? 思考によって創造されるのである。思考は真に生命を与える者であり、けっして死ぬことはなく、けっして破壊されることもない。そして、あなたは思考を使って、自分自身のことを思うことによって自分に生命をもたらしてきた。というのも、思考は、あなたを神のマインドに結びつけるものだからだ。


もう長い間、さまざまな存在が、謎かけや歌や書物を通して、この真実をあなた方に教えようとしてきた。だが、あなた方のほとんどがこれに気づくことを拒んできた。自分の人生に対する責任という重荷が自分の肩にのしかかってくることを望む者が、ほとんどいなかったからだ。しかし、あなたが考えることはすべて、つまり自分や「父」や人生に対してあなたが持っている態度はすべて、そのとおりになる、というのがこの世界の法則なのだ。あなたが考えることが、最も下劣で醜悪なことであろうと、この上なくすばらしいことであろうと、それらはそのとおりになるのだ。というのも、その違いを知るのはあなただけだからだ。「父」が知るのは生命だけである。それゆえ、あなたは自分が語るとおりのものを得るのだ。あなたは、あなたが考えるとおりのものなのだ。「自分はこうである」と結論を下すものが、あなたなのである。


自分が劣っていると考えれば考えるほど、あなたは実際にそうなっていく。自分にはあまり知性がないと思えば思うほど、あなたはさらに愚かになっていく。自分はあまり美しくはないと考えれば考えるほど、あなたはさらに醜くなっていく。自分は貧しいと思えば思うほど、あなたはどんどんみじめになっていくが、それはあなたが自分でそう定めたからなのだ。


神の愛がどれほど偉大であるか、熟考してみてほしい。その愛によって、あなたは自分の望むどんなものにでもなれ、自分が望むどんなものでも自分で創造することができるのだ。しかも、その愛はあなたに対してけっして価値判断を下さないのである。R



存在する全てのものの本質とは何でしょうか? それらの源は何でしょうか? それらの本質は何でしょうか? それらの運命は? これらの問いへのラムサのアプローチは、彼の「ヴォイド」という概念から始まります。ヴォイドは、存在する全てのものが生じる源です。彼はヴォイドを「物質的には何もない広大な無でありながら、潜在的に全てのものでもある」と言う風に描写します。ヴォイドの中には何もありません。つまり動きも活動もありません。神に関する問いへの哲学的なアプローチの多くは(一神教の宗教の神学も含めて)、神というものを、「全知」、「無限」、「絶対」、「超越的」、「不変」の存在とみなしてきました。ラムサの体系では、絶対性、無限性、不変性といった属性は、ヴォイドの持つ性質です。ヴォイドは自己完結的、自己充足的であり、一種の休止した状態、何も必要としない状態です。ヴォイドは、全てを包含する広大なもののように見えるにもかかわらず、その原初の状態では、自分自身について何も知りません。というのも、知るということは、ひとつの活動だからです。


アリストテレス哲学やトマス・アクィナス神学の中に私たちが見いだす、創造者としての神の概念、すなわち「第一原因」、「不動の動者」といった概念は、ラムサによって、「自分自身について熟考し、自分自身を知ろうとするヴォイド」という言葉で描写されます。この「熟考」という行為は、自分自身に気づき、自分自身を知っているひとつの点を生み出すという、ヴォイドの中での独特の動きを象徴しています。自分自身に気づいているこの点は、「ゼロポイント」、「観察者」、「第一意識」、「意識とエネルギー」、「神」と呼ばれています。ゼロポイントは、広大なヴォイドの中に潜在的可能性として含まれている未知のものをすべて体験して既知にする、という原初の意図をたずさえています。これが進化の基礎です。自分自身について熟考したヴォイドは、人間の源であり、起源です。「あなたは神である」というラムサの言葉は、人間は観察者であり、ゼロポイントが肉体化したものであり、創造的な意識とエネルギーである、ということを言っているのです。


マハルシ 問題は「自分は限定されている」と考えるために起こります。その考えは誤りです。そしてその誤りを自覚することはできるのです。

(対話63)


質問者 アートマ・サークシャートカーラ(真我実現)とは何でしょうか?


マハルシ あなたはアートマン(真我)であり、サークシャート(今ここにある直接体験)でもあるのです。そのどこにカーラ(実現)が必要でしょうか? この質問は、あなたが自分を真我ではないと考えていることを表しています。


この質問の根底には、あなたが自分自身を粗大な身体と同一視しているという事実があるのです。


今、あなたは自分自身を身体だと見なしています。そして自分の周りに物事を見るように、真我も目で見たいと考えているのです。習慣はそのように影響を与えるものです。


アートマ・サークシャートカーラとはアナートマ・ニラーサナ(真我ではないものの放棄)なのです。

(対話565)


あなたの魂はすばらしい記録装置であり、あなたの化身の中で感じられたあらゆる感情をきわめて科学的に記録する忠実なコンピューターである。あなたが感情的に何かを感じているとき、あなたが感じているのは、あなたの存在の持つ光の構造にぶつかった思考である。それはあなたの脳を通して受け容れられ、中枢神経系によって全身に送られ、それによって体のすべての細胞の中にある感覚が生まれるのである。そのとき魂は、将来の参考にするために、その感覚をひとつの感情として記録する。これが「記憶」と呼ばれるものである。R


なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。だれかを批判する考えが浮かんだとき、それを否定したり、そんなことはないとごまかしたり、あいつこそが悪いのだと投影したりすることもできます。しかし、それに気づいて、その考えに癒しをもたらすこともできます。人を攻撃する考えを隠すこともできますし、告白することもできます。


教会での告解(こっかい)の儀式は、儀式というもののつねとして、その本来の目的を果たさなくなっています。本来の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。その人はローブを着ている必要もありませんし、なにか権威ある立場にいなければならないこともありません。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちはこれからもあるでしょうから、過ちをおかすたびに、ありがたく思うようにしてください。過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。もしあなたがそれをしていることに気づかなければ、一生それをやりつづけ、それが人生の目的になってしまいます。


むしろ過ちを告白すれば、すべての時間を言い訳にあてる必要がなくなります。自分のごまかしを認めれば、過去という限界に縛りつけられることもなくなります。あらゆる衝突をオープンに認めてください。兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。それはあなたが恐怖心や不正直さ、罪悪感をもたずに生きるための薬なのです。この薬を飲んでください、友よ。前にもわたしはこの薬をさしだしましたが、もう一度、さしだします。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたが兄弟とともに演じている、見せかけ、ふりのゲームのせいです。兄弟よりも自分のほうが倫理的で正しい、ということがありえると、あなたは本気で信じていますか。


あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。兄弟があなたを非難するとき、彼は自分自身をも非難しているのです。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。あなたは革命的な教えを伝えているのです。あなたの告白によって、ほかの人も自分自身の過ちを、あわれみをもって見てよいのだとわかるのですから。


自分の過ちを認める人は、人々への燈台のようなものです。その人は、自分の闇のマントを脱ぎ捨てたのです。そのひとを通じて光が輝きます。その心が、透明で、真実が楽々と流れでるすきとおった通路になっているからです。


兄弟はすぐに、この人は信頼できるとわかり、その手をとろうとします。このような人は真の司祭です。自分自身の罪を宥したので、それを他人の罪にも及ぼすことができます。この人の権威は外部からではなく、内部から来ます。宗教的な権威者と世間で認定されているわけではありません。でもそのもとへ来る人はすべて、この人こそ力のある人だと知り、信頼し、自分を打ち明けます。


これが告解ということの真実です。どんな男でも女でも聴聞司祭になりえます。わたしの名前をかたってあなたがたに伝えられている、いかなるうそをも信じないでください。常識を働かせてください。


もしあなたが、うそを許容できなくて宗教に背を向けてしまったのだとしたら、それを恥じることはありません。ごまかしを教え、自分だけを権威者とし、罪悪感を植えつけるような教会に対しては、わたしも背を向けるでしょう。


そうした偽りの教えを拒否するのは、正しいことです。しかし、聖職者の衣をまとった世俗的な偽善者への怒りがあるからといって、わたしと直接に交流することをやめないでほしいのです。他人に教えられたことすべてを忘れ、自分のハートの中にいまある真実だけに思いをめぐらせてみてください。そのハートの中で、あなたとわたしは出会います。わたしの教えや生涯をあざけるような見かけだおしの建物の中ではなく。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


それによって失うものは、この世のくもりと混乱だけではありませんか。秘密を秘密にしておいて、迷路の中にとどまりますか。それともそれを告白し、暗く曲がりくねった小径(こみち)から抜け出しますか。選ぶのはあなたです。


でも、自分をごまかさないでください。隠蔽や闇の中には救済はありません。救済は、真実の光の中にいる人だれにでも与えられます。その光の中には、恥や罪といった影は残っていることはできません。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。兄弟にむかって打ち明けなさい。そうすればいつか、彼もまたあなたを信じて打ち明けるでしょう。真実を否定したり、それを聞かなかったふりをするのはやめてください。わたしはここで、あなたがたに理解できるようなシンプルな言葉で真理を語ったではありませんか。このさきはあなたしだいです。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。


ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。わたしの中にある光は、あなたの中にもあります。わたしがあなたがたにまさって、神に愛されているわけではありません。兄弟姉妹よ、このことは自分のハートの中でおのずとわかってくるでしょう。どれほど外から教えられたり説かれたりしても、それを信じることはできません。


だからこそ、実践してくださいと、わたしは言います。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。あなたがたは、わたしの言葉だけを通して理解するのではありません。教えたことすべてを、わたしは自分の生涯で示しました。ですから友よ、あなたも同じようにしてください。Y



マハラジ あなたたちは皆、どしゃ降りでずぶぬれになったが、私の世界ではいつも晴天だ。夜も昼もなければ、暑さも寒さもない。何の悩みも後悔もつきまとわない。私のマインドには思考がない。そのためにあくせく働かなければならない欲望など何もないからだ。


質問者 そこには二つの世界があるのでしょうか?


マハラジ あなたの世界ははかなく変化しつづける。私の世界は完全で不変のものだ。あなたはあなたの世界で何が気に入っているのかを私に言うことができる。注意と興味をもって私は聞こう。だが、私はあなたの世界が存在せず、あなたは夢を見ているのだということを、一瞬でさえ忘れることはないのだ。


質問者 あなたの世界と私の世界を、何が区別するのでしょうか?


マハラジ 私の世界には同一視できるような特徴はない。それについては何も言えない。私が私の世界だ。私の世界は私自身なのだ。それは完全で完璧だ。あらゆる印象はかき消され、あらゆる体験はぬぐい去られる。私は何も必要ない。自分自身でさえも。なぜなら自分自身を失うことはできないからだ。


質問者 神さえも必要ないと言われるのでしょうか?


マハラジ それらすべての概念や区別は、あなたの世界のなかに存在する。私の世界にはそういったものは存在しない。私の世界は単一のとてもシンプルなものだ。


質問者 そこでは何も起こらないのでしょうか?


マハラジ 何であれ、あなたの世界のなかで起こったことは、そこでだけ有効であり、反応を呼び起こす。私の世界では何も起こらない。


質問者 あなたが自分の世界を体験しているという事実そのものが、すべての体験に固有の二元性を暗示しています。


マハラジ 言葉の上ではそうだ。しかし、あなたの言葉は私には届かない。あなたの世界では語られないものは存在をもたない。私の世界では言葉とその内容が存在をもたないのだ。あなたの世界では何もとどまらない。私の世界では何も変わらない。私の世界は真実だ。あなたの世界は夢でできているのだ。


質問者 それでも私たちは話しています。


マハラジ 会話はあなたの世界のなかにある。私の世界には永遠の沈黙がある。私の沈黙は歌い、私の虚空は満たされ、何ひとつ欠けていない。そこにあなたがいないかぎり、あなたに私の世界を知ることはできない。


質問者 どうやら、あなたはあなたの世界に独りきりのようですね。


マハラジ どんな言葉も適さないとき、ひとり、あるいはひとりではないなどと、どうして言えるだろう? もちろん私はひとりだ。なぜなら私はすべてだからだ。


質問者 あなたは私たちの世界に入ってきたことがありますか?


マハラジ 来ることや去ることは、私にとっては何の意味もない。それらもまた、ただの言葉だ。私は在る。私がどこから来て、どこへ行こうというのだろうか?


質問者 あなたの世界が私にとってどんな意味があるというのでしょう?


マハラジ 自分の世界をより詳細に考え、批判的に調べて見るべきだ。そうすればある日突然、私の世界のなかにあなた自身を見いだすだろう。


質問者 それによって、私たちは何を得るというのでしょうか?


マハラジ 何も得るものはない。あなたはあなたのものではないものを後にし、あなたがけっして失わなかったもの、自分の存在を見いだすのだ。


質問者 あなたの世界では、誰が支配しているのでしょうか?


マハラジ そこには支配する者も支配される者もいない。そこにはどんな二元性もない。あなたはただ自分の考えを投影しているだけだ。ここではあなたの聖典や神たちは何の意味ももたない。


質問者 それでも、あなたは名前と姿をもち、意識と行為を表しています。


マハラジ あなたの世界では、私はそう映るだろう。私の世界では存在があるだけだ。ただそれだけだ。あなたがたは量や質といった所有の概念であふれている。私にはまったく何の概念もない。


質問者 私の世界には不安、苦悩、絶望があります。私は生活のためにあくせく働かなければならないというのに、あなたはどうやら何か秘密の収益で生きているようです。


マハラジ あなたの好きなようにするがいい。あなたの世界を去って、私の世界へ来るのはあなたの自由なのだ。


質問者 どうすれば橋を架けられるでしょうか?


マハラジ あなたの世界を、想像を通してではなく、あるがままに見なさい。識別することが無執着をもたらす。無執着は正しい行為を確実にし、正しい行為はあなたの真の存在に内なる橋を築くだろう。行為は真剣さのあかしだ。言われたとおりに努めて誠実に行うなら、すべての障害は消え去るだろう。


質問者 あなたは幸せですか?


マハラジ あなたの世界では、私はもっとも惨めだろう。目を覚まし、食べ、話し、また眠る。なんと無駄なことか!


質問者 では、あなたは生きることも望まないのでしょうか?


マハラジ 生きること、死ぬこと。何と無意味な言葉だろう! あなたが生きている私を見るとき、私は死んでいる。あなたが私は死んでいると思うとき、私は生きている。何とあなたは混乱していることか!


質問者 何とあなたは無関心なのでしょう? 私たちの世界の悲しみは、あなたにとっては無に等しいのです。


マハラジ 私はあなたがたの困難を完全に意識している。


質問者 それでは、あなたはそれに関して何をしているのでしょうか?


マハラジ 何もする必要はない。それらは来ては去っていく。


質問者 あなたがそれらに注意を向けること自体が、それらを去らせるのでしょうか?


マハラジ そうだ。困難は身体的、感情的あるいは精神的なものかもしれない。だがそれらはつねに個人的なものだ。大規模な災難は無数の個人的運命の合計であり、解決するまで時間がかかる。だが、死はけっして災難ではない。


質問者 たとえ人が殺されてもですか?


マハラジ 災難は殺した者のものだ。


質問者 それでもまだ、あなたと私の世界は二つに分かれているように見えます。


マハラジ 私の世界は実在で、あなたの世界はマインドのものだ。


質問者 ひとつの岩を想像してください。岩のなかに穴が、穴のなかにはカエルがいます。カエルはその生を心迷わせず、邪魔されずに、完全な至福のうちにすごします。もしカエルが外の世界についての話を聞いたならば、彼は言うでしょう、「そんなものは存在しない。私の世界は平和と至福だ。あなたの世界は言葉で構築された、単なるまぼろしだ。それは存在してなどいない」と。あなたにとっても同じことです。あなたが私たちの世界は単に存在していないと言うとき、もはや討論するための共通の土台がありません。ほかの例をとれば、私が医者へ行き、腹痛を訴えたとします。彼は私を診察し、「あなたはだいじょうぶだ」と言います。「でも、痛いのですよ」と私は言うでしょう。彼は、「あなたの痛みは精神的なものだ」と主張します。私は言います。「痛みが精神的だと知ることは何の助けにもなりません。あなたは医者なのです。痛みを治してください。でなければあなたは私の医者ではありません」と。


マハラジ まったくそのとおりだ。


質問者 あなたは鉄道を敷きました。しかし橋が欠けているため、列車が通れません。橋を架けてください。


マハラジ 橋の必要はない。


質問者 あなたの世界と私の世界の間に、何らかのつながりが必要なはずです。


マハラジ 実在の世界と想像上の世界の間につながりは必要ない。それはありえないからだ。


質問者 それでは、どうしたらよいのでしょうか?


マハラジ あなたの世界を調べてみなさい。頭を使って批判的に調べなさい。それに関するあらゆる概念を詳細にわたって調べなさい。そうすれば、うまくいくだろう。


質問者 調べるには、世界は大きすぎます。私の知っていることといえば、私は存在し、世界も存在しています。世界は私を混乱させ、私は世界を混乱させるのです。


マハラジ 私の体験ではすべてが至福だ。しかし、至福への欲望は苦痛を生みだす。それゆえ、至福が苦痛の種子となる。この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。喜びへの欲望をあきらめなさい。そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。


質問者 なぜ喜びが苦痛の種子となるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、喜びのためにあなたは多くの罪を犯しているからだ。罪の結果は苦しみと死なのだ。


質問者 あなたは、世界はただの苦難であり、何の役にも立たないと言われます。私はそうではないと感じています。神はそれほど愚かではありません。私には、世界は可能性を現実にし、物質に生命を与え、無意識を完全な覚醒に導く偉大な企てとして映ります。至高なるものを実現するには、私たちには対極の体験が必要です。寺院を建てるために、石や漆喰、木や鉄、草やタイルなどが必要なように、生と死を克服した聖者となるにはあらゆる体験が必要です。女性が市場へ行き、料理のあらゆる材料を買い、料理し、主人に供するように、私たちも人生の火によって私たちを料理し、神に捧げるのです。


マハラジ もしあなたがそう考えるのなら、そうしなさい。神に捧げるがいい。


質問者 子供は学校で、後で役に立たないことも多く学ぶでしょうが、学ぶ間に成長していきます。同じように私たちも無数の経験を経て、後にすべて忘れてしまうでしょう。しかし、私たちはその間もつねに成長していきます。そして、ジニャーニとは実在における天才にほかなりません! 私のこの世界に偶然はありえません。それには意味があり、その背後には計画があるはずです。私の神は計画をもっているのです。


マハラジ もし世界が偽りならば、その計画も、その創造者もまた偽りなのだ。


質問者 またしてもあなたは世界を否定します。私たちの間に橋はないのです。


マハラジ 橋の必要はないのだ。あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬことはない。だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、この特定の身体をあなた自身のものと信じているところに過ちがあるのだ。


質問者 世界は在り、私は存在します。これらは事実です。


マハラジ なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう?あなたは世界を救いたい、違うかね? あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか? そして救われるとはどういう意味だろうか? 何から救われるのか? 幻想からだ。救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。自分自身とさえも関係していない。その自分自身が何であろうとも。私は定義されることのないまま永遠にとどまる。私は内側に、そして彼方に存在する──親密で、しかも到達不可能なものなのだ。


質問者 どうやってあなたはそれに到達したのでしょうか?


マハラジ 私のグル(師)を信頼することによってだ。彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。そして私は疑わなかったのだ。私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。


質問者 繰り返しによって確信したのでしょうか?


マハラジ 真我の実現によってだ。私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。ただ、私は存在─意識─至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが間違いだったのだ。


質問者 あなたは学問の人ではありません。あなたは多くを読まなかったでしょうし、読んだり聞いたりしたことは、おそらく矛盾しなかったのでしょう。私はかなりの教育を受け、かなりの量を読み、本と教師たちの間に絶望的な矛盾を見たのです。ですから何であれ初めて読み、あるいは聞いたことは、疑いを通して受け取ってしまうのです。「それはそうかもしれない、そうではないかもしれない」が、私の最初の反応です。何が真実で、何がそうではないかを決定できないために、私は無味乾燥な、教養ぶった疑いとともに取り残されてしまったのです。ヨーガにおいて猜疑心は途方もなく不利な条件です。


マハラジ そう聞けて私は嬉しい。だが私のグルも、私にすべてを完全に疑うよう教えたのだ。彼は言った、「あなたの自己を除いたすべての存在を否定しなさい」と。欲望を通してあなたは快楽と苦痛の世界をつくり出したのだ。


質問者 それは苦痛もともなわなければならないものなのでしょうか?


マハラジ ほかにどうありえよう? 快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛のなかに終わるのだ。


質問者 あなたの言われることはみな、私にとって明白です。しかし身体的あるいは精神的困難が生じたとき、私のマインドは鈍く、暗くなるか、狂ったように救済を求めまわるのです。


マハラジ それがどうしたというのかね? 鈍く、落ち着きがないのはマインドであり、あなたではない。見てみなさい。あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。私がそれを起こるようにしたのだろうか? それはただ起こるのだ。あなたにとっても同じだ。運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。あなたに出来事の行方を変えることはできない。だが、あなたの態度は変えられる。そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。世界は欲望と恐れの住処だ。そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。平和のためには、あなたは世界を超えていかねばならない。世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。すると画面は変わってくる。創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。世界はそれらを満たすための道具なのだ。魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。そして時間がすべての勘定書を決算する。バランスの法則が究極の支配をするのだ。


質問者 超人になるためには、まず人で在らねばなりません。人として在ることは、数かぎりない経験の結果によるものです。欲望が経験を駆りたてるのです。それゆえ、その時と段階によっては、欲望も正しいものなのです。


マハラジ ある意味では、まったく正しい。しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日が来る。そのとき選別し、不要なものを捨てること(ヴィヴェーカ─ヴァイラーギャ)が絶対に必要となる。すべてを詳細に調べ、不必要なものは無情にも破壊されなければならないのだ。私を信じてほしい。行き過ぎの破壊はありえない。実際には、価値あるものなどないからだ。熱烈に冷静でありなさい。ただそれだけだ。


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