本質、本音、本当


ウソをつくと整合性のために覚えておかなければならないことが増えます。本当、には覚えておくことが必要ありません。本質も本音も、いまここにあるもののことだから、保存作業も要りません。それは別の視点で言うと、最も軽いものが本質ということです。本当は今ここにあるのであって、別の場所にはありません。それは本当を想像しているだけだから。想像ができているここが本当です。人がこういうことを言われて嫌がるのは、本当を甘く見ているからです。それは別種の思い込み、想像です。存在の「光」を忘れて久しいため、甘く見ているのです。空気のように味のしないただのガラス窓のように面白みのないものではないかと想像が始まってしまうから嫌がるのではないでしょうか。生きる理由があるなら教えてくださいと言った青年は、「理由がなければ生きられない」と思い込まれていたように思います。生きる理由の「前」に存在があるのか、「後」に存在があるのか、その確認は大切だと感じました。なぜなら生きることをやめた「後」に存在がまだあることに気づくと、どのようなレベルの後悔をするかわからないからです。n


天が終わらせると決めているなら


終末論をあの世上層部がほんとうの意味で決定したのはたぶん90年代前半のことです。私には体感として、時代の色が冗談抜きで感じられていました。1993年や1994年は真っ黒です。バブル崩壊の暗さではないんです。人間の精神性の低さが闇になっていました。深夜でした。そして25年かけて確かにアメフト選手の反則で日本中が騒ぎになる時代になりました。それだけのことなら単なるブームの話なのでたいした影響力もないのですが、私も一部の方と同様に危惧している内容はもっと飛躍したものです。ほんとうに、向こう側上層部は、この地上人類を一度、破壊して終了させる「意思決定を既に下してしまっている」可能性が高いのではないかということです。大まかな枠組みは確かに1892年当時にはあったようだと思われます。ですが100年後の1990年代に決めたのは、「(人類の)改心不可能、修正不可能、放置はできない、最終決定」ということです。そして地上を卒業した74億人の人類をどうするかなんですが、別の惑星(しかも別銀河)に再配置するらしいです。その惑星が、進化なのか、左遷なのかはわかりません。良心神の数が一定に達していなかったら連帯責任として全員左遷なんでしょうね。私がこの地上に生まれた時、または生まれる直前にはこんな最終決定はなかったように思います。幼少時の感覚で覚えていますが、もっと未来は明るかったです。ところが今のテロ組織や北朝鮮がやっていることは地獄の所業です。地上に現出した本物の地獄です。今後どうなるのか想像もつきませんが、こういう情勢ではみえないサポーターの方々と連携して個人的な浄化を進めるしかないと感じています。なぜなら肉体の維持を期待できそうな状況ではないからです。わたしたちは不死ですから、肉体を脱ぐことは問題ではありません。精神状態が問題なんです。日々の精神状態が、自分が見る色が問題なんです。その色が神のご覧になる色に比してどうか、という「現実」に直面したとき、後悔しないような賢明な態度か、ということが問題です。n


「手をのばし、贈り物を受けとるがよい」
と、
神の心は呼びかけてきます。


でもあなたは耳を貸しません。心がいらいらと波立っているので、聖なる声の呼びかけが聞こえません。自分の人生の状況を見回し、あちこちアラ探しをしているうちは、神の無条件の愛に包まれていることに気づきません。
しかし、どれほど神からへだたっているように感じたとしても、あなたと神との距離は


思いひとつぶん


だけなのです。
たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。


覚えておきなさい、友よ。
たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。


「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」



秋葉原無差別殺傷事件
2008年6月8日午後0時33分ごろ、東京都千代田区外神田の歩行者天国で、加藤智大死刑囚がトラックで歩行者を次々とはねた後、ダガーナイフで無差別に切りつけた。男女7人が死亡し、10人が重軽傷を負った。加藤死刑囚は殺人罪などで1、2審で死刑判決を受け、15年2月に上告が棄却されて刑が確定した。


無差別殺傷事件10年 「安全なアキバ」求め 商店主ら巡回/車突入防ぐ柵も
2018年6月8日 東京新聞 朝刊


東京・秋葉原で二〇〇八年六月、七人が死亡、十人が重軽傷を負った無差別殺傷事件から、八日で十年。地元の人たちには、悲惨な事件の記憶が今も残る。毎週日曜日の歩行者天国(ホコ天)では、商店主らの団体がパトロールし、警視庁は車の突入を防ぐ防護柵を設置。東京五輪・パラリンピックを控え、安全とにぎわいを両立させようとする取り組みが続く。 (神田要一)


六月最初の日曜だった三日。JR秋葉原駅近くのホコ天では、スマートフォンで写真を撮る若者や、街を見渡しながら歩く外国人らの中に、青いベストを着た商店主らの姿が。自転車で走り抜けたり、路上でパフォーマンスをしたりしないよう注意を呼びかけていた。警察官の姿も目立ち、交差点など六カ所にパイプ型の防護柵が並んでいた。


買い物していた葛飾区の会社員島田洋平さん(37)は「あんな事件があったから、やっぱり安全は気になる。車で突っ込むような人は何があってもやる意思があるはずだから」と話した。


十年前の事件当日も日曜だった。多くの人が行き交うホコ天。千代田区外神田三の交差点付近で、加藤智大(ともひろ)死刑囚(35)の運転するトラックが突っ込み、車から降りると、ダガーナイフで通行人を次々と刺した。


事件後、ホコ天は中止に。「怖い街」のイメージをぬぐい去ろうと、地元町会や商店街は千代田区と話し合い、防犯パトロールをしたり、違法駐車をしないように呼びかけたりする「秋葉原協定」を独自に制定。二年七カ月後の一一年一月、ホコ天は復活した。


地元商店街などでつくる秋葉原地域連携協議会「アキバ21」の大塚実会長(84)は「安全で安心な街を取り戻すため、みんな何とかしなければという切実な思いだった」と振り返る。


アキバ21は毎週日曜、約三十人態勢でパトロールを続ける。街頭には区の補助金をもらい約三十台の防犯カメラも設置。家族連れの人たちも増えた。大塚さんは「街のにぎわいにホコ天は欠かせない。安全な街に戻ったけど、いつ何が起きるか分からない。油断も安心もできない」。


欧米では近年、トラックで人混みに突入する形の無差別テロが相次ぐ。このため、警視庁は三月、ほかの地域に先駆け、秋葉原のホコ天に防護柵を導入した。これまでは等間隔に車止めを置いていたが、より確実に車の侵入を防ごうと、地元に設置を働き掛けた。今後、銀座や新宿のホコ天でも導入を検討している。


警視庁警備部の福田託也危機管理対策官は「多くの人が集まるソフトターゲットはテロの標的になり得る。官民で協力して対策を取り、安全を守りたい」と気を引き締める。


東京・秋葉原殺傷
事件10年 動機求め何度も手紙
毎日新聞2018年6月8日 東京朝刊


東京・秋葉原で17人が死傷した無差別殺傷事件は、8日で発生から10年を迎える。殺人罪などで死刑判決が確定した加藤智大死刑囚(35)は動機について「ネットでのトラブルだった」と公判で語ったが、脇腹を刺され生死の境をさまよった元タクシー運転手の湯浅洋さん(64)のわだかまりは消えない。「あれは本心だったのでしょうか」。湯浅さんは加藤死刑囚に手紙を書き続けている。


2008年6月8日。日曜日の歩行者天国、午後0時33分--。タクシーを運転していた時、人混みに2トントラックが突っ込むのを見た。とっさに車を降り、はねられた人に駆け寄った途端、背中に衝撃を感じた。抱きかかえられるようにして脇腹を刺され、路上を転げ回ったところで記憶は途切れる。意識が戻ったのは4日後だった。


「事件直前に『派遣切り』を告げられたことで、社会を恨んだのではないか」。こうした動機が取りざたされた。だが加藤死刑囚はこれをかたくなに否定した。公判で「ネットの掲示板で嫌がらせする人に、やめてほしいと伝えるための手段だった」と主張し続けた。


「ネットでのトラブルだけで、全く無関係な多くの人を殺傷できるのか」。湯浅さんは加藤死刑囚の言葉に納得することはできなかった。事件の1年半後に届いた謝罪文の手紙に返信を書いた。「なぜこんなに重大な事件を実行してしまったのか。一緒に考えたいと思います」。1年以上たってから2通目が届いたが、答えは書かれていなかった。拘置所にいる加藤死刑囚に4度面会を求めたが拒まれた。


後遺症は残る。冷や汗やめまい。急に目の前が見えなくなることもあった。2年前に運転手を辞め、知人のつてで島根県浜田市で働く。加藤死刑囚と同年代の息子たちとは離れて暮らす。


昨年5月、車で1400キロを走り青森市に向かった。加藤死刑囚が生まれ育った街に行けば、事件のことが少しは分かるかもしれないと思った。帰宅後に7通目の手紙を書いた。「見せてもらえませんか。加藤智大の今を、心を」


最近、ツイッターで多くの人と事件について議論したいと考えている。「いろんな意見を聞きたい。それに若い人に事件のことを知ってもらえれば、同じ事件を防げるんじゃないかなって」。生き残った被害者にとって、10年の節目も通過点に過ぎない。湯浅さんは3通目の手紙を待ち続けている。【土江洋範】


奪われた息子との「これから」 秋葉原無差別殺傷10年
日本経済新聞 2018/6/8 9:19
17人が死傷した東京・秋葉原の無差別殺傷事件から8日で10年。現場となった街はにぎわいを取り戻したが、理不尽な犯行で愛する家族を奪われた遺族たちの心には今も深い傷痕が残る。犠牲となった松井満さん(当時33)の母親(69)は「お互い大人としてこれから分かり合えると思っていたのに……」と、涙ながらに事件後の月日を振り返る。


パソコンの組み立てが趣味だった満さんは事件当日、買い物のため秋葉原を訪れていた。午後0時半ごろ、加藤智大死刑囚(35)がトラックで歩行者を次々とはねた後、ダガーナイフで無差別に切りつけた。満さんは腹部を刺され、搬送された病院で亡くなった。


満さんは当時、神奈川県内の実家からほど近い病院で調理師として働いていた。実家近くで一人暮らしをしていたが、頻繁に仕事帰りに立ち寄って両親と食事をともにした。両親に冗談を言って笑わせるなど朗らかな性格だったという。母親は満さんが帰る時はいつでも、玄関の外まで出て「気をつけてね」と声をかけた。だが最後に会ったのがいつだったか、何と言葉を交わしたか、思い出せない。


事件後、母親は家に閉じこもった。「なぜだか分からないが、人に会ってはいけないと思った」。知り合いに会うのを避け、近所のスーパーに行ったり、散歩したりすることもなくなった。「このまま消えてしまいたかった」


悩みながら満さんを育てた。成人してからも、満さんの内面などをしっかりと理解できていなかったと思う。「33年間一緒だったが、まだあまり深い付き合いじゃなかった。大人としてお互いが分かり合えるようになるのは、これからだった気がする」。事件は母親と息子から「これから」を奪った。


月命日には墓参りを欠かさない。車で30分ほどの場所にある墓地で「みっちゃん、元気?」と明るく話しかけ、墓石をなでる。手は合わせない。「だって(亡くなったことを)認めるみたいでしょ」。涙で声を詰まらせながら「私がしてやれるのは、これくらいなの」。


不思議と怒りはわかない。「テレビでひどい事件を見ると腹が立つのに、自分が巻き込まれると違うのね」。ただ「向こう(加藤死刑囚)の家族はどうしてるのかしら」と気にかける。加害者の家族となった境遇に同情することもある。


3カ月ほど前、かつて旅行や飲み会を楽しんだ友人たちから「もう10年たつんだから」と誘われて、食事会へ出かけてみた。「意外と大丈夫だった」。次の予定も決まった。事件で奪われた平穏な生活を、少しずつ取り戻そうとしている。


トラックが突入した交差点に設けられた献花台には、千羽鶴や飲料水が供えられ、朝から花を手向けたり手を合わせたりする人の姿が絶えなかった。
トラックにはねられ死亡した川口隆裕さん=当時(19)=の中学時代の部活の先輩だった会社員男性(30)は献花に訪れ、「(事件後は)毎日のように思い出していたが、今は少なくなってきた。申し訳ない」と謝罪の言葉を口にした。残された人間として精いっぱい頑張れているか自分自身に問い続けているといい、「もう少し見守ってくれ」と献花台に語り掛けた。
2018/06/08-12:07 時事ドットコムニュース


「秋葉原連続通り魔事件」そして犯人(加藤智大)の弟は自殺した


「兄が母のコピーなら、僕はコピー2号。でも、僕は兄と同じことはしない」—。弟は悲痛な叫びを残して、みずから死を選んだ。大事件のあと、加害者家族を待っていたのは、拷問に近い日々だった。


生きる理由がない
「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけないんです。それが現実。僕は生きることをあきらめようと決めました。


死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください」


そう語った青年は、その1週間後、みずから命を絶った。彼の名前は加藤優次(享年28・仮名)。日本の犯罪史上稀にみる惨劇となった、秋葉原連続通り魔事件の犯人・加藤智大(31歳)の実弟だった。


彼の問いかけに対し、どう答えればよかったのか、いまでも答えは見つからない。彼を止められなかったことは悔いが残る。だが、どうやって止めればいいのか、その時は正直、わからなかった。


'08年6月8日、日曜日。加藤智大は白昼の秋葉原の雑踏に2tトラックで突っ込み、さらにダガーナイフを使って、7名もの命を奪った。


筆者は事件直後に優次に接触し、加藤が生まれ育った家庭の内実を明かしてもらった。それ以来、取材協力者と取材者の付き合いが始まり、その関係は6年近くに及んだ。


その彼から突然、大きな段ボール箱が届いたのは、今年1月31日のことだった。開封すると、優次が事件について振り返った、A4判250枚にも及ぶ分厚い手記が入っていた。


何百回も、ファイルをデリートしようとした。書くというより考えることが、嫌で嫌でしょうがない。


こんな書き出しで始まる手記には、「加害者の家族として生きる」ことの厳しさと苦痛が、切実な言葉で綴られていた。


優次は生前、「本を出版したい」と私に繰り返し言っていた。この手記を公開することは、優次の遺志にそむくものではないと私は考える。なぜなら彼はこうも記しているからだ。


それでも、弟が書き下ろしたこの文章を読んで、それが有効活用されるのであればまったくの無駄でもないだろう、と思う。現在親である人、これから親になる人が、何かを考えるきっかけになれば、と。それは5年前からずっと言い続け、考え続けていたことだ。


加害者の家族であるという事実が、優次の人生に与えた影響はどれほど大きかったのか。手記から引用していく。


まず職を失った。事件当日、ほとんど着の身着のままでアパートを抜け出したときの緊張感、不安と高揚は、いまはもう忘れかけていますが、職場を失うのがつらかったことはハッキリと覚えています。あの会社は社会との唯一の接点でした。青森で腐っていた自分を生き返らせてくれた大事な場所でした。


でも、やはり退職はどうしても避けられなかった。事件当日の深夜、退職届を書きました。僕がいなければ、(職場に)マスコミが来ても知らぬ存ぜぬを通せる。辞めたくはなかったけど、迷惑をかけずに済む方法がそれしかなかった。


事件から3ヵ月。報道が落ち着くと、優次はアパートを引き払い、当時住んでいた東京を離れてアルバイトを始めた。再び社会との接点を持った彼を待っていたのは、身元・素性がバレないかという不安だった。


この頃はまだ、自分の名前を検索すると、すぐヒットする状態にありました。弟は高校でイジメに遭っていた、と同級生という人物による書き込みもあった。事実ではないことも書かれていましたが、事実もありました。自分を知る人間が書き込んでいる。それは間違いないことでした。


もとより人付き合いは苦手でしたが、人と接することがさらに難しくなった。


「出身どこ」


「兄弟いるの」


何気ない会話が苦痛でした。積極的にコミュニケーションをとらない理由を説明もできず、「加藤は変わったヤツだ」と変な目で見られることになる。


僕はいくつかの職場を渡り歩きましたが、常に浮いた存在にならざるをえなかったのが実状です。


東京と埼玉を往復するかのように、優次は職と住居を転々とした。この時期、彼は私に、こう心情を明かしたことがある。


「引っ越して、住民登録を済ませると、1ヵ月も経たないうちにマスコミの人が来るんです。インターフォンが鳴り、ドアが乱暴に叩かれる。なんでわかるんだろう、と恐怖を覚えるとともに、やっぱり逃げられないんだな、とあきらめのような感情が湧きました」


幸せを求めちゃいけない
時間が経つにつれて取材は減っていったが、事件があった6月が近づくと、またたくさんの記者がやってくる。


あれからいくつもの職に就いたが、そのたびに考えたのが、


「もしも俺が加藤の弟だと知ったら、この人たちはどうするんだろう」


ということです。敵と味方と、二種類に分かれるのだろうか。味方が多くなりそうな職場もあったし、敵だらけになりそうなところもありました。


仕事はクソ真面目にやったけど、評価はどうでもよかった。「加藤の弟」という称号を手に入れたいま、そこらに転がっている不名誉など、無意味に等しいと思っていました。簡単に住所がバレてしまうように、マスコミが知ろうと思えば勤め先も知られてしまう。そうなったらまた、辞めて引っ越すだけです。


そんな暮らしの中にも、「希望」がなかったわけではない。事件から1年あまりが過ぎた頃だった。彼のアパートを訪ねようとしたときに、たまたま、女性と一緒に歩く姿を目撃したのだ。恋人だという。事件以来、優次が喜怒哀楽を見せることは、一切なかった。だが、「バレましたか」と言いながら女性に向ける表情は、若者らしい屈託のない笑顔だった。


優次は彼女に、事件のことも話していた。


正体を打ち明けるのは勇気のいる作業でしたが、普段飲まない酒の力を借りて、自分のあれこれを話して聞かせました。一度喋り出したら、あとは堰を切ったように言葉が流れ出ました。


彼女の反応は「あなたはあなただから関係ない」というものでした。自分が受け入れられたことに、心底ほっとしました。自分が許されるということは、とても、とても嬉しかった。


交際期間が1年を過ぎる頃、優次は彼女との結婚を望み、アルバイトから正社員になった。


「齋藤さん、家庭を持つってどんな感じですか」


と私に訊いてくることもあった。しかし結論から言うと、優次のこの「夢」はかなうことはなかった。事情を知りつつ交際には反対しなかった女性の親が、結婚と聞いた途端、猛反対をしたのだという。


当時、落胆を隠さずにこう語った彼の淋しげな顔が忘れられない。


「彼女の親が最初に僕の素性を知った時、返ってきたのはいわゆる『模範解答』でした。兄は兄。弟は弟。家族はむしろ被害者—いま思えば、模範解答すぎますよね。交際自体、本音では反対だったのかもしれません。本当は加藤家の人間とは関わりたくなかったのかもしれない。


加害者の家族は、日陰でひっそり暮らそうと思えば暮らせます。でも、人並みな幸せをつかむことはできない。それが僕の実感です。彼女を家から引っこ抜いてでも一緒になろうと思った時期もありましたが、冷静になれば、結婚なんて現実的ではなかった……。それを一瞬でも望んだ僕が間違っていたんです。子供がどんな思いをするのか。凶悪犯の家族という肩書はどうやっても消せないんです。それを考えれば、求めちゃいけない幸せでした」


二人が同棲するアパートにも記者が訪れ、そのたびに彼女は動揺した。迫り来る取材、親の反対、将来への不安……それらは女性にとって大きなストレスとなり、やがて二人の関係にも綻びが生じる。


「あなたが犯人の弟だから……」


「禁句」とも言えるこの言葉が、彼女の口から出るようになった。優次は一切反論しなかったが、破局はもう時間の問題だった。


一番こたえたのは「一家揃って異常なんだよ、あなたの家族は」と宣告されたことです。これは正直、きつかった。彼女のおかげで、一瞬でも事件の辛さを忘れることができました。閉ざされた自分の未来が明るく照らされたように思えました。しかしそれは一瞬であり、自分の孤独、孤立感を薄めるには至らなかった。


結果論ですが、いまとなっては逆効果でした。持ち上げられてから落とされた感じです。もう他人と深く関わるのはやめようと、僕は半ば無意識のうちに決意してしまったのです。


この女性は優次にとって、最初で最後、唯一の恋人だった。その関係が破綻したとき、優次を激しい絶望が襲った。


僕は、社会との接触も極力避ける方針を打ち立てました。これも、いま思えば間違いでした。僕はいつのまにか、兄と同じ道を辿り始めていたのです。


優次は手記に、繰り返しこう書いている。


兄は自分をコピーだと言う。その原本は母親である。その法則に従うと、弟もまたコピーとなる。兄がコピー1号なら、自分は2号だ。


兄の犯罪を憎みつつ、自分の中にある「兄と同じ部分」に気づいた時、優次の中で何かが崩れた。


「突きつめれば、人を殺すか自殺するか、どっちかしかないと思うことがある」


そんな言葉を私に漏らすようになった。なぜ、兄の犯罪を見てなお、そんなふうに考えてしまうのか。それを知るためには、優次が「原本」と呼ぶ、母親の特殊な教育を含めた家庭環境を知る必要がある。


本当は両親を助けたかった
事件直後、加藤は「両親は他人だ」などと供述。テレビでは母親の虐待に関する近隣住民の証言が取り上げられた。そして事件から1週間後、優次は本誌で告白をした。それは次のような内容だった。


〈小学校時代から友人を家に呼ぶことは禁じられていた〉


〈テレビで見られるのは『ドラえもん』と『まんが日本昔ばなし』だけ〉


〈作文や読書感想文は母親が検閲して教師受けする内容を無理やり書かされた〉


〈兄は廊下の新聞紙にばらまいた食事を食べさせられていた〉


この告白は当時、大きな反響を呼んだ。母親からの影響を、加藤自身も著書『解』の中でこう分析している。


〈(母親は)自分が絶対的に正しいと考えている人でした。母親の価値観が全ての基準です。その基準を外れると母親から怒られるわけですが、それに対して説明することは許されませんでした。(中略)


私のやり方も同様です。誰かが私に対して、私の価値観で間違ったことをしてくると、私は怒りました〉


その考え方が、「自分の(ネット上の)掲示板を荒らした人々に、間違っていることを認識させて痛みを与える」という、通り魔事件の動機につながったのだという。


事件後、「犯罪者を育てた両親」として批判にさらされ続けた父と母が直面した現実は、ある意味、優次以上に厳しいものだった。


地元の信用金庫の要職にあった父親は、事件から数ヵ月後に、退職を余儀なくされる。自宅には脅迫や嫌がらせの電話が相次ぎ、電話回線を解約した。記者の訪問も後を絶たず、マスコミの姿に怯えながら身を潜めて暮らした。


一方、罪の意識にさいなまれた母親は、心のバランスを崩して精神科に入院。一時は誰も面会できないほどの状態だった。退院後は青森県内にある実家に身を寄せたが、孫の事件を知って体調を崩した自分の母が急死するという不幸にも見舞われた。


優次は母親の極端な教育方針を告白した時、心中には両親に対する複雑な感情があったことを、手記で明かしている。


事件直後、虐待の証言が飛び交い、『親のせいでこうなった』という風潮が印象づけられました。でも、親のせいなら、僕も事件を起こすはず。だけど僕はそんなことはしない。たしかに両親への恨みや憎しみはありましたが、親のせいではないということを証明したかった。


(週刊現代での告白は)反響はありました。だが、僕の思惑とはまったく違う方向へ事態は推移してしまいました。僕は両親を助けるどころか、逆に追い込んでしまったんです。


優次の死と、彼の遺した手記を報じるにあたって、私は4月上旬、改めて青森を訪れた。加藤兄弟を育んだ町は、季節はずれの雪で冷え込み、人の往来も少なかった。かつて家族4人が暮らした実家もまた、静まり返り、人の気配はまったく感じられない。


近隣住民が言う。


「ご主人が一人でひっそり暮らしています。朝早くに出て夜遅くに帰ってくる毎日で、事件以来、カーテンはずっと閉め切られたままで、夜も電気が点くことはありません。


……そう、あれからずっと、加藤さんはロウソクの灯りで生活しているみたいなんです」


信用金庫の職を失い、地域とも縁を切った父親は、信じがたいことに、暗闇にロウソクを灯してこの家で暮らしているという。


「加害者の家族のくせに」
一方で、母親はもう、ここにはいない。事件と前後して離婚した母は、家を出て青森市内の質素なアパートで暮らしている。そちらも訪ねたが、やはり昼夜問わずカーテンを閉め切り、真っ暗な部屋にひきこもる生活をしていた。


夜10時。仕事から車で帰宅した父親に、訪問の趣旨を告げた。優次と取材を通して付き合ってきたこと、死の直前、優次に手記を託されたこと……。


長い沈黙のあと、父親は静かにこう言った。


「優次がみずから逝ったことは、どうにもできなかったことですから……。私が言えるのは、そっとしておいてほしい。それだけです。(週刊現代の取材に協力した)優次の思いはわかっています。ただ、私とは考え方が違います」


優次は事件後、一度だけ実家に帰り、父親と短いながらも面会している。そして、本誌に掲載するために家の中の写真を撮った。その時のことを、優次は手記にこう書いている。


親も、僕に何かを話せばそれが記事になることがわかっているから、とにかく言葉を濁すばかりでした。家の中でカメラのシャッターを押すたびに、心臓を抉られるような気持ちがしました。


「あぁ……こんな写真が載っだらば、母さんはまんだ具合を悪ぐしてまうんだべな……」


父親は誰ともなしに呟いていました。僕は返す言葉もありませんでした。


また手記の後半で、優次はこうも書いている。


僕は親を助けるどころか逆に追い込んだ。少なくとも結果的にはそうなった。母親も、長男だけでなく次男からも攻撃されていると思い込み、錯乱してぐちぐちと文句を言ったらしい。


僕は、親「に」どう思われるか、なんてまったく考えていない。気にするのは親「が」どう思われるか、という点だけだ。両親を擁護するために、僕は取材に協力したつもりだった。


一番記憶に残っているのが、あの(両親の)記者会見の直前にした父親との電話だ。


「おまえはなんも心配しなくてもいいがら」


と息子を落ち着かせようとする父に対し、僕は、


「心配しないわけねーべや!」


と叫んでわけもなく泣きわめいたのを覚えている。


事件を起こした長男は、拘置所で死刑を望み、自分の犯罪を冷静に分析する著書を執筆する。一方、互いに思う気持ちがありながらも、すれ違い続けた次男は、兄より先にみずから命を絶った。私はこれ以上、父親から言葉を引き出そうとは思えなかった。


「またマスコミが来てしまうのか……」


父親は非難めいた口調ではなく、そう呟くと玄関の向こうの暗闇に消えた。この日もやはり、電気が灯ることはなかった。


優次は、「加害者家族として生きること」について、こう書いている。


被害者家族は言うまでもないが、加害者家族もまた苦しんでいます。でも、被害者家族の味わう苦しみに比べれば、加害者家族のそれは、遥かに軽く、取るに足りないものでしょう。


「加害者の家族のくせに悲劇ぶるな」


「加害者の家族には苦しむ資格すらない」


これは一般市民の総意であり、僕も同意します。


ただそのうえで、当事者として言っておきたいことが一つだけあります。


そもそも、「苦しみ」とは比較できるものなのでしょうか。被害者家族と加害者家族の苦しさはまったく違う種類のものであり、どっちのほうが苦しい、と比べることはできないと、僕は思うのです。


だからこそ、僕は発言します。加害者家族側の心情ももっと発信するべきだと思うからです。


それによって攻撃されるのは覚悟の上です。犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている。


攻撃、結構なことじゃないか。どうやったって自分たちが良い方向にはもう修正されない。だから自分が悪評で埋め尽くされ、人間らしい扱いをされなくなっても、僕は構わない。


こういう行動が、将来的に何か有意義な結果につながってくれたら、最低限、僕が生きている意味があったと思うことができる。


兄に会いたかった
優次は、自身を「犯罪者家族」にした兄に、会うことを望んだ。事件以来、拘置所に手紙を送り続け、その数は50通をゆうに超えた。だが一度として返事が来たことはなかった。


兄に会うために拘置所を訪れる優次に、私は何度か付き添った。初めて出向いたときは、押し寄せる緊張で、彼は拘置所の前で嘔吐した。面会受付を済ませ、窓口で「加藤さん」と呼ばれると、面会が決まったわけでもないのに、身体の震えが止まらなくなった。


「自分は兄とは違う。直接会って、それを確認したいんです」


だが、優次は最後まで、兄に会えなかった。加藤は家族を拒否していた。面会どころか、差し入れすら拒否された。


実は死の少し前にも、優次は拘置所を訪ねている。


「今度こそ会えると思ったのに。一度でいいから会いたかった」


優次が私にそう明かしたのは、死の1週間前、2月上旬に会った時だった。私に会う前にも、自殺を図って失敗したのだという。選んだ手段は餓死だった。


「餓死って難しいですね。10日目に水を飲んでしまった。なぜ餓死か?いちばん苦しそうだから。やっぱり、加害者は苦しまなければいけない。楽に死んではいけないんです。


唯一心配なのは、母親です。事件発生時の母は病的に取り乱していて、思い出すといまだにザワザワします。その母親が僕の死を知ったらどうなるのか……」


こう言って力なく笑う優次の覚悟は、この時もう、完全に固まっていた。


事件が少しずつ風化していく一方で、被害者家族だけではなく、加害者家族の苦しみも続く。加害者とともに罪を背負わなければという思いと、「こんなはずじゃなかった」という思い。


その二つの狭間で揺れ続けた繊細な男は、苦悩の時間をみずから終わらせることを選んだ。目を背けてはならない、事件のもう一つの側面がここにある。

「週刊現代」2014年4月26日号 齋藤剛



悪が世の表に出て来る背景に、外在神から内在神に切り替わる時節の変化を見る
2018.06.08 Friday - 00:00 - by ○○公園


最近、権力によって封じ込められていた悪事が世の表に次々と出て来るようになって来ました。これでもか、これでもかです。これまでは臭い物には蓋をせよで、権力による悪事が世の表に出て来るなどはほとんどなかったはずなのです。


検事や刑事物のドラマなどでは、一線の検事や刑事が権力の不正を暴こうとすると上層部の圧力で捜査が止められてしまうなどが出て来ますが、権力の上層部が腐っている為にどうにも出来ないが現状ではあったのです。もみ消されて来たのです。


仮にそうした悪事が世の表に出てきても、それらは氷山の一角でしかなかったのです。その大部分は隠れていました。俗に言う、【悪い奴ほど、よく眠る】です。悪い奴ほどよく眠るは、政治の世界や官庁における悪事が世の表に出る前に下の者が自殺して、上の権力者は常に安泰であるの意味です。黒澤映画の題材で知られた言葉です。


この世の権力の表舞台に立つ人には、その本人の努力は当然にありますが、努力だけでは権力の上層部には立てません。その人の背後にいる霊的存在の霊力も加味されていたのです。すなわち力が強い守護神を持つ人達です。


この世では真正直と言うか正しい行いの人はまず社会の上には立てませんでした。正直者はバカを見るです。霊的に言えば、その背後の守護神の霊的力が弱いのです。この世から正義が消えた背景として、正義派の神達は霊力が弱かった。自分が生きて行く為には霊力がある悪神に従わざる得なかったがあります。つまり「長い物」には巻かれろです。


自分の背後の守護神・守護霊の霊力が強い方は、この世では【幸運】に恵まれます。しかし、そこには力の強い物が力の弱い物から【搾取】する力も働いて来たのです。俗に言う【弱肉強食】の獣の論理です。


この世で上にあがるには、それなりの神霊の守護力があり


人も守護神(霊)も権力の仕組みに飲み込まれる


俗に言う【正義は常に勝つ】のお題目は、お題目倒れをしていたのです。


但し、それは【物語の終わりの時には必ず正義が勝つ】なのです。例えば、映画やテレビで「水戸黄門」がありましたが、その一話の終わりの時は水戸黄門の印籠で正しき者が勝つでした。それがお決まりの定番です。常に正義が勝つためには物語の終わりの時を待たねばならないがあるのです。しかしながら、印籠程度に悪が平伏するなどはあり得ません。逆に返り討ちです。


私は今から十数年前、非常に優秀な霊能力を持たれた女性から忠告を受けました。その方の私に対する忠告とは、「自分はこれまで正義を貫いてきた霊能者の方達が邪神に刃向かって殺されて来た事例を幾つも見ました。貴方も邪神達と折り合わないと殺されてしまいます」と言われます。それに対する私の返事は、「私は悪の世で生きながらえようとは考えない」です。


私は子供の頃、小学校の担任教師から言われました。「貴方はあまりにも社会正義の力が強く、それではこの社会では生きていけない。もっと周囲に折れないといけない」でした。それが人としてこの世で生きて行く為の「知恵」だと言いました。


大本教から【世の大立替論】が出た背景には、宇宙創造神である天帝たる神が最後の決断をくだされた。その前に出来るだけ多くの人も悪も救う為の教えが出たなのです。


私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声が臨んでいました。しかし、本当にそれだけの神が私の背後に居るのであれば、世の底辺で埋もれているのも変な話なのです。そこにあるのは「終わりの日を待つ」でした。


私を見た霊能者の中で7~8名の霊能者の方から、貴方の本守護神は「国常立尊」様であるとの指摘を受けましたが、旧約聖書の神と称する声は、【そなたには何の力も与えない。そなたにこの私の力を与える時は最後の最後の時である】と告げられました。


私がこの世を去る直前に神の力を与えるでは、【空手形】を発行されたようなものです。何の担保も保証もありません。この世を去る直前になって、何の力も無く、私も神霊の「嘘」の言葉に欺されていたのかとこの世を去るような話です。


だとしても、ここまで仕組まれた言葉の仕組み。今の世に出ておられる神達には出来ない作業であり、多くの人達に早く目を覚まして欲しいが私の願いと言えます。


スピリチュアル系の方達に「良心」神を話しても、良心神など教えて貰わなくても結構と返されてしまいます。良心の大切さを知ろうとせず、愛の一点張りを言うだけなのです。それでは誰がこんな仕組みをされたのか?。そこに辿り着く叡智が出て来ません。


私が子供の時に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【そなたはナザレのイエスの愛の教えを何一つ恐れずに乗り越えて行け】でした。その時には【愛の教えを何一つ恐れずに乗り越えて行け】の意味が解りませんでしたが、今は愛の教えの恐ろしさをヒシヒシと感じます。愛の教えで自分の魂の中の【良心神】を見失うです。


世に出ている神々には天帝の分魂たる【良心神】は存在しません。良心神は人の身にある者に内在するからです。人に内在する良心神では、世に出ておられる神々からの応援は期待出来ません。その意味では、私も何の神の助けも無いような状態の者には近いのです。世の多くの人達と同じ様な状況下ではあるのです。


旧約聖書の神と称する声は、【そなたを社会の底辺に置く。そなたは社会の底辺でウジ虫の如く這ってでも生きよ。その社会の底辺で「人の心の在り方」に関して学べ】と命令されたのです。その人の心の在り方から、人に内在する「良心」の大切さを学んだと言えます。


もし、私も恵まれた環境に育っていれば、私は【人に内在する良心神】に至ったかと言えば、至らなかったと言えます。苦しい辛い環境の中でこそ、本当の人の【真心】に触れたと言えます。その真心とは良心でした。真の人は社会の底辺に多いからです。


イエスは「金持ちが天国に至るのは針の穴の中をラクダを通すようなものだ。幸いなるかな貧乏人」と言いましたが、私は意味の説明が言葉足らずだと言います。貧乏人だから天国に行くのではなくて、社会の底辺に真の人が多いから、そうした真の人達には天国の門が開くなのです。貧乏人が条件とはなっていないなのです。


私は修業時代、霊能者から殺してやるの攻撃を幾度か受けました。また、黒龍神の軍団の攻撃も受けて来ました。そうした時だけは天から助けて貰いましたが、別に何神様に仕官するするではありません。普段の生活が幸運だったではありません。


私の任務は、旧約聖書の神と称する声が私に告げた。【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であり、そなたはその仕組みを見て人々に告げなさい】と言われたことが、大本教神諭予告の【九つ花】による日本語の言葉の仕組みだったので、それをを愚直に伝えているだけです。


私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と称する声は、【私はこの世の幕を引いて終わらせる。その時期が何時かは言えないが、そなたはその最後の日を見届ける。その日が何時かは、この世をよく見ておれば自ずから解る】と告げられたのです。


その時期とは、これまでの外在神頼りから自己の内在神に切り替わる頃です。これまで活動をされていた外在神の力が弱まり、それらの外在神ではなく、自己の内在神(良心神)の力が試される時節と言えます。


自分の良心神が、自分を助けるです


先日、日大のアメフト問題がありました。加害者であった20歳の青年は自己の良心に基づいて、とても20歳とは思えない立派な会見をしてくれました。彼は加害者であり、一方では強制された被害者です。誰もが彼が嘘を言っていないと解りました。彼は自分の良心神を取り戻したのです。【悔い改める】と人の良心神は戻るのです。


彼の魂の点数は、スピリチュアルに惚けている人達よりも遙かに高いものとなりました。スピリチュアルに惚けて、何神様と出会ったと言っていて、自己の魂の点数をどんどん下げて行く。そんな時間の余裕はさほど無いはずなのです。


私は二度ばかり、ブログで下記の図を出しました。





みろく世に渡るのは「自己の内在神たる良心」を持つ人達です。旧来線は今日までの神である外在神に頼って、自己の内在神を疎かにして来た人達の線路です。


それは自己の意識が外在神を頼りをするではなくて


自己の内在神の存在に芽生える


つまり、自己に内在する良心神に向かった人達と旧来の外在神頼りの人達では、未来の行く先が違って来るのです。


これが【二線(2000)】に別れる意味で、その分岐点たるポイントのことを「1999」と言っただけのことにしか過ぎません。別に西暦「1999」年の意味が過ぎ去ったではないのです。


最終の1999は、恐怖の宇宙大王(天之峰火夫皇大御神)が天下った時のことです


大本教では、1000と999の違いで1000の勝ちと表現しました。千分の一の違いとは何だったかです。割分厘で【一厘】の違いです。恐怖の宇宙大王(天之峰火夫皇大御神)が地上に降り立つ時、それが人類にとって最後の別れの時と言えます。


大本教で出した【一厘の違い】は、未来に向かって行く線が違って来るなのです


この【天之峰火夫皇大御神】は日本の記紀神話には登場して来ません。大本教で初めて世に明らかにされた神名です。この神の働きは【天の龍神軍団】の統括です。それがどうして言えるのかと言えますと、【峰】の字にその意味が隠されているからです。これから向かう未来は「7(質)」の世を終えて永遠(∞)の「8(蜂)」の世だからです。 蜂は8の字型に飛ぶからハチです。


人類はこれまで初めで終わりの創造神など見たことなどないのです。


人類が未だ見ぬ創造神に【逢】うが【別れの初めなり】


999(くくく)の路線に行くと、火の災いが降りかかる


私が説いて来た「人に内在する良心神」の教えを読まれた方達の中には、自分が多くの人達と新幹線に乗る夢を見られた方達もあります。そうした人達の魂はみろく世に渡る自己の魂を見られたとも言えます。 新しい世に行く人の夢には、飛行機もあれば新幹線の夢もありますし、みろく丸と言う名の船も夢に出て来るでしょう。


最近、変な事件が報道されて来ました。例えば、携帯電話を買いに来た27歳の女性が身分証明書を持って来ていなかったので購入を断られると、店員の尻を蹴ったとか。うどん店でスープを飲んで足りなくなったのでスープを足してくれと言ったら、店主に断られたので暴行したとか、すぐに切れてしまう人が増えて来ています。


そうした方達は、自己の魂の中に良心と呼ばれる神が存在していないのです。普通ならば、そうした人を守護しているところの霊が押さえるべきことも、自分の魂の中で内在たる「良心神」に切り替わりつつあるので、自己の魂に良心神が備わっていない人はすぐにそうした切れ方をするとなります。


明らかに【選別(線別)】の状態に入って来ているのです


貴方は、永遠の嬉し嬉しの未来の世に行きますか


それとも、旧来線のままで泥世界に行くのですか


大本教神諭は、ユダヤの悪鬼がこの世を泥海にする仕組みと言いました。それは旧来線のままに行けば、やがて人類は泥海の世に向かうことが創造神段階の神には解っているからなのです。


このユダヤの悪鬼とは、今の人類の世の時代の話ではありません。今の人類以前からの話なのです。


スピリチュアルの世界では、よく「サナトクマーラ」が言われます。サナト・クマーラとは、近代の西洋神智学では1850万年前に金星から地球に降り立った創造神とされます。この「クマーラ」が日本では「鞍馬」となって、日本の鞍馬山に今から650万年前に金星から降り立った「魔王尊・尊天」とも呼ばれています。


実際問題として、この地球に降り立った「クマーラ」が1850万年前のことだったのか650万年前のことだったのかは私には解りません。しかし、大本教で出した【国常立尊】がその存在であるということは読めるわけです。為に一部の霊能者の方達は、国常立尊は鞍馬山の大天狗だと言われる方達もあるわけです。


私がこれまでに自分の霊眼で見て来た霊で、一番神々しかったのは【鞍馬山の大天狗】たる存在でした。だが鞍馬山の大天狗=国常立尊ではないのです。


大本教はウシトラ金神・国常立尊は今から約【三十五万年】前に地球神界の表舞台から退かれたとしました。つまり、ユダヤの悪鬼とは今の世の時代の話をしているのではないのです。しかしながら、その鞍馬山の秘伝は【牛若丸】にもたらされるなのです。それは神界の「型」として演じられたわけです。


大本教の出口王仁三郎聖師が、【救世主は源日出雄】と名乗って【蒙古】に渡られたのは、そこに「型」があったからと言えます。源義経(牛若丸)が蒙古に渡って【ジンギスカン(成吉思汗)】になったという伝承の型の演技です。 ただ、巷には自分の前世は源義経であったと言う方は少なからず居られます。


大本教の出口王仁三郎聖師がその名乗りを【源日出雄】とされたのは、そうした自分の前世が【源義経】だと名乗る人達のことではありませんよなのです。【源日出雄】の意味を理解せずに自分の前世は源義経と名乗る霊能者は曲津神なのです。


私自身は、そのユダヤの悪鬼達と超太古の時代に戦って来た記憶を保持しています。但し、私は倒された方です。それは縄文とか弥生時代と言う現代の歴史の時代のことではありません。


私が解いた大本教神諭予告【九つ花】の仕組みは「ラ」の言霊を真ん中に置く仕組みです。それも「九真ラ」なのです。 また「九ラ真」です。


私達が見ている太陽をも含む地球神界で起きた出来事とは、今の私達人類が知る歴史上の話ではないのです。太古も太古の超太古の時代のことなのです。豊受姫は、その超太古の神達を今の世の神達ではないと告げられました。当然、私達はそんな超太古の神々を知ることもなく、その時の神界の出来事をも知らないのです。


自分はすぐに切れる。不満ばかり。常にいらついている。妬み。すぐに拗ねる。そうした症状があるならば、即座に自分の性格を改めるでないといけないのです。もう、外在神頼りでは先には進めなくなるからです。


最後の審判たる別れの時、


【神は愛だから何をしても赦してくださる】は一切通じないと心得るべき


魂の【円真(閻魔)】の裁きは、愛で赦すでなく各自の「良心神」を判定


何時まで経っても解らない人達に用意されているのは旧来の線で泥海世界


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