タイタニックのケイト・ウィンスレットが


年をとるのだから、みんな年をとります。オードリー・ヘップバーンが特殊だったのは、年をとったり変化する環境を受容することにあまりに自然だったからです。ふつうは、誰もが変化する年輪に追いつかない。現実が先に来て、認識は後です。でもオードリーは同時だったかもしれません。自らが負けることにも自然体だった人ではないかと思います。n


"私にとって最高の勝利は、自分と他人の欠点を受け入れられるようになったこと"

"この暴力的な世界に一時の休息をもたらせる、そんなビジネスの一員であることを誇りに思っています"

オードリー・ヘップバーン


熊手


を「かき集める」側の姿勢とするなら、在るがその前提となる立ち位置です。
1、在る
2、かき集める
集めるという動作は1があるから成り立っているのであり、意識から1を省略してしまっていても変わりません。1が自由の保障で、2が個々の動作です。
2→2→2→2→
と動作の連続のように見えることも、
2(1)→2(1)→2(1)→2(1)→
すべて分母となる息吹(いぶき)が息づいています。私たちは2だけを書き留めることができて、1を記述することができません。そのためすべての有形なるものが1をその存在ごと無視します。誰も、本人の代わりに1に注意を払ってくれません。
熊手は「かき集めようとした結果」に焦点が流れがちですが、実際はその動作を可能にした息吹の方に誘っている可能性があります。n


自己を検討することなしには、あなたはこの世界で生き生きとダイナミックに動いていく道を見つけられず、よどんで固まった他人のエネルギーの壁にぶつかるだけです。B


マハルシ 聖典は賢者のために書かれたものではありません。なぜなら彼らに聖典は必要ないからです。無知な人たちが聖典を求めることはありません。
解脱を望む人だけが聖典を必要とするのです。それゆえ、聖典は賢者のためのものでも無知な人のためのものでもないのです。

(対話362)


それを探し求め、それとして在りなさい


マハルシ 「存在」はどの場合においても実在です。万象、多様性、個人は非実在です。それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。絶対なる存在は描写を超えているのです。

(対話112)


マハルシ あなたは探求者であり、何かと合一されることを探し求めています。もしそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければなりません。しかし真我はあなたに最も近いものです。そしてあなたは常にそれに気づいています。それを探し求め、それとして在りなさい。そうすれば、それは果てしなく永遠に広がっていくでしょう。そしてヨーガ(合一)という問題もなくなるのです。いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)なのでしょうか?

(対話211)


質問者 人は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生に起こるすべては運命づけられ、あらかじめ決められているのでしょうか?


マハルシ 自由意志は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意志は存在するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意志を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意志や運命は誰にとって問題となるのか? それを見いだし、その中にとどまりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。


もしあなたが自分を身体と見なすなら、それらは常にあなたを支配するでしょう。
もしあなたが自分を身体と見なさなければ、それらがあなたに影響を与えることはなくなります。


眠りの中では、あなたは身体ではありませんでした。
あなたは今、身体なのでしょうか?

(対話426)



引用はじめ





魂を磨く⑩/枝葉の神の栄えの教えではなく、松(公)の根元神を知る
2017.11.22 Wednesday - 00:01 - by ○○公園


私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は私にある例え話をして来ました。【海岸に長年の風雪に耐えた見事な枝振りの「松」がある。人々はその風雪に耐えて荒々しい木肌や見事な枝振りの松を見て褒めるであろう。だが、誰がその「松の根元」を見るであろうか。
松の枝振りでなく「松の根元」を見る者でないといけない。仮に【松の根元】が解る者がそなた一人であっても、そなたには【松の根元】を見る者になって欲しい。


私は子供の頃、この【松の根元】の意味を深く考えていました。


大本教神諭には【末(まつ)の世から松(まつ)で治める】があります。また、【枝葉の神ばかりが栄えて、根元の神を枯らして何とする】があります。一般的には弥勒の世は【松の世】と言われていますが、そこには【松の根元】があったのです。その松の根元を枯らして何とするです。


この「松」には【末】が隠されていることは、大本教神諭を学ぶ人達には既に理解はされています。【末の世から松で治める】です。仏教では日蓮聖人達か出られた頃が末法の時期に入ったとされます。今はその末法の世なので、とんでもない行為をする人が多数出ます。


しかし、松に【公】の意味の字が隠されていることに気づく人は少なかったと言えます。


神の公(松)、【仏】の私


更生(甦)後の後世(みろく)の世は、【公正】の世


今日まで神は神としては「公」に救えない場合は、仏(私)の立場で救って来たのです。大本教神諭にあります。だが、みろくの世に入りますと、【仏(私)の世は終わった】はそこにあるのです。


私が2番目の師匠の元に居た頃、就寝しようとすると私の耳元で多数の人が訴える声が聞こえて来ます。霊達の声です。例えば女性の声で「自分の夫は酒飲みでばくち打ち。幼い子を抱えて、お金に困って借金を踏み倒しました」。男性の声で「あまりにも上司が陰湿な虐めをするので思わず殴ってしまいました」等の言い訳をする声の数々です。
私は一度に十人の声を聞き分けたとされる聖徳太子ではありませんので、右から左からそうした訴えをされても、聞き分けられるではありません。私に訴えるならば順番にしてくださいです。だが、会社勤めをしている身では、夜は眠らなければならないのに、そうした訴えの声を夜中に聞いているわけには行きません。自分にはこの世で生きて行く為のお給料を貰っている会社勤めがあるからです。私は神ではなくて人の肉体なので自分の生活があるのです。


さすがに夜な夜なの霊の訴えに困って、当時の2番目の師匠に相談すると、【おまえは地獄閻魔庁の者。地獄に落ちたくない為に助けを求める霊達が、おまえに訴えに来ているからだ。自分は生活の為の仕事があるので夜は寝なければならない。日中に訴えて来いと宣言すればその現象は鎮まる】と言います。そこで宣言すると、見事に鎮まりました。


私はその師匠の元に居た当時、たまたま新聞に幽霊が出る列車と報道された列車に乗って、列車と併走して走る火の玉に出会い、その火の玉として飛ぶ霊が自殺した原因などを知って、気の毒だと本当の霊界に送ったり、太平洋戦争で外地で死亡した兵士霊達が、自分達は霊界に赴かないといけないことは解っていますが、どうか霊としてこの皇国の守りに就きたいという願いに許可を下さいの願いに許可を出したりで、いったい自分は何者だろうと自分でも首を捻るように事柄に度々遭遇して来ました。


私は自分一人が見た霊的映像だけでは確信が持てませんので、そうした霊的映像が出て来た時にはなるべく多くの霊能者に当たって見て貰って来ています。霊的世界が見せる妄想に自分が惑わされない為です。しかし、今では金儲け主義の方が多くて、そうした方に見て貰っても無駄骨となることが多く、また優秀な霊能者の方が減ってしまわれています。


私の本守護神が【国常立尊】様であるとの指摘は、私が師事した豊受姫の言葉だけでなく、全ての霊能者とは行きませんが7~8名の霊能者の方からも出された言葉であり、中には【閻魔大王】だと指摘されて来た霊能者の方もありました。
私は自分が霊界の【規則】でなく、その【規則】を超えた事をしたのは【閻魔庁付きの者】だったからだと見ています。
私の過去のブログに書いたことですが、自分は高木の神に仕える神官だと名乗り、おまえは生意気だから殺してやると仲間の神官霊とともにやって来た霊能者の生き霊が、その高木の神と称する天狗もろとも閻魔庁の役人に捕縛されて、その神官の生き霊は「便所落とし」の刑で天狗は羽根落しの刑となり、その霊能者はその翌日からヤフーの掲示板から消えたがありました。


私の最初の師匠は、【あなたを見て、こんな恐ろしい存在は見たことがないと言う霊能者ならば本物ですが、そうでない霊能者はさほどの霊能者ではありません】と言いました。その師匠は三流の霊能者ではありませんでした。


その師匠(砂沢たまゑ)のことを書いた内藤憲吾氏著の【お稲荷さんと霊能者 伏見稲荷の謎を解く】はベストセラーにもなっているとと聞きましたが、五流六流の霊能力ではこの砂澤師が見た段階などは超えられないのです。
著者の内藤憲吾氏は砂澤師とのお付き合いが15年間とされていますが、私は35歳の頃にたった二人の弟子の一人となり、4年間の修業で砂澤師の元を離れて、言霊の世界にと転じましたが、そのお付き合いは亡くなる前までの30年以上に及んでいます。
当時、伏見稲荷大社に所属するお代たる霊能者としては№1ともされていたのです。この頃は非常に優秀な稲荷神のお代さん達も他に居られました。私はそうした諸先生達も見て来ているのです。


大本教で予告された【世の大立替】とは、大本教神典に【世の立替に白狐は下郎の役で奉仕する】とありますように、稲荷神界と関わりがあるのです。しかしながら、稲荷神は枝葉の神で根元神を知るには至らないのです。また、私が師事した豊受姫は、稲荷神界の半分の白狐達は反国常立尊派だと言われていたので、白狐霊だからと言って安心は出来ないなのです。


私が師匠の著本で持っているのは、今は絶版の霊能一代だけです。その砂澤師と出会っていて、豊受姫から書けと言われて書かれた自著伝です。伏見稲荷大社の参集殿の売店でも販売されていましたので、準公式本に匹敵します。そうでないと伏見稲荷大社の参集殿で販売されるなどあり得ないからです。
その自著伝を出される経緯も砂澤師から聞いております。今はアマゾンの中古本でも8万円以上の値がついているようです。


​いくら自分には霊能力があると豪語されても、この砂澤師を超えている霊能者の方ならば話もわかりますが、そうでないと「豊受姫」と名乗るニセ霊に踊らされることにもなりかねません。単に霊が見える。霊と会話が出来る程度では砂澤師の100日間断食2回もの荒修行などこなせるものではありません。


私はその砂澤師が仕えておられた豊受姫がされた事柄として、阪神淡路大震災や普賢岳爆発や飛行機事故の事前予告。某地方役場の温泉発掘の依頼で温泉源の場所を教えて、そこには温泉が出ました。また国土省(当時は建設省)の出先の依頼で、某稲荷神の立腹で国道が通せなくなった事案の交渉。霊障が発生した事案で他の神々との交渉なども見て来ました。


単にその霊が名乗る神名に踊らされるのではなくて、その神霊が行った【実績】を知ることも必要なことなのです。名乗るだけならばどんな霊でも神名など名乗れるのです。要はその霊の実績です。


自分には霊が見える。霊の声が聞こえるで神名を名乗る霊の神示と呼ばれるものをいくら連発しても、何一つ当たっていないとなれば、これはおかしいぞと思わなければならないのです。​少し前、ブログの世界では宇宙連合とか宇宙司令官と称する霊の神示が多発しましたが、予言のどれ一つ現実に起きたものは見当たりません。
​ある方はブログで神示の連発されていますが、その神示を出した神霊の言葉でこれまで何一つ当たったことがないがあります。それでもその方は今でもその霊の神示を信じ込んでいるがあります。もしもその神示が過去に当たった【実績】でもあるならば話は変わりますが、当たらない神示などいくら連発しても意味がないとなります。
​枝葉の神でも、その根元が同じ系列ならばその予言も当たって来る可能性があります。


霊の言葉も吟味しないと、大本教神諭が語った【枝葉の神】すら理解出来ていないとなります。


枝葉の神を理解しないで、どうして根元神が解るだろうか


最近、東名高速でいたましい交通事故がありました。その時、「Iなる者」がした行為は、法律的には罪が重い危険運転致死罪では起訴出来ません。法律の専門家は世間の感情に流されてはいけないからです。法律的にはその人達を死に至らしめたのは後続のトラック運転手の前方不注意だからです。その前方不注意がなかったならば、死亡事故は防げたともなります。
しかし、【閻魔庁の判官】であれば、この事件は死ぬかも知れないと予測できた事案の殺人事件であり、全ての罪は高速で車を強制的に停車させた【Iなる者】なのです。この世では裁けない罪もその者の死後に閻魔庁が霊界で裁くなのです。


ここに、この世では【罪を憎んでも、人を憎むな】なのです。
​人を憎むと、その心は増し。恨みは魂(心)地位の後退を生むのです。


この世で罪を犯し、仮にこの世でのそれ相応の罰を受けなければ、死後に地獄界に落とされるのです。人が罪人を憎むなどしなくてもいいのです。その罪そのものを憎みなさいなのです。自分が復讐する等の行為は自分がしてはならないなのです。
もし、人として次の【来世】が欲しければ、【来世門の羅城(閻魔庁)】に出頭して来なさいとなっているのです。そこに私は地獄閻魔庁の鬼が云うの【魂】論を説いて来た理由もあります。人としての来世門(死者の維新たる羅)をくぐらないのであれば、動物霊でいなさいなのです。


肉体はこの世を去っても魂は霊界で生き続けます。よく知られていることに【自殺者の霊は浮かばれない】があります。それは【この世は魂の修業場であり、どんなに辛くても生きなければならないからです】。それが自らの自殺に入ると【地縛霊】となってしまいます。その「法」を超えて助けることが出来るのが【閻魔庁】の権限となるのです。
こうしたことを書くと、ならば自分を殺してみろと息巻く方が必ずあります。霊能者の中には人を殺すことをなんとも思わない霊能者もいます。


私の2番目の師匠は、自分はこれまで何人もの霊能者を霊力で殺して来たと豪語していましたが、私もその師匠から【死に神】を付けられて殺されそうになりました。幸いなことにその【死に神】を発見したので事なきに終えましたが、その時の後遺症の病で長年苦しみました。その時は民間の薬代に大金を使ってしまいました。
だが、私はその師匠を恨んではいません。その師匠から教わったことは、スピリチュアルの自分には天使長が大天使が降りて来た等とは一線を画した内容だったからです。私を育ててくれた恩人と思っています。


私が今の世の霊界は「公とか正義」などではなく、【力が強い霊が勝つの獣の神の世だ】と言うのはそこにあります。
大本教神諭、【世に出ている神々の心の持ち方が悪かった】に起因しているのです。また、【この神は心の立替、立て直しの神である】となるのです。そこにあるのが「私(仏)ではなくて公(松)」となるのです。


自分に現世御利益をくださいは私事です。世の中が人々が良くなりますようにと祈るのは【公】となるのです。
世の為に、人の為にと【義】を尽くした人達は神上りとなりますが、神の祭壇に【牛と羊の血の捧げ】の【犠牲】を払われたからです。
ですから、大本教から【牛虎(艮)金神】に【羊猿(坤)金神】が出されました。そこに犠牲の「牛と羊」が読めないでは、どうしょうもない者となります。


枝葉の神を恭しく拝するのではなくて、根元の神(創造神)の「公」に向かわないといけないのです。


この世での幸せだけを求めて、地獄に進むのか
世の為、人の為に働く犠牲となっても、神にと上がって行くのか


道は二つあるのです。





引用おわり



質問者 人間と宇宙に関して数多くの理論があります。創造の理論、幻想の理論、夢見の理論等々、数えきれません。どれが本物なのでしょうか?


マハラジ すべて本物で、すべて偽物だ。どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。


質問者 あなたは夢の理論を好んでいるようですが。


マハラジ それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。理論は正しくも間違ってもいない。それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。理論を試すことがそれを価値あるものにする。あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のなかにいる。そして解決法を探している。あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。どれも本物とは言えない。だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。だが、あなたが本当に真剣ならば、理論ではなく、あなたの真剣さが解放へと導くのだ。


質問者 理論は迷わせるかもしれず、真剣さは盲目にさせるかもしれません。


マハラジ あなたの誠実さがあなたを導くだろう。自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろう。そしてあなたは智慧と知性、そして愛とともに生きはじめる。理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。早ければ早いほどいい。


質問者 真我の実現のためには、ヨーガの八段階の修練は必要なく、意志の力のみで充分だと説くヨーギがいます。純粋な意志の力への完全な確信をもって目的に集中するならば、ほかの者たちが何十年もかけて到達することも、努力なしに急速に達成すると言います。


マハラジ 集中力、絶対の確信、純粋な意志! そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟した探求者にとってはいいだろう。つまるところ、意志とは安定したハートとマインドのことなのだ。そのような不動の姿勢で臨めば、達成できないものなど何もない。


質問者 ヨーギが意味していたのは、単に絶え間ない追求と勉学への不動の意志を意味していたのではないと私は感じています。目的への意志が確固であれば、どのような勉学も、研究も必要ないということです。単に意志を持っているという事実が、対象を引きつけるのです。


マハラジ あなたが意志、決心、一途な心、何という名でそれを呼ぼうと、つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来の目的に結びつける。ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。あなたは目的に完全に献身する。意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。身動きがとれなくなるのも無理はない。ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。


質問者 欲望と運命、どちらがより強力なのでしょうか?


マハラジ 欲望が運命を形づくる。


質問者 そして運命が欲望を形づくります。私の欲望は遺伝と環境、チャンスと偶然、いわゆる運命によって条件づけされているのです。


マハラジ あなたの言うとおりだろう。


質問者 いつ私は望む自由をもてるのでしょうか?


マハラジ たった今、あなたは自由なのだ。あなたが望むことは何だろう? それを望むがいい。


質問者 もちろん、望むことは自由ですが、それに働きかけることは自由ではありません。ほかのものへの衝動が、私を迷わせるのです。たとえ私が容認したものでも、私の欲望は充分強くありません。私が容認しない欲望のほうが強いのです。


マハラジ おそらく、あなたはあなた自身を偽っているのだろう。たぶんあなたが容認する欲望は体裁を保つため表面にとどめておいて、本当の欲望には表現の機会を与えていないのだろう。


質問者 あなたの言うとおりかも知れません。しかし、それもまた別の理論です。事実は、私はすべきだと想うことを自由に望めないと感じ、正しく望んでいるように見えるときには、それにしたがって行為をしないのです。


マハラジ それはみな精神的弱さと、不完全な脳によるものだ。マインドを落ち着け、強化しなさい。そうすればあなたの思考、感情、言葉、行為は、あなたの意志の方向に沿うようになるだろう。


質問者 マインドを統合し、強化することはたやすい仕事ではありません。いったいどのようにはじめればいいのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたがいるところからはじめることができる。あなたは今ここに在る。今ここを離れることはできないのだ。


質問者 ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたの存在に気づくことができる。今ここで。


質問者 それだけですか?


マハラジ それだけだ。それ以上何もありはしない。


質問者 夢見の状態と目覚めの状態で、いつも私は自分を意識しています。それは大した助けにはなってはいません。


マハラジ あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。


質問者 どのような新しい要因をもちこめばいいのでしょうか?


マハラジ 出来事に巻きこまれることなく見守る、純粋な観照の姿勢だ。


質問者 それが私に何をするのでしょうか?


マハラジ 弱いマインドは知性と理解の欠如から起こる。それはまた不注意の結果でもある。気づきのために努力することによって、あなたはマインドをひとつにし、それを強力にするのだ。


質問者 私は何が起こっているかには完全に気づいているかも知れませんが、それに影響を与えることはまったく不可能なのです。


マハラジ そうではない。何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。一方、知識が力を与える。その訓練はとてもシンプルなものだ。自己を制御するために、自己を知りなさい。


質問者 おそらく、私は自分を制御できるようにはなるかもしれません。しかし、世界の混乱を扱うことができるようになるでしょうか?


マハラジ あなたのマインドがつくり出した混乱以外に世界の混乱というものはない。それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを中心に自己創造されるのだ。実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。


質問者 私は自分が喜びへの欲望と苦痛への恐れによって、完全に動機づけされていることを見いだしました。いかに私の欲望が高尚であり、恐れが正当化されたとしても、喜びと苦痛は、その間で私の人生が振動する、二つの極なのです。


マハラジ 苦痛と喜び、恐れと欲望、その両方の源へと行きなさい。観察し、調査し、理解することを試みなさい。


質問者 欲望も恐れも身体的、精神的要因によって起こる感情です。それらはそこにあり、たやすく観察できます。しかし、なぜそれらはそこにあるのでしょうか? なぜ私は喜びを望み、苦痛を恐れるのでしょうか?


マハラジ そこに身体と身体を守るマインドが存在するかぎり、好感と反感は作用するだろう。それらが出来事のなかに現れても、あなたに影響することはない。あなたの留意の焦点は別の場にあり、それに迷わされることはないのだ。


質問者 それでも、それらはそこにあるでしょう。完全に自由になることは不可能なのでしょうか?


マハラジ あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の結果なのだ。普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろう。


質問者 しばしば、人びとは自らの意志で死にます。


マハラジ 選択が死より一層悪いときにかぎってだ。しかし、そのような死ぬ用意も生きる意志と同じ源から流れてくる。その源は生命そのものよりも深いものだ。生きる存在として在るということは、究極の状態ではない。そこには彼方にある、何かはるかに素晴らしい、存在でも非存在でもなく、生命でも非生命でもないものがある。それが時間と空間の限界を超えた純粋な覚醒だ。ひとたびこの「身体─精神」が自己だという幻想が放棄されたならば、死はその恐怖を失い、それは生きることの一部となるのだ。


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