最後の審判は「各自の中の良心」神の点数で行われることは、本当に天人界の住人ならば既に知っていることですが、何故に「愛」ではなくて「良心」の判定でされるのかと言いますと、愛では事の正邪(よしあし)が判定出来ないからです。(20150805公園さん)


神一厘の仕組みとは?。「一八十(イワト)」の仕組みの戦場で「白黒」の決着をつけましょうか!。なのか。
2015.10.17 Saturday - 07:17 - by ○○公園


私は子供の頃、「旧約聖書の神」と名乗る声から教えを受けていました。無論、それが本当にそうなのかを確かめるチカラもありませんでした。ただ、そうした声が聞こえることは、親に話しても信じて貰えることではないことぐらいは解っておりましたので、親には黙していました。
当然に子供ですから何も難しい内容ではありません。ただ、その声は「私はこの世の幕を引くにあたって、そなたをこの世に遣わした。この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であり、そなたはこの国に満ちあふれているものの中から私の仕組みを知り、それを人々に告げなさい」でした。
また、「そなたが歩く道は、これまで人類の中で誰一人として歩いたことがない道で、そなたが最初の者となり。そなたの後にそなたと同じ道を歩く者は出ず。そなたをもってその道は終わりにる」と告げられました。ただ、私が歩く「終わり」の道とは何の意味かと思っておりました。


私は自分が「人類の誰一人として歩いたことがない道」を行く。それは日本の国に満ちあふれている日本語で【創造神の仕組み】を紐解くことだとは、その当時は思ってもいませんでした。 私は日本語の仕組みで「創造神」を説いては来ましたが、ほとんどの方は私が【言葉遊び】をしていると取られたようです。そうではなくて、「人類の誰一人として歩いたことがない道」だからです。
豊受の神があなたは言葉で神々に教えをする御方、その言葉が聞けぬという神は如何なる神であっても天帝に対する反逆罪で裁かれると私に告げられたのも、それが理由だったかも知れません。ですから、私の言葉の仕組み。例えば「米」の教えがそうですが、その教えを聞かれた方は旧約聖書の神と名乗った声が、そうした者達は救うと言われたのでしょう。


大本教神諭の予告に「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」を誠で紐解く方が唯一人出るとあります。たった一人しか解けないとは、如何なることなのかと思っておりました。
その九つ花から、仏教で説かれるお釈迦様の死後、五六億七千万の時、この世の終わりの前に現れて、人々が忘れ去ってしまったお釈迦様の悟りを人々に告げて、そのお釈迦様の悟りを知った人々達を未来の世に渡す「みろく」の意味が紐解けたわけです。


いくら何でもお釈迦様の死後、五十六億七千万後はあまりにも途方も無い数字で、あり得ないとは思っておりましたが、「九つ花」を紐解けば確かに「みろく」の仕組みは五十六億七千万を秘めていたわけです。これは大本教霊界物語でも日月神示でも各宗教開祖でも「九つ花」を紐解かない限り、誰をもってしても意味が解らないことだったのです。出口王仁三郎聖師ですら、解けてはおられなかったわけです。


大本教神諭に綾部で「九つ花」が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよとありますが、綾部から離れた土地では「九つ花」は咲かないものだったのです。例えば美濃尾張から「41」の仕組みで飛騨の高山に神殿を建てた教団がありますが、日本のどこであれ「綾部」を離れていると「良心神」の教えは出せなかったわけです。
日本の各宗教の神典でも「九つ花」を紐解いた上で、あるいは九つ花を紐解く為の大本教神典のようなものでなければ、さほど意味はないと言えます。
私は大本教の大幹部が言霊の講義で、「あ」は東になんぼ、西になんぼ、「あ」の言霊に幾つかの働きがある式のことしか言われないので、大本教の大幹部ですらこれではもうどうしょうもないと、大本教には見切りをつけました。創造神はそんなことを人々に教えたいわけではないのです。 そんな言霊の働き云々は枝葉の神の論理に過ぎないことなのです。それで、どうやって「みろく」の意味に辿り着けると言うのでしょうか?。


その「九つ花」で、お釈迦様の悟りは「悪魔は実体を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在する」が見事に出せたわけです。イエスの教えは邪神達に支配された牧師達の手によってねじ曲げられたと言われておりますが、お釈迦様の悟りもほぼ消された状態になっていたわけです。
私が子供の時、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたはイエスの愛の教えを何一つ恐れずに乗り越えて行け」と告げられました。子供の私はイエスの愛の教え以上の物があるのかと不思議に思っておりました。


だが、ヴェーダ典の奥義書にあるとされる「人の中に眠るコブラ(蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める」を体験したのです。その時、私にはお釈迦様は正しく説かれたが、イエスは出せなかった。その二人の教えの違いに「真理」があると何故か思ったのです。
お釈迦様は正しく説けても、イエスは説けなかった事柄とは何か?。そんな時に私が見せられたものは、イエスのパンの教えは美味なれども真ん中が抜けたドーナツ型。イエスの教えは、真ん中が出ていないなのです。愛の教えでは、魂の真ん中たる「核芯」が出せないのです。
日本の神智学では、愛しか説けぬ者は蛇霊に支配された者としますが、蛇の字の意味が真ん中を無視(虫)した船の它(舵)が取れない者で、「直」の意味が理解出来ないのです。


ロゴスで言いますと、キリストとは神の油を塗られし者ではなくて、【真理(ダルマ)】を意味した言葉です。で、「真理(ダルマ)・キリスト」の事柄である以上、自分が「キリスト」と名乗る者は全てニセ者の演技となるのです。
私が子供の頃に旧約聖書の神と名乗る声は、イエスのことを「ナザレのイエス」と言われて、一言も彼が「キリスト」とは言われませんでした。そして、ナザレのイエスは神の子であれども、「我が子」にはあらずと私に告げられたのです。それは私にしても大ショックなことでした。 不思議なもので、宇宙の子と書くと「字」になります。宇宙創造神が遣わした子は文字の「字」の仕組みの意味となっていたわけです。大本教出口王仁三郎聖師の霊が私の前に現れて「漢字」だよと教えられたのもそこにあります。


余談ですが、私の元には「自分が過去聖母マリアであった者で、今の自分の子供が唯一神の魂でキリストである」とメールをして来られた方があります。その方が見せられた光景に大本教の出口王仁三郎聖師霊は地獄界に閉じ込められていると言われますが、それは単にその方を支配する霊が見せて来た光景にしか過ぎないのです。自分が見せられた光景だけを信じるは騙されるに入ります。
優秀な霊能者達は大本教の出口王仁三郎聖師を尊敬されるように、御本人がイエスに何も劣らないと言われたように高い世界の方で、スピリチュアルで届く世界の存在の方ではありません。その器量は非常に大きかった。その世界まで行けるスピリチュアルの方など一人も存在しておられないでしょう。


旧約聖書では、主の御子とされる者は人類の終わりの時に現れる存在で、イエスはそれには該当していません。一部の人達が「キリスト=マイトレーヤー(みろく)」とされていますが、「九つ花」を見る限り理には適っていますが。しかしながら、それは「みろく(369)」であり「キリスト(真理)」でも、言葉(ロゴス)であって人たる存在の意味ではなかったことになります。 私が世に「九つ花」を紐解いて出すことは、ある意味世の「終わり」を告げたことになるかも知れません。そして、私が「九つ花」を紐解いて出した「良心」神とは日本神道では「直霊」と呼ばれるものであり、その立場は「主の御子」となります。イエス一人が神の子など、元々ない話なのです。


人は誰しも、【人は神の子・神の宮】なのです


ただ、そのことを忘れ去って邪神達の容器になっていたりするのです。その為には人は天帝の分魂である「良心」神の存在に目覚めなければならないのです。愛の目覚めではないのです。


その「直霊」たる良心神の存在を出す時は今の世ではなくて、新しい世に向けてのものとなります。今の世に生きる者は全て死ななければならないのです。そうしないと各自の「主の御子」たる直霊(天帝の分魂・良心神)が出ません。


大本教の出口王仁三郎聖師は大天使「ミカエル」などは存在していないと述べておられますが、これは「巳(蛇)帰る(ミカエル)」の言葉のことなのです。ミカエルの意味は聖書に記される人類の原罪の蛇(巳)たる源を帰すことです。「巳(蛇)帰る」でないと「エデンの園」には戻れないのです。


大本教神諭にこの神が他の神を誑かして使って来たとあります。最初、創造神たる神が「誑かす」などの言葉を使うだろうかと疑問に思いましたが、どの御神霊も言霊・言葉の意味を理解されておりませんでした。それでは「狂った言葉」となるので「誑かされた」ともなります。
全て創造神の仕組みの前に騙された霊、踊った霊が自分は天使長「ミカエル」などの名乗りをするのです。誰も調べても解らないから頭からそうだと信じ込んでしまうのです。


それは騙される人に【己が器量】が解っていないなのです。たいした器量が無い方に高級霊を降ろせば「発狂」します。さほどの器量が無い人に降りて来るのは蛇霊や野狐霊や狸霊がほとんどなのです。


自分にお釈迦様とかイエスとか聖母マリアとかミカエルとか天照と呼ぶ存在が降りて来たならば、自分はそんな存在が降りて来るほどの者なのか?。まず自分の器量と照らし合わせて疑ってみるべきなのです。私は自分を疑って疑って、幾多の霊能者の方に自分の霊査を頼みました。多くの霊能者に当たって7~8名の方から貴方の本守護神は「国常立尊」様ですと告げられて、かも知れないと思っている程度です。
私は常に自分は「騙されている者」ではないかと疑っています。この世に関わる霊界には「嘘」言う霊が闊歩しているからです。そこから真実を知ると言うのは、大変な労力を必要とします。


が、私は「言葉の仕組み」を解読しました。それは誰も解読しなかった道。それだけは事実なのです。嘘を言う霊達には「言葉の仕組み」など出来ないからです。


大本教の出口王仁三郎聖師は、本当のミカエルとは「伊都能売(イヅノメ)神のミカエル(省みる)」と述べておられます。この伊都能売神はいろいろ論議されておりますが、日本神道で言う「神直日・大直日」の子の働きのことで、ひらたく言えば人には内在している「良心」神の働きなのです。
一部のサイキッカーや神通力者に過ぎませんが、最後の審判は各自の「良心神」で判定されると言われるのも、それが私達の魂の中にある主の直霊たる分魂だからです。


良心神=「巳(蛇)帰る(ミカエル)」そのもの


「キリスト」とは「真理(ダルマ)」のこと


しかし、大本教神諭が予告した「九つ花」で人々が忘れ去ってしまったお釈迦様の本当の悟りは出せたとしても、イエスの愛の教えを乗り越えているとしても、それは「神一厘の仕組み」とは言えません。
では、本当の「神一厘の仕組み」とは何なのでしょう?。
それは前回のブログで出した「一厘と九分九厘の違いが」基礎となります。





上記の図は、ある方向から見た場合で、当然にピラミッド型であれば東西南北の四方が存在するのです。それが下位の図です。これを見て、解りませんか?。





その全体図を上から見ますと、四方の下辺は「十九」路となるのです。私は「九つ花」は「将棋盤」で解きました。将棋は「駒」を動かすので言霊という「句」を知ることになります。大本教神諭予告の「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」です。


一方、下辺が「十九」路とは「囲碁盤」で線上(戦場)の戦いを意味して来ます。すなわち「白黒」の決着をつける「神界最終戦争」を語るのです。この場合の白黒とは善悪という単純なことではなくて、国常立尊派と反国常立尊派の「未来永劫」の世を賭けての戦いなのです。
一部のサイキッカーや神通力者の方々は、国常立尊(旧約聖書の神)指揮の天軍は全て準備を終えていると言われていますが、今は戦いに入る前に反国常立尊派の神々に対して「降伏」を促している「静かな」期間なのかも知れません。それはこの地上界の戦いではなくて、神界戦争なので地上界に居る私達には、この戦いに関してはよく解らないのです。





(つづき)


既に天使のラッパは吹かれていますが
今は静かだな!(開戦前の静けさの時)


その静かな時が後どれほど続くのか?。それは数年に渡るか。あるいは明日なのかさえ誰にも解らないのです。ただ、準備は既に完了しているなのです。


出口王仁三郎聖師も岡本天明氏もこの「神一厘の仕組み」に関して説明をされておりませんので、今回、ようやく私が解けたということは「最終局面」に近づいて来たのかも知れません。





私は「九つ花」の仕組みが「将棋盤」形式になっていることに気づいて説いて来ましたが、「九つ花」を紐解いた当時に【囲】の漢字が幾度も出て来ました。しかし私には、この「囲」の漢字が何を告げているのか、さっぱり解りませんでした。時には井戸枠のことなのか?。天井の「井」を囲むことなのか?。はたまた「丼」かと、かなり頭を悩ましていました。
片や将棋盤なので囲碁盤とも思えたのですが、囲碁をたしなむ私でも囲碁盤を見ていても意味が解けきれませんでした。真ん中が「181」に成る程度のことです。九つ花と同様に「十九花」で解こうとしても解けません。


ただ、十九は【卆】の時、これまでの世の終わり【卆業】を秘めて来ます。


だが、前回のブログで出した「九分九厘と一厘」の図で、「囲碁盤」の意味がやっと掴めたのです。この天元たる一厘は、19×19であっても、やはり「一厘」となっているのです。この場合は「言霊」の意味ではないのです。
国常立尊様にお仕えする「意思(石)」ある者です。


下記にある図は便宜上解りやすく説明する為に□のマス目にしてありますが、囲碁は線上(戦場)の戦いなのです。その場合、角を接する場所はダブリますのでその碁石の総数は19×19で「361」となります。
その「361」の真ん中は「天元」と呼ばれています。実際の碁では場所をかまわず入り乱れて「白黒」で戦いますので、石を打つ場所は天元に打ち込んでもかまわないのですが、神界ピラミッドは天元は「創造神」の場所なので、国常立尊派を「白」として、反国常立尊派を「黒」とした場合、白数が多いのか、黒数が多いのかで神界の勢力は決着します。


そこにあるのは、常に勝てば「官軍」。負ければ「賊軍」。国常立尊派から見れば反国常立尊派は邪神になりますが、反国常立尊派から見ると、国常立尊は悪神とか邪神と呼ばれます。そして、国常立尊は邪神・悪神の汚名を着られたわけです。


一部のマリア霊とかミカエル霊ばかりを言っておられるスピリチュアルの人達は、創造神であるにも関わらず国常立尊は悪神とか邪神だと言っておられるのは、ほとんどのスピリチュアルの方達は反国常立尊派の神々に所属されておられるからです。為に日本人でありながら、日本の神を軽んじておられるわけです。
大本教神諭に、この神(ウシトラ金神国常立尊)が負ければ、邪神達に従ってやる(家来にもなる)とあるのは、誰も戦いたくはないのです。が、天帝は最後の腹を固められた神界の戦いとなるのです。この戦いを持って神界の全面戦いは永久に終わります。最終戦です。神界最終戦を経ますので、みろくの世は未来永劫となるのです。


問題は天帝の御意志(碁石)をどう読むかです。


本来の宇宙エネルギーは「プラス(善)とマイナス(悪)」で均衡が取れます。悪もマイナスエネルギーとして必要なのです。天国と地獄で釣り合い。善と悪とで釣り合うはエネルギーの問題があるからです。


賭け事の博打においても、「丁半コマ揃いました」でないと勝負は出来ないわけです。片方が勝って、片方が負ける。誰かが浮かべば誰かが沈む。
この丁半が揃う時は、囲碁盤では一八十(イワト)と一八十(イワト)がぶつかるわけです。


が、今は数から言えば邪神の方が数的には圧倒的に多いのです。例えば邪神に支配された宗教団体は数多くありまして、それらの教団は熱心な信徒を多数持ちます。オーム真理教や法之華などは氷山の一角にしか過ぎません。口に出して大声で言うわけには行きませんが、かなりの大教団にも上辺は主(ス)神と言いながら、明らかに反国常立尊派が見られます。国常立尊様の名を一切言わずに、違う神名を語っているはずなのです。そんなに国常立尊の名を言いたくないのか! なのです。それらの教団は信徒を騙しているのです。
何故、国常立尊様は出口王仁三郎聖師を使われて、まず「ス」神論で走り、次に「ラ」神論でお釈迦様の悟りを告げる「みろく」の仕組みをなされたのか?。大本教神諭に、どの神も「肝心要」のことは知っていないとありますように、偉そうな態度で宗教を起こした御神霊も何も解っていなかったとなります。


出口王仁三郎聖師が「人は邪教の真理に狂うことを覚るべし」と残しておられますが、気がついた時点でその宗教団体を抜けないと、その宗教団体が改心するなるなどいくら期待しても、逆に邪神が説く真理に飲み込まれて行くだけです。


スピリチュアルの世界を見れば、自分にはマリア霊とかミカエルが降りて来る式で、ある程度名を売ると、大金を巻き上げる式になって行きます。ほとんどの方はその人の背後に居る霊の正体が解らないからです。簡単に騙されるのです。


スピの世界とは【鴨がネギ(金)を背負って飛び込んで来る】世界だからです。ですから、自分も金儲けでスピリチュアルをやろうかと言う方達が続出します。愛だけを言い、自分には創造神からメッセージが降りて来ると言っても誰も解らない世界だからです。
そんな中で、果たして白(国常立尊派)が「一八十」も揃うかとなりますと、私も言葉の仕組みを解きながら、どうかなと疑問は持ちます。


大本教の出口王仁三郎聖師は、正神界180段。邪神界180段と言われた意味は、「碁盤」を見れば解ることだったのです。私はこれまで、180を〇(円)の半分で見ていたので意味が解らなかったのです。
誰でも〇(円)だと、一八十(イワト)の意味が解けきれないのです。


碁は、千手は「黒」から始まり、「白」は後手、では、十九路盤を端から先手、後手と並べて行きますと、どちらも180手打ったところで真ん中の「天元」が残ります。そこに先番の黒を打てば、全白は死んだことになる全面黒勝ちです。それならば常に黒が勝っていなければなりません。しかし黒は先手だからと「181」の位地に打てるかと言えば、ここは「天帝」の位地なので打てないのです。
そうしますと、黒(反国常立尊派)は国常立尊派を切り崩すか、天帝を取り込むより勝てないわけです。国常立尊御引退劇には、邪神達の国常立尊様の厳格な行為に対するそしりから「天之御中主」様もやむなしとして、「国常立尊」様に地上神界の主宰神から退く様に命じられて、代わりにゼウス(木星神)たる盤古大神が地上神界の主宰神と成られた経緯があるわけです。 盤古大神は悪神ではあられませんが、悪神達を押し切ることは出来なかったわけです。悪神達がお飾りの主宰神として担ぐには適されておられたのです。鬼より怖い「国常立尊」様ではなかったわけです。


私は鍾馗神の御案内で将軍神霊をきら星のごとく従えた盤古大神に拝謁した時、何が何だかさっぱり意味が解りませんでした。だいたい盤古大神などそれまで知る由もない神だったからです。 大本教の出口王仁三郎氏が「181」を言われたのは、そこにあるのです。


では、創造神が中立を宣言された場合、黒180対白180だと同数で引き分けかと言いますと、囲碁の世界では同数は「持碁」と言い、白勝ちのルールになります。その上に今回は「天之御中主」様が「国常立尊」の地上神界の主宰神に復帰を認められましたので、全宇宙に対する「大立替」となるのです


正義は絶対に負けないと言うのは、善悪(白黒)揃った場合、白(正義)は必ず勝利するのです。しかし、現実には正義は勝利していません。それはこれまで白側が「一八十」の勢力を揃えるまでになっていなかったからとも言えます。


大本教神諭に、時節には神も適わないがありますが、一八十(イワト)として揃うこともまた時節の意味なのかも知れません。





本当の「神一厘の仕組み」とは、この天元(天の主宰神)のチカラを加えて、その「一八十」を揃えてしまうことです。その時がイワト(一八十)開けです。


私が出しているのは、しょせんは「言葉の仕組み」の解説で、残念ながらほとんど世に受け入れられてはおりません。私は現実界を仕切るだけの霊能力を持ちませんので言葉の仕組みを紐解いて、訴えるより道はありません。


いくら「言葉の上での仕組み」であったとしても、ここまで言葉の仕組みをして来た神と言うのは、私達の人智の及ぶ神ではありません。お釈迦様もモーゼもイエスもマホメットも弘法様も日蓮様も、全てこの神の仕組みの上では役者であったのに過ぎないのです。
ミカエルとは「巳(蛇)帰る」であり、天照とは「あまねく照らす」であり、全て言葉の上での役割を演じている神の役者なのです。伊勢神宮に鎮座されている天照大御神と称される男神は、ある御神霊です。これは私も予想外の御神霊でした。私が子供の時に告げられたように、私達は日本神話に一杯喰らわされていたのです。
伊勢の天照大御神様は私に「鶴と亀」を見せてくださった。それは「かごめ歌」を教える為でした。自分の後ろの正面を知りなさいです。私の最初の師匠からも、あなたはあなたの後ろが見えていないと叱られて来ましたが、自分には後ろの正面は見えないのです。


私は伊勢神宮に鎮座されている御神霊が誰かと知った時、その御神霊は国常立尊派であり、反国常立尊派の御神霊ではありません。何故に、日本の歴史的には考えられない複雑な仕組みが神界にはなされているのかと思いましたが、スピリチュアルで自分に天照大御神がメッセージを送って来られる式の方があまりにも多い。そうしたスピリチュアルに懸かっている霊達を最後は全て捕まえて、処断する計画なのかも知れません。


大本教神諭。【節分の炒り豆にも花が咲く】。節分の夜に「鬼と云う(魂)」者が追われている。果て、これはどういうことかと言葉の仕組みを追って来たならば、そこにはスピリチュアルで言うマリアとかミカエルだとか、そんな小さな存在を遙かに凌ぐ神の存在が見えて来たのです。


最後の幕を引く為に、天理、金光、黒住と先走り。大本教で神の仕組みを完成させて、一人でも多く助けてやりたいと思われる日本の国祖神「国常立尊」様の親神心、されど解らぬ者はやむなしとなります。



類は友を呼ぶ。引き寄せの法則は自分の魂が位置する神界の階級で違う
2015.08.15 Saturday - 07:12 - by ○○公園


スピリチュアルでは何かと「引き寄せの法則」言いたい方が見られます。確かに「引き寄せ」はあるのですが、何故に類は友を呼び、引き寄せるのかの根本的なことが見えておられないようです。


引き寄せよりも、【類は友を呼ぶ】


この世は「横社会」であり、平等性の社会です。それに対して霊界は「縦社会」で神格とか霊格の違いで魂の地位に「差」が存在しています。それは万物を創造された創造神と私達の魂は平等ではないということです。同じ土俵ではないということです。
そこを間違えていると、人は一人一人が創造神だと思い上がった存在になります。誰も創造神に引き寄せられるなど無いでしょう。


それを物語るのが霊界における「天国・中有界・地獄」の三階層論。仏教における人は死後に三つの世界に別れて渡る「三途川」です。この天国・中有界・地獄の三階層論は、さらに区分化されてスウェーデンボルグが説いた天国三階層・中有界・地獄三階層の計七階層論が有名ですが、大本教の出口王仁三郎聖師はさらに第一天国の上に最上級界天国が有ると説かれたわけです。
大本教の出口王仁三郎聖師はこれを更に区分化して、正神界百八十段。邪神界百八十段と説かれたのですが、行者系ではそれだと説明がしづらいので、神の高山になぞらえて「十段」として「合目」で説明するがあります。より簡潔にです。


以前に出した図により解りやすく説明を加えました。





行者系の方の中には、神の世界の段階を語る時、その神は「何合目」に在るというようなことを言われることがあります。神名とはたった一体の御神霊を言っているわけではありません。
例えば、私は「豊受」様に修行のお世話になりましたが、伏見稲荷大社(伊勢外宮)の豊受様と最上稲荷の豊受様と祐徳稲荷の豊受様は完全なる同一神ではありません。豊受と呼ばれる一門神なのです。
同系の魂であっても、少しづつその特徴が違っており、そこに「神位の違い」が生じて来ます。これを行者達は神の位として「合目」として表現されるのです。
私は神社に行って、いつも御神霊を見るではありませんが、出座された時などはその段位を見ています。何合目にあるかです。
そうしたことを知るのが、行者系の方ならば言われる神の高山(神界ピラミッド)なのです。


瀧の行者の異名で知られた故・金井南龍師は大本教の出口王仁三郎聖師は素戔嗚尊の魂であっても「八合目」であり、八合目の素戔嗚尊であれば「立替」は出来ないと述べておられます。だから、大本教は予言で留まったと。
巷には自分が「素戔嗚尊」だと名乗っている方は多々ありますが、例えそれは本当に素戔嗚尊の魂であっても、「三合目」とか「四合目」の素戔嗚尊の魂の段階で自分が素戔嗚尊だと名乗ることはほとんど意味が無いのです。
三合目とか四合目の素戔嗚尊の魂では、八合目とされる大本教の出口王仁三郎聖師に並ぶなど出来るはずもないことだからです。その大本教の出口王仁三郎聖師の神位を越えている素戔嗚尊でないと、そうした神名を出しても立替の主役ではないことになります。


神霊の神名に関しては以前に会社に例えれば、社長、専務、常務、平取締役、部長、次長、課長、係長、主任、平社員等があっても、皆さん自分は○○会社ですと会社名を名乗るのと同じことですと説明して来ました。
つまり、霊能者の方が豊受様に出会われたとしても、その豊受様が社長の段階なのか、課長なのか、平社員なのかで違うわけです。


私の最初の師匠は某市の豊受神社の御祭神の御代をされていましたが、その豊受様で解らないことは必ず伏見稲荷大社まで行って、そこでお伺いをしていました。つまり、出先神社の下位の豊受様だと解らないこともあるからです。それは部下の社員では解らないから、トップの社長の元に会いに行くようなものです。
私は自分の身に起こる不思議な謎にその師匠の元を訪れた時、最初にその豊受神社を預かる豊受様が言われたのは、あなたには「妙見様の御使者神」が来ておられます。貴方の家系と妙見(天之御中主)様とは如何なる関係にあるのですかとの質問を受けました。
そんなことは私には解りません。それで先祖の過去帳を調べましたら、五代前の御先祖霊さんの奥さんの戒名が「見妙」で妙見がひっくり返っています。五代前の御先祖霊様と関わりがあるのかとは思われましたが、それだけでは妙見様と私との関係が解らずに伏見稲荷山の御本社の豊受様に直接お聞きしますで伏見稲荷山に連れて行かれたところ、御本社の豊受様から貴方の本守護神は国常立尊様。貴方は「言葉の〇」と呼ばれる方ですと告げられたしだいでした。


なお、私はブログで「言葉の君」と名乗っておりますが、正しくは「言葉の〇」と豊受様から告げられたのであって、私が直に出会った方ではありませんが、ある方のブログにその方が知る霊能者に頼んで私をサニワした結果、この人は「言葉の君」では無い。「言葉の〇」と言われる方だと言われた方があります。
そしてその方は「言葉の〇」とは何者かの説明をされたのです。この私のサニワをされた方の名前からすると某大阿闍梨さんかと思われます。私が「言葉の〇」を名乗らないのは、その大阿闍梨さんに内容を指摘されるまで、豊受様から言われても自分でその意味がよく解っていなかったからです。なお、「○」はどこまでも内緒にしておきます。


世の中にはそうして霊の背景を調べて居る方もあります。私の2番目の師匠もそうした一人で、私も毎夜毎夜その2番目の師匠の元に通って「サニワ」の手伝いをしていましたので、スピリチュアルで盛んに言われる「宇宙からのメッセージ」の発信者が如何なる存在かを掴んで来ました。
そうしたサニワによる内容は、日本の古神道系の方達によるサニワの結果が本にも出版されています。ただ、高額の書なので気安く読むことが出来ず、その内容があまり世には知られていないのです。そこには奇跡と思われる数々の正体が何であるかも書かれているのです。
それを読めば、恐ろしくてスピリチュアルの世界など飛び込めたものではありません。


なお、金井南龍師によれば、大本教開祖出口なおさんに懸かった国常立尊は七合目の神であり、まだ誰も九合目とか十合目とされる国常立尊や素戔嗚尊など見てもいない。なのです。また、どの神界で有ろうと九合目とか十合目の神は今日まで出ていないと述べておられます。
それは、自分には「創造神」からいくらメッセージが降りると言ったところで、そうではないと言うことなのです。こうしたことをよく知られる方は「媒介天使の存在」を言われるわけです。だが、邪神でも「九分九厘」までは行けますので、そこが難しいところなのです。


国常立尊の名は、記紀神話にその名があってもほとんどの方が知らず。大本教で世に知られることにはなりましたが、木曽御嶽山や玉置神社でその名は知られています。では、木曽御嶽山の国常立尊様や玉置神社の国常立尊様は、国常立尊神界の九合目とか十合目かとなりますと、どうも違うようです。
もし、そこに十合目と呼ばれるような国常立尊様が鎮座されていれば、世に出ておられる神々にそれが解らないなどあり得ないからです。世の中は既にひっくり返っています。未だなのです。立替の宣伝だけが先行していると言えるでしょう。


スピリチュアル系では何かと「引き寄せ(類は友を呼ぶ)」を言いたい人が多いのですが、「類は友は呼ぶ」は古来からの「諺」としてあり、何もスピリチュアルで「引き寄せ」等と言えば目新しい分野ではありません。
下手に「引き寄せ」と言うよりも、「類は友を呼ぶ」と言った方が、よりその意味が解って来ます。


霊界の下層階ほど多様な考え方があります。何をしても良い式は下層階ほど強いのです。そうした世界では「類は友を呼び」引き寄せられて行きます。
また下層階ほど所属する者が多いので、思考が同じ様な仲間達を集めることが可能となるのです。


悪を楽しんでいれば、そこにそうした悪を楽しむ者達が集まって来るという原理です。そしてその階層とは、ほとんど同じ階層に所属してくるわけです。


引き寄せなどは「横社会」たる「合目」の世界だけで起きることで有って、神界ピラミッドの縦社会の論ではないのです。
これまで世に出て来られたお釈迦様、老子様、イエス、モーゼ、マホメット(ムハンマド)、弘法さん、日蓮さんなどはそうした神界の段階が高い方達であって、自分自身の魂が霊界でそれなりの高さにないと、出会うという存在ではないのです。


高次元の神霊は、いくらその存在に【想いを寄せても】出会えるではありません。自分の魂がその存在と同様の合目にあってこそ、出会えるなのです。大きな会社で有れば、平社員が社長や専務に出会って話するもないでしょう。


つまり「類は友を呼ぶ」為には、自分がその段階まで上がらないと行けないのです。


ある方の魂を見ておりますと、元は非常に高い段階にあった存在です。だが、自分が犯した罪により低い段階に落とされた。すると、確かに元は高い段階にあったとしても、今は低い段階に落とされて、その世界で引き寄せで低い霊に懸かられてばかりいるが起きます。 それは悪い方向への「類は友を呼ぶ」になってしまっているのです。


この「引き寄せ」とか「類は友を呼ぶ」は、自分の魂の向上を忘れていたならば意味がない教えとなります。


霊は化けることが出来るを忘れていると、自分にお釈迦様、老子様、イエス、モーゼ、マホメット、弘法さん、日蓮さんが自分に臨んで来てメッセージを送って来られるなどは、邪神・蛇霊などが化けた存在であると解らなくなるのです。そして、それらの霊は人の夢の中まで左右して来ます。夢で見たからでは本当とは言えないのです。


為に、幾人かのしっかりした霊能者の方からの追認作業を受けて来なければならないのです。そうした追認は単にスピ的霊感者に求めてもダメなのです。自分一人よがりでは間違えます。


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