わたしはだれでしょう


フィオラ、だとはかぎりません。nobodyに聞いたとしても彼も大断章や峠について意見を改めるつもりもないでしょう。


人は死亡する際(また誕生する際も)、二つの路線の内のどちらかにいます。
一つは大神様の主宰する本線にいる場合。
もう一つは勝手に興奮し、勝手に絶望する自己都合の輪廻、七転び八起き線とでもいえばいいのでしょうか。人間の多くがハムスターのように「法則として、自分で廻したから自分で走らされている」囚われの路線です。
これを勧告するためにここにいます。


いま、本線にもどってください。
もうあとでは間に合いません。


意外に思われるかもしれませんが、下界と呼ばれる地上界の汚れが問題になっているわけではないのです。
本当に汚れているのは、上の、世界なのです。


今まで人生の中で、右に行くか左に行くか数々の選択があったことと思います。
その壁の材質、迷路の材質は、上の世界を覆う、この「汚れ」でできていました。どういう意味かは自力で確かめてください。


あなたが誕生する際、多くの基礎的な確認を済ませました。覚悟は勿論、すべてはこの
「本線上で」
行われるという意思確認です。過去に複数の人生で負った傷をどう扱うか、どう対峙するかも計画に基づいています。今、多くの方(70~80%)の現状は、これらの契約をまるでなかったもののように扱ってしまっており、形骸無実化しています。それで大変困るのは、死亡時に本線にいなかった方たちです。


もしこれが困らないなら、あとでどうこうできるなら、こういう連絡はいたしません。


わたしが手助けできるのはこれが最後かもしれません。
ですから真剣に検討いただけることを願います。


いま、もどってください。もう間に合いません。


2018年8月28日


(上記の内容を9月15日から残しています。何かのご縁でここを訪れてくださる方がもしいた場合、この日記を書いているnobodyが普段声を聞いているフィオラという霊よりも質の違う連絡を受けたその全部の内容です。これに追記することはありません。あの地震がなければ私はこれを書かなかったようにも思います。n)


ダウンタウンの松本さんが言っていたんですが、人は両手いっぱいに乾燥パスタを抱えていたとして、そのパスタがするすると下に全部抜け落ちてしまっても、抱えた両手をそのままにして「自分で自分を騙し続ける」ことが「結構できる」そうです。


形にこだわっていることは世の中に溢れていますよね。いい意味でもわるい意味でもです。形にこだわる中心、奥底の気持ちには「不安」があると思います。でも形にこだわることはいい結果を生む場合もあります。スポーツ選手のルーティーンとかもそうでしょう? うん、きっとそう。


形骸化という言葉は、抱えた両手をそのままにしてパスタが抜け落ちた事実を見ようとしない人の態度を指している言葉です。なんだか腕の中すーすーするんですけど、見るのが怖い…。事実をすべて見た上で「形を採用しているわけではない」んですね。事実を見たくないから「形のキープに逃げている」というわけです。
なんか形骸化側の気持ちがわかるなあ。形のキープに逃げたくなる時ばっかりですから。この日記だってそうです。なにこのブランクばかりの自称「日記」。毎日日付は続けて書いているからねって自己暗示です。だって、人間だもの。n


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