正しい方向性だけでも


正しい座標がわからなかったとしても、せめて東西南北などの方向性だけでも大まかに正しい方向がわからないだろうか、ヒントはないだろうかと感じることがあります。それは、あります。正しい方向性は八方美人ならぬ<八方共感>だと私は思います。とりあえず、全員に、一人の欠けもなく全員に共感してみることです。報道ステーションで人間関係が荒れているというゴシップを聞いたら、全員に共感してみる。誰の立場にもいったん立ってみる。考えてみる。そして憎しみを感じ取る。そして、それを「まとめない」ことです。混沌の海のように、ただそのままにしておきます。結論を出しません。事あるごとに全員に共感します。善も悪も自称善も自称悪もただただ共感する。合わせられないのではなく、合わせようとしていないだけなのだから、とフィオラによく叱られます。n0031


神がすべてであり、すべては一つなのだとしたら、普遍的な深い”愛”の感情が存在し、「相手」がいなくでも、それを感じることができるはずです。何をしているときにも、これが真実であると固く信じて、”大いなる愛”の感覚を探し求め、それを待ち望んでください。それを感じることができると、自分にパワーが戻ってきます。そうなるとあなたは、”大いなる愛”のパワーがある、自分の「存在」の中心にいることになるのです。


そのために必要なのは、そうした愛を自分は当然感じるだろうという「期待感」です。


「見つける人」は、いま現在より以上に神が存在することはけっしてない、ということを少なくとも知っています。


知るためにはどうすればいいでしょうか?


自分の存在のなかでいままでとは違った賛美歌を歌い、いままでとは違ったマントラを唱えるのです。


「私の目の前に何があろうともそれは神である。何であろうとも、それは神だ。神はいま、この瞬間に、この呼吸とともに存在し、私が見るものすべてのなかに、私が聞くものすべてのなかに存在する」こう断言するのです。
「あれはイヤな感じがしたから、神であるはずがない。何かほかのものにちがいない」と、言ったりしないことです。


神がすべてのもののなかに存在するということを、信じることはまだできないかもしれませんが、信じるよう努めてみてください。「期待感」と希望を持って待つのです。


自分以外の人間や、まわりで起こっている出来事を見るときに、自分は”神の大いなる光”のなかにいるのだ、ということを忘れないでください。あらゆるものの本質は愛です。そのことを忘れないようにつねに努力するならば、そうした覚醒意識を得るのを妨げているものが少しずつ明らかになってきて、やがて消えていきます。このことを忘れないでいると、”大いなる光”以外のものはどれでも一時的なものであり、生まれては消え、やってきては去っていく、つかのまのはかない障害物にすぎないのだ、ということがわかってきます。不断に変化する考えや信念などというカムフラージュの陰にある、実在するものにつねに意識を向けてください。


人は、自分とは肉体のことだと思っています。人はまた、カルマや輪廻転生があると深く信じているので、過去をなかなか捨てられないし、”大いなる光”が”大いなる光”に出会っているのだ、ということに気づけません。


”大いなる光”が”大いなる光”に出会うと、その結果、よりパワフルな”大いなる光”が生まれます。どんな方法を用いてでも、あらゆるものは神なのだということを覚えていられるならば、自分の悩みの本質がはっきり見えてきます。


マハルシ 初心者は、心をとらえ、それを調べるようにと指導されます。しかし、そもそも心とは何なのでしょうか? それは真我から投影されたものです。それが誰にとって現れるのか、どこから立ち現れるのかを見いだしなさい。そうすればその根本原因である「私」という想念が見つかるでしょう。さらに深く入っていくと、「私」という想念は消え去り、そこには無限に拡大した「私」という意識が在ります。それはヒラニャガルバ(宇宙的意識)とも呼ばれています。それが限定を被ったときに個人として現れるのです。

(対話489)

長い間あなた方は、神は自分の王国の外、つまり宇宙の彼方のどこかにいると教えられてきた。あなた方の多くはこれを信じ、真実として受け容れてきた。だが、すべての生命の根源である神が、あなたの外にあったことはない。神は、あなた自身なのだ。それは、すばらしい思考プロセス、至高の知性であり、人間の内面に、沈黙とともにつねに存在しているのである。


(中略)


あなたの愛する「父」、すべての思考である神が、自分自身について熟考し、光の輝きを生み出した瞬間から、あなたはずっと存在しているのだ。あなた方一人ひとりが、その光となったのである。まさにこの瞬間に、あなた方一人ひとりがユニークな至高の存在となり、永遠に神のマインドの一部となったのである。
神はある謎めいた存在で、自分の手で天と地を創造し、それから人間と呼ばれる生き物を創造したとあなた方は教えられてきた。しかし、それらを創造したのはあなた方だったのだ。
…宇宙空間の中の輝く光であったあなた方が、自分たちの創造物のすばらしさをすべて体験できるようにするためだった。


(中略)


あなた方のすべてが、神そのものであり、神から創造された。あなた方は神から創造された神々なのである。つまり、すべての生命の源から最初に創造された、ただひとつの直接の創造物があなた方なのだ。



質問者 言葉で伝えられた個人的な教えに価値があるのです。


マハルシ もしも何か新しく未知なものなら教えも適切でしょうが、ここでは心を静め、想念から自由であることが教えなのです。


質問者 日々の生活の中にその状態は見られません。


マハルシ 日々の生活と霊的な人生が異なると想像されたとき、問題は起こるのです。

(対話376)


マハルシ あなたは深い眠りの中でも存在していたのです。そのときのあなたと今存在しているあなたは同じ人ですか? 違いますか?


質問者 同じです。


マハルシ 違いは、眠りの中のあなたは機能していなかったということにあります。言うならば、あなたは目覚めのときは思考機能と関わり、眠りのときは思考機能と関わっていなかったということです。
それでは、どちらがあなたの本性でしょうか? 思考と関わっているほうでしょうか、関わっていないほうでしょうか?

(対話520)


マハルシ 「私」という想念が初めに立ち現れ、それからその他のあらゆる想念が生まれます。それらが心というものを構成します。心は対象であり、「私」は主体です。「私」なしに意思がありえるでしょうか? 意思は「私」の中に含まれています。「私」という想念は知性の鞘であり、意思はその一部なのです。
心は想念だけで形作られており、「これ」が対象で、「私」が主体です。

(対話277)


マハルシ これらの疑いはすべて、誤った観点と自分の外側の物事に結果を期待するために起こります。

(対話157)


ヨーガする人の魂は清浄で
心と感覚を支配し
すべての生物に思いやりがあり
絶え間なく働いても決して仕事に縛られない


神聖な意識の人は
見ても 聞いても 触れても
嗅ぐ 食う 動く 眠る 呼吸等をしても
内心では”私は何も為していない”と観る


話すときも 捨てたり取ったりする時も
また眼を開け閉じするときも
五官がその対象と作用しているのみと観じ
彼は常に超然としているのだ


神はあるレベルでは、すべてのものの材料を構成する物質である。別のレベルでは、さまざまな次元の時間の流れであり、複数の並行宇宙を創り出す時間のゆがみである。また、さらに別のレベルでは、物質を支えている光と呼ばれる振動数だ。そして、すべての中で最も偉大なレベルでは、あなたを今の位置に保っている「何もないもの」、すなわち思考であり、宇宙の永遠性なのだ。


神とは、永遠に続いていく生命全体であり、それは脈打ち、広がり、進化している。それは「在ること」であり、この「在ること」は、これまでにあったものを許容するものであり、いま在るものが広がっていくことであり、これからやってくるものを約束するものだ。それは生命を与える動きであり、特定のゴールや理想に到達するのではなく、思考から光へ、それから物質へと、絶え間なく生命を創造し続けている無限の思考プロセスなのである。神は在るものすべての本質であり、この在るものすべては、つねに変化し続け、創造し続け、広がり続け、存在し続ける「ある動機をもった力」の中に在るのである。



質問者 私たちはまるで動物のように、果てしなく無益な追求のために走りまわっているようです。いったい出口があるのでしょうか?


マハラジ 多くの道があなたに差しだされてきた。それらはあなたをひと回りさせ、出発点に連れ戻すものだ。まずあなたの問題が、目覚めの状態にしか存在しないことを認識しなさい。それがいかに苦痛に満ちたものであっても、眠りについたとき、あなたはすべて忘れることができるということを認識しなさい。目覚めているとき、あなたは意識している。眠っているとき、あなたはただ生きているだけだ。意識と生命。その両方をあなたは神と呼ぶかもしれない。だがあなたはその両方を超えているのだ。神を超え、存在と非存在を超えている。あなた自身がすべてであり、すべてを超えていると知ることを妨げているのは、記憶に基づいたマインドなのだ。あなたがマインドを信頼するかぎり、それはあなたを支配しつづけるだろう。それと闘ってはいけない。ただ無視しなさい。注目を奪われて、それは速度を落とし、その働きの機構を露わにする。ひとたびその本性と目的を知れば、マインドが想像上の問題をつくり出すことをあなたは許さないだろう。


質問者 すべての問題が想像上のものでないことは確かです。そこには現実の問題もあります。


マハラジ マインドがつくり出さなかった問題などというものがありうるだろうか? 生と死は問題をつくらない。苦痛と快楽は来ては去っていく。体験されたことは忘れられる。達成と逃避の問題をつくり出すのは、好きと嫌いに色づけされた記憶と期待だ。真理と愛が人の真の本性であり、マインドとハートはその表現の手段なのだ。


質問者 どのようにして何を欲しているのか知らないマインドを制御すればよいのでしょうか?


マハラジ それは暗闇のなかで作用することはできない。それが正しく機能するには、気づきの純粋な光が必要なのだ。制御しようとする努力はすべて、マインドを記憶の命令の支配下に置くことになる。記憶は良き召使いだが、悪い主人だ。それは発見を巧妙に妨害するのだ。実在のなかに努力の場はない。主要な問題と、そのほかすべての問題の原因は、身体との自己同一化による利己主義にあるのだ。努力によって利己主義を取り除くことはできない。ただ、原因と結果への明晰な洞察によってのみなされるのだ。努力は互いに相容れない欲望の間に起こる葛藤の徴候だ。それらはあるがままに見られなければならない。そのときにだけ、それらは消え去るのだ。


質問者 そして、何が残るのでしょうか?


マハラジ 変化することのできないもの、それが残る。偉大な平和、深い沈黙、秘められた実在の美が残るのだ。それは言葉によって伝えられない、と同時に、それはあなた自身によって体験されることを待っているのだ。


質問者 人は真我実現にふさわしく、適するようにならなければいけないのでしょうか? 私たちの本性は、その内奥に動物性を潜めているのです。それが克服されるまでは、実在が現れることをどうして期待できるでしょうか?


マハラジ 動物性のことは放っておきなさい。それをそのままにしておくがいい。ただあなたが何なのかを覚えておきなさい。観照者としてのあなたなしには神も動物もありえないということを、日々のあらゆる出来事をきっかけにして思い起こしなさい。あなたは存在するすべての本質と実体の両方なのだと理解しなさい。そしてあなたの理解の中に確固としてとどまりなさい。


質問者 理解で充分なのでしょうか? もっと明確な証拠が必要ではないのでしょうか?


マハラジ 証拠の妥当性について決定するのはあなたの理解なのだ。だが、あなた自身の存在以上に、どのような確実な証拠が必要だと言うのかね? あなたがどこへ行こうと、あなたはあなた自身を見いだすのだ。あなたがどれほど遠くにたどり着いたとしても、あなたはそこにいるのだ。


質問者 明らかに、私は遍在するものでも、永遠なるものでもありません。私は今ここにいるだけです。


マハラジ 充分だ。「ここ」はいたるところにあり、「今」はつねにあるのだ。「私は身体だ」という観念を超えていきなさい。そうすれば、あなたは時間と空間があなたのなかにあり、あなたが時間と空間のなかに在るのではないことを見いだすだろう。ひとたびあなたがこれを理解すれば、真我の実現のための主要な障害は取り除かれるのだ。


質問者 理解を超えた真我の実現とは何でしょうか?


マハラジ 深い密林にたくさんのトラがいる。そして、あなたは丈夫な鉄の檻のなかにいると想像してみなさい。檻によって無事に守られていることを知っているため、あなたはトラたちを恐れなく見ている。つぎに、檻のなかにトラたちがいて、あなたはジャングルのなかをうろつきまわっている。最後に、檻は消え、あなたはトラに乗っているのだ!


質問者 私は最近、ボンベイで行なわれた瞑想セッションのひとつに参加しました。そこで私は参加者が自暴自棄になり、精神錯乱しているのを目にしたのです。なぜ人びとはそのようなことをしに行くのでしょうか?


マハラジ それらはみな、感覚的刺激を探求する人びとを満足させるために落ち着きのないマインドが発案したものだ。それらのいくつかは、抑圧された願望や記憶を吐きだすことで無意識の助けとなる。そしてその程度の解放を与えるのだ。しかし、最終的には、彼は何も変わらないままか、あるいはさらに悪くなることさえあるのだ。


質問者 最近、私はあるヨーギの瞑想体験について書かれた本を読みました。それは幻想や幻聴、色彩や音楽であふれ、たいへん人目を引く内容でした。もっとも華麗な娯楽です! 最後には、それらはすべて消え去り、ただ恐れのない感覚だけが残ったのです。無理もありません。それらすべての体験を無傷で通り抜けてきた人には、何も恐れるものなどないのです! それでも、そのような本が私にとっていったい何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ おそらく、何の役にも立たないだろう、それはあなたの興味を引かなかったのだから。ほかの人は感動させられたかもしれない。人は異なるのだ。だが、誰もが自己の存在という事実に直面させられる。「私は在る」は究極の事実だ。「私は誰か?」はすべての人が答えを見いださなければならない究極の質問なのだ。


質問者 同じ答えでしょうか?


マハラジ 本質においては同じだ。表現は多様だ。
それぞれの探求者は自分に合う方法を受け入れ、あるいは発明し、誠実さと努力とともにそれを自分に適用する。彼は彼の気性や期待にしたがって結果を得、それを言葉の鋳型に鋳込め、システムを築きあげ、伝統を設立し、他者を彼のヨーガの学校に入会させるのだ。それはすべて記憶と想像の上に築きあげられたものだ。そのような学校は、無価値でもなければ必要不可欠でもない。より以上の進歩を可能にするために、進歩へのすべての欲望が放棄される地点まで進歩することができる。そうなれば、すべての学校は放棄され、すべての努力は終わり、孤独と暗闇のなかで無知と恐れを永遠に終焉させる最後の一歩が踏まれるのだ。
真の師は弟子を既成の観念、感情、行為に押しこめようとはしない。その反対に、師はすべての観念や組み込まれた行動様式から自由になる必要性を忍耐強く示すのだ。注意を怠らず、誠実であり、どこであれ人生が彼を連れていくままにしたがい、楽しみも苦しみもせず、ただ理解し、学んでいくように。
正しい師のもとでは、弟子は記憶し服従することではなく、学ぶことを学んでいく。サットサン、すなわち聖者との交際は鋳型にはめるのではなく、解放するのだ。あなたを依存させるすべてに気をつけなさい。いわゆる「師への明け渡し」はほとんどの場合、悲劇でなければ、良くても失望に終わる。幸運にも、誠実な探求者は体験からより賢明になって、巻きこまれる前に自分を危険から救うのだ。


質問者 明け渡しには確かに価値があります。


マハラジ 明け渡しとは利己的関心事を明け渡すことだ。それはできるわけがない。あなたがあなたの真の本性を実現するとき、それは起こるのだ。言葉の上の明け渡しは、たとえ感情をともなっていても、緊張下では失意のうちに終わってしまう。最善の場合でも、それは熱望を表すが、実際的事実ではない。


質問者 『リグ・ヴェーダ』* のなかではアディ・ヨーガ、原初のヨーガについて言及されています。私が理解するには、それは智慧と生命をひとつに結びつけることを意味するプラジニャーとプラーナの結婚から成るものです。あなたなら、それはまたダルマとカルマ、公正さと行為の統合をも意味すると言われるでしょうか?


* 訳注 『リグ・ヴェーダ』 Rig Veda ヒンドゥー教のなかで最古、最高、そしてもっとも神聖なる聖典として知られ、また世界においても最古の宗教書。ヴェーダの神々への讃歌。


マハラジ もし公正さが自己の真の本性との調和を意味し、非利己的な無欲の行為を意味するのであれば、そのとおりだ。
アディ・ヨーガにおいては人生そのものがグルであり、マインドが弟子なのだ。マインドは人生に仕え、それを支配したりしない。人生は自然に努力なしに流れ、マインドは流れをすみやかにするために障害物を取り除くのだ。


質問者 人生はその本性から言って反復的なものではないでしょうか? 人生にしたがっていくことは沈滞に導くのではありませんか?


マハラジ それ自体では、人生は途方もなく創造的なものだ。一粒の種子が、やがて森林となる。マインドは森林官のように、存在の膨大な生命力の衝動を保護し調整しているのだ。


質問者 マインドによる生命への奉仕という見方をすれば、アディ・ヨーガは完全な民主主義です。誰もが彼の最善の能力と知識で人生を生きることに従事し、誰もが同じグルの弟子なのです。


マハラジ あなたの言うとおりかもしれない。可能性としては、おそらくそうだろう。だが、人生が熱望と熱心さをともなって愛され信頼されるまでは、意識のなかの動き、行為のなかの気づきであるヨーガについて語ることは夢想的なものでしかない。


質問者 あるとき、私は岩の合間を流れる渓流を眺めていました。それぞれの岩で、岩の大きさと形にしたがって流れの動きは異なっていました。個人とは皆、単に身体の上を流れる動きであり、同時に生命はひとつであり永遠なのではありませんか?


マハラジ 流れの動きと水は別々のものではない。流れの妨害があなたに水の存在を気づかせたのだ。意識はつねに運動と変化のなかにある。不変の意識といったものはありえない。不変なるものは即座に意識をぬぐい去るだろう。内面、あるいは外面の感覚を奪われた人は意識を失い、あるいは意識と無意識を超えて不死不生の状態のなかへと入っていくだろう。霊魂と物質がであったときにだけ意識は生まれるのだ。


質問者 それらはひとつでしょうか、二つでしょうか?


マハラジ それはあなたが使う言葉によって、ひとつ、二つ、あるいは三つなのだ。調べていくことで三つは二つとなり、二つはひとつとなる。顔と鏡とイメージという直喩で見てみなさい。どの二つをとってみても、その二つを結びつける第三の存在が前提にある。あなたが二つはひとつだと悟るまでは、サーダナ(修練)によって三つを二つとして見るのだ。
あなたが世界に没頭しているかぎり、あなた自身を知ることは不可能だ。あなた自身を知るためには、世界から注意を引き離し、内面へと向けなさい。


質問者 私には世界を破壊することはできません。


マハラジ その必要はない。ただ、あなたが見ているものは、あるがままのものではないということを理解しなさい。現れは調べることによって消え去り、根源的な実在が表層に現れるだろう。逃げだすために家を燃やす必要はない。あなたはただ歩いて外に出るだけだ。家が牢獄となるのは、あなたが自由に行き来できなくなったときだけだ。私は意識から自由に自然に出たり入ったりすることができる。そしてそれゆえ、世界は我が家であって牢獄ではないのだ。


質問者 しかし究極的に、世界は存在するのでしょうか、しないのでしょうか?


マハラジ あなたが見ているものは、ほかでもないあなたの自己なのだ。あなたの好きなようにそれを呼ぶがいい。それが事実を変えることはない。運命(プラーラブダ)のフィルムを通して、あなた自身の光がスクリーン上に絵を描いていく。あなたはそれを鑑賞する人であり、光であり、絵であり、スクリーンでもあるのだ。運命のフィルムさえも自ら選択され、自らに課されたものだ。その精神は障害を乗り越えることを楽しむひとつの競技だ。その努めが困難なほど、真我の実現はより深く広いものとなるのだ。


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Fiora & nobody