23日土曜日の朝に「染色体マイナス」とフィオラに言われて


ちょうどいまこの記事が目に飛び込んできました。
男をつくるY染色体は、やがて滅亡するかも…又吉直樹が専門家に聞くオモロイ話
日刊SPA!
2019/03/23 15:51


何を意図したものなのかまたわからないです。男性の染色体異常がこれから増加するとか? 曖昧すぎてわからない。8年前からの放射性物質の悩みは日本人全員共通のものです。またそうだったとしても対策が立てられません。


そういえば23日土曜日は先月青空さんがお茶碗を割った日でもありましたよね。n0111


2.5次元


の存在が、自分たちを3次元の存在(独立した自由意思で選択できる)と錯覚している状態。
それがあなたたちの状態に近いと言えるかもしれません。
(物体の裏側や内部に関する情報がないことで、3次元と区別される )
2.5次元には、それが稼働している意味があり、目的があります。その目的に沿うことのみが、自由意思に優る結果を生みます。これをクイズ番組に譬えるなら、クイズの出題者は複数名で連携しており、同じ霊団に所属する者と言えるかもしれません。他人に問いを出しているのではなく、ただあなた一人に問いかけています。あなたはその解答を口頭で答えるのではなく、2.5次元ミュージカルの舞台役者のように行動で示さなければなりません。しかもただの行動ではなく、設問に見合った『鍵』を見つけ、その鍵を適用することで問題を突破します。この鍵を捜し、設問と取り組む過程において、あなたは決して一人でそれを行っているわけではないことに留意いただきたいです。
またあなたには「裏側」や「内部」の情報がありません。隠されているのではなく、(2.5次元の目的に)不必要なため(設定から)用意されていないのです。物事を2.5次元で捉える時のメリットと同種のメリットが、この地上人の人生にはあるのです。Fiora


マハルシ ブラフマンは全体として分割されないまま存在しています。それは常に実現されているのです。しかし誰もそのことを知らずにいます。人はそれを知らなければなりません。知識とは、「自己(アートマン)とブラフマンは等しい」という永遠の真理の啓示を妨げる障害を克服するための手段なのです。


その障害はすべて





「私は個人として分離している」という観念





で形作られています。

(対話649)


あなたの救済のために、あなたはなにひとつすることはできません。つまり、あなたが何やかやをすれば、それはすべて、





そこにあるものを発見する邪魔になるのです。





救済はもうそこにあります。あなたはもう救われているのです。救済を買いとる必要はありません。


選択があるからといって、他ならぬあなたが選択をしなければならないというわけではありません。選択があるのを認め、それに気づくことで、選択の中をとおりぬけてください。


欲望を抱くことと執着を捨てることは同じことの表と裏にすぎません。あなたが本当に求めているのは、





欲望を抱くことも執着を捨てることも両方とも存在する意識状態です。





普通、欲望は何かに向かう気持ちを指し、執着を捨てるのは何かから離れる気持ちを指します。ここで必要なのは、その両方を含みながら、どちらの方向性も含まない言葉、強いて言えば、あらゆるものを完全に受け入れるという意味の言葉です。執着を捨てるというのは、ほとんどの人にとって、エネルギーを失い、興味あることから身を引き、無関心になることを意味します。けれども実際は、真に執着を捨てた人は完全にその瞬間に意識があって、すべてにいつでも関心を向けることができます。


自分と自分以外のものをつねに分断するエゴの動きの枠外に出ると、魂の叫びや苦痛そのもののなかに、じつはすばらしい解決がひそんでいたことを発見します。それらはいっしょに現れます。不安を感じることを怖れないでください。あまりに長いあいだ思考の世界に生きてきたので、自分が生き生きとダイナミックに存在する神であるという体験をしていないのだ、ということに気づいてください。あなたは純粋な目覚めた意識なのです。



ここにいる誰もが、本当は幸せな人生を送っているのだ。人々がそのことに気づかないのは、彼らの幸せの理想像というものが、小さな妖精ティンカーベルのように、あちこちと動きまわりながら、いろいろなものを青やラベンダー色やピンク色に変えていく道化師のようになることだからだ。


ここにいる誰もが幸せなのだ。なぜなら、誰もが自分の意志にしたがいながら、まさに自分自身がやりたいことをやっているからだ。病気になることを望んでいる者たちは、病気になっている。不幸になりたい者たちは、実際に不幸になっている。それは、彼らがそうなりたいからであり、そうなることによって自分が幸せになれるからだ。もしあなたが誰かを無理やり笑わせようとすれば、その人間はあなたの前で泣き崩れてしまうことだろう。



神のただひとつの計画とは、在ることなのだ。それは、あらゆるものがひとつのものとして振動している状態で、それぞれがまずは思考から始まり、それから思考が物質へと固まりながら振動しているのである。それは、あらゆるものが意識に何かを加えたり、そこから何かを取り出したりして、生命の次の瞬間を表現しながら、その瞬間を延長している状態なのである。存在するあらゆるものは、ほかのすべてと同時に表現され、永遠の中の次の瞬間へと入っていく。もし神が何かを計画することができたとしたら、それによって、これからやって来るすべてのものは制限されてしまうことだろう。


神は善でもなければ、悪でもない。「父」はただ在るだけであり、すべての生命の「在ること」なのだ。そして、単に自分自身を知るために喜びを得るということ自体の喜びのために生きる「今」という瞬間の表現なのだ。そして、この生命の本質には、その一部を「よい─悪い」、「邪悪─神聖」、「完全─不完全」というふうに価値判断を下すことによって、「在るという状態」から別のものに変質する能力はないのである。


神は完全に無限であり、「在ること」というひとつの分割できない全体性なのだ。それゆえ神は、制限された狭い見方で自分自身を見つめることはできないのである。


あなたは永遠の存在であるということ、またこれまでもけっして失敗したことはないということを知りなさい。そして、あなたがこれまでに犯したただひとつの間違いは、間違ったことをしたと信じたことだということを知りなさい。


ここにいる誰もが、本当は幸せな人生を送っているのだ。人々がそのことに気づかないのは、彼らの幸せの理想像というものが、小さな妖精ティンカーベルのように、あちこちと動きまわりながら、いろいろなものを青やラベンダー色やピンク色に変えていく道化師のようになることだからだ。


ここにいる誰もが幸せなのだ。なぜなら、誰もが自分の意志にしたがいながら、まさに自分自身がやりたいことをやっているからだ。病気になることを望んでいる者たちは、病気になっている。不幸になりたい者たちは、実際に不幸になっている。それは、彼らがそうなりたいからであり、そうなることによって自分が幸せになれるからだ。もしあなたが誰かを無理やり笑わせようとすれば、その人間はあなたの前で泣き崩れてしまうことだろう。


ここにいる誰もが、いろいろな表現をしながら、生きることを楽しんでいるのである。もしそうしていなければ、一瞬のうちに彼らは死んでしまうだろう。そして、それぞれのときがやって来ると、彼らは死ぬ。自分は必ず死ぬと思っているからだ。マスターよ、ある日あなたは、喜びと、ただ在ることの平安の中で、自分のまわりのあらゆる人々を見ながら気づくだろう。彼らがどのように表現していようとも、彼らはみな限りなく幸せなのだということに。


「今」という瞬間は、いつでも未踏の領域である。「今」とは、何でも許される瞬間である。あなたはその未踏の瞬間を、自分の態度によって、自分の定めたとおりのものにするのだ。あなたは不機嫌で、苦痛と悲しみに満ちた、みじめな自分になることもできるわけだが、それはまったくその瞬間にできることだ。あるいは、次の瞬間には自分の態度を変えて、美しくて、自由で、魅惑的で、幸せな、喜びに満ちあふれた自分になることもできるが、それもその瞬間にできることだ。さらに次の瞬間には、前の二つの瞬間にまったく影響されることなく、陰うつになったり、聡明になったり、献身的になったり、後悔する人間になったりすることもでき、自分が望むどんなものにでもなれるのだ。


あなたは第七の理解に向かって進んでいる。その理解とは、すべてのものの中にある神を知っているということだ。


今日でも、あなた方のほとんどは、自分が神であること、そして自分の中にすべてを知り、すべてになる力があることをいまだに知らない。だからこそ、あなた方は教師や宗教やほかのあらゆる者に自分の人生を支配させ、自分に代わって彼らに真実を解釈してもらっているのだ。あなた方の時間でもう長い間語られてきた単純な真実、すなわち「『父』と天の王国は、本当はあなたの中にあるのだ」という単純な真実が、他人の理解によって複雑でわかりにくいものになってしまうのをあなた方は許しているのである。これよりも偉大な真実があるだろうか?だが、それがわからないあなた方の多くは、神とつながり、覚醒するためには、教義や何らかの「形式的なもの」、つまり儀式や祈りやチャンティングや断食や瞑想といったものが不可欠だといまだに思っている。だが、こういったことをすればするほど、あなたは自分の魂に、自分はまだ自分がなろうとしているものではないこと、そして自分はまだ神の愛や自分が求めている理解から遠く離れていることを、さらに強く確信させることになるのだ。


さまざまな儀式を行い、教義にしたがうことも間違ってはいない。だが、そういったものが完全に正しいと感じられることもけっしてない。なぜなら、あなたの内なる声、すなわち神はこう言ってくるからだ。「あなたはすでに、あなたが到達しようと奮闘しているものになっているのだ」と。



質問者 グル(師)とは誰でしょうか、そして至高のグルとは誰でしょうか?


マハラジ あなたの意識のなかで起こることすべてがあなたのグルなのだ。そしてその意識を超えた純粋な覚醒が至高のグルだ。


質問者 私のグルはシュリー・ババジです。彼についてどう思われますか?


マハラジ 何という質問だろうか! ボンベイの空間がプーナの空間についてどう思うかと尋ねられたようなものだ。名前は異なっても空間は異ならない。「ババジ」という言葉は単なる住所にすぎない。誰がこの住所に住んでいるのかね? 困難があるときにだけ、あなたは質問をする。誰が誰に困難を与えたのかを調べなさい。


質問者 誰もが真我を実現することを余儀なくされています。それは義務なのでしょうか、それとも運命なのでしょうか?


マハラジ 真我の実現とは、あなたが個人ではないという事実なのだ。それゆえ真我の実現は、消え去る運命にある個人の義務ではありえない。運命とは自分を個人だと想像する人の義務なのだ。その人とは誰なのかを見いだしなさい。そうすれば想像された個人は消え去るだろう。自由とは何かからの自由だ。あなたは何から自由になるというのだろうか? 明らかに、あなたは自分自身だと思いこんでいる個人から自由にならなければならないのだ。なぜなら、あなたが自分自身に関してもっている観念、それがあなたを束縛しているからだ。


質問者 どのようにして個人は取り除かれるのでしょうか?


マハラジ 決意によってだ。それは取り除かれなければならないものだということを理解しなさい。そしてそれが去ることを願いなさい──もしあなたが真剣ならば、それは去るだろう。誰でもいいが、誰かがあなたに、あなたは「身体─精神」ではなく、純粋な意識だと告げるだろう。それを可能性として受け入れなさい。そして真剣に調べてみなさい。あなたは、空間と時間に拘束された個人ではないと発見するかもしれない。それがどれほどの違いをもたらすことか、考えてみるがいい!


質問者 もし私が個人ではないならば、私とは何なのでしょうか?


マハラジ 濡れた布は、濡れているかぎり、見た目も感じも、匂いも異なって見える。乾けば、それはふたたび普通の布だ。水が布から去れば、誰にそれが濡れていたと立証できるだろうか? あなたの真の本性は、あなたの外見とは異なるのだ。個人として在るという考えを放棄しなさい。ただそれだけだ。すでにあなたで在るものに成る必要はないのだ。本来のあなたとしてのアイデンティティがあり、その上に個人が重ねられているのだ。あなたが知っているのは個人だけだ。個人ではないアイデンティティをあなたは知らない。なぜならあなたはけっして疑ったことがなく、「私は誰か?」という決定的な疑問を自分に問いかけたことがなかったからだ。アイデンティティとは個人を観照する者だ。そしてサーダナ(修練)とは表面的で変化しつづける個人から、不変で常在の観照者に視点を移行させることにあるのだ。


質問者 どうして「私は誰か?」という質問は、私を引きつけないのでしょうか? 私は聖者とともに快い時を過ごすことのほうを好むのです。


マハラジ あなた自身の存在のなかにとどまることもまた、聖なるものとの交際なのだ。もしあなたが苦しみと苦しみからの解放の問題をもっていなければ、真我の探求に必要なエネルギーと持続力をもてないだろう。あなたに危機をつくり出すことはできない。それは真正なものでなければならないのだ。


質問者 真正な危機とはどのようにして起こるのでしょうか?


マハラジ それはつねに起こっている。だが、あなたは充分気づいていないのだ。隣人の顔の影、計り知れない、至るところに浸透している存在の悲しみは、あなたの人生における不変の要因なのだ。あなたは苦しみ、また他者の苦しむのを見ている。だが、あなたが反応しないだけなのだ。


質問者 あなたの言われることは本当です。しかし、私に何ができるというのでしょう?それが実情なのです。私の無力さと愚鈍さはその一部でもあるのです。


マハラジ よく言った。あなた自身を落ち着いて見てみなさい。それで充分だ。あなたを閉じこめている扉はまた、あなたを解き放つ扉でもあるのだ。「私は在る」が扉だ。それが開くまで、そこにとどまりなさい。実際のところ、それは開いている。ただ、あなたがそこにいないだけなのだ。あなたは、実際には存在せず、けっして開くことのない描かれた扉の前で待っているのだ。


質問者 私たちの多くはある時点で、ある程度の麻薬を摂っていました。人びとは意識の高次のレベルへと突破するために麻薬を摂るのだと言っていました。ほかの者たちは、同じ目的でふんだんなセックスをするよう勧めました。これらの問題に関するあなたの意見をうかがえますか?


マハラジ 麻薬が脳とマインドに影響を与え、そして約束されたあらゆる類の奇妙な体験をあなたに与えることは疑いのないことだ。だが、悲しみと恐れのなかに生まれ、来ることも続くこともない幸福の探求を生きるという、このもっとも尋常でない体験を与える麻薬に比べれば、それらすべての麻薬が何だというのだろう? この麻薬の本質について調べ、その解毒剤を発見するべきだ。
誕生、人生、死──これらはひとつのものだ。何がこれらの原因なのかを発見しなさい。あなたは生まれる前に、すでに麻薬を飲まされていたのだ。それは何の類の麻薬だったのだろうか? あなたはすべての病気を治療するかもしれない。だが、もしあなたがいまだにこの根源的な麻薬の影響下にあるなら、表面上の治療が何の役に立つだろう?


質問者 再誕生の原因はカルマではないのでしょうか?


マハラジ あなたは名前を変えるかもしれない。だが、事実は残るのだ。あなたがカルマ、あるいは運命と呼ぶ麻薬は何なのだろうか? それがあなたではないものを、あなただと信じさせたのだ。それは何なのか? そしてあなたはそれから自由になれるのだろうか? 先へと進む前に、あなたは外見上のあなたではないということ、あなたが麻薬の影響下にあるということを、少なくとも役に立つ説として受け入れなければならない。そのときにだけ、症状を調べ、それらの共通の原因を探しだす衝動と忍耐力をもつことだろう。グルがあなたに言えることは、「あなたはあなた自身についてまったくの思い違いをしている。あなたはあなた自身だと考えている個人ではないのだ」ということだけなのだ。誰も信じてはならない。たとえ自分でさえも信じてはならない。探求し、見つけだしなさい。あなたが真実の生命の水と真理の岩に達するまで、すべての憶測を取り除き、拒絶しなさい。あなたがその麻薬から解放されないかぎり、宗教や科学、祈りやヨーガは何の役にも立たないだろう。それらは誤解をもとにしているため、麻薬の影響を強めるだけなのだ。
だが、もしあなたは身体でも、マインドでも、それらの観照者でもなく、まったくすべてを超えたものだという観念とともにとどまるならば、あなたのマインドは明晰性のなかで、欲望は純粋性のなかで、行為は慈愛のなかで成長するだろう。そして内なる蒸留作用が、あなたを真実と恐れのない愛の別世界へと連れていくことだろう。
あなたの古い感情と思考の習慣に抵抗しなさい。自分自身に言いつづけなさい。「いいや、違う。そうはありえない。私はこんなものではない。それは私に必要ない。私はそれを欲しくない」と。そうすれば、過ちと絶望の構造全体が崩壊し、新しい人生のための基盤が解き放たれる日がかならずやってくる。
結局、あなたが没頭しながらしていることは目覚めの時間と、一部分、夢の時間のなかにあるだけだ。眠りのなかですべては脇にのけられ、忘れ去られているのだ。それはいかにあなたの目覚めの時間が重要なものではないかを示している。単に横になって、目を閉じることがそれを終わらせてしまうのだ。毎回、目覚めるという確証のまったくないまま、あなたは眠りにつく。しかしそれでも、あなたはその危険を受け入れるのだ。


質問者 眠りにつくとき、あなたは意識していますか、それとも無意識ですか?


マハラジ 私は意識したままとどまる。だが、特定の個人として意識しているのではない。


質問者 あなたは真我実現の経験の味わいを私たちに与えることができますか?


マハラジ そのすべてを受け取るがいい! それは求めればここにあるのだ。だが、あなたは求めない。求めるときでさえ、あなたは受け取らないのだ。何が受け取ることを妨げているのか、探しだしなさい。


質問者 何が妨げているのか知っています。私の自我です。


マハラジ それならば、自我とともに好きにするがいい──私にかまわないでほしい。あなたがマインドのなかに閉じこめられているかぎり、私の状態はあなたの理解の彼方にあるのだ。


質問者 もう、質問することが見つかりません。


マハラジ あなたが本当に自我と闘っているのなら、もっと多くの質問をするはずだ。あなたに質問がないのは、本当は興味がないからなのだ。今現在、あなたは快楽─苦痛の原理によって動かされている。それが自我なのだ。あなたは自我とともに生きていて、それと闘っているのではない。あなたは自分がいかに完全に個人的な動機によって支配されているかに気づいてさえもいない。人はつねに自分自身に対抗しなければならない。なぜなら自我はゆがんだ鏡のように、制限し歪曲するからだ。自我はすべての暴君のなかでも最悪の暴君だ。それはあなたを絶対的に支配してしまうのだ。


質問者 そこに「私」がないとき、誰が自由になるというのでしょうか?


マハラジ 世界がたいへんな厄介者から解放されるのだ。結構なことだ。


質問者 誰にとって結構だと言われるのでしょう?


マハラジ 皆にとっていいことなのだ。自我は通りにロープをかけて交通を混乱させるようなものだ。それは単なるアイデンティティとしてそこにあるだけだ。巻き上げておきなさい。必要な時が来れば、役にも立つだろう。自我からの解放が真我の探求の成果なのだ。


質問者 私には私自身にひどく不満だったときがありました。今は私のグルと出会い、彼に自分自身を完全に明け渡し、私のマインドは平和になったのです。


マハラジ もしあなたが日々の生活を見守るならば、何ひとつ明け渡してはいないことがわかるだろう。あなたは単に「明け渡し」という言葉をあなたの語彙のなかに加え、グルをあなたの問題を吊るす留めクギにしただけだ。真実の明け渡しとは、グルによって促されるまでは何もしないことを意味する。言ってみれば、あなたは脇にのき、グルがあなたの人生を生きることを許すのだ。あなたは単に、師があなたにとって解決不可能な問題をいとも簡単に解くのを驚きとともに見守るだけなのだ。


質問者 私はここに座って、部屋を、人びとを、そしてあなたを見ています。あなたの側からはどのように見えるのでしょうか? あなたは何を見るのでしょうか?


マハラジ 何も見ない。私は見ている。だが、判断や批判で覆ったイメージをつくり出す感覚では見ないのだ。私は描写や評価はしない。私は見る。私はあなたを見ている。しかし、態度や意見は私の視野を曇らせはしないのだ。私が目をそらすとき、マインドは記憶がしがみつくことを許さない。それは即座に去り、つぎの印象のために真新しく解放されるのだ。


質問者 ここに座ってあなたを見ていると、この起こっている出来事を時間と空間のなかで位置づけすることが私にはできません。この場所で起こっている智慧の伝承には、永遠の、普遍的な何かがあるのです。一万年前、あるいは一万年後だろうと違いはありません。出来事そのものが時を超えているのです。


マハラジ 人間は時代を通して、さほどの変化をしてきたわけではない。人類の問題は同じものにとどまり、同じ答えを求めているのだ。あなたがいわゆる智慧の伝承を意識していること自体が、智慧がいまだに伝承されていないことを示している。それを得たとき、あなたはもはやそれを意識しないのだ。本当にあなた自身のものを意識することはない。あなたが意識していることは、あなたでもなければ、あなたのものでもない。あなたのものとは知覚の力であり、あなたが知覚しているものではない。意識を人の全体像として見なすのは間違いだ。人は無意識であり、意識であり、超意識だ。だが、あなたは人ではないのだ。あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。だが、映像はあなたではない。


質問者 私はグルを探求しなければならないのでしょうか? それとも、誰であれ、見いだした人ととどまるべきなのでしょうか?


マハラジ その質問自体がいまだ見いだしてはいないことを示している。実現していないかぎり、あなたはグルからグルへと移っていくだろう。だが、あなたがあなた自身を見いだしたとき、探求は終わる。グルとは道しるべなのだ。あなたが動いている間は、多くの道しるべを通り過ぎていくだろう。重要なのは最後の師だけだ。実際には、それぞれの時におけるすべての師たちが重要であり、現在はどれも重要ではないのだ。


質問者 あなたはグルに重要性を与えていないかのように見えます。彼は単に、その他多くの出来事のひとつなのです。


マハラジ すべての出来事が貢献するのだ。だが、どれも決定的なものではない。途上では、一歩一歩があなたを目的地に達するのを助ける。そしてどの一歩もほかの一歩と同じように決定的なものだ。なぜならそれぞれの一歩が避けることのできないものだからだ。もしそれを拒んだら、あなたは立ち往生してしまうだろう!


質問者 誰もがグルの栄光を賛美するというのに、あなたは彼を道しるべと比較しています。私たちはグルを必要としないのでしょうか?


マハラジ 私たちは道しるべを必要としないのだろうか? そうであるとも、ないとも言える。あなたに確信がなければ必要であり、あなたが道を知っているなら必要ではないのだ。ひとたび私たちが自分自身に確かならば、技術的な点を除いて、グルはもはや必要ではない。あなたのマインドとは、つまり道具なのだ。それをどう使うのかを知らなければならない。あなたがどう身体を使うかを教わったように、どうやってマインドを使うかを知らなければならないのだ。


質問者 マインドの使い方を学ぶことで、私は何を得るのでしょうか?


マハラジ マインドの誤用による欲望と恐れから自由になるのだ。単なる精神的な知識では充分でない。既知なるものは非本質的であり、未知なるものが実在の住処だ。既知のなかに生きることは束縛であり、未知のなかに生きることが解放なのだ。


質問者 すべての霊的修練は、個人的自己の消去にあると私は理解しています。そのような修練には鉄の決意と容赦のない専念が要求されます。そのような修練のための高潔さとエネルギーを、どこに見いだせばいいのでしょうか?


マハラジ あなたはそれを賢者との交わりのなかに見いだすだろう。


質問者 どうやって誰が賢者で、誰が単に賢いだけなのかを知るのでしょう?


マハラジ もしあなたの動機が純粋なもので、真理以外の何ものも探していないとすれば、あなたは正しい人たちを見いだすだろう。彼らを見いだすことはやさしい。困難なのは、彼らを信頼し、その助言と指導を最大に利用することなのだ。


質問者 霊的修練のためには、目覚めの状態は眠りの状態よりも重要なのでしょうか?


マハラジ 概して、私たちは目覚めの状態をあまりにも重要視しすぎる。眠りがなければ目覚めの状態は不可能だ。眠りがなければ人は狂ってしまうか、死ぬかしかない。なぜそれほどまでに、明らかに意識に依存している目覚めの状態を重要視するのだろうか? 霊的な修練のなかでは、意識だけではなく無意識にも注意を払わなければならない。


質問者 どのようにして無意識を扱うのでしょうか?


マハラジ 「私は在る」に気づきの焦点を合わせつづけなさい。あなたが在ることを覚えておきなさい。あなた自身を絶え間なく見守りなさい。そうすれば、あなたの努力なしに無意識は意識のなかに流れてくるだろう。誤った欲望や恐れ、偽りの観念、社会的抑制は意識との自由な相互作用を阻止し妨げる。ひとたび意識と無意識が自由に混ざりあえば、二つはひとつになり、ひとつはすべてとなる。個人は観照者のなかに溶け、観照者は気づきのなかに、気づきは純粋な存在のなかに溶ける。しかし、それでもアイデンティティは失われない。ただその限界が失われ変容されて、真我、サッドグル(真の師)、永遠の友達、そして導き手となるのだ。それは礼拝によって達することはできない。いかなる外的な活動によっても内なる自己に達することはできない。礼拝や祈りは表層にとどまるだけだ。より深層に、眠り、夢見、目覚めの状態を超えた彼方へ行くために瞑想は欠かせない。最初のうちは、試みにもむらがあるだろう。それからもっとたびたび起こるようになり、規則的になってくる。そして継続的に強烈になる。すべての障害が克服されるまで。


質問者 何に対しての障害でしょうか?


マハラジ 自己忘却に対してだ。


質問者 もし礼拝や祈りに効果がないなら、どうしてあなたは毎日、歌や音楽であなたのグルの写真に礼拝をするのでしょうか?


マハラジ それを望む者たちがするのだ。私が干渉するまでもない。


質問者 しかし、あなたもそれに加わっているではありませんか?


マハラジ そうだ。そう見えるだろう。だが、なぜそんなに私に関心をもつのだろうか? あなたの注意を「何が私を意識的にするのだろうか?」という質問に注ぎなさい。あなたのマインドが質問そのものとなり、ほかの何も考えることができなくなるまで。


質問者 誰もが皆、私に瞑想するように駆りたてます。私には瞑想への関心がないのです。しかし、ほかの多くのことには興味があります。私の瞑想への試みはとても生ぬるいものなのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ あなた自身に尋ねてみるがいい。「そのすべては誰にとって起こるのだろうか?」と。あらゆることを内面へと向かう機会として使いなさい。気づきの強烈さで障害物を燃やすことによって、あなたの道を照らしだしなさい。あなたに恐れや欲望が起こったとき、誤りであり去らなければならないのは欲望や恐れではなく、欲望をもったり恐れたりする個人なのだ。欲望や恐れは完全に自然で正当なものかもしれず、それらと闘うことは要点をはずしている。それらによって動揺させられる個人が、過去と未来における誤りの原因なのだ。この個人が注意深く調べられ、その虚偽性が見られなければならない。そのとき、あなたに対するその支配力は終焉するだろう。
結局のところ、あなたが眠りにつくたびに個人は退くのだ。深い眠りのなかでは、あなたは自己意識をもった個人ではない。それでもあなたは生きている。生き、意識し、しかも自己意識をもっていないとき、あなたは個人ではないのだ。
目覚めている間、あなたはあたかも舞台の上で役を演じているようなものだ。だが、芝居が終わったときのあなたとは何だろうか? あなたはあなたであるものだ。芝居がはじまる前のあなたは、芝居が終わったときも同じままとどまる。あなた自身を人生の舞台の上で芝居を演じているかのように見なさい。演技は見事なもの、あるいは不器用なものかもしれない。だが、あなたはそのなかにいない。あなたはただ、それを見守るだけだ。もちろん、興味と共感をもって。しかし、あなたは演技しながら続いていくこの芝居──人生をただ見ているだけだということを、つねにマインドにとどめているのだ。


質問者 あなたはつねに実在の認識の相を強調しています。あなたはめったに愛情や意志について語ることがありません。それはけっしてありえないことなのでしょうか?


マハラジ 意志、愛情、幸福、努力、悦楽は個人によって非常に深く汚されていて、信頼のできないものなのだ。旅の一番はじめから、純化と浄化が必要とされる。そして気づきだけがそれを与えることができるのだ。愛と意志について語るときは来るだろう。だが、その土台がまず準備されなければならない。まず、気づきの太陽が昇らなければならないのだ。ほかのすべてはそれにしたがうだろう。


02 2024/03 04
S M T W T F S
30
31
HN:
Fiora & nobody