理想像を描き、それを誰かや何かや自分に強要すると


「うまくいくこと」と相反することがでてきて、その時々で
理想 と うまくいくかどうか
を天秤にかけなければいけない場面が出てきます。
1年前に書いた教会の話はまさにそれで、霊としての良識や理想と、地上の現実の知恵は時にまったく異なるということを理解する必要があると思いました。


理想が良心に関わる場合は、良心としての理想が優先されることがほとんどです。そして現実的にもそれが最善であることが多いです。
でもそれ以外では、常に「うまくいくこと」を優先しないと、理想は空想になりかねないのかもしれません。n0045





洞窟の底の底で


真っ暗で、光源がなくて、誰も何も咎めないとき、あなたはどうありたいか、どう自分(御霊)を定義したいか、そこに自由を与える。人間社会はそういうものかもしれないと思います。綺麗事なんて役に立たないことも多いです。某国で虐殺が起きている最中逃げまどう人々は教会に逃げ込みました。殺す者は武器を手に教会に踏み込み、人々を連れ去りました。
「教会に逃げ込んだ連中を捕まえるのは最も簡単だった」
加害者はそう語っていました。人間社会には、別種の知恵が必要とされている事実から目を背けることはできません。暗い話のトーンになりましたが、上の写真は死んだふりです。n
(20180329)


マハルシ まず、あなたが何なのかを学びなさい。そのためには聖典も学識も要りません。これはシンプルな体験なのです。


「存在」の状態は常に、





今ここに在ります。自分自身を見失って、





あなたは他者に指導を求めています。


自我は立ち現れ、あなたをとらえています。あなた自身をとらえなさい。
それが起こるまでは、賢者は「在る」と言い、愚者は「どこに?」と尋ねるでしょう。

(対話132)


嫌悪感について


あなたの人生に起こることのすべては、たとえそれがどんなにひどいことで、破局やみじめさをもたらすものに見えても、そうなるように導かれてきたのです。あなたが自分の内部に向かい、自分の本質を示してくれる静寂の次元に深く沈潜することを選ぶようになるにはどうすればよいか、それをよく知っているあなたのなかの”大いなる完全性”が、そうし向けたのです。


もっとも深い意味では、意識のもつ潜在的創造性がグリッドを決めます。または、別の言い方をすると、すべて神から生まれます。けれどもこの創造力の中にはあなた自身の<個人的な>グリッドも含まれています。あなたのグリッドはあなた自身の可能性や必要性にしたがって創られ、非個人的な神の性質と個人的なあなたの過去やカルマや欲望の両方をあわせもっています。あなたは、いま自分だと思っている人間として姿を現している目覚めた意識です。<あなた>は、完全に目覚めた人間とはどういうものかという可能性のすべてを体験するために肉体をまといます。そこで、まだ体験していないことで体験する必要のあることをグリッドに設定します。自分がすでに体験して理解したことはグリッドに入れません。
たとえば過去生で僧侶だった人がいて、僧侶としての人生が不完全だったとします。僧侶であることを完全に理解する必要があるので、この理解されていない部分が別の人生に戻ってくるわけです。


自分が嫌っている相手や感情を本当に知ると、嫌悪感はなくなります。自分を怖がらせるものや自分にはとても対処できないと思う状況に人は嫌悪感を抱くのです。恐怖を感じる状況をみずから体験しないですむためには、その状況にまつわる心理を感じ取り、理解しようとする意志をもてばいいのです。また、自分とその状況とは何の関係もないのだ、そうした嫌悪したくなる状況を現在演じている人間と自分とのあいだにははっきりとした区別があるのだ、という非現実的な思いこみをなくせばいいのです。その人たちが演じてくれていることに感謝しましょう。おかげで、あなたは彼らという鏡の中に自分自身を見る機会をあたえられ、みずからそれを直接体験せずにすんでいるわけです。
どういう形であれ、あなたがほかの人に同情したり、共感したりするとき、あなたはもはやその相手から分離されてはいません。


前にも言いましたが、自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。


神とは単なる概念ではありません。それは圧倒的にすばらしい意識の感覚なのです。それは、「すべてよし。いままでもつねに完璧であったし、これからも完璧でしかない」ということを、思考を超えた次元で知り、その境地に安心して完全に憩うということです。あなたのなかには、完全に心安らかでいのちにあふれ、目覚めている部分があります。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに自由が存在します。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに完全なる心の平安と絶対的安全が存在します。それを求めてください。そうすれば見つかります。何度も何度も探してください。あなたがこの世に来たのはそのためです。それが人生の旅の目的なのです。



月が天空を舞いながら、神秘的ですばらしいやり方で暗闇を照らすとき、その青白い光の美しさにじっと見入った。われわれの野営地から上がるたき火の炎が夕暮れ時の空を照らすのを見た。野鳥が水面に降りる音や、夜の巣の中で鳥たちが動く音、そして子どもたちの笑い声を聞いた。流れ星やナイチンゲール、葦に降る霜を見つめ、湖面が凍り、別世界のような幻を創り出している湖を観察した。風が吹くにつれて、オリーブの木の葉がエメラルドグリーンから銀色に変わっていくのを見た。


自分であるものすべてを愛することが、なぜ重要なのだろうか? 自分のすべてを愛すれば、あなたはすぐに社会意識を超越するからだ。そのときあなたは、まわりから受け容れられるかどうかというレベルを超越する。…その道にこそ、在るものすべてを知っている状態があるのだ。


自分は神であるすべてを受け容れるに値するのだと感じられるほど自分自身を愛するとき、そして自分が「父」とひとつであるのを知ることを望むとき、あなたはこのすばらしい花を咲かせ始める。…知りたいと望むことによって、「知っている状態」の感情をすべて感じたいと望むことによってである。R


友よ、あなたにたずねたいと思います。あなたは現在の幸福のために「重要な」目標群をよろこんで捨てようと思いますか。いまこの瞬間がどこへつながっていくかわからないけれども、それでもこの瞬間を完全にわがものとしたい、と言いきる勇気はありますか。


あなたの心や経験のなかの混沌や混乱はすべて、完全にいま現在にいて、現在にのみ注意を向けることで乗りこえられます。これこそ奇跡的な真実です。Y


存在する全てのものの本質とは何でしょうか? それらの源は何でしょうか? それらの本質は何でしょうか? それらの運命は? これらの問いへのラムサのアプローチは、彼の「ヴォイド」という概念から始まります。ヴォイドは、存在する全てのものが生じる源です。彼はヴォイドを「物質的には何もない広大な無でありながら、潜在的に全てのものでもある」と言う風に描写します。ヴォイドの中には何もありません。つまり動きも活動もありません。神に関する問いへの哲学的なアプローチの多くは(一神教の宗教の神学も含めて)、神というものを、「全知」、「無限」、「絶対」、「超越的」、「不変」の存在とみなしてきました。ラムサの体系では、絶対性、無限性、不変性といった属性は、ヴォイドの持つ性質です。ヴォイドは自己完結的、自己充足的であり、一種の休止した状態、何も必要としない状態です。ヴォイドは、全てを包含する広大なもののように見えるにもかかわらず、その原初の状態では、自分自身について何も知りません。というのも、知るということは、ひとつの活動だからです。


アリストテレス哲学やトマス・アクィナス神学の中に私たちが見いだす、創造者としての神の概念、すなわち「第一原因」、「不動の動者」といった概念は、ラムサによって、「自分自身について熟考し、自分自身を知ろうとするヴォイド」という言葉で描写されます。この「熟考」という行為は、自分自身に気づき、自分自身を知っているひとつの点を生み出すという、ヴォイドの中での独特の動きを象徴しています。自分自身に気づいているこの点は、「ゼロポイント」、「観察者」、「第一意識」、「意識とエネルギー」、「神」と呼ばれています。ゼロポイントは、広大なヴォイドの中に潜在的可能性として含まれている未知のものをすべて体験して既知にする、という原初の意図をたずさえています。これが進化の基礎です。自分自身について熟考したヴォイドは、人間の源であり、起源です。「あなたは神である」というラムサの言葉は、人間は観察者であり、ゼロポイントが肉体化したものであり、創造的な意識とエネルギーである、ということを言っているのです。


自分のベストを尽くして、自分のパワーのバランスをとるようにし、ほかの人々の努力も認めてあげてください。自分もまわりの人々も無目的に行動しているのではないのだ、と信頼することです。あなたの子供は、あなたを親として選んで生まれてきたのです。あなたが、自分の特定のパワー因子のバランスをとろうとして、奮闘する過程をともに経験することが、あなたの子供にとって必要な課題だったからです。人は、必ず自分が必要とする課題を選び取っています。


あなたが生きているのは、行き当りばったりの世界ではありません。自分が創り上げた幻影が何であれ、それはいつかは死ぬのだということを知ることによって、”大いなる自由”を得ることができます。パワー因子のすばらしさは、あなた方が「永遠性」と呼ぶものにあります。ここで得られたバランスは、「次の次元」に行くときにもっていけます。そのバランスのなかから新しい生き方が生まれ、精神的に成長したり、他の人と分かちあうための、新たな機会が生まれます。幻影は死に、真実のみが残るのです。



質問者 世界が幻想(その無常さではなく)であるという論理を否定している、ある有能な人びとによって書かれた非常に興味深い本があります。彼らによると、最低位から最高位にわたる生きものの階層が存在し、各々の有機体の複雑性のレベルが意識の深さ、広さ、強靱さを反映していると言います。成長のための形態の進化、意識の向上、無限の可能性の表現などにおいて、一貫してひとつの至高の法則が支配しているというのです。


マハラジ そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。たとえそうであったとしても、それは単にマインドにおける視点にすぎない。だが事実は、宇宙全体(マハーダーカーシュ)はただ意識(チダーカーシュ)のなかにのみ存在し、そして私自身は至高の絶対性(パラマーカーシュ)のなかに在るのだ。純粋な存在のなかに意識が現れる。意識のなかで、世界は出現し消滅していく。存在するものはすべて私であり、すべては私のものだ。すべてがはじまる以前にも、そしてすべてが終わった後にも──私は在る。すべては私のなか、すべての生きるもののなかに輝く「私は在る」という感覚のなかにその存在がある。非存在でさえ私なしには考えることもできない。何が起ころうとも、観照者としての私がそこにいなければならないのだ。


質問者 なぜあなたは世界の存在を否定されるのでしょうか?


マハラジ 世界を否定してはいない。私は世界を、広大な未知のなかの既知全体としての意識、その意識のなかの現れとして見ている。
はじまり、そして終わるもの、それはただの現れにすぎない。世界は現れるとは言えても、存在するとは言えない。その現れは、ある時間の比率においては非常に長い間続くだろうが、ほかの比率では非常に短いかもしれない。だが、結局は同じことだ。何であれ時間の範囲内にあるものは、はかなく実在性がない。


質問者 間違いなく、あなたはあなたを取り巻く現実の世界を見ています。あなたはごく普通にふるまっているように見えますよ!


マハラジ それはあなたにとってそう見えるだけだ。あなたの意識界全体を占めるものは、私にとっては微小片にすぎない。世界は続いていく。だが、ほんのつかの間だ。記憶が、世界は継続するとあなたに考えさせるのだ。記憶のなかに生きていない私にとって、世界は意識のなかのつかの間の現れにすぎない。


質問者 あなたの意識のなかにですか?


マハラジ 「私」や「私のもの」といったすべての観念、「私は在る」という観念さえ意識のなかに在る。


質問者 それでは、あなたの「絶対存在(パラマーカーシュ)」は無意識のなかにあるのでしょうか?


マハラジ 無意識という概念も意識のなかに存在する。


質問者 それでは、あなたが至高の境地に在るとどうやって知るのでしょう?


マハラジ なぜなら、私はそのなかに在るからだ。それはただ自然な状態なのだ。


質問者 それを描写できますか?


マハラジ それは原因なく、依存なく、関係なく、分割せず、創造せず、揺らぐことなく、問うことなく、努力によっては到達できないものとして、否定においてのみ表現することができる。どのような肯定的な定義も記憶によるものであり、それゆえ適切ではない。しかし私の境地は至高の実在であり、それゆえ可能であり、実現でき、達成できるものなのだ。


質問者 あなたは時を忘れて抽象世界のなかに没頭しているのですか?


マハラジ 抽象世界は知的な、言語的なものであって、睡眠や気絶のなかで消滅し、時間のなかでふたたび現れる。私は永遠なる今のなかに、私自身の境地(スワルーパ)のなかに在るのだ。過去と未来はマインドのなかだけに在る。私は今に在る。


質問者 世界も今に在ります。


マハラジ どの世界のことだろう?


質問者 私たちを取り巻く世界です。


マハラジ あなたの世界はあなたのマインドのなかに在り、それは私のものではない。あなたとのこの会話でさえ、あなたの世界のなかにあるだけだというのに、私の何を知っているというのだろうか? 私の世界があなたの世界と同一だと信じる理由は何もない。私の世界は知覚されたままの実在、真実だ。ところがあなたの世界は、あなたのマインドの状態にしたがって現れては消える。あなたの世界は何か相容れないものであり、あなたはそれを恐れている。私の世界は私自身であり、わが家同然だ。


質問者 もしあなたが世界ならば、どうやってそれを意識することができるのでしょうか? 主観的意識はその対象から区別されるものではありませんか?


マハラジ 意識と世界はともに現れ、ともに消える。それゆえ、それらは同じ状態の二つの相なのだ。


質問者 眠りのなかで私は存在しないのに、世界は続いています。


マハラジ どうやってそれを知ったのだろうか?


質問者 目覚めとともに知るのです。記憶がそう言っています。


マハラジ 記憶はマインドのなかに在り、マインドは眠りのなかで続く。


質問者 それは部分的に停止しています。


マハラジ だが、世界のありようは影響されないままだ。マインドがそこにあるかぎり、あなたの身体と世界はそこにある。あなたの世界はマインドでつくられ、主観的で、マインドに閉ざされ、断片的、個人的で、記憶の糸にしがみついている。


質問者 あなたの世界もまたそうなのですか?


マハラジ いいや、私の世界は実在であり、あなたの世界は想像にすぎない。あなたの世界は個人的な、私的な、分かちあうことのできない、あなたにとってだけ親密なものなのだ。あなたはあなたが見るように見、聞くように聞き、あなたの感情を感じ、あなたの想いを考え、誰もそこに入りこめない。あなたの世界のなかで、あなたは本当に孤独だ。あなたが人生と呼ぶ、絶えず変わりつづける夢に囲まれながら。私の世界は開かれた世界だ。すべてに共通し、誰にでもアクセスできる。私の世界には共有性、洞察、愛、実在の質がある。個が完全であり、個のなかに全体性がある。すべては一であり、一がすべてなのだ。


質問者 あなたの世界は私のと同じように人びとや物でいっぱいなのでしょうか?


マハラジ いいや、それは私自身で満ちている。


質問者 あなたは私たちのように見たり聞いたりするのでしょうか?


マハラジ そうだ。私も見たり、聞いたり、話したり、行動するように見えるだろう。しかし、あなたの呼吸や消化作用がただ起こるように、私にとってそれらはただ起こるのだ。「身体─精神」器官がそれらの面倒を見、私は関わらない。あなたが髪の毛の成長を心配する必要がないように、私も言葉や行動についてマインドを煩わせたりはしない。それらはただ起こる。そして私は気にかけない。なぜなら、私の世界ではけっして何も間違いは起こらないからだ。


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