裏(という字)


今年に入ってから特に「裏」という字をフィオラが多用しているように感じています。いつも「裏」を読め。「裏番組」を読め。「裏事情」を読め。「裏」を推測して、と。
中国の裏。北朝鮮の裏。米国の裏。
人の「涙」だって「裏事情」のことです。
地球がいま抱えている「裏」を。人類のびっしり裏地についた長年の汚れを。
令和で日本は、人類の分水嶺に協力できるのでしょうか。
それとも誰かや独裁者の裏に敗北するのでしょうか。
一部の政治家の裏に虐げられるのでしょうか。
裏通りがスラム化して、人が飢え、心が病み、冷たい路地に和を失うのでしょうか。n0102



脱輪(だつりん)


今回は特に列車の脱輪の状態。見た目では線路上にあるように見えても、ほんのわずかの違いで決定的な脱輪を起こしていることもあります。n0054


イヤな感じ


「あれはイヤな感じがしたから、神であるはずがない。何かほかのものにちがいない」この台詞は学んでいる途中でもよく言ってしまう台詞です。すべては神である、これを真底日常で理解すべく努めるには「自分は肉体の個人である」という概念の採用を取りやめ、呪縛を破り捨てる必要があります。なぜなら、私たちって人間にしか見えないんですから。手足ありますし、しがらみだらけです。「何か」が手足としがらみを体験している構造、この構造が生きて動いている最中は見えないんです。だから死ぬまで霊として肉体をスポンと抜けるという意味がわからないし、霊体さえも抜けて光(愛の光)になるという意味がわかりません。光(愛)の軌道の中心が神(無)になるなんて思い出しにくいです。そんなことを考えるくらいなら日常でやることがたくさんあります。実はベッドで寝ている人が、ニューヨークで活動する夢を見ている、ニューヨークで多くのピンチに巻き込まれるんですが、最大のピンチの時も本当の姿はベッドで寝ているんです。この構造が、ニューヨークで活動中は思い出せないんです。
では寝ていることを思い出せばいいのか? それが違うんです。神が望むことは、私たちが望むことであり、「私たちに自由に決めさせる」という原則を宇宙に適用しています。その中で、愛と叡智の強さに応じたヒエラルキーが神界の下に霊界としてできているんですね。何をどうするかは私たちが決めているんです。現実というのは私たちの
1、顕在意識が望むこと
2、みえない意識が望むこと
この複合でできています。2番が厄介なんです。不幸の原因はほぼすべて2番のせいだからです。n
(20180402)


Krishnamurti あるがままのものの観察


―あるがままのものの観察、あるがままのものに“なる”こと―


理想(比較)なき観察―「あるがまま」と「あるべき姿(こうありたいもの・こうであって欲しいもの)」 あるがままのもの=現にあるもの、今、現に、このように存在する私の知覚的・心理的事実 瞑想は、「あるがままのもの」からの逃避ではない。それは、あるがままのものを理解し、そしてそれを超えることである。 あるがままのもの(=今、現に存在する私の心理的/経験的事実・現状)を理解することなしに瞑想は、 一種の自己・現実・問題からの逃避になるに過ぎない。瞑想とは、私・自我の感覚を生み出す思考の全活動を、一個の事実として理解することなのである。


それ自身の内部で、現在、実際に進行しつつあることに、どんな選択も是非判断もなしに気づいていること。 その基礎は「何かに到達する」という希望の一切ないところに敷かれます。希望を持つなら、この現状―絶望―から逃げているのです。 希望を持つのではなく、絶望を理解しなくてはなりません。 「あるがままのもの」の理解のなかには希望も絶望もありません。


動いている自己を観察し、それに学んで下さい。 それを見守り、それに破壊することなしに気づいていて下さい。 「私はそれを変えなければならない」「私はそれを取り除かなければならない」と言わないで。何の取捨選択もなしに、何の常識的・文化的・教義的な是非判断もなしに、ただそれを見守って下さい。 そのとき、その見守り-学ぶことの結果、自己は消え去ります。


この心の浄化は、意志によるものでも宗教的な訓練の結果でもありません。 いま在るものへの全的な気づきが、唯一の解放者なのです。


もし、あなたがあるがままのものを見るなら、あなたは世界全体を見ます。 あるがままのものを否定することに葛藤の始まりがあります。 世界の美しさはあるがままのもののなかにあります。 そして、努力なしにあるがままのものと共に在ることが徳なのです。


私たちは、私たち自身のありのままの生を見なければなりません。 果てしのない不満足さと空虚さを、 決して満たされることのない欲望と葛藤を、 そして、様々な娯楽、刺激物への逃避を。 非難も選択もすることなしに、恐怖や願望の歪みもなしに、 いま現にそうである私たち自身の姿を観察しなければならないのです。


そのとき、その観察のなかに、とてつもない変化が生じるのです。


いま現に、あるがままの姿(現実・事実)と、あるべき姿(観念・理想・理念)のあいだの矛盾・葛藤に 莫大な量のエネルギーが費されています。 この矛盾が無くなったなら― つまり、瞬間的・心理的に反対物を作り出してしまい、 そこへ移行しようとすることによって、事実あるものを見ない、ことを止めてしまったなら― 変容に必要なエネルギーは充分に存在するのです。 この反対物のあいだの闘いが、エネルギーの浪費を引き起こしているのです。


性的、生物的欲望などへの非難や修正、制御もまたエネルギーの浪費を引き起こします。 しかし、それらを非難することなく、そのなかに入り込み、それと共に流れ、 それと一つになってそれを見つめ、それを理解していくことができるなら、 そこにエネルギーのロスはないのです。 この豊富なエネルギーが変容には必要なのです。


ある瞬間において「あるがままのもの」は、恐怖や、ひどい絶望、束の間の喜びであるかもしれません。


結局、いわゆる修行を実践している人たちは、 彼らがいつか達成することを望んでいる遠くにある観念を追求しているので、 今、ここにある現実を見ることがありません。 彼らは常に明日の観点から考え、自分自身を訓練します。


未来において実現されるであろう理想像を心に思い描き、 「そう(で)あるべきだ」と考えるものを実現しようと、常に努力し、自己訓練しています。


彼は自分自身のなかで、現在、正に起こっている過程の全体を決して理解しようとはしません。 そうではなく未来の理想にのみ関わっているのです。


野心的な人間は誰よりもいちばん恐れている人間である。 なぜなら、彼はあるがままの自分であることを恐れているからだ。


困難なのは、 「あるがままの事実(現実)」から走り去ってしまうことなしに、それと共に留まる、ということです。


我々の反応・応答のたいていが、事実(現実)からの逃避の行為となっているため、 逃避しないでそれと向きあうことが、これほどにも難しいこととなっているのです。


しかし、真の実在はあなたの近くにあるのです。 遠くにそれを求める必要はありません。 真理を求める人は、決してそれを見つけないでしょう。 真理は「あるがままのもの」のなかにあるからです。 そういう真理こそ、美しいのです。


それに反し、 あなたが真理を自分の知識に基づいて思い描き、それを追求し始めた瞬間から、戦いが始まるのです。 戦う人は理解することができません。 ですから私たちは、注意深く、受動的に、 この「あるがままの生、あるがままの、今、存在するもの」を観察しなければならないのです。 いま現に存在するものについて、それを否定したり、何かに変えようとするのではありません。 あるがままのものの知覚それ自体が、その変容をもたらすのです。


しかし「あるがままのものの見方」を知らなければなりません。 それは… 「どんな取捨選択もなしに、ただ全的に観察すること」なのです。 山登りを私は信じません。 “登り”など、ないのです。 「私はこれだが、いずれそれになる」など、ないのです。 あるのはただ「これ」のみです。 「これ」を変えなさい―それがすべてです。 心がもはや、「あるがままのもの」を避けておらず、抵抗しておらず、 それに単純に、受動的に、気づいているとき― その受容性のなかに変容が生じているのを知るでしょう。


私たちは理想が必要だと考えます。 しかし理想は私たちのなかに、この根源的な変化をもたらすのに役立つでしょうか。 それとも、それは単に、私たちが変化を延期し、未来に押しつけ、 それによって即座の根本的な変容を避けるのに役立つだけでしょうか。 確かに、私たちが理想を持つかぎり、私たちは決して本当には変化せず、 実際には、即座の根源的変容を避けるための延期の手段として、その理想を利用しているだけなのです。 理想は欠くことのできない大切なものであるということが、私たちの多くにとって当然のことだと思われています。 それなしには変化のはずみがないだろう、 それなしには、腐敗し、淀んで、腐るだろう、と私たちは考えるからです。


しかし、何らかの種類の理想が本当に私たちを変えるでしょうか。 私たちはなぜ理想を持つのでしょうか。 私が暴力的なら、非暴力の理想を持つ必要があるでしょうか。 非暴力の追求は、心を暴力から解放するでしょうか。 それとも、非暴力の追求(への欲求)そのものが、実際には暴力の理解を妨げているのでしょうか。


結局、私が心の全体で、問題=心の暴力性に完全な注意を注ぐときのみ、 私はそれ=暴力性を理解することができます。 そして、私が「暴力性」という事実と、その事実の理解に全面的に関わるとき、 非暴力の理想がどんな意味を持つでしょうか。 理想の追求は、現実・事実の回避、変容の未来への延期なのではないのでしょうか。 私が暴力を理解するつもりなら、私の心の全体を、それに注がなければなりません。 非暴力の「理想」によって注意をそらされていてはなりません。 これは本当に、非常に重要な問題です。


私たちの多くは、理想を自己変革の本質的な要因とみなします。 しかし実際には、心が暴力そのものの全体を理解するときにのみ本質的な変化があるのであり、 暴力を理解するためには、あなたはそれにあなたの全面的な注意を注がなくてはなりません。 理想によって注意をそらされていてはなりません。 ひとが暴力を完全に注意して見ることができ、それを完全に理解することができるなら、 そのとき多分、それを根源的に解決する道が見えてくるのです。


非暴力を習慣的に実行する人は、本質的に自己中心的であり、 したがって、その言葉の真の意味において「暴力的」です。 謙虚を習慣的に実行するひとは決して謙虚ではありません。 なぜなら、謙虚を獲得する、あるいは何であれ徳を養成するという過程が 自己中心性のもう一つの現われに過ぎず、 それは本質的に邪悪で暴力的だからです。 私がこれを非常に明確に見るなら、そのとき私はどうしたらいいでしょうか。


どんな風に私は、暴力から心を解放することに取り掛かったらいいのでしょうか。 私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている。 「あのようになりたい」という絶え間ない葛藤が私たちを苦しめ続ける。 あなたが一度も「瞑想」という言葉を聞いたことがなければなあ、と思います。 あなたが一度も、静かであるとはどんなことか、 心が静かなとき、その向こうに起こるかもしれないことについて、聞いたことがなければなあ、と思うのです。 もしも、あなたがこれらのことを、何も、一度も聞いたことがなく、 ありのままのあなたの生を― 悲惨、葛藤、苦しみに満ちたあなたの日常の生を―処理するだけであったなら、 その観察のなかに「他なるもの」が起こり得るかもしれないでしょうに。 しかし、あなたはそれを理解しようとはせずに他のものを望んでいます。


それが私が、「もしも、あなたが知ることなしに始めることができたらなあ」と言う理由です。 私は思考によって触れられていない実在があるかどうか知りません。 私はそのように宗教的な心があるかどうか、本当に何も知らないのです。


質問者:人間の生の究極的な意味、あるいは目的は何でしょうか。


クリシュナムルティ:私たちの生には意味や目的があるでしょうか。 私たちは目的を考え出すことはできます。 ―完璧な悟り、至福の状態に到達すること、と云った。 あるいは果てしなく理論を考え、それを自分の生の主題として生きていくこともできます。 私たちの生には、 幾ばくかのお金を稼ぎ、馬鹿げた種類の娯楽にそれを費やすこと以外、何の意味も目的もありません。 理論のなかにではなく、実際に、自分自身の生のなかに、このすべてを見ることができます。 自分自身のなかの果てしない戦い、目的の、悟りの追求、 世界中に―インドや日本に―瞑想の技術を学ぶために行くこと。 あなたは千もの目的を考え出せます。 しかし、あなたはどこへ行く必要もありません。 ヒマラヤにも、僧院にも、どんな道場にも。 なぜなら、あらゆるものがあなたのなかにあるからです。 どうやって見るのかを知るなら、最高のもの、測り知ることのできないものが、あなたのなかにあるのです。 「あるがままのもの、測り得るもの」を通して、あなたは「測り知れないもの」を見出します。 それは、あなたが自分自身で始めなければならないことです。 それをどうやって見るのかを知ることです。 それは、観察者なしに見ることなのです。 努力とは、あるがままのものをそれとは違ったものに― つまり、あるべきものに変える闘いを意味しています。 私たちは、あるがままのものに直面することを怖れるため、 絶えずそれに制御や修正という形で働きかけ、 それを見ることを避けるのです。 私は、どんなときにも自分や他人を測定しません。 この測定のない状態は、実際にあるがままのものと共に生きるとき、 あるがままのものを善悪の規準で判断しないときにやってきます。



「見つける人」は、いま現在より以上に神が存在することはけっしてない、ということを少なくとも知っています。


知るためにはどうすればいいでしょうか?


自分の存在のなかでいままでとは違った賛美歌を歌い、いままでとは違ったマントラを唱えるのです。


「私の目の前に何があろうともそれは神である。何であろうとも、それは神だ。神はいま、この瞬間に、この呼吸とともに存在し、私が見るものすべてのなかに、私が聞くものすべてのなかに存在する」こう断言するのです。
「あれはイヤな感じがしたから、神であるはずがない。何かほかのものにちがいない」と、言ったりしないことです。


神がすべてのもののなかに存在するということを、信じることはまだできないかもしれませんが、信じるよう努めてみてください。期待感と希望を持って待つのです。


自分以外の人間や、まわりで起こっている出来事を見るときに、自分は”神の大いなる光”のなかにいるのだ、ということを忘れないでください。あらゆるものの本質は愛です。そのことを忘れないようにつねに努力するならば、そうした覚醒意識を得るのを妨げているものが少しずつ明らかになってきて、やがて消えていきます。このことを忘れないでいると、”大いなる光”以外のものはどれでも一時的なものであり、生まれては消え、やってきては去っていく、つかのまのはかない障害物にすぎないのだ、ということがわかってきます。不断に変化する考えや信念などというカムフラージュの陰にある、実在するものにつねに意識を向けてください。


人は、自分とは肉体のことだと思っています。人はまた、カルマや輪廻転生があると深く信じているので、過去をなかなか捨てられないし、”大いなる光”が”大いなる光”に出会っているのだ、ということに気づけません。


”大いなる光”が”大いなる光”に出会うと、その結果、よりパワフルな”大いなる光”が生まれます。どんな方法を用いてでも、あらゆるものは神なのだということを覚えていられるならば、自分の悩みの本質がはっきり見えてきます。B


あなたは誰が自分の運命を創造していると思っているのだろうか? 多くの人間が、ひとりの至高の存在がすべての者を操り、すべてのことを起こしていると信じている。そう信じていれば、自分自身の人生に対する責任という重荷をもはや背負う必要がなくなるからだ。しかし、あなたの運命を支配しているのは、あなたである。この瞬間に考えていることや感じていることによって、あなたは自分の人生のあらゆる瞬間を創造している張本人である。あなたが学ぶ必要があるのは、この瞬間、この「今」こそが、まさに永遠そのものであり、それは絶え間なく続いていくということだけだ。そして、この「今」という絶え間ない継続性の中では、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのだ。それは昨日にとらわれているわけではない。明日を夢見て現実化するためにあなたが創造したのは、この「今」という瞬間である。それゆえ、この瞬間に、あなたは自分が望むどんなことでもできる自由を持っている。それが「父」のあなたへの愛である。その愛とは、それぞれの瞬間を新たに創造していくために、「父」があなたに与えてくれた自由と力のことである。


過去というものは、すでに体験されたひとつの「今」にすぎず、もはや存在しないものである。過去が現在と関係している点があるとすれば、あなたはすでに過去から学べることをすべて学んだのだということだけである。つまり、あなたが自分自身の内奥の思考プロセスと意図的なデザインにしたがって、自分の能力を最大限に発揮しながらこの瞬間を創造するための叡智を、過去はあなたにもたらしたのだ。


過去は終わったものである。それはもはや存在しない。この「今」という瞬間においては、過去はあなたの内面で叡智としてのみ生きている。叡智こそが、過去があなたにもたらしてくれたものである。それゆえに、この「今」という瞬間のあなたは、これまでの人生の中で最も偉大なのだ。R



質問者 私は公認会計士を引退し、妻は貧しい女性たちのための社会奉仕活動に従事しています。息子がアメリカへと旅立つため、見送りに来たのです。私たちはパンジャブ地方出身ですが、現在、デリーに暮らしています。私たちにはラダ・ソアミ教* のグルがいます。そして、サットサン、聖者との交わりを高く評価しています。ここに連れてこられたことをたいへん幸運に感じています。今まで多くの聖者たちに出会ってきました。そして今、もうひとりに出会えることを嬉しく思っています。


(*訳注 ラダ・ソアミ教 開祖シヴァ・ダヤール・サーヒブによって一八六一年に創設された宗派。シーク教徒とヒンドゥー教徒が主な信奉者。第三の目を通して内なる光と音の流れに意識を向けることが彼らの主要な修練。またサットサンを重視している)


マハラジ あなたたちは多くの隠者や苦行者に出会ってきた。だが、神性(スワルーパ)を意識した完全に真我実現した人を見いだすことは困難なのだ。聖者やヨーギたちは計り知れない努力と犠牲によって多くの奇跡的な力を習得し、人びとを助け、信仰心を起こさせるといった善行を施すことができる。それでも、それが彼らを完全にすることはない。それは実在への道ではなく、単に偽物に豊かさを与えただけなのだ。すべての努力はより多くの努力へと導く。何であれ構築されたものは、維持されなければならない。何であれ得たものは、衰退や喪失から保護されなければならない。何であれ失われるものは自己のものではないのだ。そしてあなた自身のものでないなら、いったいあなたにとって何の役に立つというのだろう? 私の世界では、何も強要されることはない。すべてはひとりでに起こるのだ。すべての存在は時間と空間のなかにあり、限定され、一時的なものだ。私は「何が存在するか」や「誰が存在するか」には関心がない。私の立場はその彼方に在る。私はその両方であり、そのどちらでもないところに在るのだ。
多くの努力と苦行を終えてその野心を満たし、より高次の体験と行為を得た人たちは、たいていの場合、彼らの地位を鋭敏に意識している。彼らは人びとを最低の未達成者から最高の達成者までに分類し、階級のなかに類別してしまう。私にとっては皆が同等だ。現れや表現のなかの違いはそこにあっても、それは問題ではないのだ。金の装飾品の形が金そのものに影響を与えないように、人の本質も影響を受けることはない。この同等の感覚が欠けているならば、それはつまり、実在には触れられていなかったということだ。
単なる知識では充分ではない。知る者が知られなければならないのだ。学者やヨーギは多くのことを知っているかもしれない。だが自己が知られていないとき、単なる知識が何になるというのか? それは間違いなく誤用されてしまうだろう。知る者が知られなければ平和はありえないのだ。


質問者 人はどのようにして、知る人を知るのでしょうか?


マハラジ 私自身の体験から知っていることだけをあなたに話そう。私がグルに出会ったとき、彼は私に言ったのだ。「あなたはあなたが自分自身だと見なしているものではない。あなたが何であるのかを見いだしなさい。『私は在る』という感覚を見守り、あなたの真我を見いだしなさい」と。私は彼に服従した。なぜなら彼を信頼したからだ。私は彼が言ったとおりにし、許すかぎりの時間を、沈黙のなかで自分自身を見つめることに費やした。そして、何という変化をもたらしたことか! それもこんなに早く! 三年という短い時間で、私は真我を実現したのだ。私がグルに会ったすぐ後、彼は死んでしまった。だが、それは何の違いももたらさなかった。私は彼が私に言ったことを、たゆまず覚えつづけていたのだ。その成果は、私とともにここにある。


質問者 それは何なのですか?


マハラジ 私は真の私自身を知っているのだ。私は身体でもマインドでもなく、知的能力でもない。私はそれらすべてを超えているのだ。


質問者 あなたはただの無なのでしょうか?


マハラジ ばかなことを言ってはいけない。もちろん、もっとも実質的に、私は存在している。ただ、私はあなたが考えているような私ではないのだ。これがあなたにすべてを伝えるだろう。


質問者 それは何も私に伝えていません。


マハラジ なぜなら、それは語ることのできないものだからだ。自分自身の体験をもたなければならないのだ。あなたは物質的、精神的なものを扱うことには慣れている。私はものではなく、あなたもまたものではない。私たちは物質でもなくエネルギーでもない。身体でもなくマインドでもない。ひとたびあなたが自己の存在の一瞥を得るなら、私を理解するのは難しくないと知るだろう。
私たちは聞き伝えでたくさんのことを信じてしまう。遠くの土地や人びとのこと、神や女神のことなどを、ただそう聞いたというだけで信じてしまうのだ。同じように、私たちは自分自身について、両親や名前、地位や義務などについて話を聞いてきた。一度もその真偽を確かめることなしに。真実への道は、虚偽の破壊を通っていくものだ。偽りを破壊するために、あなたはあなたのもっとも根深い確信を疑わなければならない。そのなかで、あなたが身体であるという確信が最悪のものなのだ。身体とともに世界が現れ、世界とともに、世界を創造したと考えられている神が現れる。このようにして、恐れ、宗教、礼拝、捧げ物、あらゆる類の体系がはじまるのだ。すべては自らがつくり出した怪物に正気を失うほどおびえた幼稚な人間を保護し、支持するためのものだ。あなたは生まれることも、死ぬこともできないものだということを悟りなさい。そうすれば恐れは去り、すべての苦しみは終わるのだ。
マインドが発明したものは、マインドが破壊する。だが、実在は発明されたものではなく、破壊することもできない。マインドの力が及ばないそれをつかまえなさい。私があなたに話していることは、過去のなかにも、未来のなかにもない。また、今起こっているような日々の生活のなかにもないのだ。それは永遠であり、その永遠性の全体はマインドを超えている。私のグルと、そして彼の言葉、「あなたは私自身だ」は、永遠に私とともにある。はじめのうちはそれらにマインドを固定させなければならなかったが、今ではそれも自然なものとなった。グルの言葉を真実として受け入れ、日々の生活の細部にわたって、自発的にそれによって生きるようになったそのときが、真我の実現の戸口に立ったときなのだ。ある意味では、それは信頼による解放だ。だが、その信頼は強烈で、持続しなければならない。
しかしながら、信頼そのものだけで充分だと考えてはならない。信頼が行為のなかで表現されることが実現への手段なのだ。それはあらゆる手段のなかで、もっとも効果のあるものだ。信頼を否定し、論証のみを信じる教師もいる。実際には、彼らが否定するのは信頼ではなく、盲信なのだ。信頼は盲目的なものではない。それは試みようとする意志なのだ。


質問者 すべての霊的修練のなかでもっとも効果的なのは、単なる観照の態度だと聞きました。それは信頼とどのように比較されるのでしょうか?


マハラジ 観照の態度もまた信頼なのだ。それは自分自身への信頼だ。あなたとはあなたが体験するものではないと信じ、すべてに距離をおいて見ることだ。観照に努力はいらない。あなたはあなたがただの観照者なのだと理解し、その理解が働いていく。それ以上何も必要ないのだ。ただ、あなたが観照者だということを覚えていなさい。もし観照の状態のなかで、「私は誰か?」と自分自身に尋ねれば、その答えは直ちにやってくる。ただ、それは言葉ではなく、沈黙のものだ。
起こっているすべてのことの主体となり、客体であることをやめなさい。ひとたび内側に向きを変えたなら、あなたは主体を超えたあなた自身を見いだすだろう。あなた自身を見いだしたとき、あなたは客体をも超えていることを見いだす。主体と客体はともにあなたのなかに存在するが、あなたはそのどちらでもないのだ。


質問者 あなたはマインド、マインドを超えた観照意識、そして気づきを超えた至高なるものについて語ります。それはつまり気づきさえも実在ではないという意味なのでしょうか?


マハラジ あなたが実在─非実在という言葉で論じるかぎりは、唯一実在でありうるのは気づきだけだ。だが、至高なるものはすべての区別を超えているため、それに「実在」という言葉は適用しない。なぜなら、そのなかではすべてが実在だからだ。それゆえ、そのように名づけられる必要もない。それは実在の源そのものだ。それは、何であれそれが触れたものに実在性を分け与えるのだ。


質問者 しかし、誰が世界を創造したのでしょうか?


マハラジ 宇宙のマインド(チダーカーシュ)がすべてを創造し、破壊する。至高なるもの(パラマーカーシュ)が、何であれ存在のなかに現れたものに実体を与えるのだ。それを宇宙的な愛と呼ぶことが、言葉によってはもっとも近いものと言えるだろう。それは愛のように、すべてを真実に、美しく、望むべきものにするのだ。


質問者 なぜ、望むべきものなのでしょうか?


マハラジ いけないかね? 創造されたすべてを互いに反応しあうようにさせ、人びとを結びつける強力に引きあう力は、もし至高なるものからでなければ、どこからやってくるというのだろうか? 欲望を避けてはならない。ただそれが正しい経路を流れていることを見なさい。欲望なしには、あなたは死んだも同然だ。だが、低次の欲望とともにあるなら、あなたは亡霊と同じなのだ。


質問者 至高なるものにもっとも近い体験とはどのようなものでしょうか?


マハラジ 計り知れない平和とかぎりない愛だ。何であれ、宇宙のなかに真実で、高尚な、美しいものがあれば、それはすべてあなたから現れたのだと自覚しなさい。あなた自身がその源なのだ。世界を指揮する神や女神は、もっとも素晴らしい荘厳な存在かもしれない。それでも彼らは、彼らの主人の富と力を宣伝する、豪華に着飾った召使いのようなものなのだ。


質問者 どのようにして人は至高なるものに到達するのでしょうか?


マハラジ すべてのより低い欲望を放棄することによってだ。より低い欲望に満足するかぎり、最高のものを手にすることはできない。何であれ満足させるものが、あなたを引き止めるのだ。すべてのものの不満足さ、はかなさ、限界を悟らないかぎり、そしてすべてのエネルギーを大いなる熱望に集めないかぎり、最初の一歩さえも踏めない。その反対に、至高なるものへの誠実な欲望は、それ自体至高なるものからの招きなのだ。身体的、精神的なものがあなたに自由を与えてくれることはない。ひとたび束縛はあなたがつくり出しているということを理解し、自分を拘束する鎖を鋳造することをやめれば、あなたは自由なのだ。


質問者 どのようにして、グルへの信頼を見いだせばいいのでしょうか?


マハラジ グルを見いだし、また彼を信頼することはまれな幸運だ。それはそうそう起こることではない。


質問者 それは運命に定められているのでしょうか?


マハラジ それを運命と呼ぶことでは何も説明されない。それが起こったとき、あなたにはどうしてそれが起こったのかを言うことはできない。そして、それをカルマや恩寵、または神の意志と呼ぶことは、単にあなたの無知を覆い隠すだけだ。


質問者 クリシュナムルティは、グルは必要ないと言っています。


マハラジ 誰かが至高の実在と、それへの道について語らなければならないのだ。クリシュナムルティがしていることは、ほかの何ものでもない。ある意味では、彼は正しい。ほとんどのいわゆる弟子たちは、彼らのグルを信頼していないのだ。彼らはグルにそむき、グルを放棄してしまう。そのような弟子たちにとってはグルをもたないほうが、そして導きを得るために、ただ内面を見ることのほうがどれだけ良かったか知れないのだ。生きたグルを見いだすことは稀な機会であり、大いなる責任でもある。これらのことを軽く扱ってはならないのだ。あなたたちは天国を買おうとやっきになって、値段の額を支払えばグルがそれを与えてくれると想像している。わずかばかりを捧げて、多くを要求する売買契約を求めているのだ。あなたが騙しているのは、ほかでもないあなた自身なのだ。


質問者 あなたはグルから、「あなたは至高なるものだ」と言われました。そして彼を信頼し、そのとおりに行動したのです。何があなたにこの信頼を与えたのでしょうか?


マハラジ 私はただ、道理を聞き分けただけだ。彼を疑うとしたら、愚かなことだっただろう。私を惑わせることで、いったい彼がどんな利益を得るというのだろうか?


質問者 あなたはある質問者に、私たちは同じであり、同等だと言われました。私にはそれが信じられません。私に信じられないのなら、あなたの表明が私にとって何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ あなたの不信は問題ではないのだ。私の言葉は真実であり、それはその仕事をする。これがサットサン、聖者との交わりの美しさなのだ。


質問者 ただあなたの近くに座っているだけで、それを霊的な修練だと考えることができるのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。生命の川は流れている。その水のいくらかはここにある。だが、たいへんな量の水がすでに目的地に到着しているのだ。あなたは現在しか見ていない。私は遥か彼方の過去と未来を、あなたが何であるか、そしてあなたが何になることができるのかを見ているのだ。私には、あなたを私自身としてしか見ることができない。違いを見ないこと、それが愛の本質なのだ。


質問者 どうすれば、あなたが私を見るように、私自身を見ることができるようになるのでしょう?


マハラジ もしあなた自身を身体だと想像しなければ、それで充分だ。災いをもたらすのは「私は身体だ」という想念なのだ。それはあなたを真実の本性に対して、完全に盲目にしてしまう。ほんの一瞬でさえ、自分が身体だと考えてはならない。あなた自身にいかなる名前も形も与えてはならない。実在は闇と沈黙のなかで見いだされるのだ。


質問者 私が身体ではないという確信をもって考えなくてはならないのでしょうか? どこにそのような確信を見つけることができるのでしょうか?


マハラジ あたかも完全に得心したかのようにふるまいなさい。そうすれば、確信はやってくるだろう。単なる言葉が何の役に立つというのだろう? マントラや精神的パターンは助けにならないだろう。しかし非利己的な行為、身体の関心事とその利益のすべてから自由になった行為が、あなたを実在の核心そのものに連れていくだろう。


質問者 確信なしに行為する勇気を、私はどこから得るというのでしょうか?


マハラジ 愛があなたに勇気を与えるだろう。もしも誰か本当に称賛すべき、愛するに足る崇高な人に出会ったなら、あなたの愛と敬慕が、あなたに高尚にふるまおうという衝動を与えてくれるだろう。


質問者 称賛するべき人を称賛するということを、誰もが知っているわけではありません。ほとんどの人びとはまったく感受性に欠けているのです。


マハラジ 生命が彼らに真価を認めさせるようにするだろう。積まれてきた体験の重みが、彼らに見る目を与えるだろう。称賛に値する人に出会ったなら、あなたは彼を愛し、信頼し、彼の助言にしたがうことだろう。他の者たちが称賛し、愛するに足る完全な模範を示すこと、これが自己実現した人の役目だ。その人の人生と人格の美しさは、公益のための途方もない貢献なのだ。


質問者 私たちは成長のために苦しむべきではないでしょうか?


マハラジ そこに苦しみがあり、世界は苦しんでいるということを知るだけで充分だ。快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。ただ理解だけがそれをもたらすのだ。ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、それを超えていこうとする衝動とエネルギーを見いだすだろう。快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。至福を通してだけでは、あなた自身を知ることはできない。あなたの本性そのものが至福だからだ。悟りを得るためには、あなたではないもの、対極と向き合わなければならないのだ。


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