存在の中心と肉体の中心はちがう


わたしたちに最後まで付き添ってくれるのは存在の中心であり、肉体の中心ではありません。同様に「思考の中心」もちがいます。ですから損得の中心でもありません。財産も同様です。ほんとうの財産とは存在の中心であり、あとは描かれた絵に相当します。そのため所有権も絵であり、実質は暫定貸与です。剣をもって斬ったり斬られたりということの極致は、斬ることも斬られることもない「位」を見いだすことにあります。それどころかあらゆる絵は位を見いだすためにのみあります。わたしたちは往々にして、これら暫定貸与の絵を自分のもののように振り回します。自分にとってのプラスマイナスのゲームにしてしまいます。そして本質がそれではないことを知らせるために強く叩かれるのです。または言い方を変えると、発生したなんらかの衝撃(絵)を本質を思い出すためにのみ役立てるという宿命に呑み込まれます。神を見くびった者が一人だけいるとしたら、それは自分でしかないということなんです。賢者が無知をただ一人免れることができるのは目的がないから、剣と同じです。n


自分彫刻


像は最初から塊の中にあって、それを「発掘」していく作業である感じがする、そうおっしゃる彫刻家の伝統的な体感は、人生そのものにもそのまま言えることだと思います。ノミの角度や一刀に籠める想いは掘り出される像に影響し続けます。全体のテーマは流れの中にあっても、自分がここだけは譲れないというアクセントが誰にもあるはずです。像にも、彫刻家にも、その想いは一体となって貫かれます。それが全体のテーマである「神」「自由」と「感謝」「挑戦」の対になることを望んでいます。n
(20180407)


人間は、好き嫌いの感情を善悪の判断とすり替えてしまう癖がある。林修
ありますね、こういう自己欺瞞。職業としての裁判官でない限り、大切なことは自分がどうしたいかです。人を悪と非難している間、自分は前に進んでいません。観念で裁いたつもりになることは自分にとって危険です。n
(20180407)


今この瞬間にあるものが何であれ、
「それを無条件に体験することができるようになるまで」
”神意識”を実感することはできません。


自分の心の傷を取り除こうとして、幾世にもわたってまわりの人間にそれを投影したり、それを感じることを拒否したりしてきた部分が、誰のなかにもあります。さらに、本当はひどくみじめに感じているくせに、<万事好調>だと思い込もうとして、危なっかしく生きている人もいます。彼らは、「あらゆることが”大いなる光と愛”であるのならば、なぜ自分はまだ苦しんでいるのだろうか」という、この一見矛盾した現象の存在を認めることを拒否しているわけです。


このように感じる人は、神の存在と苦痛の存在をどう両立させればいいのか、という難問に直面しています。神がいるということは、人生の苦痛や悩みがないことだ、と今まで教えられてきました。そこで、苦痛があるということは神が存在しないことだ、ということになります。
ところが、真実はまったくそうではないのです。この矛盾を解くには、苦しみや悲しみの気持ちを充分味わいつくして、そのあとで、「これを感じているのは誰なのか」と自問することです。最初はエゴが顔を出して、頭で考えた答えを出すようにし向けるでしょう。意識のあらゆる力を使って、「誰なのか」という問いに戻る努力をしてください。それが真の理解へ通じる道です。


神のすべてのレベルを体験し、それらについてじっくり考えてみることによって、すべての生命についての叡智と理解を得ることができるのだが、「神なる人間」にまだなったことのない者たちは、神のすべてのレベルをまだ体験していない。この天界の壮麗さの一部となるために、この天界に旅した者たち、つまりこの天界を進化させ、山々を動かし、色を創造し、荘厳なるモニュメントを創造した者たちだけが、愛や喜びや創造の複雑さを理解できるのだ。これらの旅人たちだけが(あなたもこの旅人であるわけだが)、永遠というものの理解、そして永遠を追い求める願望を手に入れたのである。なぜなら、すべての生命のために永遠というものを創造したのは、彼らだからだ。というのも、物質の天界がある限り、生命が無限の創造性へと絶え間なく続いていくことができるからだ。したがって、男であること、女であること、人間であることは、まさにひとつの特権である。それは名誉なことなのだ。それはまさに神聖なる生なのである。


あなた方が「天使」と呼んできた言葉がある。あなた方の中にも、このような神聖な存在になることを望む者がたくさんいる。だが、天使でいることには大きな制限がともなう。なぜなら、彼らはまだ人間として生きていないため、バランスのとれた判断力を持っていないからだ。彼らは単なるエネルギーであり、最終的には「神なる人間」になっていく神々である。また、彼らには人間に対する同情心、あるいは思いやりといったものがない。実際にあなたになる前に、見えない世界にいる者にどうやってあなたのことが完全に理解できるのであろうか? 人間は天使よりもずっと進化しているのである。なぜなら、天使たちには、人間と呼ばれる制限された形態の中に生きる神についての理解がないからだ。それゆえに、人間と、人間の喜びや悲しみについての彼らの理解は、限られているのである。


私はあなた方に言うが、人間の一員となることは聖なる体験である。というのも、人間になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、あなたは天の王国の全領域を旅したことになるのである。


それゆえ、人間になることによって、あなたは自分を堕落させたわけではない。あなたはこのことを理解しなければならない。というのも、人間になったことがなければ、あなたはけっして、天の王国に完全に入るということができないからだ。人生というものに降下したことがないのに、いったいどうやって天国にアセンドすることができるというのか?


人間になることは価値のあることなのだ。それはなるに値するものである。全能の神と呼ばれる、自分の内に宿るこの炎を理解するために、人間になるのは賢明なことである。すべての生命はこの炎でできている。そして、物質でできた至高の知性、すなわち人間と呼ばれるものを通してこの炎を体験すれば、神とは何なのかについて、完全な視野を与えてくれるのだ。そして、あなたが神であるものをすべて完全に理解したとき、あなたは「父」そのものになるのである。


さて、あなた方がこの天界にいるのは、いま宿っている化身の密度を通して神の探求を続けるためだ。あなた方のこの創造的進化を支えているのは、生命と呼ばれるものであり、それはひとつの原子をそのあるべき形に保ち、地球を宇宙空間の中に保持しているのと同じ生命力である。この生命力には、ひとつの普遍的な法則がある。それは、つねに進化し続け、つねに拡大し続け、つねに何かになり続けるということだ。それゆえ、あなたが生きる目的はつねに、生きることを体験してそこから学び、学んだものを統合しながら発展させ、それを生命と呼ばれる根本原理の中に還元していくことなのである。



「途上国支配に最も有効な方法は債務漬けにすること」ジグレール教授の経済講義


<資本主義とは何か。格差の現実をどう理解すべきか。今こそ知るべきこれらのテーマについて、スイスの政治家であり社会学者ジャン・ジグレールが平易に解説する(シリーズ第2回)>


グローバル化が進む中、「格差」や「貧困」が大きな問題として取り上げられることが増えてきた。「世界人口の約半数と同じ富がわずか26人の富裕層に集中している」(国際慈善団体オックスファムの最新のレポート)といった格差の「現実」が報道されるたび、激しい反発を引き起こす。


貧困と社会構造の関係について人道的立場から発言を続けるジャン・ジグレールは、スイスの政治家であり社会学者。そうした資本主義の「負の側面」を語るのにうってつけの人物だ。


そもそも資本主義とは何か。途上国の負債がふくらみ続けるのはなぜか。格差が「人を殺す」とはどういうことか。


こうした疑問を出発点に、できるだけ平易な解説を試みたのが、ジグレールの新著『資本主義って悪者なの?――ジグレール教授が孫娘に語るグローバル経済の未来』(鳥取絹子訳、CCCメディアハウス)だ。


ここでは本書から一部を抜粋し、3回にわたって掲載する。この第2回ではジグレールが孫娘のゾーラに、途上国の債務の「隠された真実」について解説する。


※第1回:「給与所得者の保護政策はどの国でも後退している」ジグレール教授の経済講義


◇ ◇ ◇


7 隠された真実――発展途上国は先進国への債務返済に追われている


●でも、豊かな先進国は発展途上国の人たちが食べられるよう、たくさん支援しているんじゃないの?


――いや、それが違うのだよ、ゾーラ。実際に起きているのはまったく逆のことだ。貧しい発展途上国の人たちは、先進国にお金を払うために必死に働いているのが現実だ。彼らは、先進国のとくに支配者階級にお金を払っているのだよ。現在、発展途上国を支配するのにもっとも有効な方法は、債務漬けにすることだ。


お金の流れは、「発展途上国 → 先進国」のほうが、「先進国 → 発展途上国」より多いのだよ。貧しい国々が豊かな国に年間支払うお金は、人道支援や開発援助と称して、投資の形で受けとる金額よりも多くなっている。


人々を支配するのに、機関銃やナパーム弾、装甲車などはまったく必要ない。現在は債務で事がすんでいる。そうして、たとえばアフリカ大陸ではとんでもないことが起きている。アフリカの人々の35.2パーセント以上が深刻な栄養不良に陥っているのだ。


●だけどなぜ? 学校で習ったのは、アフリカには肥沃(ひよく)な土地がたくさんあって、人口密度も低い。だから、みんなのための土地がある!


――こういう状況になったおもな原因は、まさにこれらの国が負う債務にある。これについては説明が必要だろうね。


債務には2つあり、国が負う債務の「ソブリン債」(外国通貨建て国債)と、それと民間企業が負う債務を合わせた「グローバル債」を区別しなければならない。


そしてここではソブリン債だが、発展途上国すべてを合わせた総額は――ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカは新興国に属するので除く――、2016年、1兆5000億ドルを超えるという天文学的な数字になっている。


この債務が、貧困国にとって金縛りのようになっている。どういうことになっているのか、説明しよう。


アフリカの農民の大半は、化学肥料も作物用の種も入手できず、農業銀行もなければ、強力なトラクターも、灌漑設備もない。というのも、各国政府は対外債務に押しつぶされており、国庫には農業に投資するお金が一銭もないからだ。


少しでも入ったお金――セネガルは落花生、マリは綿の輸出で――は、債務利子や減価償却(返済)の名目で、そのままヨーロッパやアメリカの銀行に行ってしまう。結果、農業に投資するお金が一銭も残らない。


ちなみにサハラ砂漠より南のアフリカでは、人工的に灌漑が行われているのは農地の3パーセントのみ、その他の農地では、いまだに天水農業が行われ、3000年前とまったく変わらないのだ。


農業機械に関しての状況も悲惨だ。世界ではトラクターが約4000万台使われているが、動物による農具がまだ3億台もある。この問題が決定的になっているのだね。


たとえばカナダ中西部の肥沃な地サスカチュワン州の大平野では、200馬力のトラクターのおかげで農民がひとりで2000ヘクタールを耕している。しかし、発展途上国の農民27億人の大半は、現在もなお鉈(なた)や鋤(すき)だけで畑を耕している......。


●この債務はどこからくるの?


――まず、これははっきり言っておく。債務は、世界の弱肉強食の理念と、グローバル化した金融資本のオリガーキーの立場を保証しているということだ。植民地からの独立が続いた時代に、世界銀行やIMF(国際通貨基金)といった国際組織が、第三世界の国々に莫大な資金を貸付け、西欧の資本主義をモデルにした工業化と、インフラの開発を推奨した。


植民地は消滅したが、しかし、旧宗主国は引き続き旧植民地の資源を開発し、場合によっては市場も開設した。これらの国の一部の独裁政権は貸付けを利用して武器を購入し、戦争をして、国民には圧政をしいた。


貧困国が銀行に利息も減価償却も払えなくなり、万策尽きると、返済の猶予や再分割、さらには債務の減額まで頼む事態に陥ってしまう。そして銀行側はこの状況を利用する。つまり、債務国の要請を――いずれにしろ一部――、きわめて厳しい条件つきで受け入れるのだ。


条件とは、鉱山や電気通信の公共サービスなど、採算性のある少数企業を民営化させ、外国――つまり債権国――へ身売りさせる。あるいは、これらの国で事業展開する多国籍企業への不当な税制の特権、自国軍に装備する武器の強制的な購入、などだね。


●ということは、そうなると、債務国はお金がないので国を正常に運営できず、独立性を失うのでは?


――たしかにそうだね、ゾーラ。債務の支払いができなくなると、国は国家予算に組み込まれた支出を減額しなければならなくなる。


それで苦しむのは誰だろう? いわずとしれた国民で、最初にくるのが底辺にいる貧困層だ。ブラジルの大地主や、インドネシアの支配階級は、公立学校が閉鎖されても困らない。子どもたちはフランスやスイス、アメリカの学校で勉強しているからだね。


公共病院が閉鎖されたら? これも気にしない。家族はジュネーヴの大学病院やフランスのヌイイ=シュル=セーヌのアメリカン病院、ロンドンやマイアミのクリニックで治療を受けている。


負債の重圧は最初に貧困層を苦しめるのだ。


●だけど、いまも、この負債がふくらみ続けているのはどうしてなの?


――そのいちばんの原因は現在、貿易の不均衡にある。債務国は原材料、とくに農業――綿、コーヒー、砂糖、落花生、ココアなど――の輸出国であることが多いのだが、そのために必要な生産財―機械やトラック、薬品、セメント......など――は輸入しなければならない。


ところが世界市場では、この20年間、生産財の価格が6倍以上になっているのに対し、農業産品の価格は下がりつづけている。一部の価格、コーヒーや砂糖は崩壊しているといっていいだろう。こうして債務国は、破産を避けるために新たな借り入れ契約を結ぶはめになっているのだ。


負債のもう1つの原因は、発展途上国の国家財政が乱脈をきわめていることだ。買収行為がはびこり、スイスやフランス、アメリカなど先進国の民間銀行と積極的に連携した組織的な汚職が猛威をふるっている。


旧ザイール、現コンゴ民主共和国の独裁者だった、故ジョセフ・デジレ・モブツ元大統領一家の財産は、約40億ドルだったと言われている。これらは先進国の銀行に隠されていた。彼が亡くなったとき、コンゴ民主共和国の対外債務は130億ドルにもなっていた......。


もう1つの原因としてあげられるのは、ここに農業産品やサービス業、産業、商業の多国籍企業、あるいは国際的な銀行がかかわっていることだ。これらさまざまな大企業は現在、発展途上国のおもな経済分野を支配し、多くはけた外れの利益を得ている。


しかし、これらの利益の大部分は、毎年、ヨーロッパや北米、中国、日本にある本社に外国為替の形で送還され、現地の貨幣で再投資されるのはほんの一部だけだ。

2019年3月8日(金)10時05分
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部



質問者 私の質問は、「何が真理の証拠なのか?」ということです。すべての宗教の信奉者は、形而上学的、政治的、哲学的、あるいは倫理学的のいずれにせよ、彼らのものが唯一の真理だと確信させられています。ほかのすべては偽りであり、彼らの揺るぎない信念を真理の証拠と見なしています。彼らは、「私は納得した。それゆえ、それは真理に違いない」と言うのです。私にとってはいかなる宗教、哲学、教義、あるいは観念体系も、どんなに完全で、感情的に訴え、内面的矛盾を持たないとしても、それ自身の真理の証拠にはならないように見えるのです。それは衣服のようなもので、時間や環境によって、流行の流れにしたがって変化していくものです。
それでは、誰かの信念に依存しない真の宗教、あるいは哲学というものがありうるのでしょうか? 聖典でさえも同様です。なぜなら、それも誰かの信仰に依存するからです。信頼することに依存しない、主観的ではない真理があるのでしょうか?


マハラジ 科学はどうだろうか?


質問者 科学は堂々巡りです。それは感覚とともに、はじめた場所で終わるのです。それは経験を扱い、そして経験とは主観的なものなのです。二人の個人が同じ体験をすることはありえません。それでも彼らは同じ言葉で表現するかもしれません。


マハラジ あなたはマインドを超えた彼方の真理を探さなければならないのだ。


質問者 私はもう充分なほどの超越状態を体験してきました。どんな薬物でも、安価に、そして即座にそれを誘発できるのです。呼吸や精神的な訓練によって起こされた伝統的なサマーディ(三昧)もまた、たいした違いはありません。酸素サマーディや二酸化炭素サマーディがあり、思考の連鎖やマントラの復唱による自己誘導されたサマーディもあります。単調性は眠気をもたらすだけです。いかに荘厳なものであれ、私にはサマーディを真理の証拠として受け入れることはできません。


マハラジ サマーディとは体験を超えたものなのだ。それは特質のない状態だ。


質問者 体験の不在は不注意によるものです。それは注意とともにふたたび現れます。目を閉じることが光の不在を証明するわけではありません。実在を否定的な状態に帰属させることは、どこへも私たちを連れてはいかないでしょう。否定そのものが肯定を含んでいるのです。


マハラジ ある意味では、あなたは正しい。だがあなたは何があなたのマインドのなかに描いている真理で、どのような証拠があなたを満足させるのかを説明することもなく、真理の証拠を求めているということがわからないだろうか? もしあなたの証明を信頼するなら、あなたは何であれ証明することができるのだ。しかしあなたの証拠が本物だと何が証明するのだろう? あなたが知っているのは、あなたが存在するということだけであるのを、私はたやすくあなたに容認させることができる。あなたが持つことのできる唯一の証拠は、あなたなのだ。だが私は実在(リアリティ)と単なる実存(イグジスタンス)を同一視しない。実存は一時的であり、つねに時間と空間のなかにある。一方、実在は不変ですべてに浸透しているのだ。


質問者 私は何が真理か、何によって証明できるのかも知らないのです。どうか私を私自身の源に投げ返さないでください。私は何ももっていないのです。ここではあなたが真理を知る人であり、私ではありません。


マハラジ あなたは真理の証拠としての証言を拒絶している。あなたにとっては他者の体験は役に立たないものだ。多くの証人の間で一致した表明による結論も、あなたはすべて拒否してしまう。それゆえ、何があなたを満足させる証拠なのかを私に伝えるのはあなたなのだ。何があなたの評価にとって有効な証拠だろうか?


質問者 正直なところ、何が証拠となるのか自分でもわからないのです。


マハラジ あなた自身の体験でさえもかね?


質問者 私の体験でもなければ、私の存在でもありません。それらは私が意識していることに依存するものです。


マハラジ では、あなたが意識していることは何に依存するのだろうか?


質問者 わかりません。以前なら、私の身体によって、と答えたことでしょう。現在では、身体は二次的で根本的なものでないとわかるので、存在の証明として考えることができません。


マハラジ 過ちと不幸の源である「私は身体だ」という観念をあなたが放棄したことは喜ばしいことだ。


質問者 私は知的に放棄したのです。しかし、個人としての特定の存在感覚はいまだに私とともにあります。「私は在る」と言うことはできますが、私は何なのかを言うことはできません。私が存在していることは知っています。しかし、何が存在しているのか、私は知りません。どのように表現してみても、私は未知に直面するのです。


マハラジ あなたの存在そのものが真理なのだ。


質問者 もちろん、私たちは同じことを話しているのではありません。私は何か抽象的な存在ではありません。私は個人であり、限定され、その限定に気づいています。私は事実です。しかし、私はもっとも非現実的な事実なのです。個人としての一時的な存在の上に構築できるようなものは何もありません。


マハラジ あなたの言葉はあなたよりも賢明だ! 個人としてのあなたの存在は一時的なものだ。だが、あなたはただの個人なのだろうか? あなたは本当に個人なのだろうか?


質問者 どうやって答えればいいのでしょうか? 私の存在の感覚は、私は在ることだけを証明します。それは私から独立したものは何も証明しません。私は相対的存在です。相対的な創造主と創造物の両方なのです。絶対的真理の絶対的証拠──それは何なのでしょうか、どこにあるのでしょうか? 単なる「私は在る」という感覚が実在の証明になりうるのでしょうか?


マハラジ もちろん、なりはしない。「私は在る」と「世界は在る」は関連し、条件づけられている。それらは名前や形を投影するマインドの傾向のせいなのだ。


質問者 名前と形、観念と信念、しかし真理ではありません。もしあなたに出会わなかったなら、私は真理も含めたすべての相対性を受け入れたことでしょう。そして推測によって生きることを学んだことでしょう。ですが、私はあなたに出会い、絶対なるものが手の届くところにあり、もっとも望むべきものであるということをあなたから聞きました。平和、至福、永遠、不死といった言葉が、苦痛と恐れからの自由を示すものとして、私の注意を引いたのです。生来の本能である快楽の追求と好奇心が呼び起こされ、私はあなたが開いた領域を探検しはじめました。それらはみなもっとも魅力的であり、それゆえ当然、私は尋ねるのです、「それは達成できるものなのでしょうか? それは真理なのでしょうか?」と。


マハラジ あなたは「砂糖が甘いことを証明してくれれば、それをもらうよ」と言っている子供のようだ。甘さの証明は砂糖のなかにではなく、口のなかにあるのだ。それが甘いことを知るためには、味を知らなければならない。ほかに方法はない。もちろん、あなたは「それは砂糖でしょうか、それは甘いのでしょうか?」と尋ねることからはじめることができる。そしてあなたが味わうまでは私の保証を受け入れる。ひとたび味わえば、すべての疑いは消え去るのだ。そしてあなたの知識は直接の、揺るぎのないものとなる。私は、あなたに私を信じるように頼みはしない。ただ、はじめるのに充分なだけは信頼してほしい。それぞれの段階がそれ自体を証明、あるいは反証するのだ。あなたは真理に先立って真理の証拠がほしいようだ。では、証明の証明はどうなるのかね? 見なさい、あなたは後退しているのだ。それを止めるためには、証拠を求めることをやめ、真理としての何かを、まず受け入れなければならない。それが何かは重要ではない。それは神、あるいは私、あるいはあなた自身かもしれない。どの場合でも、あなたは何か、あるいは誰か未知なるものを真理として受け入れるのだ。さて、もしあなたが、たとえ一瞬でも受け入れた真実にしたがって行為するならば、すぐにもつぎの段階に移るだろう。それは闇のなかで木に登るようなものだ。最初の枝に足をかけて、はじめてつぎの枝をつかむことができる。科学はそれを実験的研究方法と呼ぶ。論理を証明するために、先達の実施指導にしたがって実験を進めていくのだ。霊的探求における実験の連鎖をヨーガと呼ぶのだ。


質問者 多くのヨーガがありますが、どれを選択すれば良いのでしょうか?


マハラジ もちろん、すべてのジニャーニは、彼がもっとも親密に知っている自分の歩いた達成への道を提案することだろう。しかし、彼らのほとんどは非常に寛大であり、探求者の必要に適した助言をするのだ。すべての道はマインドの浄化へとあなたを導く。不純なマインドは真理を不透明にする。純粋なマインドは透明だ。真理はそれを通して容易に、明らかに見ることができるのだ。


質問者 すみません。しかし、私には私の困難を伝えるすべを見つけられません。私は真理の証拠について尋ねていたのです。そして、それに到達する方法を与えられたのです。私がその方法にしたがい、ある望むべき、すばらしい状態を達成したとします。どのようにしてその状態が真実のものだと知ることができるのでしょうか? すべての宗教は信仰からはじまり、ある恍惚状態を約束します。その状態は実在のものでしょうか? それとも信仰の産物でしょうか? なぜなら、もしそれが誘発された状態なら、はじめから私は関わらないでしょう。たとえばキリスト教徒は言います。「イエスはあなたの救世主です。信じなさい。そして罪から救われなさい」と。私が罪を犯しているキリスト教徒に、イエスへの信仰にもかかわらず、どうしてあなたは罪から救われてはいないのかときくと、彼は、「私の信仰心が完全ではないからです」と答えるのです。またしても、私たちは悪循環のなかにいます。完全な信仰なしには解放もありません。解放がなければ、完全な信仰心もないのです。完全な信仰心というものはありません。それゆえ、解放はないのです。満たすことの不可能な条件を強いられ、それから、それらを満たしていないことを非難されるのです。


マハラジ あなたは現在の目覚めの状態が、無知から起こるものだということを認識していない。あなたの真理の証拠についての質問は、実在における無知から生まれたものなのだ。「私は在る」という点で、あなたは意識のなかの感覚的、精神的状態に触れている。一方、実在は瞑想されず、触れられず、体験されないままだ。あなたは二元性をあまりにも当然のことと見なしていて、それに気づいてさえもいない。だが、私にとって多様性や変化は分離を生みださないのだ。あなたは実在が名前と形から離れてあると想像している。だが、私にとって名前と形は、実在の絶えず変化する表現であり、それから離れてはいないのだ。あなたは真理の証拠を求めている。だが私にとっては実存すべてが証拠だ。あなたは実存(イグジスタンス)から存在(ビーイング)を切り離し、実在(リアリティ)から存在(ビーイング)を切り離している。だが、私にとってはすべてがひとつなのだ。どれほど目覚めの状態の真実性に確信をもっていようとも、私が自分の話でしているように、あなたはそれを永久不変のものだと宣言することはない。しかし、それでも私は私たちの間に違いを見ない。ただあなたはものごとを想像しているだけであり、私はそうしないだけなのだ。


質問者 最初にあなたは私から真理に関して尋ねる資格を奪い、それから私に想像について非難するのです! あなたにとって想像であるものが、私にとっては真理なのです。


マハラジ あなたがそれを調べてみるまではそうだろう。何もあなたを非難しているわけではないのだ。ただ、賢明に質問するよう求めているだけだ。あなたの知らない真理の証拠について探し求めるよりも、あなたが知っていると信じている証拠について調べてみなさい。そうすれば、あなたは何も確信できるものがなく、人伝え聞いたことを信じているだけだと知るだろう。真理を知るためには、あなた自身の体験を通らなければならないのだ。


質問者 私はサマーディや超越状態がひどく恐ろしいのです。その原因が何であろうとも。酒、喫煙、高熱、薬物、呼吸、歌、揺さぶり、踊り、旋回、礼拝、セックス、断食、マントラ、あるいはめまいのするような抽象観念は私を目覚めの状態から追いだし、未知ゆえに何か驚くべき体験を与えるのです。しかし、その原因がやめば、結果は消え去り、残るのは記憶だけです。容易に忘れることはできませんが、それでも消え去るのです。
すべての方法とその結果を放棄しましょう。なぜなら、結果は方法に縛られているからです。新たな質問をしましょう。真理を生みだすことはできるのでしょうか?


マハラジ あなたが探しにいけるような真理の住処がどこかにあるというのかね? そしてどうやってそれを見つけたと知るのだろうか? それを試すためのどんな試金石をもっていくというのだろう? あなたは「真理の証拠とは何か?」という最初の質問に後戻りしたのだ。その質問自体に何か間違いがあるに違いない。なぜなら、あなたにはそれを何度もくり返す傾向があるからだ。なぜ真理の証拠が何かと尋ねるのだろうか? あなたが真理を直接知らないから、そして騙されることを恐れているからだろうか? 真理とは「真理」という名前をつけた何かであり、もし本物なら、それをもつことは有益だとあなたは想像しているのだ。だからあなたは騙されることを恐れているのだ。あなたは真理を買いに来た。だが、商人を信頼することができない。あなたは偽造品や模造品を恐れているからだ。


質問者 私は騙されることを恐れているのではありません。私が私自身を騙すことを恐れているのです。


マハラジ だが、あなたは本当の動機に無知であることによって自分を騙しているのだ。あなたは真理を求めている。だが、実際には永遠に続く安楽を探しているだけなのだ。いかなるものも、どんなマインドの状態も永遠に続きはしない。時間と空間のなかではつねに限界がある。なぜなら時間と空間自体が限定されているからだ。そして時間を超えたもののなかでは「永遠に」という言葉は意味をもたない。「真理の証拠」についてもまた同様なのだ。非二元性の領域ではすべてが完全で、それ自体の証拠であり、意味と目的なのだ。すべてがひとつであるところでは、どのような支えも必要とされない。あなたは永久性が真理の証拠だと想像している。より長く継続するものが、より真理に近いのだと。時間が真理のはかりとなってしまった。そして時間がマインドのなかにあるため、マインドが判定者となり、真理の証拠をマインドそのもののなかに探求するのだ──まったく不可能で絶望的な仕事だ。


質問者 あなたが「何も真理ではない。すべてが相対的なのだ」と言われるのなら、私も同意したでしょう。しかし、あなたは真理、実在、完全な知識はあると主張しています。それゆえ、「それは何なのでしょうか、どうやって知ることができるのでしょうか?」と尋ねているのです。それでは、何が私に「そうです。マハラジの言うとおりです」と言わせるのでしょうか?


マハラジ あなたは証明、証拠、権威の必要性にしがみついている。まだ真理が示され、「見なさい、ここに真理がある」と言われる必要があると想像しているのだ。そうではない。真理は努力の結果、旅路の果てにあるのではない。それは今ここに、その熱望と探求そのもののなかにあるのだ。それはマインドや身体よりも近い。「私は在る」という感覚よりも近いのだ。あなたがそれを見ないのは、あなた自身からずっと遠くを、存在の核心の外を見ているからだ。あなたは真理を対象化し、あなたの証明と審査の基準に合うべきだと言い張っている。だが、それはものごとや思考にしか当てはまらないのだ。


質問者 あなたの言われることから察するに、真理は手の届かないところにあり、私にはそれについて語る資格がないということです。


マハラジ あなたには資格があるばかりではなく、あなたが真理そのものなのだ。ただあなたは偽物を真理だと勘違いしているだけだ。


質問者 あなたは、「真理の証拠について尋ねてはならない。真理でないものだけに関わりなさい」と言われているようです。


マハラジ 真理の発見は、偽りを識別することのなかにあるのだ。あなたは存在しないものを知ることができる。在るものは──あなたはただ在ることができるだけなのだ。既知にとって、知識は相対的なものだ。ある意味では、知識は無知の片割れなのだ。無知のないところに知識の必要があるだろうか? それ自体では、無知も知識も存在していない。それらは単なるマインドの状態であり、また本質的に不変である意識の運動の現れなのだ。


質問者 真理はマインドの領域内にあるのでしょうか、それともそれを超えているのでしょうか?


マハラジ そのどちらでもない。それは両方だ。それを言葉で表すことはできない。


質問者 表現不可能(アニールヴァーチャーニヤ)……これがつねに私の聞いてきたことです。それが私を賢くすることはありません。


マハラジ それがしばしば無知を覆い隠すことは本当だ。マインドはそれ自体がつくり出した言語で働くことができる。ただ、それ自体を超えていくことはできないのだ。感覚的でも精神的でもなく、しかも、それなしには感覚的なものも精神的なものもありえないものが、感覚的なものや精神的なものに含まれることはありえないのだ。マインドには限界があることを理解しなさい。マインドを超えていくには、沈黙とひとつにならなければならないのだ。


質問者 行為が真理の証拠だと言うことはできるでしょうか? 真理は言語化することはできませんが、行動に表すことはできるかもしれません。


マハラジ 行為でも無為でもない。それはどちらも超えているのだ。


質問者 人は「そうです。これこそ真理です」と言うことができるのでしょうか? あるいは彼は偽りを否定することに制限されているのでしょうか? 言い方を変えれば、真理は純粋な否定なのでしょうか? あるいはそれが断言となる瞬間がやってくるのでしょうか?


マハラジ 真理は描写できない。だが、体験されることができるのだ。


質問者 体験は主観的であり、分かち合うことができません。あなたの体験は、私を今いるところに置き去りにするのです。


マハラジ 真理は体験できるが、それは単なる体験ではない。私はそれを知っていて、あなたに伝えることができる。だが、あなたがそれに対して開いているときだけだ。開いているとは、ほかの何も求めないということだ。


質問者 私は恐れと欲望でいっぱいなのです。それは私が真理を知るには適格ではないということでしょうか?


マハラジ 真理は良いふるまいに対する褒美でも、何かの試験が通ったことへの賞でもない。それをもたらすことはできないのだ。それは原初のもの、不生、存在するすべての太古の源なのだ。あなたは適格だ。なぜならあなたは在るからだ。あなたが真理に値する必要はない。それはあなた自身のものなのだ。ただ、それを追いかけることによって、それから逃げだしてはならない。沈黙しなさい。静かで在りなさい。


質問者 もし身体を落ち着かせ、マインドを静かにさせなければならないのなら、どのようにすればいいのか教えてください。自己覚醒のなかで、私は身体とマインドが私のコントロールを超えた原因によって動かされているのを見ます。遺伝と環境が私を絶対的に支配しています。宇宙の創造者である偉大な「私は在る」も、薬物によって一時的に、あるいは一滴の毒によって永久に消し去ることができるのです。


マハラジ またしても、あなたは自分を身体と見なしている。


質問者 たとえ私が骨、肉、血としてのこの身体を退けたとしても、いまだに思考、感情、記憶、想像でできた希薄な身体として残るのです。それでさえ非─私として退けても、私は意識として残ります。それもまたある種の身体なのです。


マハラジ あなたの言うとおりだ。だが、そこで止まる必要はない。その彼方へと行きなさい。意識も、その中心の「私は在る」さえも、あなたではないのだ。あなたの真の存在は完全な非─自己意識だ。粗大、微細、あるいは超越、何であれすべての自己同一から完全に自由なのだ。


質問者 私自身が彼方のものだと想像することはできます。しかしどのような証拠があるのでしょう? 在るためには、私は誰かで在らねばなりません。


マハラジ それは正反対だ。在るためには、あなたは誰でもない人にならなければならない。あなた自身を何か、あるいは誰かだと考えることは死、そして地獄だ。


質問者 古代エジプト人は薬物や魔術の影響によって身体から追いだされ、実際に外側に立ち、横たわった自分の姿を見るという秘教儀式の存在を認めてきました。このことが彼らに死後の存在の実在を確信させ、国家と寺院に多大な利益をもたらす究極的な運命への深い関心を生みだし、身体を所有する個人との自己同一化の儀式が存続したのです。


マハラジ 身体は食物からできている。そしてマインドは想念からできている。それらをあるがままに見なさい。あなたが何であるのかを知る必要はない。あなたが何ではないかを知れば充分なのだ。あなたであるものを知ることはけっしてない。なぜならすべての発見が克服すべき新たな次元を開くからだ。


質問者 それは永遠に無知であり続けるという意味でしょうか?


マハラジ それは無知がけっして存在しなかったことを意味するのだ。真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。そして、発見にははじまりも終わりもないのだ。限界を疑いなさい。そして超えていきなさい。一見、不可能と見える仕事を自らに託しなさい。それが道なのだ。


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