終電未だ


(人を新しい世に乗せるための)終電、または船や飛行機の最終便はフィオラによるとまだ出ていないそうです。私は昨年の8月28日や今年の2月5日でほぼ終わりかと思っていたので認識が引っくり返されました。
ただ強調していたのは、その猶予は向こう側の現在進行形の「努力」によるものであって、慢心や食いつぶすための時間ではないとのことでした。
いまならまだ、大神様の本線に乗り換えるためのチャンスは機能しているということのようです。n0021


学生の頃から知っておきたかったこと


良心に従うこと、思いやり、が最優先されるということです。全てに対して、全局面で、これこそが万能の支配者です。それは自分に対してもですし、自分と絡んだ人たちの背景や、涙や、事情に対してもそうです。私がフィオラに叱られたことの第一位がこれでした。人のも自分のも「涙」を理解しようとしない人間に何故愛がわかるのですか? 「涙」と「愛」は同じものです。そう言われました。今イライラしているなら、どこか別の瞬間に逃げたいなら、自分に聞いてください。関わった人の「涙」を理解しようとしていましたか? 天があなたに学ばせたかったことがもしもあるのだとしたら、彼らの「涙」、あなたの「涙」はどこに位置しているのでしょうか? もう一度よく質問を聞いてください。どこに位置しているのですか? そう聞かれて何も答えられなくなる、その繰り返しでした。n
(20180401)


質問者 幻影には段階があるのでしょうか?


マハルシ 幻影そのものが幻影なのです。幻影はそれを超えた者によって見られるはずです。そのような「見る者」が幻影の支配を受けるでしょうか? 「見る者」が幻影の段階について語ることなどできるでしょうか?
映画の画像がスクリーンの上に投影されています。火は建物を灰へと焼き尽くし、水は船を難破させるかのように見えます。それでも、画像がその上に映し出されるスクリーン自体は、焼けることもなければ濡れることもありません。なぜでしょうか? なぜなら画像は実在ではなく、スクリーンが実在だからです。
同様に、鏡の中の反映は移り変わりますが、反映されたものの量や質に鏡が影響を受けることはありません。
それゆえ、世界は「一なる実在」の上に現れた単なる現象でしかなく、実在が現象から影響を受けることはないのです。実在はただ一つです。
幻影に関する議論は、見る角度の違いによるのです。

(対話446)


真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。


エネルギーが動くままにまかせて、エネルギーにしたがうようにすると、エネルギーはそれ独自の道を開いてくれます。まるで奥山にわきでた小さなせせらぎが軽やかに山を流れ下りるかのようです。


悲しみ、苦しむというエネルギーの動きであれ、楽しい喜びのエネルギーの動きであれ、人生のなかに変化があるときには、あなたは命を感じています。そうしたときに、パワー因子の動きを感じているのです。この動きに対する自覚こそが、パワー因子に対処するときに、あなたが必要とする力です。


自分を愛しているのなら、とぎすました意識のなかにいる方法を何か見つけてください。そのような意識の中心に自分をすえることで、人生の困難に出合ったときに頼りとなる力の基盤を、育てることができるからです。B


風になったとき、自分がこれまでどれだけ限られた存在であったか、そして自然界の力がどれだけ自由であるかが、よくわかった。風になったとき、私は形を持たない見えない力となったのだ。それは脈動する光であり、分割できないものであった。風としての私は、谷や峡谷の間を通りぬけ、山々や海や雲の層の中を通りぬけて、自由に動くことができたが、私の姿を見ることができる者はいなかった。そして、風のように、木々の葉をエメラルド・グリーンから銀色に変えたり、大木を動かすこともできたし、赤ん坊の肺や愛する者の口の中に入り込んでから、ふたたび雲の中に戻ってそれを押しやることもできた。風になったとき、私は最高の動力となったのだ。それは、けっして飼い慣らすことのできない激しい動きであり、完全に自由であった。つまり、重さからも、大きさからも、時間からも解放されていたのである。


風になったとき、人間は自分自身について無知であれば、どれほど小さく無力であるか、そして知識の中へと自分を広げていけば、どれほど偉大になれるかを、私は理解した。ただ単に望むことを通して、長い間何かについて熟考すれば、それが何であろうと人間はそれになるのだということも知った。もしある人間が、自分は不幸で、魂もなく、無力なのだと自分にずっと言い続ければ、その人間はそれを信じるようになり、実際にそうなってしまうのだ。自分を「風の主(あるじ)」と呼ぶならば、その人間は風の主になる。私が風の主となったように。そしてもし人が自分自身を神と呼ぶならば、その人間は実際に神となるのである。R



人生で、あれもこれもと多くのことをしようとすればするほど、死は恐ろしいものになります。死は、それらの行為の終わりだからです。それは思考の終わり、他人の考えや行動に感情的に反応することの終わりともなります。死は分離の終わり……つまり身体の終わり、条件づけられた心(マインド)の終わりです。


身体を抜け出たときには、もはや考える心、計画を立て、夢を描き、プランをひねりまわす心はありませんが、人と人の交流は一瞬にして起きます。なぜでしょうか。


心には本来、制限がないからです。時間や空間に縛られてはいません。あらゆる障壁を突きぬけます。


あなたが、そしてあなたがたが、経験にあわせて切りつめ、制限した心のこの部分のみが、人生では体験されていました。


死は主観的なものの終わり、分離された心の終わりです。それはあなたが理解しているような形の交流の終わりです。なぜならあなたの心の交流は、分離した個別のふたつの心のあいだでしか経験されていないからです。そういうコミュニケーションの経験は幻想にすぎません。つまりそれは、制限なきものであるはずの経験の、極端に制限された描写にしかすぎないのです。死が近づいた人は、この世の知覚の制限をこえた現実(リアリティ)があることを知っています。その世界では、交流はひとりでにそしてすべてをふくむ形で起きます。言い換えると、あなたが考えていることを知らない人はなく、しかしそれはあなたにとってなんの不都合でもありません。あなたも、ほかのみなが考えていることを知っているからです。


そこには人に秘密にされている個人的考えはありませんから、あらゆる制限の強い考えは、制限の少ない考えによって、すみやかに是正されます。自己という感覚は、思考によって定義されていますから、思考自身が制限をこえて拡大してゆくにつれ、”自己”もたえまなく拡大してゆくような感じになります。


おもしろいことに、たったいまこの瞬間にも、あなたは苦労や意識的な努力なしに、制限なき存在と交流しているのです。あなたの身体は光に浸されています。ハートは無条件の愛を受けとることができ、心は真理を直接に把握できます。こうしたことは、あなたが静かにして体験したいと思いさえすれば、すべて可能です。


いったん肉体を離れたあなたには、もう選択はありません。準備ができていようがいまいが、その経験の中に入ります。もしそれに抵抗するなら、真理を徐々に段階的に体験させてくれる、また新たな制限された肉体へと吸いこまれてゆきます。もしあなたに無条件の愛の経験をする準備ができていれば、あなたはいままでに抱いたすべての恐怖心と、自分に課したことのあるすべての制限を通りぬけて、恐怖心と制限を超えた場所へと移行してゆきます。そこはいわゆる天国と呼ばれるところです。


天国に入ること、生死のサイクルに終止符を打つこと、ニルヴァーナ(涅槃)に入ること、カルマを超越すること、条件づけられた心を抜け出すこと、これらはみな同じひとつのことです。すべて、意識の旅の最終目標です。万人がみな、ここにいたります。だれでも最後にはそれを達成します。


あらゆるスピリチュアルな修行の形態は、あなたがたの時間の節約のために存在しているにすぎません。それらはいま、ここにある無条件の愛と恵みの体験へと、あなたを招きよせます。行為を止め、思考を止め、はからいや計画を捨てることへと招きます。沈黙の中での自分自身との一体感へと、つれていきます。兄弟たちのあなたに対する思考や行動を、あなたが自分をどう考えているかの鏡として見るようにさせてくれます。


それらの修行は、人生の縦糸横糸を、たったひとつの考え、ひとつの呼吸、ひとつの行為へと単純化します。あらゆる事件、あらゆる関係、あらゆるハートや心の動きは、神の意識を運ぶ器なのだということを教えてくれます。


あらゆる教義、あらゆる空虚で大々的な儀式を捨て去りなさい。そうすれば、あなたは核となるスピリチュアルな体験、神を崇めるほんとうの道へといたるでしょう。それはあらゆる伝統の中にひそんでいます。


まことに、平和や歓喜、幸福への呼び声は、あなたのハートと心のなかにあります。この呼びかけに応えることは、小径(こみち)に足を踏み入れることです。それをなんと呼ぶかは重要ではありません。それをどんなふうに言いあらわすかも重要ではありません。与えるという小径が、あなたの前に開かれます。あなたが与えれば、あなたはそれだけ他人からも受けとります。


この小径には、独得の簡素な美しさと神秘性があります。あなたが思い描くようなものとはまったくちがいます。それでいて、それは次のステップを踏み出そうとすれば、その足をどこに置くべきかをちゃんと教えてくれるのです。


スピリチュアリティの王道というものは、直線的に進むものではありません。あらかじめ決まっているようなものではありません。「これをせよ。あれをせよ。そうすればこれこれのことが起きるだろう」ということはいえません。


なんであれ、なされることは、内面深くからなされねばなりません。それはみずみずしく、明確で、ハートの中心からでなければなりません。ひとりでにおのずと起きねばなりません。


過去をひきずっていたり、恐怖心があったりすれば、信頼は失われ、奇蹟は起きはしないでしょう。恐怖心と無縁な考え、そして「なすべき」「救うべき」「癒すべき」という強制から自由な行為は、本質的に奇蹟的なものです。それは時空の法則から自由でありながら、しかもひとりでに楽々とその法則にかなっています。


なぜ、これらのことが真実であるのでしょうか。それは、前もって予習されていないからです。条件づけられた心から出てきていないからです。ひとりでに起き、完璧に信頼しているからです。こうした思考や行動は、生ける祈りです。それはこうあるべきだということもないし、うまくいったからといってくりかえすべきでもありません。それはあなたの学びの成果ではありません。それは、あなたが無条件の心と、生き生きとしたかかわりをもったからです。


あなたの魂の奥底には、目覚めへの呼び声が埋めこまれています。ほかの人には聞こえないような声です。ほかの人の言葉に耳を傾けるなら、あなたは決してその呼び声をきくことはありません。


しかし、一度その声をきいたら、他の人も、その人なりのやりかたでそれを聞いたことがあるのだとわかります。あなたはただサポートをすることで、かれらといっしょに進むことができます。かれらを祝福するとき、あなたは自分を祝福しています。かれらを自由に旅に発たせてあげることで、あなたは自分の旅の道を歩きだすことができます。


そこに競争はありません。嫉妬はありません。そこには「獲得」「達成」すべきものがないからです。すべては自由に手に入れることができ、またそののち人に与えるものです。あなたにであれ、人にであれ、与えられた贈り物すべてに奇蹟がふくまれています。Y



質問者 私は公認会計士を引退し、妻は貧しい女性たちのための社会奉仕活動に従事しています。息子がアメリカへと旅立つため、見送りに来たのです。私たちはパンジャブ地方出身ですが、現在、デリーに暮らしています。私たちにはラダ・ソアミ教* のグルがいます。そして、サットサン、聖者との交わりを高く評価しています。ここに連れてこられたことをたいへん幸運に感じています。今まで多くの聖者たちに出会ってきました。そして今、もうひとりに出会えることを嬉しく思っています。


(*訳注 ラダ・ソアミ教 開祖シヴァ・ダヤール・サーヒブによって一八六一年に創設された宗派。シーク教徒とヒンドゥー教徒が主な信奉者。第三の目を通して内なる光と音の流れに意識を向けることが彼らの主要な修練。またサットサンを重視している)


マハラジ あなたたちは多くの隠者や苦行者に出会ってきた。だが、神性(スワルーパ)を意識した完全に真我実現した人を見いだすことは困難なのだ。聖者やヨーギたちは計り知れない努力と犠牲によって多くの奇跡的な力を習得し、人びとを助け、信仰心を起こさせるといった善行を施すことができる。それでも、それが彼らを完全にすることはない。それは実在への道ではなく、単に偽物に豊かさを与えただけなのだ。すべての努力はより多くの努力へと導く。何であれ構築されたものは、維持されなければならない。何であれ得たものは、衰退や喪失から保護されなければならない。何であれ失われるものは自己のものではないのだ。そしてあなた自身のものでないなら、いったいあなたにとって何の役に立つというのだろう? 私の世界では、何も強要されることはない。すべてはひとりでに起こるのだ。すべての存在は時間と空間のなかにあり、限定され、一時的なものだ。私は「何が存在するか」や「誰が存在するか」には関心がない。私の立場はその彼方に在る。私はその両方であり、そのどちらでもないところに在るのだ。
多くの努力と苦行を終えてその野心を満たし、より高次の体験と行為を得た人たちは、たいていの場合、彼らの地位を鋭敏に意識している。彼らは人びとを最低の未達成者から最高の達成者までに分類し、階級のなかに類別してしまう。私にとっては皆が同等だ。現れや表現のなかの違いはそこにあっても、それは問題ではないのだ。金の装飾品の形が金そのものに影響を与えないように、人の本質も影響を受けることはない。この同等の感覚が欠けているならば、それはつまり、実在には触れられていなかったということだ。
単なる知識では充分ではない。知る者が知られなければならないのだ。学者やヨーギは多くのことを知っているかもしれない。だが自己が知られていないとき、単なる知識が何になるというのか? それは間違いなく誤用されてしまうだろう。知る者が知られなければ平和はありえないのだ。


質問者 人はどのようにして、知る人を知るのでしょうか?


マハラジ 私自身の体験から知っていることだけをあなたに話そう。私がグルに出会ったとき、彼は私に言ったのだ。「あなたはあなたが自分自身だと見なしているものではない。あなたが何であるのかを見いだしなさい。『私は在る』という感覚を見守り、あなたの真我を見いだしなさい」と。私は彼に服従した。なぜなら彼を信頼したからだ。私は彼が言ったとおりにし、許すかぎりの時間を、沈黙のなかで自分自身を見つめることに費やした。そして、何という変化をもたらしたことか! それもこんなに早く! 三年という短い時間で、私は真我を実現したのだ。私がグルに会ったすぐ後、彼は死んでしまった。だが、それは何の違いももたらさなかった。私は彼が私に言ったことを、たゆまず覚えつづけていたのだ。その成果は、私とともにここにある。


質問者 それは何なのですか?


マハラジ 私は真の私自身を知っているのだ。私は身体でもマインドでもなく、知的能力でもない。私はそれらすべてを超えているのだ。


質問者 あなたはただの無なのでしょうか?


マハラジ ばかなことを言ってはいけない。もちろん、もっとも実質的に、私は存在している。ただ、私はあなたが考えているような私ではないのだ。これがあなたにすべてを伝えるだろう。


質問者 それは何も私に伝えていません。


マハラジ なぜなら、それは語ることのできないものだからだ。自分自身の体験をもたなければならないのだ。あなたは物質的、精神的なものを扱うことには慣れている。私はものではなく、あなたもまたものではない。私たちは物質でもなくエネルギーでもない。身体でもなくマインドでもない。ひとたびあなたが自己の存在の一瞥を得るなら、私を理解するのは難しくないと知るだろう。
私たちは聞き伝えでたくさんのことを信じてしまう。遠くの土地や人びとのこと、神や女神のことなどを、ただそう聞いたというだけで信じてしまうのだ。同じように、私たちは自分自身について、両親や名前、地位や義務などについて話を聞いてきた。一度もその真偽を確かめることなしに。真実への道は、虚偽の破壊を通っていくものだ。偽りを破壊するために、あなたはあなたのもっとも根深い確信を疑わなければならない。そのなかで、あなたが身体であるという確信が最悪のものなのだ。身体とともに世界が現れ、世界とともに、世界を創造したと考えられている神が現れる。このようにして、恐れ、宗教、礼拝、捧げ物、あらゆる類の体系がはじまるのだ。すべては自らがつくり出した怪物に正気を失うほどおびえた幼稚な人間を保護し、支持するためのものだ。あなたは生まれることも、死ぬこともできないものだということを悟りなさい。そうすれば恐れは去り、すべての苦しみは終わるのだ。
マインドが発明したものは、マインドが破壊する。だが、実在は発明されたものではなく、破壊することもできない。マインドの力が及ばないそれをつかまえなさい。私があなたに話していることは、過去のなかにも、未来のなかにもない。また、今起こっているような日々の生活のなかにもないのだ。それは永遠であり、その永遠性の全体はマインドを超えている。私のグルと、そして彼の言葉、「あなたは私自身だ」は、永遠に私とともにある。はじめのうちはそれらにマインドを固定させなければならなかったが、今ではそれも自然なものとなった。グルの言葉を真実として受け入れ、日々の生活の細部にわたって、自発的にそれによって生きるようになったそのときが、真我の実現の戸口に立ったときなのだ。ある意味では、それは信頼による解放だ。だが、その信頼は強烈で、持続しなければならない。
しかしながら、信頼そのものだけで充分だと考えてはならない。信頼が行為のなかで表現されることが実現への手段なのだ。それはあらゆる手段のなかで、もっとも効果のあるものだ。信頼を否定し、論証のみを信じる教師もいる。実際には、彼らが否定するのは信頼ではなく、盲信なのだ。信頼は盲目的なものではない。それは試みようとする意志なのだ。


質問者 すべての霊的修練のなかでもっとも効果的なのは、単なる観照の態度だと聞きました。それは信頼とどのように比較されるのでしょうか?


マハラジ 観照の態度もまた信頼なのだ。それは自分自身への信頼だ。あなたとはあなたが体験するものではないと信じ、すべてに距離をおいて見ることだ。観照に努力はいらない。あなたはあなたがただの観照者なのだと理解し、その理解が働いていく。それ以上何も必要ないのだ。ただ、あなたが観照者だということを覚えていなさい。もし観照の状態のなかで、「私は誰か?」と自分自身に尋ねれば、その答えは直ちにやってくる。ただ、それは言葉ではなく、沈黙のものだ。
起こっているすべてのことの主体となり、客体であることをやめなさい。ひとたび内側に向きを変えたなら、あなたは主体を超えたあなた自身を見いだすだろう。あなた自身を見いだしたとき、あなたは客体をも超えていることを見いだす。主体と客体はともにあなたのなかに存在するが、あなたはそのどちらでもないのだ。


質問者 あなたはマインド、マインドを超えた観照意識、そして気づきを超えた至高なるものについて語ります。それはつまり気づきさえも実在ではないという意味なのでしょうか?


マハラジ あなたが実在─非実在という言葉で論じるかぎりは、唯一実在でありうるのは気づきだけだ。だが、至高なるものはすべての区別を超えているため、それに「実在」という言葉は適用しない。なぜなら、そのなかではすべてが実在だからだ。それゆえ、そのように名づけられる必要もない。それは実在の源そのものだ。それは、何であれそれが触れたものに実在性を分け与えるのだ。


質問者 しかし、誰が世界を創造したのでしょうか?


マハラジ 宇宙のマインド(チダーカーシュ)がすべてを創造し、破壊する。至高なるもの(パラマーカーシュ)が、何であれ存在のなかに現れたものに実体を与えるのだ。それを宇宙的な愛と呼ぶことが、言葉によってはもっとも近いものと言えるだろう。それは愛のように、すべてを真実に、美しく、望むべきものにするのだ。


質問者 なぜ、望むべきものなのでしょうか?


マハラジ いけないかね? 創造されたすべてを互いに反応しあうようにさせ、人びとを結びつける強力に引きあう力は、もし至高なるものからでなければ、どこからやってくるというのだろうか? 欲望を避けてはならない。ただそれが正しい経路を流れていることを見なさい。欲望なしには、あなたは死んだも同然だ。だが、低次の欲望とともにあるなら、あなたは亡霊と同じなのだ。


質問者 至高なるものにもっとも近い体験とはどのようなものでしょうか?


マハラジ 計り知れない平和とかぎりない愛だ。何であれ、宇宙のなかに真実で、高尚な、美しいものがあれば、それはすべてあなたから現れたのだと自覚しなさい。あなた自身がその源なのだ。世界を指揮する神や女神は、もっとも素晴らしい荘厳な存在かもしれない。それでも彼らは、彼らの主人の富と力を宣伝する、豪華に着飾った召使いのようなものなのだ。


質問者 どのようにして人は至高なるものに到達するのでしょうか?


マハラジ すべてのより低い欲望を放棄することによってだ。より低い欲望に満足するかぎり、最高のものを手にすることはできない。何であれ満足させるものが、あなたを引き止めるのだ。すべてのものの不満足さ、はかなさ、限界を悟らないかぎり、そしてすべてのエネルギーを大いなる熱望に集めないかぎり、最初の一歩さえも踏めない。その反対に、至高なるものへの誠実な欲望は、それ自体至高なるものからの招きなのだ。身体的、精神的なものがあなたに自由を与えてくれることはない。ひとたび束縛はあなたがつくり出しているということを理解し、自分を拘束する鎖を鋳造することをやめれば、あなたは自由なのだ。


質問者 どのようにして、グルへの信頼を見いだせばいいのでしょうか?


マハラジ グルを見いだし、また彼を信頼することはまれな幸運だ。それはそうそう起こることではない。


質問者 それは運命に定められているのでしょうか?


マハラジ それを運命と呼ぶことでは何も説明されない。それが起こったとき、あなたにはどうしてそれが起こったのかを言うことはできない。そして、それをカルマや恩寵、または神の意志と呼ぶことは、単にあなたの無知を覆い隠すだけだ。


質問者 クリシュナムルティは、グルは必要ないと言っています。


マハラジ 誰かが至高の実在と、それへの道について語らなければならないのだ。クリシュナムルティがしていることは、ほかの何ものでもない。ある意味では、彼は正しい。ほとんどのいわゆる弟子たちは、彼らのグルを信頼していないのだ。彼らはグルにそむき、グルを放棄してしまう。そのような弟子たちにとってはグルをもたないほうが、そして導きを得るために、ただ内面を見ることのほうがどれだけ良かったか知れないのだ。生きたグルを見いだすことは稀な機会であり、大いなる責任でもある。これらのことを軽く扱ってはならないのだ。あなたたちは天国を買おうとやっきになって、値段の額を支払えばグルがそれを与えてくれると想像している。わずかばかりを捧げて、多くを要求する売買契約を求めているのだ。あなたが騙しているのは、ほかでもないあなた自身なのだ。


質問者 あなたはグルから、「あなたは至高なるものだ」と言われました。そして彼を信頼し、そのとおりに行動したのです。何があなたにこの信頼を与えたのでしょうか?


マハラジ 私はただ、道理を聞き分けただけだ。彼を疑うとしたら、愚かなことだっただろう。私を惑わせることで、いったい彼がどんな利益を得るというのだろうか?


質問者 あなたはある質問者に、私たちは同じであり、同等だと言われました。私にはそれが信じられません。私に信じられないのなら、あなたの表明が私にとって何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ あなたの不信は問題ではないのだ。私の言葉は真実であり、それはその仕事をする。これがサットサン、聖者との交わりの美しさなのだ。


質問者 ただあなたの近くに座っているだけで、それを霊的な修練だと考えることができるのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。生命の川は流れている。その水のいくらかはここにある。だが、たいへんな量の水がすでに目的地に到着しているのだ。あなたは現在しか見ていない。私は遥か彼方の過去と未来を、あなたが何であるか、そしてあなたが何になることができるのかを見ているのだ。私には、あなたを私自身としてしか見ることができない。違いを見ないこと、それが愛の本質なのだ。


質問者 どうすれば、あなたが私を見るように、私自身を見ることができるようになるのでしょう?


マハラジ もしあなた自身を身体だと想像しなければ、それで充分だ。災いをもたらすのは「私は身体だ」という想念なのだ。それはあなたを真実の本性に対して、完全に盲目にしてしまう。ほんの一瞬でさえ、自分が身体だと考えてはならない。あなた自身にいかなる名前も形も与えてはならない。実在は闇と沈黙のなかで見いだされるのだ。


質問者 私が身体ではないという確信をもって考えなくてはならないのでしょうか? どこにそのような確信を見つけることができるのでしょうか?


マハラジ あたかも完全に得心したかのようにふるまいなさい。そうすれば、確信はやってくるだろう。単なる言葉が何の役に立つというのだろう? マントラや精神的パターンは助けにならないだろう。しかし非利己的な行為、身体の関心事とその利益のすべてから自由になった行為が、あなたを実在の核心そのものに連れていくだろう。


質問者 確信なしに行為する勇気を、私はどこから得るというのでしょうか?


マハラジ 愛があなたに勇気を与えるだろう。もしも誰か本当に称賛すべき、愛するに足る崇高な人に出会ったなら、あなたの愛と敬慕が、あなたに高尚にふるまおうという衝動を与えてくれるだろう。


質問者 称賛するべき人を称賛するということを、誰もが知っているわけではありません。ほとんどの人びとはまったく感受性に欠けているのです。


マハラジ 生命が彼らに真価を認めさせるようにするだろう。積まれてきた体験の重みが、彼らに見る目を与えるだろう。称賛に値する人に出会ったなら、あなたは彼を愛し、信頼し、彼の助言にしたがうことだろう。他の者たちが称賛し、愛するに足る完全な模範を示すこと、これが自己実現した人の役目だ。その人の人生と人格の美しさは、公益のための途方もない貢献なのだ。


質問者 私たちは成長のために苦しむべきではないでしょうか?


マハラジ そこに苦しみがあり、世界は苦しんでいるということを知るだけで充分だ。快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。ただ理解だけがそれをもたらすのだ。ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、それを超えていこうとする衝動とエネルギーを見いだすだろう。快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。至福を通してだけでは、あなた自身を知ることはできない。あなたの本性そのものが至福だからだ。悟りを得るためには、あなたではないもの、対極と向き合わなければならないのだ。


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