3人いれば3通り


同じ問題に対して異なる答えが出ます。それが魂です。魂の違いというのは、個性というか光(愛と叡智の光)を屈折させるプリズムの違いです。地上人が考える「個性」と魂のそれはまったく違います。魂のそれは死後も続く現実であり、地上人の考えるものは単なる思想的ブームに近いです。全体主義への反動で生まれた一時的現象かもしれません。ですが魂の個性は、神との関係(または神そのもの)を定義するという創造行為であり、魂そのものが神の「最先端」です。メデューサの髪の一房一房が異なる蛇であるように。その蛇の中には、本体であるメデューサに噛みつこうとする者もあり、それは許されています。できることは何でも許されています。神が許したことの中に人が許さない領域があるだけです。自由とは、「あなたが思うように定義してください」という委任です。すなわち神は、今日わたしたちによって定義し直されています。わたしたちは神と向き合い、神を筆で描いています。「違いを意味する魂」において、唯一共有している絆が、神との関係をただ自分のみで定義する自由を与えられていること、「個性」なんです。n
(20180414)


自由戦場というより、自由定義の場です。n
(20180414)


質問者 無知とは何でしょうか?


マハルシ 真我に無知であることです。真我に無知なのは誰なのでしょうか? 真我に無知なのは自我に違いありません。そこに二人の自己が存在するでしょうか?

(対話263)


あなたは「あなたが」考えていると考えている。
あなたは「あなた=考える者」だと考えている。
「考える者」にとっての真我としてとどまりなさい。


「私=肉体」
「泥棒」
「考える者」


「考える者」にとっての真我としてとどまりなさい。


マハルシ 心と名づけられるような実体は存在しません。想念は立ち現れるため、私たちはそれが生じる元となる何かが存在すると推測し、それを心と呼ぶのです。


(中略)


あなたは疑う者を見落として、疑いを解こうとします。その反対に、疑う者をとらえなさい。


(中略)


通常の視野(ヴィジョン)を叡智の視野に変え、
世界をブラフマンそのものとして見なければならない。


それゆえ、問題なのは視点です。


あなたの視点が外向的だったため、真我の視野を失い、ヴィジョンも外的なものになったのです。


(中略)


質問者 どうすれば心を止められるでしょうか?


マハルシ 泥棒が自分自身を裏切るでしょうか? 心が心そのものを見いだすでしょうか? 心に心を探すことはできません。あなたは実在を無視して、非実在である心にしがみつき、しかもそれが何なのかを探そうとしています。


心があなたによって見つけられるでしょうか? 心はあなたではないのです。あなたは自分を心と見なし、それゆえどうやってそれを止めるかと尋ねます。それがそこに存在しているなら、止めることもできたでしょう。しかし心は存在しないのです。


実在しないものを探しても無駄なだけです。それゆえ実在を、すなわち真我を探し出しなさい。それが心を征服する方法です。


質問者 唯一の実在とは何でしょうか?


マハルシ 存在する「それ」です。他者は単なる現れにすぎず、多様性は実在の本性ではありません。私たちは紙の上に印刷された文字を読みますが、その背景である紙は無視してしまいます。同様に、あなたは心の現れに魅せられ、背後にあるものを忘れてしまうのです。

(対話238)


それを探し求め、それとして在りなさい


マハルシ 「存在」はどの場合においても実在です。万象、多様性、個人は非実在です。それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。絶対なる存在は描写を超えているのです。

(対話112)


マハルシ あなたは探求者であり、何かと合一されることを探し求めています。もしそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければなりません。しかし真我はあなたに最も近いものです。そしてあなたは常にそれに気づいています。それを探し求め、それとして在りなさい。そうすれば、それは果てしなく永遠に広がっていくでしょう。そしてヨーガ(合一)という問題もなくなるのです。いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)なのでしょうか?

(対話211)



追い込まれた金正恩委員長…北朝鮮経済が揺れている(1)


毎年、北西から季節風が強く吹く12月-3月には北朝鮮の難破船が日本の海岸に押し流される。日本海上保安庁によると、昨年、北朝鮮の漂流漁船は200件を超え、過去最多だった。1年前(130件)に比べて70%増えた。こうした悲劇は水産物の輸出が黄金の卵を産んだからだ。北朝鮮の漁獲量は2011年の69万トンから2016年には100万トンに増え、うち90%が1億5000万ドルで中国に輸出された。北朝鮮漁民は古い木造漁船に乗って大和堆漁場など遠海での「漁労戦闘」に向かう。


不思議なことに1月15日以降、北朝鮮の幽霊船舶に関する日本メディアの報道が途絶えた。強い北西風にもかかわらず80日以上も難破船が流されてこないという。専門家は2つの背景があるとみている。まず、対北朝鮮制裁で水産物の販路が封鎖されたのだ。輸出拠点だった琿春と丹東からは北朝鮮の海産物が消え、密輸されても安値で取引されるという。選別作業がないうえ、鮮度など品質も落ちるからだ。また石油の輸入が減り、漁船用燃油の供給も難しくなった。対北朝鮮制裁が死の操業を遮断したのだ。


北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長は2011年12月の執権後、成功をつかんできた。核・ミサイル武力を完成させ、経済は「ゴルディロックス相場」を維持してきた。李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)保守政権は「北朝鮮経済は近いうちに崩壊する」という幻想の中で時間を送った。しかし中国という変数を看過した。むしろ無煙炭の対中輸出が急増し、北朝鮮は類例のない好況を迎えた。1トン70ドル水準だった国際相場が2011年201ドル~2014年110ドルに上がるとプラス経済成長を繰り返した。無煙炭値が90.9ドルに落ちた2015年に限り成長率が-1.1%と後退した。


北朝鮮経済構造は毎年、無煙炭輸出10億-13億ドル、衣類賃加工輸出7億ドル、海外派遣労働者10万人の賃金3億ドル、水産物輸出1億5000万ドルなどの大きな塊りで構成されている。このように稼いだ外貨で石油、食糧、生活必需品を輸入してきた。北朝鮮貿易には特異な点が見られる。輸出する時は国際相場より安く売り、輸入する時は高く買う。その差がキックバック(賄賂)だ。売上高の7-10%のこうした差額が北朝鮮の党・軍部に流れて潤滑油の役割をする。


国連の対北朝鮮制裁は2016年の前後で明確に異なる。2016年以前は予防注射をするレベルだった。核・ミサイル用部品とぜいたく品の輸入禁止が核心だった。しかし北朝鮮の4回目の核実験とミサイル発射後には資金を遮断して経済を封鎖する方向を定めた。2017年12月までに出てきた5つの制裁決議案(2270号、2321号、2371号、2375号、2397号)が代表的な例だ。石炭輸出禁止、海外労働者の送還、水産物および衣類賃加工輸出禁止、原油凍結および石油輸入50万バレル制限などで、北朝鮮の外貨獲得通路の90%以上を遮断したのだ。さらに米国との通商紛争で守勢となった中国が受動的ではあるが対北朝鮮制裁に参加したのも決定的な違いだ。


これによって北朝鮮の2018年の対中輸出は2億1314万ドルと、前年比88%減少し、ほとんど崩壊レベルにある。経済成長率も2017年が-3.5%、18年が-5%(推定)と後退している。2018年は南北・米朝・中朝首脳会談で「制裁が近く緩和されるだろう」という期待心理があった。しかしハノイ米朝会談が決裂し、北朝鮮経済が揺れる状況だ。昨年下半期以降、平壌(ピョンヤン)のマンション価格(入居権)は半分に落ちた。鉄鉱石団地の茂山(ムサン)鉱山は浸水し、金策(キムチェク)製鉄所は中国産コークスの輸入がふさがって停止しているという。今年に入って主要国営企業も部品・資材不足で次々と稼働が中断している。さらに衣類賃加工輸出がふさがり、軽工業分野の雇用崩壊も深刻なレベルだ。

4/11(木) 16:43配信
中央日報日本語版


プラスチックを食べる蚊は、水から陸に汚染を広げる
Plastic-Eating Mosquitoes Could Disperse Material


<餌とプラスチックの区別がつかない幼虫が食べたプラスチックは、成虫になってもほとんど体内に残っていることがわかった>


プラスチックで汚染された水の中で育った蚊の幼虫は、成虫になってもプラスチックが体内に残る──。


英レディング大学の研究チームは、蚊が成虫になって水辺から飛び去るときに、体内に蓄えた汚染物質「マイクロプラスチック」がどうなるかを観察した。9月19日に英科学誌バイオロジー・レターズに発表した研究論文によると、蚊の卵が孵化する河川や湿地がプラスチックで汚染されている場合、汚染されていない陸上の環境にまで被害を及ぼす恐れがある、と明らかにした。


「蚊の幼虫がプラスチックを食べることは予想していた」と、共同執筆者の1人で同大学教授のアマンダ・カラハンは本誌に語った。蚊は幼虫の段階では餌とプラスチックを区別できないのだという。「予想外だったのは、かなりの量のプラスチックが成長しても体内に残っていたことだ」


研究チームは実験室で、蚊の幼虫150匹に対して、異なるサイズの微細なプラスチック粒子「マイクロビーズ」と餌の両方を与えた。蚊は胃の中でプラスチックを分解できない。次に、その中から任意に選んだ蚊の幼虫15匹と、その後に成虫になった別の15匹の体内を調べた。


その結果、全ての蚊の体内から、直径5ミリ以下のマイクロプラスチックが見つかった。プラスチックを食べない成虫の体内からも、平均で40個見つかった。


陸の生態系にも汚染が拡大


だとすれば、蚊を餌にする鳥やコウモリ、クモなどの陸上生物は、本来食べるはずのなかったプラスチックを一緒に食べていることになる。


しかもプラスチック汚染の被害を受けるのは、蚊を餌にする動物だけではない。


「問題は、汚染が食物連鎖を通じてどんどん蓄積され濃縮されることだ」と、カラハンは言う。「食物連鎖の下位に、体内にプラスチックをもつ生物が増えれば増えるほど、それらを捕食する生物の数も増え、それらの生物もまた捕食される。その結果、相当量のプラスチックが生態系を汚染することになる」


米科学誌サイエンスで発表された2015年の研究結果によれば、毎年800万トン分のプラスチックが海に流出している。陸上生物の体内に残った大量のプラスチックが、それに上乗せされることになる。


蚊が人を刺して人体にマイクロビーズを運ぶ可能性は低い、とカラハンは言う。蚊の唾液腺にプラスチックが含まれていれば話は別だが、幸いにも蚊の頭部にプラスチックが存在する証拠はまだ見つかっていない。

2018年9月20日(木)18時24分
アビー・インテランテ
(翻訳:河原里香)



質問者 私の質問は、「何が真理の証拠なのか?」ということです。すべての宗教の信奉者は、形而上学的、政治的、哲学的、あるいは倫理学的のいずれにせよ、彼らのものが唯一の真理だと確信させられています。ほかのすべては偽りであり、彼らの揺るぎない信念を真理の証拠と見なしています。彼らは、「私は納得した。それゆえ、それは真理に違いない」と言うのです。私にとってはいかなる宗教、哲学、教義、あるいは観念体系も、どんなに完全で、感情的に訴え、内面的矛盾を持たないとしても、それ自身の真理の証拠にはならないように見えるのです。それは衣服のようなもので、時間や環境によって、流行の流れにしたがって変化していくものです。
それでは、誰かの信念に依存しない真の宗教、あるいは哲学というものがありうるのでしょうか? 聖典でさえも同様です。なぜなら、それも誰かの信仰に依存するからです。信頼することに依存しない、主観的ではない真理があるのでしょうか?


マハラジ 科学はどうだろうか?


質問者 科学は堂々巡りです。それは感覚とともに、はじめた場所で終わるのです。それは経験を扱い、そして経験とは主観的なものなのです。二人の個人が同じ体験をすることはありえません。それでも彼らは同じ言葉で表現するかもしれません。


マハラジ あなたはマインドを超えた彼方の真理を探さなければならないのだ。


質問者 私はもう充分なほどの超越状態を体験してきました。どんな薬物でも、安価に、そして即座にそれを誘発できるのです。呼吸や精神的な訓練によって起こされた伝統的なサマーディ(三昧)もまた、たいした違いはありません。酸素サマーディや二酸化炭素サマーディがあり、思考の連鎖やマントラの復唱による自己誘導されたサマーディもあります。単調性は眠気をもたらすだけです。いかに荘厳なものであれ、私にはサマーディを真理の証拠として受け入れることはできません。


マハラジ サマーディとは体験を超えたものなのだ。それは特質のない状態だ。


質問者 体験の不在は不注意によるものです。それは注意とともにふたたび現れます。目を閉じることが光の不在を証明するわけではありません。実在を否定的な状態に帰属させることは、どこへも私たちを連れてはいかないでしょう。否定そのものが肯定を含んでいるのです。


マハラジ ある意味では、あなたは正しい。だがあなたは何があなたのマインドのなかに描いている真理で、どのような証拠があなたを満足させるのかを説明することもなく、真理の証拠を求めているということがわからないだろうか? もしあなたの証明を信頼するなら、あなたは何であれ証明することができるのだ。しかしあなたの証拠が本物だと何が証明するのだろう? あなたが知っているのは、あなたが存在するということだけであるのを、私はたやすくあなたに容認させることができる。あなたが持つことのできる唯一の証拠は、あなたなのだ。だが私は実在(リアリティ)と単なる実存(イグジスタンス)を同一視しない。実存は一時的であり、つねに時間と空間のなかにある。一方、実在は不変ですべてに浸透しているのだ。


質問者 私は何が真理か、何によって証明できるのかも知らないのです。どうか私を私自身の源に投げ返さないでください。私は何ももっていないのです。ここではあなたが真理を知る人であり、私ではありません。


マハラジ あなたは真理の証拠としての証言を拒絶している。あなたにとっては他者の体験は役に立たないものだ。多くの証人の間で一致した表明による結論も、あなたはすべて拒否してしまう。それゆえ、何があなたを満足させる証拠なのかを私に伝えるのはあなたなのだ。何があなたの評価にとって有効な証拠だろうか?


質問者 正直なところ、何が証拠となるのか自分でもわからないのです。


マハラジ あなた自身の体験でさえもかね?


質問者 私の体験でもなければ、私の存在でもありません。それらは私が意識していることに依存するものです。


マハラジ では、あなたが意識していることは何に依存するのだろうか?


質問者 わかりません。以前なら、私の身体によって、と答えたことでしょう。現在では、身体は二次的で根本的なものでないとわかるので、存在の証明として考えることができません。


マハラジ 過ちと不幸の源である「私は身体だ」という観念をあなたが放棄したことは喜ばしいことだ。


質問者 私は知的に放棄したのです。しかし、個人としての特定の存在感覚はいまだに私とともにあります。「私は在る」と言うことはできますが、私は何なのかを言うことはできません。私が存在していることは知っています。しかし、何が存在しているのか、私は知りません。どのように表現してみても、私は未知に直面するのです。


マハラジ あなたの存在そのものが真理なのだ。


質問者 もちろん、私たちは同じことを話しているのではありません。私は何か抽象的な存在ではありません。私は個人であり、限定され、その限定に気づいています。私は事実です。しかし、私はもっとも非現実的な事実なのです。個人としての一時的な存在の上に構築できるようなものは何もありません。


マハラジ あなたの言葉はあなたよりも賢明だ! 個人としてのあなたの存在は一時的なものだ。だが、あなたはただの個人なのだろうか? あなたは本当に個人なのだろうか?


質問者 どうやって答えればいいのでしょうか? 私の存在の感覚は、私は在ることだけを証明します。それは私から独立したものは何も証明しません。私は相対的存在です。相対的な創造主と創造物の両方なのです。絶対的真理の絶対的証拠──それは何なのでしょうか、どこにあるのでしょうか? 単なる「私は在る」という感覚が実在の証明になりうるのでしょうか?


マハラジ もちろん、なりはしない。「私は在る」と「世界は在る」は関連し、条件づけられている。それらは名前や形を投影するマインドの傾向のせいなのだ。


質問者 名前と形、観念と信念、しかし真理ではありません。もしあなたに出会わなかったなら、私は真理も含めたすべての相対性を受け入れたことでしょう。そして推測によって生きることを学んだことでしょう。ですが、私はあなたに出会い、絶対なるものが手の届くところにあり、もっとも望むべきものであるということをあなたから聞きました。平和、至福、永遠、不死といった言葉が、苦痛と恐れからの自由を示すものとして、私の注意を引いたのです。生来の本能である快楽の追求と好奇心が呼び起こされ、私はあなたが開いた領域を探検しはじめました。それらはみなもっとも魅力的であり、それゆえ当然、私は尋ねるのです、「それは達成できるものなのでしょうか? それは真理なのでしょうか?」と。


マハラジ あなたは「砂糖が甘いことを証明してくれれば、それをもらうよ」と言っている子供のようだ。甘さの証明は砂糖のなかにではなく、口のなかにあるのだ。それが甘いことを知るためには、味を知らなければならない。ほかに方法はない。もちろん、あなたは「それは砂糖でしょうか、それは甘いのでしょうか?」と尋ねることからはじめることができる。そしてあなたが味わうまでは私の保証を受け入れる。ひとたび味わえば、すべての疑いは消え去るのだ。そしてあなたの知識は直接の、揺るぎのないものとなる。私は、あなたに私を信じるように頼みはしない。ただ、はじめるのに充分なだけは信頼してほしい。それぞれの段階がそれ自体を証明、あるいは反証するのだ。あなたは真理に先立って真理の証拠がほしいようだ。では、証明の証明はどうなるのかね? 見なさい、あなたは後退しているのだ。それを止めるためには、証拠を求めることをやめ、真理としての何かを、まず受け入れなければならない。それが何かは重要ではない。それは神、あるいは私、あるいはあなた自身かもしれない。どの場合でも、あなたは何か、あるいは誰か未知なるものを真理として受け入れるのだ。さて、もしあなたが、たとえ一瞬でも受け入れた真実にしたがって行為するならば、すぐにもつぎの段階に移るだろう。それは闇のなかで木に登るようなものだ。最初の枝に足をかけて、はじめてつぎの枝をつかむことができる。科学はそれを実験的研究方法と呼ぶ。論理を証明するために、先達の実施指導にしたがって実験を進めていくのだ。霊的探求における実験の連鎖をヨーガと呼ぶのだ。


質問者 多くのヨーガがありますが、どれを選択すれば良いのでしょうか?


マハラジ もちろん、すべてのジニャーニは、彼がもっとも親密に知っている自分の歩いた達成への道を提案することだろう。しかし、彼らのほとんどは非常に寛大であり、探求者の必要に適した助言をするのだ。すべての道はマインドの浄化へとあなたを導く。不純なマインドは真理を不透明にする。純粋なマインドは透明だ。真理はそれを通して容易に、明らかに見ることができるのだ。


質問者 すみません。しかし、私には私の困難を伝えるすべを見つけられません。私は真理の証拠について尋ねていたのです。そして、それに到達する方法を与えられたのです。私がその方法にしたがい、ある望むべき、すばらしい状態を達成したとします。どのようにしてその状態が真実のものだと知ることができるのでしょうか? すべての宗教は信仰からはじまり、ある恍惚状態を約束します。その状態は実在のものでしょうか? それとも信仰の産物でしょうか? なぜなら、もしそれが誘発された状態なら、はじめから私は関わらないでしょう。たとえばキリスト教徒は言います。「イエスはあなたの救世主です。信じなさい。そして罪から救われなさい」と。私が罪を犯しているキリスト教徒に、イエスへの信仰にもかかわらず、どうしてあなたは罪から救われてはいないのかときくと、彼は、「私の信仰心が完全ではないからです」と答えるのです。またしても、私たちは悪循環のなかにいます。完全な信仰なしには解放もありません。解放がなければ、完全な信仰心もないのです。完全な信仰心というものはありません。それゆえ、解放はないのです。満たすことの不可能な条件を強いられ、それから、それらを満たしていないことを非難されるのです。


マハラジ あなたは現在の目覚めの状態が、無知から起こるものだということを認識していない。あなたの真理の証拠についての質問は、実在における無知から生まれたものなのだ。「私は在る」という点で、あなたは意識のなかの感覚的、精神的状態に触れている。一方、実在は瞑想されず、触れられず、体験されないままだ。あなたは二元性をあまりにも当然のことと見なしていて、それに気づいてさえもいない。だが、私にとって多様性や変化は分離を生みださないのだ。あなたは実在が名前と形から離れてあると想像している。だが、私にとって名前と形は、実在の絶えず変化する表現であり、それから離れてはいないのだ。あなたは真理の証拠を求めている。だが私にとっては実存すべてが証拠だ。あなたは実存(イグジスタンス)から存在(ビーイング)を切り離し、実在(リアリティ)から存在(ビーイング)を切り離している。だが、私にとってはすべてがひとつなのだ。どれほど目覚めの状態の真実性に確信をもっていようとも、私が自分の話でしているように、あなたはそれを永久不変のものだと宣言することはない。しかし、それでも私は私たちの間に違いを見ない。ただあなたはものごとを想像しているだけであり、私はそうしないだけなのだ。


質問者 最初にあなたは私から真理に関して尋ねる資格を奪い、それから私に想像について非難するのです! あなたにとって想像であるものが、私にとっては真理なのです。


マハラジ あなたがそれを調べてみるまではそうだろう。何もあなたを非難しているわけではないのだ。ただ、賢明に質問するよう求めているだけだ。あなたの知らない真理の証拠について探し求めるよりも、あなたが知っていると信じている証拠について調べてみなさい。そうすれば、あなたは何も確信できるものがなく、人伝え聞いたことを信じているだけだと知るだろう。真理を知るためには、あなた自身の体験を通らなければならないのだ。


質問者 私はサマーディや超越状態がひどく恐ろしいのです。その原因が何であろうとも。酒、喫煙、高熱、薬物、呼吸、歌、揺さぶり、踊り、旋回、礼拝、セックス、断食、マントラ、あるいはめまいのするような抽象観念は私を目覚めの状態から追いだし、未知ゆえに何か驚くべき体験を与えるのです。しかし、その原因がやめば、結果は消え去り、残るのは記憶だけです。容易に忘れることはできませんが、それでも消え去るのです。
すべての方法とその結果を放棄しましょう。なぜなら、結果は方法に縛られているからです。新たな質問をしましょう。真理を生みだすことはできるのでしょうか?


マハラジ あなたが探しにいけるような真理の住処がどこかにあるというのかね? そしてどうやってそれを見つけたと知るのだろうか? それを試すためのどんな試金石をもっていくというのだろう? あなたは「真理の証拠とは何か?」という最初の質問に後戻りしたのだ。その質問自体に何か間違いがあるに違いない。なぜなら、あなたにはそれを何度もくり返す傾向があるからだ。なぜ真理の証拠が何かと尋ねるのだろうか? あなたが真理を直接知らないから、そして騙されることを恐れているからだろうか? 真理とは「真理」という名前をつけた何かであり、もし本物なら、それをもつことは有益だとあなたは想像しているのだ。だからあなたは騙されることを恐れているのだ。あなたは真理を買いに来た。だが、商人を信頼することができない。あなたは偽造品や模造品を恐れているからだ。


質問者 私は騙されることを恐れているのではありません。私が私自身を騙すことを恐れているのです。


マハラジ だが、あなたは本当の動機に無知であることによって自分を騙しているのだ。あなたは真理を求めている。だが、実際には永遠に続く安楽を探しているだけなのだ。いかなるものも、どんなマインドの状態も永遠に続きはしない。時間と空間のなかではつねに限界がある。なぜなら時間と空間自体が限定されているからだ。そして時間を超えたもののなかでは「永遠に」という言葉は意味をもたない。「真理の証拠」についてもまた同様なのだ。非二元性の領域ではすべてが完全で、それ自体の証拠であり、意味と目的なのだ。すべてがひとつであるところでは、どのような支えも必要とされない。あなたは永久性が真理の証拠だと想像している。より長く継続するものが、より真理に近いのだと。時間が真理のはかりとなってしまった。そして時間がマインドのなかにあるため、マインドが判定者となり、真理の証拠をマインドそのもののなかに探求するのだ──まったく不可能で絶望的な仕事だ。


質問者 あなたが「何も真理ではない。すべてが相対的なのだ」と言われるのなら、私も同意したでしょう。しかし、あなたは真理、実在、完全な知識はあると主張しています。それゆえ、「それは何なのでしょうか、どうやって知ることができるのでしょうか?」と尋ねているのです。それでは、何が私に「そうです。マハラジの言うとおりです」と言わせるのでしょうか?


マハラジ あなたは証明、証拠、権威の必要性にしがみついている。まだ真理が示され、「見なさい、ここに真理がある」と言われる必要があると想像しているのだ。そうではない。真理は努力の結果、旅路の果てにあるのではない。それは今ここに、その熱望と探求そのもののなかにあるのだ。それはマインドや身体よりも近い。「私は在る」という感覚よりも近いのだ。あなたがそれを見ないのは、あなた自身からずっと遠くを、存在の核心の外を見ているからだ。あなたは真理を対象化し、あなたの証明と審査の基準に合うべきだと言い張っている。だが、それはものごとや思考にしか当てはまらないのだ。


質問者 あなたの言われることから察するに、真理は手の届かないところにあり、私にはそれについて語る資格がないということです。


マハラジ あなたには資格があるばかりではなく、あなたが真理そのものなのだ。ただあなたは偽物を真理だと勘違いしているだけだ。


質問者 あなたは、「真理の証拠について尋ねてはならない。真理でないものだけに関わりなさい」と言われているようです。


マハラジ 真理の発見は、偽りを識別することのなかにあるのだ。あなたは存在しないものを知ることができる。在るものは──あなたはただ在ることができるだけなのだ。既知にとって、知識は相対的なものだ。ある意味では、知識は無知の片割れなのだ。無知のないところに知識の必要があるだろうか? それ自体では、無知も知識も存在していない。それらは単なるマインドの状態であり、また本質的に不変である意識の運動の現れなのだ。


質問者 真理はマインドの領域内にあるのでしょうか、それともそれを超えているのでしょうか?


マハラジ そのどちらでもない。それは両方だ。それを言葉で表すことはできない。


質問者 表現不可能(アニールヴァーチャーニヤ)……これがつねに私の聞いてきたことです。それが私を賢くすることはありません。


マハラジ それがしばしば無知を覆い隠すことは本当だ。マインドはそれ自体がつくり出した言語で働くことができる。ただ、それ自体を超えていくことはできないのだ。感覚的でも精神的でもなく、しかも、それなしには感覚的なものも精神的なものもありえないものが、感覚的なものや精神的なものに含まれることはありえないのだ。マインドには限界があることを理解しなさい。マインドを超えていくには、沈黙とひとつにならなければならないのだ。


質問者 行為が真理の証拠だと言うことはできるでしょうか? 真理は言語化することはできませんが、行動に表すことはできるかもしれません。


マハラジ 行為でも無為でもない。それはどちらも超えているのだ。


質問者 人は「そうです。これこそ真理です」と言うことができるのでしょうか? あるいは彼は偽りを否定することに制限されているのでしょうか? 言い方を変えれば、真理は純粋な否定なのでしょうか? あるいはそれが断言となる瞬間がやってくるのでしょうか?


マハラジ 真理は描写できない。だが、体験されることができるのだ。


質問者 体験は主観的であり、分かち合うことができません。あなたの体験は、私を今いるところに置き去りにするのです。


マハラジ 真理は体験できるが、それは単なる体験ではない。私はそれを知っていて、あなたに伝えることができる。だが、あなたがそれに対して開いているときだけだ。開いているとは、ほかの何も求めないということだ。


質問者 私は恐れと欲望でいっぱいなのです。それは私が真理を知るには適格ではないということでしょうか?


マハラジ 真理は良いふるまいに対する褒美でも、何かの試験が通ったことへの賞でもない。それをもたらすことはできないのだ。それは原初のもの、不生、存在するすべての太古の源なのだ。あなたは適格だ。なぜならあなたは在るからだ。あなたが真理に値する必要はない。それはあなた自身のものなのだ。ただ、それを追いかけることによって、それから逃げだしてはならない。沈黙しなさい。静かで在りなさい。


質問者 もし身体を落ち着かせ、マインドを静かにさせなければならないのなら、どのようにすればいいのか教えてください。自己覚醒のなかで、私は身体とマインドが私のコントロールを超えた原因によって動かされているのを見ます。遺伝と環境が私を絶対的に支配しています。宇宙の創造者である偉大な「私は在る」も、薬物によって一時的に、あるいは一滴の毒によって永久に消し去ることができるのです。


マハラジ またしても、あなたは自分を身体と見なしている。


質問者 たとえ私が骨、肉、血としてのこの身体を退けたとしても、いまだに思考、感情、記憶、想像でできた希薄な身体として残るのです。それでさえ非─私として退けても、私は意識として残ります。それもまたある種の身体なのです。


マハラジ あなたの言うとおりだ。だが、そこで止まる必要はない。その彼方へと行きなさい。意識も、その中心の「私は在る」さえも、あなたではないのだ。あなたの真の存在は完全な非─自己意識だ。粗大、微細、あるいは超越、何であれすべての自己同一から完全に自由なのだ。


質問者 私自身が彼方のものだと想像することはできます。しかしどのような証拠があるのでしょう? 在るためには、私は誰かで在らねばなりません。


マハラジ それは正反対だ。在るためには、あなたは誰でもない人にならなければならない。あなた自身を何か、あるいは誰かだと考えることは死、そして地獄だ。


質問者 古代エジプト人は薬物や魔術の影響によって身体から追いだされ、実際に外側に立ち、横たわった自分の姿を見るという秘教儀式の存在を認めてきました。このことが彼らに死後の存在の実在を確信させ、国家と寺院に多大な利益をもたらす究極的な運命への深い関心を生みだし、身体を所有する個人との自己同一化の儀式が存続したのです。


マハラジ 身体は食物からできている。そしてマインドは想念からできている。それらをあるがままに見なさい。あなたが何であるのかを知る必要はない。あなたが何ではないかを知れば充分なのだ。あなたであるものを知ることはけっしてない。なぜならすべての発見が克服すべき新たな次元を開くからだ。


質問者 それは永遠に無知であり続けるという意味でしょうか?


マハラジ それは無知がけっして存在しなかったことを意味するのだ。真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。そして、発見にははじまりも終わりもないのだ。限界を疑いなさい。そして超えていきなさい。一見、不可能と見える仕事を自らに託しなさい。それが道なのだ。


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