このドングリの背比べの中に、神界の意向に「沿う(似る)」と「沿わない(似ていない)」が出てきます。地上では、誰もが記憶を封じているので『神界って何それ?』となりますが、神の姿は地上でも
” ずっと見えていた ”
と後で種明かしされます。それが『良心』という『色』です。
これをたとえば「白色」とするなら、白色の極まった姿が『神の姿』ですが、それに直に接触するまで地上の人間が神の存在を思い出すことはありません。
それまでは個々人の曖昧で任意の『良心』がどこから由来するものなのか知らないままです。
それでも、「良心」と「神」は別次元というぐらいぶっとんだところもあるので、コップ一杯の水とスポイトの一滴の水の比喩が的確です。スポイトの一滴側の意識には、コップ一杯の水の次元を想像することができないのです。
上の図の上方第一天国界、第二天国界などという次元の方たちは、目的意識はひとつしかないと私は思います。コップ一杯の水が直に姿を現すと、霊たちはそれ以外のことを目的には据えません。n0006


私達が日常的に言う霊界とは「地球霊界」の意味であって、宇宙全体の霊界を意味しているわけではありません。
(これは公園さんの言ですが、ちょっと愉快です。日本人にとっては外国人労働者は近年急増していますが、人種のるつぼと言われる米国と比べればまだまだです。地球人や地球での転生を繰り返す霊たちにとって、別の星系から来る人たちの割合は日本型なのか米国型なのか少し気になるところです)n0017


いまの自分が過去最高の自分


とおっしゃるさんまさん的な考え方は、確かな根拠があります。100%確かなことはいま在るか、私は在るか、ただ在るということです。激論を交わしている最中でも「それ」は少しも揺らぎません。そしてその確かな土台の上で、過去を参照できるということは、過去の自分の意識上の全体験から得た結論を利用できるということです。
いま + 過去 = 過去最高の自分(いま)です。n
(20180417)


あなたがしなければならないのは、目覚めることです。「目覚める」ということは、今まで自分の後ろに隠していたものを取りだし、自分の視野のなかにおくことです。「眠れる者」は、自分自身から隠れています。勇者は目覚め、こう言います。「準備ができた。自分をも他人をも傷つけず、調和をもって生きるために、私は知りたい。自他ともに傷つけず、調和のなかで生きることが、この地球でパワーをもって生きる唯一の道だから」


あなたが自分の未解決の問題に直面する勇気を持つと、あなたの心が一挙に大きく開かれ、人間は誰でも同じ問題を抱えているのだ、ということに気づきます。あなた方はみな怖れているのです。それというのも、自分はこの危険に満ちた世界を行く先もわからずにすすんでいる、ちっぽけな存在であると、自分を取りちがえて考えているからです。


Krishnamurti あるがままのものの観察


―あるがままのものの観察、あるがままのものに“なる”こと―


理想(比較)なき観察―「あるがまま」と「あるべき姿(こうありたいもの・こうであって欲しいもの)」 あるがままのもの=現にあるもの、今、現に、このように存在する私の知覚的・心理的事実 瞑想は、「あるがままのもの」からの逃避ではない。それは、あるがままのものを理解し、そしてそれを超えることである。 あるがままのもの(=今、現に存在する私の心理的/経験的事実・現状)を理解することなしに瞑想は、 一種の自己・現実・問題からの逃避になるに過ぎない。瞑想とは、私・自我の感覚を生み出す思考の全活動を、一個の事実として理解することなのである。


それ自身の内部で、現在、実際に進行しつつあることに、どんな選択も是非判断もなしに気づいていること。 その基礎は「何かに到達する」という希望の一切ないところに敷かれます。希望を持つなら、この現状―絶望―から逃げているのです。 希望を持つのではなく、絶望を理解しなくてはなりません。 「あるがままのもの」の理解のなかには希望も絶望もありません。


動いている自己を観察し、それに学んで下さい。 それを見守り、それに破壊することなしに気づいていて下さい。 「私はそれを変えなければならない」「私はそれを取り除かなければならない」と言わないで。何の取捨選択もなしに、何の常識的・文化的・教義的な是非判断もなしに、ただそれを見守って下さい。 そのとき、その見守り-学ぶことの結果、自己は消え去ります。


この心の浄化は、意志によるものでも宗教的な訓練の結果でもありません。 いま在るものへの全的な気づきが、唯一の解放者なのです。


もし、あなたがあるがままのものを見るなら、あなたは世界全体を見ます。 あるがままのものを否定することに葛藤の始まりがあります。 世界の美しさはあるがままのもののなかにあります。 そして、努力なしにあるがままのものと共に在ることが徳なのです。


私たちは、私たち自身のありのままの生を見なければなりません。 果てしのない不満足さと空虚さを、 決して満たされることのない欲望と葛藤を、 そして、様々な娯楽、刺激物への逃避を。 非難も選択もすることなしに、恐怖や願望の歪みもなしに、 いま現にそうである私たち自身の姿を観察しなければならないのです。


そのとき、その観察のなかに、とてつもない変化が生じるのです。


いま現に、あるがままの姿(現実・事実)と、あるべき姿(観念・理想・理念)のあいだの矛盾・葛藤に 莫大な量のエネルギーが費されています。 この矛盾が無くなったなら― つまり、瞬間的・心理的に反対物を作り出してしまい、 そこへ移行しようとすることによって、事実あるものを見ない、ことを止めてしまったなら― 変容に必要なエネルギーは充分に存在するのです。 この反対物のあいだの闘いが、エネルギーの浪費を引き起こしているのです。


性的、生物的欲望などへの非難や修正、制御もまたエネルギーの浪費を引き起こします。 しかし、それらを非難することなく、そのなかに入り込み、それと共に流れ、 それと一つになってそれを見つめ、それを理解していくことができるなら、 そこにエネルギーのロスはないのです。 この豊富なエネルギーが変容には必要なのです。


ある瞬間において「あるがままのもの」は、恐怖や、ひどい絶望、束の間の喜びであるかもしれません。


結局、いわゆる修行を実践している人たちは、 彼らがいつか達成することを望んでいる遠くにある観念を追求しているので、 今、ここにある現実を見ることがありません。 彼らは常に明日の観点から考え、自分自身を訓練します。


未来において実現されるであろう理想像を心に思い描き、 「そう(で)あるべきだ」と考えるものを実現しようと、常に努力し、自己訓練しています。


彼は自分自身のなかで、現在、正に起こっている過程の全体を決して理解しようとはしません。 そうではなく未来の理想にのみ関わっているのです。


野心的な人間は誰よりもいちばん恐れている人間である。 なぜなら、彼はあるがままの自分であることを恐れているからだ。


困難なのは、 「あるがままの事実(現実)」から走り去ってしまうことなしに、それと共に留まる、ということです。


我々の反応・応答のたいていが、事実(現実)からの逃避の行為となっているため、 逃避しないでそれと向きあうことが、これほどにも難しいこととなっているのです。


しかし、真の実在はあなたの近くにあるのです。 遠くにそれを求める必要はありません。 真理を求める人は、決してそれを見つけないでしょう。 真理は「あるがままのもの」のなかにあるからです。 そういう真理こそ、美しいのです。


それに反し、 あなたが真理を自分の知識に基づいて思い描き、それを追求し始めた瞬間から、戦いが始まるのです。 戦う人は理解することができません。 ですから私たちは、注意深く、受動的に、 この「あるがままの生、あるがままの、今、存在するもの」を観察しなければならないのです。 いま現に存在するものについて、それを否定したり、何かに変えようとするのではありません。 あるがままのものの知覚それ自体が、その変容をもたらすのです。


しかし「あるがままのものの見方」を知らなければなりません。 それは… 「どんな取捨選択もなしに、ただ全的に観察すること」なのです。 山登りを私は信じません。 “登り”など、ないのです。 「私はこれだが、いずれそれになる」など、ないのです。 あるのはただ「これ」のみです。 「これ」を変えなさい―それがすべてです。 心がもはや、「あるがままのもの」を避けておらず、抵抗しておらず、 それに単純に、受動的に、気づいているとき― その受容性のなかに変容が生じているのを知るでしょう。


私たちは理想が必要だと考えます。 しかし理想は私たちのなかに、この根源的な変化をもたらすのに役立つでしょうか。 それとも、それは単に、私たちが変化を延期し、未来に押しつけ、 それによって即座の根本的な変容を避けるのに役立つだけでしょうか。 確かに、私たちが理想を持つかぎり、私たちは決して本当には変化せず、 実際には、即座の根源的変容を避けるための延期の手段として、その理想を利用しているだけなのです。 理想は欠くことのできない大切なものであるということが、私たちの多くにとって当然のことだと思われています。 それなしには変化のはずみがないだろう、 それなしには、腐敗し、淀んで、腐るだろう、と私たちは考えるからです。


しかし、何らかの種類の理想が本当に私たちを変えるでしょうか。 私たちはなぜ理想を持つのでしょうか。 私が暴力的なら、非暴力の理想を持つ必要があるでしょうか。 非暴力の追求は、心を暴力から解放するでしょうか。 それとも、非暴力の追求(への欲求)そのものが、実際には暴力の理解を妨げているのでしょうか。


結局、私が心の全体で、問題=心の暴力性に完全な注意を注ぐときのみ、 私はそれ=暴力性を理解することができます。 そして、私が「暴力性」という事実と、その事実の理解に全面的に関わるとき、 非暴力の理想がどんな意味を持つでしょうか。 理想の追求は、現実・事実の回避、変容の未来への延期なのではないのでしょうか。 私が暴力を理解するつもりなら、私の心の全体を、それに注がなければなりません。 非暴力の「理想」によって注意をそらされていてはなりません。 これは本当に、非常に重要な問題です。


私たちの多くは、理想を自己変革の本質的な要因とみなします。 しかし実際には、心が暴力そのものの全体を理解するときにのみ本質的な変化があるのであり、 暴力を理解するためには、あなたはそれにあなたの全面的な注意を注がなくてはなりません。 理想によって注意をそらされていてはなりません。 ひとが暴力を完全に注意して見ることができ、それを完全に理解することができるなら、 そのとき多分、それを根源的に解決する道が見えてくるのです。


非暴力を習慣的に実行する人は、本質的に自己中心的であり、 したがって、その言葉の真の意味において「暴力的」です。 謙虚を習慣的に実行するひとは決して謙虚ではありません。 なぜなら、謙虚を獲得する、あるいは何であれ徳を養成するという過程が 自己中心性のもう一つの現われに過ぎず、 それは本質的に邪悪で暴力的だからです。 私がこれを非常に明確に見るなら、そのとき私はどうしたらいいでしょうか。


どんな風に私は、暴力から心を解放することに取り掛かったらいいのでしょうか。 私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている。 「あのようになりたい」という絶え間ない葛藤が私たちを苦しめ続ける。 あなたが一度も「瞑想」という言葉を聞いたことがなければなあ、と思います。 あなたが一度も、静かであるとはどんなことか、 心が静かなとき、その向こうに起こるかもしれないことについて、聞いたことがなければなあ、と思うのです。 もしも、あなたがこれらのことを、何も、一度も聞いたことがなく、 ありのままのあなたの生を― 悲惨、葛藤、苦しみに満ちたあなたの日常の生を―処理するだけであったなら、 その観察のなかに「他なるもの」が起こり得るかもしれないでしょうに。 しかし、あなたはそれを理解しようとはせずに他のものを望んでいます。


それが私が、「もしも、あなたが知ることなしに始めることができたらなあ」と言う理由です。 私は思考によって触れられていない実在があるかどうか知りません。 私はそのように宗教的な心があるかどうか、本当に何も知らないのです。


質問者:人間の生の究極的な意味、あるいは目的は何でしょうか。


クリシュナムルティ:私たちの生には意味や目的があるでしょうか。 私たちは目的を考え出すことはできます。 ―完璧な悟り、至福の状態に到達すること、と云った。 あるいは果てしなく理論を考え、それを自分の生の主題として生きていくこともできます。 私たちの生には、 幾ばくかのお金を稼ぎ、馬鹿げた種類の娯楽にそれを費やすこと以外、何の意味も目的もありません。 理論のなかにではなく、実際に、自分自身の生のなかに、このすべてを見ることができます。 自分自身のなかの果てしない戦い、目的の、悟りの追求、 世界中に―インドや日本に―瞑想の技術を学ぶために行くこと。 あなたは千もの目的を考え出せます。 しかし、あなたはどこへ行く必要もありません。 ヒマラヤにも、僧院にも、どんな道場にも。 なぜなら、あらゆるものがあなたのなかにあるからです。 どうやって見るのかを知るなら、最高のもの、測り知ることのできないものが、あなたのなかにあるのです。 「あるがままのもの、測り得るもの」を通して、あなたは「測り知れないもの」を見出します。 それは、あなたが自分自身で始めなければならないことです。 それをどうやって見るのかを知ることです。 それは、観察者なしに見ることなのです。 努力とは、あるがままのものをそれとは違ったものに― つまり、あるべきものに変える闘いを意味しています。 私たちは、あるがままのものに直面することを怖れるため、 絶えずそれに制御や修正という形で働きかけ、 それを見ることを避けるのです。 私は、どんなときにも自分や他人を測定しません。 この測定のない状態は、実際にあるがままのものと共に生きるとき、 あるがままのものを善悪の規準で判断しないときにやってきます。



「無宗教」の米国人、カトリック教徒などと並んで最多に 米調査


(CNN) 米国人の宗教観に関する調査で「無宗教」との回答がカトリック教徒やキリスト教福音主義派を上回って23.1%を占め、初めて首位に立ったことが14日までにわかった。


イースタン・イリノイ大学の政治学者でキリスト教バプテスト派の牧師でもあるライアン・バージ氏が、長年実施されている総合的な社会状況調査を新たに分析した結果となっている。調査の参加者は2000人超で、個別での面談にそれぞれ応じていた。


同氏によると、カトリック教徒は23.0%、福音主義派は22.5%だった。ただ、これら3グループの数値は回答率の誤差の範囲内にあり、統計学的には同一の数字と見なしている。


同調査では44年間にわたって信奉する宗教に関する同じ質問をしているが、今回のような数字の並びは初めてとした。


無宗教の層の激増は1990年代初期から始まった。91年以降では266%も伸びたという。今後4~6年間は明白な最大勢力になるだろうとも推測した。


無宗教と答えた層はさまざまなグループから成り、無神論者、不可知論者、心霊主義者や特定の組織的な宗教にはくみしないとする人々などが含まれる。


無宗教の層の増加の背景要因については専門家の間でさまざまな見方が出ている。無神論者の団体責任者はインターネットの存在が要因とも分析。ネットは無信仰者が同様の思いを抱く者を見出せる場所を提供していると指摘した。


1980年代以降生まれのミレニアル世代に独自な傾向との意見もある。この世代は、事実確認に貪欲(どんよく)で世界について好奇心を抱くとも分析している。

4/14(日) 15:34配信
CNN.co.jp


【社会科学】道徳を説く神への信仰は複雑社会の出現後に始まった


Social sciences: Complex societies preceded belief in moralizing gods


道徳を説く神への信仰は人間社会の拡大の後に起こったもので、社会的複雑性を高めるために重要ではなかったことを報告する論文が、今週掲載される。


ここ1000年間は「向社会的な宗教」の広がりが顕著になっている。このような宗教では、強力な「道徳律に従うことを求める神」、またはより一般的な道徳律違反に対する「超自然的な罰」(例えば、仏教におけるカルマ)の存在が自明とされている。道徳律に従うことを求める神の存在と社会的複雑性とが関連していることは先行研究で示唆されているが、両者の関係を巡っては論争がある。


今回、Patrick Savageたちの研究グループは、世界史上の数百の社会の社会構造、宗教とその他の領域に関する標準化データを解析して、道徳律に従うことを求める神と社会的複雑性の関係を検証した。この研究では、過去1万年間に世界の30の地域に存在した414の社会の記録を、社会的複雑性の評価基準(51種)と道徳律の超自然的強制の評価基準(4種)に基づいて系統的に符号化した。その結果、道徳律に従うことを求める神への信仰は、社会的複雑性が増した後に起こり、「メガ社会」(人口が約100万人を超える社会)の出現後に起こる傾向のあることが判明した。Savageたちは、道徳律に従うことを求める神への信仰は人間社会の複雑性が増すための必要条件ではなく、社会が一定の規模を超えた時に社会の協調性を維持するために必要な文化的適応だと考えられると主張している。この原因について、Savageたちは、多民族帝国で多種多様な人々を共通の高次権力に従わせるために必要だった可能性があると結論付けている。


DOI:10.1038/s41586-019-1043-4

Nature
2019年3月21日



質問者 私の質問は、「何が真理の証拠なのか?」ということです。すべての宗教の信奉者は、形而上学的、政治的、哲学的、あるいは倫理学的のいずれにせよ、彼らのものが唯一の真理だと確信させられています。ほかのすべては偽りであり、彼らの揺るぎない信念を真理の証拠と見なしています。彼らは、「私は納得した。それゆえ、それは真理に違いない」と言うのです。私にとってはいかなる宗教、哲学、教義、あるいは観念体系も、どんなに完全で、感情的に訴え、内面的矛盾を持たないとしても、それ自身の真理の証拠にはならないように見えるのです。それは衣服のようなもので、時間や環境によって、流行の流れにしたがって変化していくものです。
それでは、誰かの信念に依存しない真の宗教、あるいは哲学というものがありうるのでしょうか? 聖典でさえも同様です。なぜなら、それも誰かの信仰に依存するからです。信頼することに依存しない、主観的ではない真理があるのでしょうか?


マハラジ 科学はどうだろうか?


質問者 科学は堂々巡りです。それは感覚とともに、はじめた場所で終わるのです。それは経験を扱い、そして経験とは主観的なものなのです。二人の個人が同じ体験をすることはありえません。それでも彼らは同じ言葉で表現するかもしれません。


マハラジ あなたはマインドを超えた彼方の真理を探さなければならないのだ。


質問者 私はもう充分なほどの超越状態を体験してきました。どんな薬物でも、安価に、そして即座にそれを誘発できるのです。呼吸や精神的な訓練によって起こされた伝統的なサマーディ(三昧)もまた、たいした違いはありません。酸素サマーディや二酸化炭素サマーディがあり、思考の連鎖やマントラの復唱による自己誘導されたサマーディもあります。単調性は眠気をもたらすだけです。いかに荘厳なものであれ、私にはサマーディを真理の証拠として受け入れることはできません。


マハラジ サマーディとは体験を超えたものなのだ。それは特質のない状態だ。


質問者 体験の不在は不注意によるものです。それは注意とともにふたたび現れます。目を閉じることが光の不在を証明するわけではありません。実在を否定的な状態に帰属させることは、どこへも私たちを連れてはいかないでしょう。否定そのものが肯定を含んでいるのです。


マハラジ ある意味では、あなたは正しい。だがあなたは何があなたのマインドのなかに描いている真理で、どのような証拠があなたを満足させるのかを説明することもなく、真理の証拠を求めているということがわからないだろうか? もしあなたの証明を信頼するなら、あなたは何であれ証明することができるのだ。しかしあなたの証拠が本物だと何が証明するのだろう? あなたが知っているのは、あなたが存在するということだけであるのを、私はたやすくあなたに容認させることができる。あなたが持つことのできる唯一の証拠は、あなたなのだ。だが私は実在(リアリティ)と単なる実存(イグジスタンス)を同一視しない。実存は一時的であり、つねに時間と空間のなかにある。一方、実在は不変ですべてに浸透しているのだ。


質問者 私は何が真理か、何によって証明できるのかも知らないのです。どうか私を私自身の源に投げ返さないでください。私は何ももっていないのです。ここではあなたが真理を知る人であり、私ではありません。


マハラジ あなたは真理の証拠としての証言を拒絶している。あなたにとっては他者の体験は役に立たないものだ。多くの証人の間で一致した表明による結論も、あなたはすべて拒否してしまう。それゆえ、何があなたを満足させる証拠なのかを私に伝えるのはあなたなのだ。何があなたの評価にとって有効な証拠だろうか?


質問者 正直なところ、何が証拠となるのか自分でもわからないのです。


マハラジ あなた自身の体験でさえもかね?


質問者 私の体験でもなければ、私の存在でもありません。それらは私が意識していることに依存するものです。


マハラジ では、あなたが意識していることは何に依存するのだろうか?


質問者 わかりません。以前なら、私の身体によって、と答えたことでしょう。現在では、身体は二次的で根本的なものでないとわかるので、存在の証明として考えることができません。


マハラジ 過ちと不幸の源である「私は身体だ」という観念をあなたが放棄したことは喜ばしいことだ。


質問者 私は知的に放棄したのです。しかし、個人としての特定の存在感覚はいまだに私とともにあります。「私は在る」と言うことはできますが、私は何なのかを言うことはできません。私が存在していることは知っています。しかし、何が存在しているのか、私は知りません。どのように表現してみても、私は未知に直面するのです。


マハラジ あなたの存在そのものが真理なのだ。


質問者 もちろん、私たちは同じことを話しているのではありません。私は何か抽象的な存在ではありません。私は個人であり、限定され、その限定に気づいています。私は事実です。しかし、私はもっとも非現実的な事実なのです。個人としての一時的な存在の上に構築できるようなものは何もありません。


マハラジ あなたの言葉はあなたよりも賢明だ! 個人としてのあなたの存在は一時的なものだ。だが、あなたはただの個人なのだろうか? あなたは本当に個人なのだろうか?


質問者 どうやって答えればいいのでしょうか? 私の存在の感覚は、私は在ることだけを証明します。それは私から独立したものは何も証明しません。私は相対的存在です。相対的な創造主と創造物の両方なのです。絶対的真理の絶対的証拠──それは何なのでしょうか、どこにあるのでしょうか? 単なる「私は在る」という感覚が実在の証明になりうるのでしょうか?


マハラジ もちろん、なりはしない。「私は在る」と「世界は在る」は関連し、条件づけられている。それらは名前や形を投影するマインドの傾向のせいなのだ。


質問者 名前と形、観念と信念、しかし真理ではありません。もしあなたに出会わなかったなら、私は真理も含めたすべての相対性を受け入れたことでしょう。そして推測によって生きることを学んだことでしょう。ですが、私はあなたに出会い、絶対なるものが手の届くところにあり、もっとも望むべきものであるということをあなたから聞きました。平和、至福、永遠、不死といった言葉が、苦痛と恐れからの自由を示すものとして、私の注意を引いたのです。生来の本能である快楽の追求と好奇心が呼び起こされ、私はあなたが開いた領域を探検しはじめました。それらはみなもっとも魅力的であり、それゆえ当然、私は尋ねるのです、「それは達成できるものなのでしょうか? それは真理なのでしょうか?」と。


マハラジ あなたは「砂糖が甘いことを証明してくれれば、それをもらうよ」と言っている子供のようだ。甘さの証明は砂糖のなかにではなく、口のなかにあるのだ。それが甘いことを知るためには、味を知らなければならない。ほかに方法はない。もちろん、あなたは「それは砂糖でしょうか、それは甘いのでしょうか?」と尋ねることからはじめることができる。そしてあなたが味わうまでは私の保証を受け入れる。ひとたび味わえば、すべての疑いは消え去るのだ。そしてあなたの知識は直接の、揺るぎのないものとなる。私は、あなたに私を信じるように頼みはしない。ただ、はじめるのに充分なだけは信頼してほしい。それぞれの段階がそれ自体を証明、あるいは反証するのだ。あなたは真理に先立って真理の証拠がほしいようだ。では、証明の証明はどうなるのかね? 見なさい、あなたは後退しているのだ。それを止めるためには、証拠を求めることをやめ、真理としての何かを、まず受け入れなければならない。それが何かは重要ではない。それは神、あるいは私、あるいはあなた自身かもしれない。どの場合でも、あなたは何か、あるいは誰か未知なるものを真理として受け入れるのだ。さて、もしあなたが、たとえ一瞬でも受け入れた真実にしたがって行為するならば、すぐにもつぎの段階に移るだろう。それは闇のなかで木に登るようなものだ。最初の枝に足をかけて、はじめてつぎの枝をつかむことができる。科学はそれを実験的研究方法と呼ぶ。論理を証明するために、先達の実施指導にしたがって実験を進めていくのだ。霊的探求における実験の連鎖をヨーガと呼ぶのだ。


質問者 多くのヨーガがありますが、どれを選択すれば良いのでしょうか?


マハラジ もちろん、すべてのジニャーニは、彼がもっとも親密に知っている自分の歩いた達成への道を提案することだろう。しかし、彼らのほとんどは非常に寛大であり、探求者の必要に適した助言をするのだ。すべての道はマインドの浄化へとあなたを導く。不純なマインドは真理を不透明にする。純粋なマインドは透明だ。真理はそれを通して容易に、明らかに見ることができるのだ。


質問者 すみません。しかし、私には私の困難を伝えるすべを見つけられません。私は真理の証拠について尋ねていたのです。そして、それに到達する方法を与えられたのです。私がその方法にしたがい、ある望むべき、すばらしい状態を達成したとします。どのようにしてその状態が真実のものだと知ることができるのでしょうか? すべての宗教は信仰からはじまり、ある恍惚状態を約束します。その状態は実在のものでしょうか? それとも信仰の産物でしょうか? なぜなら、もしそれが誘発された状態なら、はじめから私は関わらないでしょう。たとえばキリスト教徒は言います。「イエスはあなたの救世主です。信じなさい。そして罪から救われなさい」と。私が罪を犯しているキリスト教徒に、イエスへの信仰にもかかわらず、どうしてあなたは罪から救われてはいないのかときくと、彼は、「私の信仰心が完全ではないからです」と答えるのです。またしても、私たちは悪循環のなかにいます。完全な信仰なしには解放もありません。解放がなければ、完全な信仰心もないのです。完全な信仰心というものはありません。それゆえ、解放はないのです。満たすことの不可能な条件を強いられ、それから、それらを満たしていないことを非難されるのです。


マハラジ あなたは現在の目覚めの状態が、無知から起こるものだということを認識していない。あなたの真理の証拠についての質問は、実在における無知から生まれたものなのだ。「私は在る」という点で、あなたは意識のなかの感覚的、精神的状態に触れている。一方、実在は瞑想されず、触れられず、体験されないままだ。あなたは二元性をあまりにも当然のことと見なしていて、それに気づいてさえもいない。だが、私にとって多様性や変化は分離を生みださないのだ。あなたは実在が名前と形から離れてあると想像している。だが、私にとって名前と形は、実在の絶えず変化する表現であり、それから離れてはいないのだ。あなたは真理の証拠を求めている。だが私にとっては実存すべてが証拠だ。あなたは実存(イグジスタンス)から存在(ビーイング)を切り離し、実在(リアリティ)から存在(ビーイング)を切り離している。だが、私にとってはすべてがひとつなのだ。どれほど目覚めの状態の真実性に確信をもっていようとも、私が自分の話でしているように、あなたはそれを永久不変のものだと宣言することはない。しかし、それでも私は私たちの間に違いを見ない。ただあなたはものごとを想像しているだけであり、私はそうしないだけなのだ。


質問者 最初にあなたは私から真理に関して尋ねる資格を奪い、それから私に想像について非難するのです! あなたにとって想像であるものが、私にとっては真理なのです。


マハラジ あなたがそれを調べてみるまではそうだろう。何もあなたを非難しているわけではないのだ。ただ、賢明に質問するよう求めているだけだ。あなたの知らない真理の証拠について探し求めるよりも、あなたが知っていると信じている証拠について調べてみなさい。そうすれば、あなたは何も確信できるものがなく、人伝え聞いたことを信じているだけだと知るだろう。真理を知るためには、あなた自身の体験を通らなければならないのだ。


質問者 私はサマーディや超越状態がひどく恐ろしいのです。その原因が何であろうとも。酒、喫煙、高熱、薬物、呼吸、歌、揺さぶり、踊り、旋回、礼拝、セックス、断食、マントラ、あるいはめまいのするような抽象観念は私を目覚めの状態から追いだし、未知ゆえに何か驚くべき体験を与えるのです。しかし、その原因がやめば、結果は消え去り、残るのは記憶だけです。容易に忘れることはできませんが、それでも消え去るのです。
すべての方法とその結果を放棄しましょう。なぜなら、結果は方法に縛られているからです。新たな質問をしましょう。真理を生みだすことはできるのでしょうか?


マハラジ あなたが探しにいけるような真理の住処がどこかにあるというのかね? そしてどうやってそれを見つけたと知るのだろうか? それを試すためのどんな試金石をもっていくというのだろう? あなたは「真理の証拠とは何か?」という最初の質問に後戻りしたのだ。その質問自体に何か間違いがあるに違いない。なぜなら、あなたにはそれを何度もくり返す傾向があるからだ。なぜ真理の証拠が何かと尋ねるのだろうか? あなたが真理を直接知らないから、そして騙されることを恐れているからだろうか? 真理とは「真理」という名前をつけた何かであり、もし本物なら、それをもつことは有益だとあなたは想像しているのだ。だからあなたは騙されることを恐れているのだ。あなたは真理を買いに来た。だが、商人を信頼することができない。あなたは偽造品や模造品を恐れているからだ。


質問者 私は騙されることを恐れているのではありません。私が私自身を騙すことを恐れているのです。


マハラジ だが、あなたは本当の動機に無知であることによって自分を騙しているのだ。あなたは真理を求めている。だが、実際には永遠に続く安楽を探しているだけなのだ。いかなるものも、どんなマインドの状態も永遠に続きはしない。時間と空間のなかではつねに限界がある。なぜなら時間と空間自体が限定されているからだ。そして時間を超えたもののなかでは「永遠に」という言葉は意味をもたない。「真理の証拠」についてもまた同様なのだ。非二元性の領域ではすべてが完全で、それ自体の証拠であり、意味と目的なのだ。すべてがひとつであるところでは、どのような支えも必要とされない。あなたは永久性が真理の証拠だと想像している。より長く継続するものが、より真理に近いのだと。時間が真理のはかりとなってしまった。そして時間がマインドのなかにあるため、マインドが判定者となり、真理の証拠をマインドそのもののなかに探求するのだ──まったく不可能で絶望的な仕事だ。


質問者 あなたが「何も真理ではない。すべてが相対的なのだ」と言われるのなら、私も同意したでしょう。しかし、あなたは真理、実在、完全な知識はあると主張しています。それゆえ、「それは何なのでしょうか、どうやって知ることができるのでしょうか?」と尋ねているのです。それでは、何が私に「そうです。マハラジの言うとおりです」と言わせるのでしょうか?


マハラジ あなたは証明、証拠、権威の必要性にしがみついている。まだ真理が示され、「見なさい、ここに真理がある」と言われる必要があると想像しているのだ。そうではない。真理は努力の結果、旅路の果てにあるのではない。それは今ここに、その熱望と探求そのもののなかにあるのだ。それはマインドや身体よりも近い。「私は在る」という感覚よりも近いのだ。あなたがそれを見ないのは、あなた自身からずっと遠くを、存在の核心の外を見ているからだ。あなたは真理を対象化し、あなたの証明と審査の基準に合うべきだと言い張っている。だが、それはものごとや思考にしか当てはまらないのだ。


質問者 あなたの言われることから察するに、真理は手の届かないところにあり、私にはそれについて語る資格がないということです。


マハラジ あなたには資格があるばかりではなく、あなたが真理そのものなのだ。ただあなたは偽物を真理だと勘違いしているだけだ。


質問者 あなたは、「真理の証拠について尋ねてはならない。真理でないものだけに関わりなさい」と言われているようです。


マハラジ 真理の発見は、偽りを識別することのなかにあるのだ。あなたは存在しないものを知ることができる。在るものは──あなたはただ在ることができるだけなのだ。既知にとって、知識は相対的なものだ。ある意味では、知識は無知の片割れなのだ。無知のないところに知識の必要があるだろうか? それ自体では、無知も知識も存在していない。それらは単なるマインドの状態であり、また本質的に不変である意識の運動の現れなのだ。


質問者 真理はマインドの領域内にあるのでしょうか、それともそれを超えているのでしょうか?


マハラジ そのどちらでもない。それは両方だ。それを言葉で表すことはできない。


質問者 表現不可能(アニールヴァーチャーニヤ)……これがつねに私の聞いてきたことです。それが私を賢くすることはありません。


マハラジ それがしばしば無知を覆い隠すことは本当だ。マインドはそれ自体がつくり出した言語で働くことができる。ただ、それ自体を超えていくことはできないのだ。感覚的でも精神的でもなく、しかも、それなしには感覚的なものも精神的なものもありえないものが、感覚的なものや精神的なものに含まれることはありえないのだ。マインドには限界があることを理解しなさい。マインドを超えていくには、沈黙とひとつにならなければならないのだ。


質問者 行為が真理の証拠だと言うことはできるでしょうか? 真理は言語化することはできませんが、行動に表すことはできるかもしれません。


マハラジ 行為でも無為でもない。それはどちらも超えているのだ。


質問者 人は「そうです。これこそ真理です」と言うことができるのでしょうか? あるいは彼は偽りを否定することに制限されているのでしょうか? 言い方を変えれば、真理は純粋な否定なのでしょうか? あるいはそれが断言となる瞬間がやってくるのでしょうか?


マハラジ 真理は描写できない。だが、体験されることができるのだ。


質問者 体験は主観的であり、分かち合うことができません。あなたの体験は、私を今いるところに置き去りにするのです。


マハラジ 真理は体験できるが、それは単なる体験ではない。私はそれを知っていて、あなたに伝えることができる。だが、あなたがそれに対して開いているときだけだ。開いているとは、ほかの何も求めないということだ。


質問者 私は恐れと欲望でいっぱいなのです。それは私が真理を知るには適格ではないということでしょうか?


マハラジ 真理は良いふるまいに対する褒美でも、何かの試験が通ったことへの賞でもない。それをもたらすことはできないのだ。それは原初のもの、不生、存在するすべての太古の源なのだ。あなたは適格だ。なぜならあなたは在るからだ。あなたが真理に値する必要はない。それはあなた自身のものなのだ。ただ、それを追いかけることによって、それから逃げだしてはならない。沈黙しなさい。静かで在りなさい。


質問者 もし身体を落ち着かせ、マインドを静かにさせなければならないのなら、どのようにすればいいのか教えてください。自己覚醒のなかで、私は身体とマインドが私のコントロールを超えた原因によって動かされているのを見ます。遺伝と環境が私を絶対的に支配しています。宇宙の創造者である偉大な「私は在る」も、薬物によって一時的に、あるいは一滴の毒によって永久に消し去ることができるのです。


マハラジ またしても、あなたは自分を身体と見なしている。


質問者 たとえ私が骨、肉、血としてのこの身体を退けたとしても、いまだに思考、感情、記憶、想像でできた希薄な身体として残るのです。それでさえ非─私として退けても、私は意識として残ります。それもまたある種の身体なのです。


マハラジ あなたの言うとおりだ。だが、そこで止まる必要はない。その彼方へと行きなさい。意識も、その中心の「私は在る」さえも、あなたではないのだ。あなたの真の存在は完全な非─自己意識だ。粗大、微細、あるいは超越、何であれすべての自己同一から完全に自由なのだ。


質問者 私自身が彼方のものだと想像することはできます。しかしどのような証拠があるのでしょう? 在るためには、私は誰かで在らねばなりません。


マハラジ それは正反対だ。在るためには、あなたは誰でもない人にならなければならない。あなた自身を何か、あるいは誰かだと考えることは死、そして地獄だ。


質問者 古代エジプト人は薬物や魔術の影響によって身体から追いだされ、実際に外側に立ち、横たわった自分の姿を見るという秘教儀式の存在を認めてきました。このことが彼らに死後の存在の実在を確信させ、国家と寺院に多大な利益をもたらす究極的な運命への深い関心を生みだし、身体を所有する個人との自己同一化の儀式が存続したのです。


マハラジ 身体は食物からできている。そしてマインドは想念からできている。それらをあるがままに見なさい。あなたが何であるのかを知る必要はない。あなたが何ではないかを知れば充分なのだ。あなたであるものを知ることはけっしてない。なぜならすべての発見が克服すべき新たな次元を開くからだ。


質問者 それは永遠に無知であり続けるという意味でしょうか?


マハラジ それは無知がけっして存在しなかったことを意味するのだ。真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。そして、発見にははじまりも終わりもないのだ。限界を疑いなさい。そして超えていきなさい。一見、不可能と見える仕事を自らに託しなさい。それが道なのだ。


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