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ホラー映画スピリチュアル


変化するものは、すさまじい喜びをもってくることがあるが、去る。長期間観測するとわかるのは、変化するものは一定の強度というものがない。上がったり下がったりする波のようにどんどん変わっていく。


ところがどの瞬間にも、不変のものにタッチすることができる。というか、不変がわたしたちなので、「素に戻る」ことで、その瞬間独特の喜びが湧き上がってくる。それも、人間の想像しうる「一番幸せ」という段階は入り口にすぎない。神が用意している幸福は、半端じゃないとしか言えない。


慣れるまでは、なかなか信じられない。自分で自分を信じられない。


無限の資源など、見たことも聞いたこともない。触れたこともない。だから、信じるのは無理だ。確認するしかない。確認が、常識とすべての疑念を覆す。


不変は、常にある。止まっている。永遠にわたしたちと共にいる。わたしたちだから。
想像されている「私」たちがいないだけ。いないことも考えなくていい。


ただ、慣れ親しんだものから視線を外し、「私はいまたしかに存在している」という感覚の発生源のみに焦点を移す。そこには座標がなく、肉体がなく、色がなく、匂いがなく、何もない。だから無に焦点を移すことは「体感」で覚えるしかない。


どこが無なのか?どうやって?と質問してマインドは抵抗するが、その質問は無効だ。すべてが無だ。


無が「愛」の感覚をもたらすことを知るまで、時間はかからない。時間がかかるのは、その人の独自の「無知・無明」のエネルギーの雲を払いのけるのに時間がかかる。


この過程で5000回疑念が生まれる。無に対して。自分に対して。5001回目まで粘らなければならない。


これはゲームだ。リアルな恐怖や、深刻な問題のすべてに、その不変の力が上回るかどうか一回一回ハラハラしながら実験していくと、認識が変わっていく。


これはマシュマロみたいに弱いのではないか?そもそも存在するのか?という認識が、これはなかなか強いになり、これは相当強いになり、これもしかしたらすべてに打ち勝てるのか?になる。


nobodyはアホなので、すべての恐怖に打ち勝てるかどうかをたくさんの「ホラー映画」で試していた。


虚空は待っている。思い出されることを待っていて、胸の中心に開くハートがその実在を教えてくれる。


すべては(意識の)焦点の誤りだ。ジェイソンを見ないでほしい。いま、わたしの中心の「無」から見る。nobody


質問者 あなたは、私がけっして生まれてこなかったし、死ぬこともないと言いつづけています。もしそうならば、どうして私の目には、世界は誕生し、間違いなく死にゆくものとして映るのでしょうか?


マハラジ  そう信じるのは、明らかにあなたが生まれ、そして死んでいく身体だという考えを一度も疑ったことがないからだ。生きている間、身体は注意を引き、完全にあなたを魅了する。それゆえ、自己の真の本性を知覚する人は本当にまれなのだ。それは大海の表面を眺め、その下にある広大さを忘れるようなものだ。世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ。私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。マインドが静かなとき、それは実在を反映する。マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残るのだ。この実在は非常に堅固であり、現実であり、マインドや物質よりも実質的なものだ。それに比べればダイヤモンドさえもバターのように柔らかい。この圧倒的な実在の現実性が、世界を夢のように霧のかかった無意味なものにするのだ。


質問者 あまりにも多くの苦しみを抱えたこの世界を、どうして無意味なものとして見ることができるのでしょう。なんと冷淡な!


マハラジ  冷淡なのはあなたであって、私ではない。もしあなたの世界がそれほどにも苦しみに満ちているのなら、何とかするがいい。強欲や怠惰をそれに加えてはならない。私はあなたの夢のような世界に束縛されてはいない。私の世界では、苦しみ、欲望、恐れの種子はまかれてはいない。それゆえ、苦しみは育たないのだ。私の世界は対極から自由であり、相互に破壊的な不一致がなく、調和が遍在しているのだ。その平和は岩のように堅固であり、この平和と沈黙が私の身体なのだ。


質問者 あなたが言われることは、仏陀のダルマカーヤ(法身)を思い出させます。


マハラジ  そうかもしれない。学術用語で脇道にそれる必要はない。ただ、あなたはマインドのなかで知覚する世界の一部分としての個人をあなた自身だと想像していることを理解しなさい。そしてマインドを外側から見てみなさい。なぜなら、あなたはマインドではないのだから。結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に自己同一化することなのだ。この習慣を捨てなさい。あなたはあなたが知覚するものではないのだ。注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。そうすれば、あなたのふるまいはあなたの見解を表現するだろう。ひとたびこの世界にあなた自身のものと呼べるものは何もないと悟れば、あなたはそれをステージ上の劇やスクリーン上の画像を見るように外側から見る。賞賛し、楽しみながら、しかも実際には動じることのないままに。あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空間のなかに実際に存在し、短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、あなたは存続し、拡大していくことを切望するようになるだろう。だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうでなければすべてに遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅なるものだと知るとき、もはや恐れることは何もなくなるのだ。あるがままのあなたを知りなさい。ほかに恐れに対する治療法はない。あなたはこの路線で考え、感じることを学ばなければならない。さもなければ、いつまでも欲望と恐れ、獲得と損失、成長と衰退という個人のレベルにとどまったままだ。個人的な問題はそれ自体のレベルにおいて解決することはできないのだ。幸せであろうと切望することは不幸の原則であるように、生きようとする欲望自体が死のメッセンジャーなのだ。世界は苦痛と恐れの、不安と絶望の大海だ。快楽は魚たちのように、わずかばかりまれにやってきては、たちまちのうちに去っていく。理解力の低い人たちは、あらゆる証拠にも反して彼だけは例外であり、世界が彼に幸福をもたらすことこそ当然だと信じている。だが、もっていないものを世界が与えることはできない。徹底的に世界は非実在であり、真の幸福のためには無用のものなのだ。そうであるほかないのだ。私たちが実在を求めるのは、非実在に苦しんでいるからだ。幸福が私たちの真の本性なのだ。そして、それを見いだすまで私たちはけっして休まないだろう。しかし、それをどこに求めればいいのかを知る人はごくまれだ。ひとたびあなたが、世界とは実在の錯誤した光景であり、それはそう現れたとおりのものではないと理解すれば、それに取りつかれることから自由となる。あなたの真の存在と一致するものだけがあなたを幸福にする。見てのとおり、世界は明らかにそれを完全否定するものなのだ。ただ静かに在りなさい。そしてマインドの表層に現れるものを見守りなさい。既知なるものを受けつけず、まず未知なるものを歓迎しなさい。そして然る後に、それもまた拒否しなさい。このようにして、あなたは知識のない存在だけの状態に到達するのだ。そこでは存在自体が知識だ。在ること自体によって知ることが直接の知識なのだ。間接的な知識は記憶と感覚を根底とし、知覚者と知覚されたものとの関係の近さ、その二つの間の対比によって制限されてしまう。幸福においてもそれは同様だ。普通、喜びを知るために悲しみ、悲しみを知るために喜ばなければならないものだ。真の幸福には原因がなく、刺激がなくなっても消え去ることはない。それは悲しみと対立するものではない。それはすべての悲しみと苦しみを含むものなのだ。


質問者 こんなにも多くの苦しみに囲まれながら、どうやって幸福でありつづけることができるのでしょうか?


マハラジ  それはどうすることもできないのだ。内なる幸福は圧倒的に現実のものだ。空の太陽のように、その現れが雲に隠れたとしても、けっして不在ではないのだ。


質問者 私たちが困難に在るとき、不幸となるのは避けられないことです。


マハラジ  問題はただ恐れだけだ。あなた自身を何にも依存しないものとして知りなさい。そうすれば、あなたは恐れとその影から自由になるだろう。


質問者 幸福と快楽との違いは何でしょうか?


マハラジ  快楽はものに依存している。幸福は依存しない。


質問者 もし幸福が依存しないものなら、なぜ私たちはつねに幸福ではないのでしょうか?


マハラジ  幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不幸になるに違いないと信じることだろう。マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。それゆえ人は、幸福になろうと駆りたてられる必要はないのだと確信することが重要なのだ。その反対に、快楽は混乱と厄介者であり、幸福になるには何かをもち、何かをしなければならないという偽りの確信を、単に増長するだけなのだ。しかし、なぜ幸福について話さなければならないのか?不幸であるとき以外、幸福について話したりはしない。「私は今幸せです」と言う人は、過去と未来という二つの不幸の間にいるのだ。この幸福は苦痛から解放されたことによる単なる興奮にすぎない。真の幸福とは、まったく自己意識のない状態だ。それがもっとも良く表されるのは否定によって、「何も私には間違ったところはない。私には何も心配することがない」と言うことだ。結局、すべてのサーダナの最終的な目的は、この確信が言葉上のものでなく、実際の常在の体験を根底にした地点に到達することなのだ。


質問者 どの体験でしょうか?


マハラジ  空として在ることの体験だ。記憶や期待で混乱していない、開かれた空間の、若々しい、すべての時間とエネルギーを発見や冒険のために得たような幸福だ。


質問者 発見するための何が残されているというのでしょうか?


マハラジ  実在のなか、そして神の偉大なマインドとハートのなかに存在する、外なる宇宙と内なる無限の空間の広がりだ。存在の意味と目的、苦しみの秘密、人生の無知からの救済だ。


質問者 もし幸福であることが恐れと心配からの解放であるなら、困難の不在が幸福であると言えるのではないでしょうか?


マハラジ  不在、非存在の状態は原因とはなりえない。ある原因が前もって存在するということは、それが観念のなかに暗黙のうちに含まれていたことを意味するのだ。何も存在しないあなたの自然な状態のなかに、成ることの原因はありえない。原因は偉大で神秘的な記憶の力のなかに秘められている。しかし、あなたの真の住処はすべての内容物が空っぽの、無のなかにあるのだ。


質問者 空っぽと無――なんと恐ろしい!


マハラジ  あなたは眠るとき、喜んでそれにであうのだ!目覚めた眠りの状態をあなた自身で見いだすがいい。そうすれば、それがあなたの真の本性と完全に調和していることを知るだろう。言葉はあなたに概念しか与えられない。そして概念は体験ではないのだ。私に言えることはただ、幸福には何の原因もなく、原因のないものは不動だということだ。それは快楽のように知覚可能なものではない。知覚可能なものは苦痛と快楽なのだ。不幸から解放された状態は否定を通してしか描写できない。それを直接知るには、因果律に耽溺したマインドと時間の支配を超えていかなければならないのだ。


質問者 もし幸福が意識ではなく、意識が幸福ではないのなら、それら二つの間のつながりは何なのでしょうか?


マハラジ  意識的存在は条件と環境の産物であり、それらに依存し、それらとともに変化する。独立し、創造されたものではなく、永遠で不変のもの、しかもつねに新しく新鮮なものはマインドを超えている。それについて考えるとき、マインドは消え去り、ただ幸福だけが残るのだ。


質問者 すべてが去った後、無が残るのです。


マハラジ  何もないところに無がありうるだろうか?無とはひとつの概念にすぎない。それは何かの記憶に依存しているものだ。純粋な存在は、定義可能で描写可能な存在から完全に独立しているのだ。


質問者 どうか教えてください。マインドを超えても意識は継続するのでしょうか、それともマインドとともに終焉するのでしょうか?


マハラジ  意識は来ては去っていく。気づきは永遠不変に輝くのだ。


質問者 気づきの中で気づいているのは誰でしょうか?


マハラジ  個人がそこにいるとき、意識もまたそこにある。「私は在る」、マインド、意識はどれも同じ状態を表している。もしあなたが「わたしは気づいている」というなら、それは「わたしは気づいていることについて考えていることを意識している」という意味だ。気づきの中に「私は在る」はない。


質問者 観照はどうでしょうか?


マハラジ  観照はマインドのものだ。観照者は観照されるものとともに在る。非二元性の状態のなかでは、すべての分離がやむのだ。


質問者 あなたはどうなのでしょうか?あなたは気づきのなかに在りつづけるのでしょうか?


マハラジ  個人、「私は身体だ」、このマインド、この記憶の連鎖、この一束の欲望と恐れは消え去る。だが、アイデンティティと呼ばれる何かはそのまま残る。それは必要とされるとき、私が個人となることを可能にするのだ。愛はそれ自身の必要性をつくり出すのだ。ひとりの個人と成ることさえも。


質問者 実在はそれ自体を存在―意識―至福として現すと言われています。それらは絶対的なものでしょうか、それとも相対的なものでしょうか?


マハラジ  それらは互いにとって相対的であり、相互に依存している。実在はその表現とは別なのだ。


質問者 実在とその表現はどのような関係にあるのでしょうか?


マハラジ  何の関係もない。実在のなかではすべてが真正で同一なのだ。それは、私たちが「サグナ(顕現)とニルグナ(非顕現)はパラブラフマン(至高の実在)のなかでひとつだ」と表現するのと同じだ。ただ至高なるものだけが存在するのだ。運動のなかでは、それはサグナであり、不動においては、それはニルグナなのだ。だが、動いているのは、あるいは動かないのはマインドだけだ。実在は彼方にあり、あなたも彼方にあるのだ。ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものはあなた自身ではありえないと理解するならば、あなたはあなたの想像から自由になる。すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、真我の実現に必要不可欠なのだ。私たちは注意の欠如から実在を失い、過剰な想像から偽りを生みだすのだ。あなたはこれらのことにマインドとハートを捧げ、繰り返し熟考しなければならない。それは食べ物を料理するようなものだ。用意ができるまでは、それを火にかけておかなければならないのだ。


質問者 私は運命、カルマに支配されているのではないでしょうか?それに対して何ができるのでしょうか?私が何であるのか、何をするのかは前もって決められているのです。私のいわゆる自由選択さえも先決されているのです。ただ私が気づかず、自分は自由だと想像しているだけなのです。


マハラジ  またしても、それはあなたがどう見るかにかかっている。無知とは熱のようなものだ。それはあなたにそこにはないものを見させる。カルマとは神の力によって処方された治療法なのだ。それを歓迎し、その指導に信頼をもってしたがうがいい。そうすればあなたは良くなるだろう。回復すれば患者は病院を去っていく。選択と行為の即座の自由をせがむことは、単に回復を延長させるだけだ。運命を受け入れ、それを満たすがいい。これが運命からの自由への近道なのだ。だが、愛とその欲求からの自由ではない。欲望と恐れから行為することは束縛だ。愛から行為することが自由なのだ。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody