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みなさん、今まで本当にありがとうございました。
ずっと読んでくださってた方にきちんと状況をご報告できていないと思うので書きます。


聖フランチェスコの覚醒時の気持ちがわかるようになりました。
悟りとか覚醒なんて名前で呼ばれているものは一周まわってくることだけです。
だけどまわってきたら、いままで付きまとってたものはとれてて、いままでみえなかったものがみえてることに気づきます。


完全覚醒はもうちょっと違う種類のものなんですが、探求自体は発覚とともに今後もずっとずっと続きます。みんながそうです。発覚、しかないからです。


完全覚醒というのは覚醒の「中」に起こるんです。勝手に起こります。
覚醒しようが何しようがわたしたちは肉体のなかにいますよね。肉体はマインドの中にあります。マインドは意識の中にあります。意識の中と外に虚空があります。意識の中の虚空の中に入りきってしまうことが完全覚醒です。


私の実体験からの定義は「あらゆる表現の否定によってしか指すことができない」を「いま体感できている」ことです。
鍵は不要。もう部屋の中にいるから。それが本当の理解です。そして初めて真の意味でリラックスできるようになり、真の意味で自由を行使できるようになります。


手袋が欲しいのに、手袋が5m先にあるとします。
これを「離れている」と「まったく感じていない」のが覚醒者です。
意味が通じるでしょうか。考え、知的な答えを出しても、体感できません。
一周まわってくることしかないんです。
すべてがわたしそのもの。すべてとはなにか。いつかとどこかは地上のみの質問です。


いまは球体のようなもので、完全です。いまは自由です。
自由というのは、なんでも望んだとおりの意識状態をわたし(真我)がわたしにプレゼントしているということです。時間・空間のしばりがなくなれば、創造は瞬間的に実現します。ステーキは前後の調理とか原材料の段階を吹っ飛ばしてステーキとして宙から出現します。この世界では創造の時間制限を吹っ飛ばす方法は一つしかありません。それが虚空です。そしてこの世で大切なことはただ一つ。愛を体現していると魂が感じる道にいま従うことのみです。


ちょっとこれは書いておきたいんですが、私は「覚醒を求めること」がどれほど本人にとって苦しいか、悲しいかわかっています。28年間求めた正真正銘のアホこそ私というパターンです。「愛を求めること」も苦しみです。答えはあなた、あなたをつつむいま、いまをつつむあなたです。言葉は求めている最中には決して意味が通じないこともわかっています。


たくさんの人にお世話になりました。この旅に付き合っていただき、本当にありがとうございました。思いついたときに何かしら書きますので、よかったらまた読んでやってください。


で、覚醒と炎は同じものかというと、違うんです。覚醒と虚空は同じものです。
完全覚醒は虚空に真に帰り、とどまることです。
わたしたちは意識として具現している覚醒です。


炎に到達しない理由というのは求めるからです。求める態度が雪の感覚なんです。わかれば笑ってしまう悲劇です。なぜ求めているのかを自分のなかの井戸を覗き込んで飛び降りて水浴びしないかぎり終わらないんです。


なぜすべてを愛せないのか。問われているのはそれだけです。


ですから私はみなさんとまったく同じく純粋な目覚めた意識ですが、炎が時間軸上のいつ起こるかはわかりません。
愛はですね、現段階では胸の中心に太陽のようなものを「ときどき」感じています。それは「いまを慈愛の目で見ていることとイコール」なのだとわかりました。たぶんこれから荷物の手放しが日々起こってくるんでしょう。だからもうこの日記は単なる雑記になります。今までは真剣な漂流日記だったんですけどね。


正直ですね、今までは真剣に真剣に求めていたから、いまはこの地平があったことに「は?」って感じです。私が私を閉じ込めていた。は?いやいや意味がわからない。は?そして放心。与えられたものだけをなぜもっと「素直に」受け止めることができなかったのか、「ありのまま」にみれなかったのか、その追求と回避の「動機」はなんなのかなぜ自分で自分をみなかったのか。すべては自分のフィルターで構成された現実なんです。


あの世側の目的は魂の成長です。成長を早めるのは、一日一日に与えられた意味があることを盲目的に信じ、その意味を探して探して、徹底的に感謝していく姿勢にいますぐ変えることです。感謝できない理由は、どこにもないことだけは一番先に気づくことがあなたを一番助けるのだと私は敬愛する死神に教えてもらいました。


この日記で私の身に起こったことは、みなさんが一緒に見つめてくださったからです。
みなさんの力を私はいただきました。苦しみから救っていただき、本当にありがとうございました。いま感謝でいっぱいです。



天地をつなぐのは、愛を体現していると魂が感じる道にいま従うことのみです。
あなたはいま神の光につつまれている。
あなたはいま神の声によばれている。
あなたはいま神の手にふれられている。
愛とはわたしはあなたとともにある。



質問者 どのようにしてあなたが真我を実現したのか、話していただけますか?


マハラジ  三十四歳でグルと出会い、三十七歳にして実現したのだ。


質問者 何が起こったのでしょう?どのような変化があったのでしょうか?


マハラジ  快楽と苦痛による影響が消え、欲望と恐怖から自由になったのだ。私は満たされ、何も必要ではなくなった。純粋な覚醒の大海のなか、宇宙意識の表層で、世界という現象の無数の波が無始無窮に立ち現れては消えゆくのを私は見たのだ。意識としては、それらはすべて私自身であり、出来事としては、それらはすべて私のものだ。ある神秘的な力がそれらを維持している。その力が真我、生命、神と呼ばれるものだ。金の宝飾品の基本素材がすべて金であるように、それらは存在するすべてを究極的に維持する土台だ。そして、それはとても親密に私たち自身のものなのだ!宝飾品から名前と形を取り去れば、金が明白になる。名前と形から、そしてそれらをつくり出す欲望と恐れから自由になりなさい。そうすると何が残るだろうか?


質問者 無です。


マハラジ  そうだ。虚空が残る。だが、その虚空は完全にすべてを満たしている。意識の永遠の可能性が、永遠の現実となるのだ。


質問者 可能性とは未来を意味しているのでしょうか?


マハラジ  過去、現在、未来のすべて、そしてかぎりなくそれ以上だ。


質問者 しかし、虚空は虚空にすぎず、私たちにはあまり役に立ちません。


マハラジ  どうしてそう言えるだろう?連続性のなかに中断がなくても再誕生は可能だろうか?死がなければ再生もありえない。眠りにおける暗闇も、新鮮さと活力の回復をもたらす。死がなければ、私たちは永遠の老衰のなかに沈み込んでいることだろう。


質問者 不死というものは存在しないのでしょうか?


マハラジ  生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られたとき、それが不死だ。はじまりのなかに終焉を見、終焉のなかに始まりを見ることが永遠を示唆している。不死が連続性でないということは明白だ。変化というプロセスだけが続いていく。永遠に存在するものなど何もない。


質問者 気づきは永続するのでしょうか?


マハラジ  気づきは時間のなかにはない。時間は意識のなかにのみ存在する。意識を超えて、どこに時間と空間があるだろう?


質問者 あなたの意識の領域にはあなたの身体も在ります。


マハラジ  もちろんだ。しかし、ほかの身体と異なったものとしての「私の身体」という考えはない。私にとってそれは「私の身体」ではなく「ある身体」であって、「私のマインド」ではなく「あるマインド」だ。マインドが身体の面倒を見る。私が干渉する必要はない。為されるべきことは、通常の自然な方法で為される。生理的機能に関しては、あなたはまったく意識していないかもしれない。だが、思考や感情、欲望や恐れにいたっては、あなたは自己意識に鋭敏になる。私にとっては、これらもまた全体として無意識の内にある。私はさほど意識もせずに人びとと話をし、まったく正しく適切に事を運んでいることを見いだすのだ。あたかも私は自発的にしかも的確に反応し、自動的にこの物質的な目覚めの生を生きているかのようだ。


質問者 この自発的な反応は真我の実現の結果なのでしょうか、それとも訓練によるものでしょうか?


マハラジ  その両方だ。真理の探究と、人びとを助けるという目的に捧げられた献身が、あなたに清らかな、秩序ある生をもたらす。そして真我の実現が、欲望や恐れ、そして誤った考えという障害を取り除き、容易に、自然に尊い徳をもたらすのだ。


質問者 あなたにはもはや欲望や恐れはないのでしょうか?


マハラジ  私の運命は素朴な庶民として、わずかばかりの教育を受けた質素な商人となるよう生まれることだった。私の人生は、ごくありふれた欲望や恐れをもった平凡なものだった。私の師への信頼と、彼の言葉への服従を通して、私は真の実在を悟ったのだ。そして人間の性癖に関しては、その運命が尽き果てるまではそれ自身が面倒を見るのに任せておいたのだ。ときには古い習慣から、感情的あるいは心理的な反応も起こるが、それらは直ちに気づかれ、捨て去られる。結局は、人として在るという重荷があるかぎり、その性癖や習慣にさらされるものだ。


質問者 あなたは死を恐れてはいないのですか?


マハラジ  私はすでに死んでいる。


質問者 どういう意味においてですか?


マハラジ  私は二重に死んでいる。身体だけではなく、マインドもまた死んでいる。


質問者 でも、とても死んでいるようには見えません!


マハラジ  それはあなたがそう言うだけだ!あなたは私より私の状態をよく知っているようだね!


質問者 すみません。ただ私には理解できないのです。あなたは身体もマインドもない状態だと言いますが、私の目には、あなたはとても生き生きと現前しています。


マハラジ  途方もなく複雑な働きが頭脳と身体のなかでつねに行われているが、あなたはそれを意識しているだろうか?いいや、まったくしていない。それでも外部から見れば、すべては知性的に、目的をもって行われているように見える。人の生全体は、その大部分が意識の境界下に沈んでいながらも、分別をもち、スムーズに流れているということを認めるがいい。


質問者 それは正常なことなのでしょうか?


マハラジ  正常とは何だろう?欲望と恐怖に取りつかれ、争いと闘いに明け暮れ、無意味で喜びもないあなたの生が正常だというのだろうか?身体を過敏に意識することが正常だろうか?健康な身体、健康なマインドは、その所有者にはほとんど気づかれずにいるものだ。苦痛や苦しみを通して、それらは注意と洞察を呼び起こす。同じことを生活全体に拡張させればいいのだ。人は何が起ころうと、それを気づきの焦点に合わせなくても、正しく機能し、充分うまく対応できるものなのだ。自己抑制が自然と身につけば、気づきは存在と行為のより深い層に焦点を移行する。


質問者 それではロボットになってしまいませんか?


マハラジ  繰り返され、習慣づけられたものが自動化されることに、何の害があるだろう?どちらにしてもそれは自動的なのだ。だが、それが混沌とし、苦痛と苦悩の原因となったとき、注意を呼び起こす。清らかな、秩序ある生を送ることの目的全体は、悲しみを背負い、混沌状態の奴隷となることから解き放たれるためにあるのだ。


質問者 あなたはどうやらコンピュータ化された人生がお好きのようですね。


マハラジ  問題から自由となった人生のどこが間違っているというのかね?人格とは単なる実在の反映にすぎない。反映がその源に自然と一致するのは当然のことではないだろうか?個人にはそれ自身の意図が必要だろうか?実在の表現である生が導くだろう。ひとたび個人は単に実在の影にすぎず、実在そのものではないと認識したならば、あなたはいら立つことも、心配することもやめるだろう。あなたは内面から導かれることに同意し、そして生は未知への旅立ちとなるのだ。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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