分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)
貧しい男が罠にかかったタヌキを見つけるが、不憫に想い解放してやる。その夜タヌキは男の家に現れると、助けてもらったお礼として茶釜に化けて自身を売ってお金に換えるように申し出る。次の日、男は和尚さんに茶釜を売った。和尚さんは寺に持ち帰って茶釜を水で満たし火に懸けたところ、タヌキは熱さに耐え切れずに半分元の姿に戻ってしまった。タヌキはそのままの姿で元の男の家に逃げ帰った。次にタヌキは、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して男は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である。 月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「茂林寺の文福茶釜」。タヌキが僧に化けたという説に基いて描かれたもの。 茂林寺の伝説ではタヌキが守鶴という僧に化けて寺を守り、汲んでも尽きない茶を沸かしたとされている。普通、物怪(もののけ)は鉄を嫌うが、このタヌキはその鉄の茶釜に化けており金の精霊たる所以を表している。


私がですね、最後の最後に迷っていたとき、この日記の炎のことをフィオラがなんと言っているかを見直していました。


この日です。


「マッチ売りの少女の話を知っているでしょう。あなたが探しているのはマッチの炎ではなく、永遠なる神殿の炎です。マッチを擦るのはおやめなさいな」


永遠なる神殿の炎。なんだそれは。
今まで忘れていたけど、なんだそれは。


私のイメージは「炎」という単語に今まで釘づけになっていましたが、
「永遠なる神殿」とはどこのことなのか考えてみました。


「ここ」です。


記憶が蘇ってきました。私が炎につつまれた場所はいつも「ここ」だったんです。
なんの変哲もない、ありきたりで、ふつうで、いとしい「ここ」でした。


どれだけ他者の魂が愛しいのか。輝いているのか。子供の頃のわたしは見えていたんです。


何の疑問もなく、すべてを信頼していました。


表面に現れている姿を透して、光と星の輝きを見ることができました。


フィオラが語りはじめました。


神の光。神の声。神の手。
星空を忘れないでください。
天の喜びです。


わたしたちが炎です。


わたしの疑問はその瞬間に終わりました。


(眠りの画像 2015年5月20日21時33分 無断使用のご指摘を受け削除)


質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ  眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ  そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ  私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか?質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ  私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ  世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか?私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ  もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ  目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ  脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ  私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ  私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ  気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ  そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ  真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody