Fiora ワインと血 nobody 線でできたお城


フィオラが言いたかったのは、わたしたちが無意識に求めているのは血であるということでした。血は生命であり、映像のすべての背景として絵にみずみずしさを与えています。


絵の細部にこだわれば、一時的なその文様を褒め称えることはできるものの、同時に喪失も瓦解も目撃することになります。


「血の感覚」を絵と結びつけているからこそ悩み苦しむのだと。



対して、線でできたお城というのは、欲望や怖れのことです。
通常わたしたちは欲望や怖れを、「すでにここにあるもの」として扱っていますが、実際は「すでにここにあるもの」にはストーリーがありません。


欲望や怖れは、ストーリーによって「構成された感覚」です。


「構成された」という部分に無意識なんです。構成されている線を維持するために、緊張状態を強いられていることに自分で気づいていません。


わたしは変わらなければならない、という線でできたお城は根拠自体が幻想の可能性があります。


なんの力も加えずに、「わたしは変わらなければならない」は維持できる観念なのでしょうか。


「血の感覚」と「構成された感覚」の違いは明白です。
リラックスと緊張、拡張と収縮の違いだからです。


神はリラックスできていなかったり、意識の拡張ができていなかったりすると感じることがむずかしくなります。意識の軽やかさ、精妙さが神です。



わたしが炎を追う過程で理解したこと


炎はわたしたち全員の祝福されている姿であって、わたしだけを祝福したりはできないということです。


こんなことは当たり前のことに思えるでしょうが、長い間追いかけているから達成の暁には恩恵が受けられるのかと私は思っていたのです。その期待そのものが「いま」に対する態度を歪めてしまいいつまでたっても自分の尻尾を追いかけているような猫になっていました。


自分では子供のころの純粋さをふつうに維持できていると思いこんでいました。とんでもない。書いているとおりのエゴイストというかエゴでした。自己中が猫をかぶっているわけです。


スピリチュアルにはありがちなんでしょうが、そういう身勝手な期待や、身勝手な動機が、全体からの分離の信念を埋められない最後の溝になっています。


フィオラに指示されていたのは、つねに「すべての兄弟姉妹にとっての最善を願うこと」。
それ以外の動機による瞑想は許されませんでした。いまは愛と全体に従うことこそ真我への献身であることが以前よりすっきりと受け止めることができるようにはなりました。分離は誤解だからです。誤解に基づく行動のすべてが見当はずれです。



みかんとオレンジ


たとえば私がみかん農家やってて外国人の方が来たとしますね。

その外国人は「おーおしそなオレンジデスね」と笑顔で褒めてくれました。



(え?みかんだけど?
オレンジじゃないんだけど?)


ココです。ココが現実の分岐点なんです。


()内は誰が言ったのか?


1、自分
2、思考


基本のトリックなんです。
気づいちゃってるコレは「そのものに化ける」んです。


紅茶と紅茶の味って分離できます?
いいえ。だから「体験」と「気づいちゃってるコレ」って分離できないんです。


思考は誰なのか?思考なんです。誰が発生させたのか?思考がいきなり宙から現れたんです。
これは人生の間だけではなくて死後特に重要になります。ステーキが現れると思うとステーキが出てくる原理です。虚空(あなた)という唯一の創造原理の基本機能です。


自分が言ったと「判断・解釈」をするから「反応」する人生になるんです。


反応する人生は、自由じゃありません。そして自由です。


自分が言ったと「判断・解釈」をするから「自分を嫌い」になるんです。


みかんとオレンジは同時にみかんであり、オレンジなんです。
二つに見えるものは同一の「自由」から発生していて、「ひとつ」なんです。


全体対全体、
勝てないし、負けないんです。ひとつだから。


ひとつの「もの」じゃないんです。ぜんぶひっくるめて「ひとつ」なんです。
私が外国人に「これはみかんなんです!」って怒りだしても
「ありがとう。食べてみる?」って笑顔を返しても
「パラグライダー!」って突然飛んでも


どの可能性も「ひとつ」なんです。これがありのままです。そしてあらゆる潜在的可能性で自由なんです。すべてを可能にする、その「ひとつ」が虚空で「いま」です。


みかん農家の場合は、
「思考をありのままに見ているみかん農家の私」
「思考を自分そのものだと見ているみかん農家の私」
にこの場合は分かれると言ってもいいです。
どういう分析も自由です。


「ひとつ」

「(思考によって分離を見ている)ひとつ」
と言ってもいいです。言わなくてもいいです。言わなくても自由は変わらずいまあるから。


では人生を振り返ってみて、この「今」に到るまでの時間軸のすべてを「考えて」みます。
その人生はどこにあるでしょう。


「ここ」


それだけです。ここが「自由」なんです。
わたしたちはずっしり背負った過去の重みに耐え切れないような気がしていたけれども、そんなものはどこにもない。肩がこるぐらい耐え切れないような重みがあるというフリを続けてもいいです。自由。


人生なんて「いまこの自由」しかない。


縛られてるんじゃなくて、
縛られてるという思考=自分だと見ている、から反応に縛られているだけ。
しがみつく思考を選んでいるだけ。


どうしたら自由になれるのか?
もう「自由」の中で、「束縛」されているという思い込みを創造しているのに気づいていないんです。やってる側は真剣です。思い込みは現実になります。
絶対安全地帯という空間の中でなんでも思ったことを現実にできる=あなただからです。
だから、「環境はあなた専用のわざと設定」なんです。
私が「いま」がマスターキーだと以前書いてたとき、ここから先がわかってませんでした。
鍵なんかいらないということ。わたしたちが「自由」なんですから。


いまという創造の手綱を取り戻すことが、覚醒です。そして覚醒ではありません。
永遠の自由がわたしたちです。





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