いまどこ? 何も足さず何も引かない


だれ? という質問と同義です。人間だという答えは想定にすぎません。そういうものを取っ払ってしまう最初の場所は、受け身で、純粋に、いまここに立つこの場所のことです。
赤、という色を観測するのは
非─赤、という場所からしかできません。
とにかく赤ではない場所が存在しないと赤色は成立しないのです。
舌の味が甘味であると、甘味を感じることはできません。
すべての顕現を可能にする
非─顕現をわたしたちは探してしまうのですが、
顕現を観測する最初の場所がそれである可能性があります。
「人間である」「肉体である」という想念が通り過ぎる瞬間から、それは顔を覗かせます。
あまりに身近すぎて、それは名前を与えられません。
非─赤が、存在、だとは誰も疑っていなかったのです。n


自己を検討することなしには、あなたはこの世界で生き生きとダイナミックに動いていく道を見つけられず、よどんで固まった他人のエネルギーの壁にぶつかるだけです。B


マハルシ 聖典は賢者のために書かれたものではありません。なぜなら彼らに聖典は必要ないからです。無知な人たちが聖典を求めることはありません。
解脱を望む人だけが聖典を必要とするのです。それゆえ、聖典は賢者のためのものでも無知な人のためのものでもないのです。

(対話362)


それを探し求め、それとして在りなさい


マハルシ 「存在」はどの場合においても実在です。万象、多様性、個人は非実在です。それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。絶対なる存在は描写を超えているのです。

(対話112)


マハルシ あなたは探求者であり、何かと合一されることを探し求めています。もしそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければなりません。しかし真我はあなたに最も近いものです。そしてあなたは常にそれに気づいています。それを探し求め、それとして在りなさい。そうすれば、それは果てしなく永遠に広がっていくでしょう。そしてヨーガ(合一)という問題もなくなるのです。いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)なのでしょうか?

(対話211)


質問者 人は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生に起こるすべては運命づけられ、あらかじめ決められているのでしょうか?


マハルシ 自由意志は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意志は存在するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意志を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意志や運命は誰にとって問題となるのか? それを見いだし、その中にとどまりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。


もしあなたが自分を身体と見なすなら、それらは常にあなたを支配するでしょう。
もしあなたが自分を身体と見なさなければ、それらがあなたに影響を与えることはなくなります。


眠りの中では、あなたは身体ではありませんでした。
あなたは今、身体なのでしょうか?

(対話426)



叡智とは何か? それは最もすばらしい宝物で、人間の内なる神に完全に属するものだ。つまり、人間の魂の中に集められる宝物のことである。叡智とは、神と呼ばれる思考のさまざまな領域への冒険すべてから、あなたが得た感情の蓄積であり、この場所を去るときにあなたが持っていくただひとつのものである。あなたのすばらしい衣服や大邸宅、すごいスピードで走る車などを持っていくとでも思っているのだろうか? 何を持っていくと思っているのだろうか? あなたは自分であるもの、つまり「人生」と呼ばれる原理の中への旅で得られたすべての感情を持っていくのだ。感情を得ることこそが、人生の最大の目的なのである。


宗教的、政治的な支配による暴政や制限を通して、つまり人種間の分断と差別、男女の分断、兄弟同士の分断を通して、人類が学んできたあらゆることは、神の地位をおそらくこれまでで最も低いところにまでおとしめることによって理解されたものである。しかしそれでも、戦いで他者を打ち負かしたり、ほかの人間の自由を認めなかったり、女をおとしめて男よりも劣る存在にすることは、どれも実際に体験してみなければ、どんな感じがするのかけっしてわからなかっただろう。自分でそういったものを夢見ることによって現実化し、その夢を意図的に生きる創造者にならなければ、あなたがそれらを感情的に知ることはけっしてなかっただろう。だが、数多くの人生、数多くの瞬間にそれを生きることによって、それはあまりにも確固とした現実になってしまい、ほとんどの人間はひどく神経質で不安になり、この夢の中にすっかり埋没してしまった。「人類が自分たちの仲間にこれほどひどい行いをするのを許すこの神なる存在はどこにいるのか?」とあなたはたうねる。これらの残虐行為が起こることを神が許してきたのだとしたら、神の愛はいったいどこにあるのだろうか? そう、神はいつもそこにいたのだ。というのも、神はあなた方のあらゆる幻やゲームとなってきたからだ。そして、神は間違いなくあなた方のことをつねに愛してきた。なぜなら、あなた方が自分の夢を、自分が思い描いたとおりに体験することを神は許してきたからだ。あなたは単に、そもそも自分でこの夢を創造したことを忘れてしまったにすぎない。そして、いつでも好きな瞬間にそれを変えられる選択肢を持っていることも忘れてしまったのだ。


マハルシ 非顕現は顕現の原因となるエネルギー源であり、宇宙を超越しているため、至高なるもの(パラー)です。そして真我が実現されるまで存続するため、それは不死(アムリタ)です。それゆえ、至高の不死性は非顕現を意味しているのです。

(対話513)


あなた方は、それぞれが美しい存在であると同時に、一人ひとりが異なっている。なぜなら、一人ひとりが、自分独自の意図的かつ創造的な目的を持ちながら表現している神だからだ。


あなた方のすべてが、かつては小さな思考、輝く光であったが、その光が、神が永遠に動き続け、絶え間なく存在し続けていくための継続性そのものになったのである。探求のためのさらに偉大な世界を建設するために、多大な配慮とたくさんの実験を通して、あなた方は物質、あるいは「凝固した思考」でできた化身をつくり上げた。この化身によって、あなた方はそれまでとは別の存在の天界において、表現できるようになったのだ。こうしてあなたは、神と呼ばれる思考のすべてのパターンを探求できたのである。


あなた方のすべてが、自分の創造的な知性の力を「見せる」ために、「見せる天界」と呼ばれる生命のこのレベルにいるのだ。


神とは、思考の中のより高い振動数であるだけでなく、物質と呼ばれる最も濃密で、最も振動数が低い思考でもあるのだ。


自分の思考プロセスのすべてを理解するためには(つまりあなたであるすべて、あなた自身である神のすべてを抱き容れるためには)、この天界も含めたすべての存在の天界で生きることができるほどの、適応力と自己愛を持たなければならない。


この旅は、神であるすべてのものの中で神を知るということを、その目的にしてきた。すなわち、思考から光へ、エレクトラムの分裂へ、物質へ、そしてこの天界へと。あなた方全員が、このような旅をしてきたのだ。これは偉大なだけでなく、かなり勇気のあることでもあるが、この旅には少しばかりのリスクがともなう。偉大なる不死の自己を変容させてこの物質の天界に入ってくることによって、自分のアイデンティティーを見失い、生存というものに完全にとらわれてしまう可能性が高いからだ。



質問者 人間と宇宙に関して数多くの理論があります。創造の理論、幻想の理論、夢見の理論等々、数えきれません。どれが本物なのでしょうか?


マハラジ すべて本物で、すべて偽物だ。どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。


質問者 あなたは夢の理論を好んでいるようですが。


マハラジ それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。理論は正しくも間違ってもいない。それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。理論を試すことがそれを価値あるものにする。あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のなかにいる。そして解決法を探している。あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。どれも本物とは言えない。だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。だが、あなたが本当に真剣ならば、理論ではなく、あなたの真剣さが解放へと導くのだ。


質問者 理論は迷わせるかもしれず、真剣さは盲目にさせるかもしれません。


マハラジ あなたの誠実さがあなたを導くだろう。自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろう。そしてあなたは智慧と知性、そして愛とともに生きはじめる。理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。早ければ早いほどいい。


質問者 真我の実現のためには、ヨーガの八段階の修練は必要なく、意志の力のみで充分だと説くヨーギがいます。純粋な意志の力への完全な確信をもって目的に集中するならば、ほかの者たちが何十年もかけて到達することも、努力なしに急速に達成すると言います。


マハラジ 集中力、絶対の確信、純粋な意志! そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟した探求者にとってはいいだろう。つまるところ、意志とは安定したハートとマインドのことなのだ。そのような不動の姿勢で臨めば、達成できないものなど何もない。


質問者 ヨーギが意味していたのは、単に絶え間ない追求と勉学への不動の意志を意味していたのではないと私は感じています。目的への意志が確固であれば、どのような勉学も、研究も必要ないということです。単に意志を持っているという事実が、対象を引きつけるのです。


マハラジ あなたが意志、決心、一途な心、何という名でそれを呼ぼうと、つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来の目的に結びつける。ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。あなたは目的に完全に献身する。意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。身動きがとれなくなるのも無理はない。ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。


質問者 欲望と運命、どちらがより強力なのでしょうか?


マハラジ 欲望が運命を形づくる。


質問者 そして運命が欲望を形づくります。私の欲望は遺伝と環境、チャンスと偶然、いわゆる運命によって条件づけされているのです。


マハラジ あなたの言うとおりだろう。


質問者 いつ私は望む自由をもてるのでしょうか?


マハラジ たった今、あなたは自由なのだ。あなたが望むことは何だろう? それを望むがいい。


質問者 もちろん、望むことは自由ですが、それに働きかけることは自由ではありません。ほかのものへの衝動が、私を迷わせるのです。たとえ私が容認したものでも、私の欲望は充分強くありません。私が容認しない欲望のほうが強いのです。


マハラジ おそらく、あなたはあなた自身を偽っているのだろう。たぶんあなたが容認する欲望は体裁を保つため表面にとどめておいて、本当の欲望には表現の機会を与えていないのだろう。


質問者 あなたの言うとおりかも知れません。しかし、それもまた別の理論です。事実は、私はすべきだと想うことを自由に望めないと感じ、正しく望んでいるように見えるときには、それにしたがって行為をしないのです。


マハラジ それはみな精神的弱さと、不完全な脳によるものだ。マインドを落ち着け、強化しなさい。そうすればあなたの思考、感情、言葉、行為は、あなたの意志の方向に沿うようになるだろう。


質問者 マインドを統合し、強化することはたやすい仕事ではありません。いったいどのようにはじめればいいのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたがいるところからはじめることができる。あなたは今ここに在る。今ここを離れることはできないのだ。


質問者 ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたの存在に気づくことができる。今ここで。


質問者 それだけですか?


マハラジ それだけだ。それ以上何もありはしない。


質問者 夢見の状態と目覚めの状態で、いつも私は自分を意識しています。それは大した助けにはなってはいません。


マハラジ あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。


質問者 どのような新しい要因をもちこめばいいのでしょうか?


マハラジ 出来事に巻きこまれることなく見守る、純粋な観照の姿勢だ。


質問者 それが私に何をするのでしょうか?


マハラジ 弱いマインドは知性と理解の欠如から起こる。それはまた不注意の結果でもある。気づきのために努力することによって、あなたはマインドをひとつにし、それを強力にするのだ。


質問者 私は何が起こっているかには完全に気づいているかも知れませんが、それに影響を与えることはまったく不可能なのです。


マハラジ そうではない。何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。一方、知識が力を与える。その訓練はとてもシンプルなものだ。自己を制御するために、自己を知りなさい。


質問者 おそらく、私は自分を制御できるようにはなるかもしれません。しかし、世界の混乱を扱うことができるようになるでしょうか?


マハラジ あなたのマインドがつくり出した混乱以外に世界の混乱というものはない。それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを中心に自己創造されるのだ。実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。


質問者 私は自分が喜びへの欲望と苦痛への恐れによって、完全に動機づけされていることを見いだしました。いかに私の欲望が高尚であり、恐れが正当化されたとしても、喜びと苦痛は、その間で私の人生が振動する、二つの極なのです。


マハラジ 苦痛と喜び、恐れと欲望、その両方の源へと行きなさい。観察し、調査し、理解することを試みなさい。


質問者 欲望も恐れも身体的、精神的要因によって起こる感情です。それらはそこにあり、たやすく観察できます。しかし、なぜそれらはそこにあるのでしょうか? なぜ私は喜びを望み、苦痛を恐れるのでしょうか?


マハラジ そこに身体と身体を守るマインドが存在するかぎり、好感と反感は作用するだろう。それらが出来事のなかに現れても、あなたに影響することはない。あなたの留意の焦点は別の場にあり、それに迷わされることはないのだ。


質問者 それでも、それらはそこにあるでしょう。完全に自由になることは不可能なのでしょうか?


マハラジ あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の結果なのだ。普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろう。


質問者 しばしば、人びとは自らの意志で死にます。


マハラジ 選択が死より一層悪いときにかぎってだ。しかし、そのような死ぬ用意も生きる意志と同じ源から流れてくる。その源は生命そのものよりも深いものだ。生きる存在として在るということは、究極の状態ではない。そこには彼方にある、何かはるかに素晴らしい、存在でも非存在でもなく、生命でも非生命でもないものがある。それが時間と空間の限界を超えた純粋な覚醒だ。ひとたびこの「身体─精神」が自己だという幻想が放棄されたならば、死はその恐怖を失い、それは生きることの一部となるのだ。


02 2024/03 04
S M T W T F S
30
31
HN:
Fiora & nobody