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クリシュナムルティが観察者なしに見ることなのです、と言い、
カルキさんがマインドの働きなしに見ることなのです、と言い、
「観察者であるという想像をやめる」ことを示唆されています。
人間というのは、個人というのは、「単なる想像」なのかマトモに検証するまでは、その他すべての信憑性がないということです。


「わたしは在る」は確実です。
それは思考なしでも確実です。何も言葉を思い浮かべなくても、自覚している意識は在ります。
この意識と、「私とはこの体だ」という想念、想像・イメージされている人格としての自我は、「質感」が異なります。二次的な同一化です。


感情が発生する裏には想念・思考があります。
では、思考がない「わたしは在る」意識の裏にはどのような「感覚」があるでしょうか。



知らないこと、わからないことに向き合う


虚空は究極の美です。究極の美は、無です。
醜いものが自身を信じられないのは、自分が現状醜いと信じこんでいるから、醜さを基準にして、美を想像することができなくなります。


あの世がある、とか、そんな次元の話ではないんです。
この光の世界の神秘が、どれほど満ち満ちているか、この地上の人間はほとんど全員、まったく、理解できないんです。五感の牢獄に閉じ込められているからです。


人質になった日本の同胞が殺されました。
自己責任だと主張している方が多くいることも知りました。


こういう出来事に対する「反応」を通して、わたしたちは自分が何者か、「創造」している最中です。


自己責任だと主張する方もわたしたちも、論理よりもそれらの感覚を通して、自己のあり方を定めています。


憎しみは表面化する時期に来ています。
表面化し、直視されなければならない時期に来ています。


そしてわたしたちが決めるんです。
たったいま、憎むのか、それ以外であるかです。


死者に祈りが届くように、いまを生きるご家族に、暖かい光が届きますように。



この動画の言い合いは正しいと思うんです。
「私は(唯一の)リアリティを周囲を観察して読み取ろうとしているんです!」
「どのリアリティですか?リアリティとはあなたが移行しながら今この瞬間決めているのです」


どうしてこれが現実のものになるかと言えば
わたしたちが「人間ではない」からです。


人間だったら、観察者がいて、「観察者が観察する」構図がもちろん正しくなります。
ところが人間ではなくて
「観察する」そのものが存在しているだけとなると話がまったく変わります。
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